【1】〜【15】我が中野浩一
【1】平成19年6月1日(金曜)
 “九州のハヤブサ”の異名を持ってデビューした中野浩一。昭和50年5月のことだった。35期にはアマチュア界の超エリート・松田隆文という桁はずれの選手がいた。卒業記念レースで松田にマークしながら、バックまくりの松田を差せなかった。必死でもがき、全身の力を込めて踏みながら1輪差とどかなかった。「プロでは負けない」と固い決意を強めて、デビューした。
 50年5月3日、不世出のヒーローは地元の久留米で雄叫びをあげた。そして6月熊本、7月立川も完全優勝を飾り、10連勝の“A特進(旧制度)”へ王手をかけた。このころの新人は月に1回の配分で、7月から2回の斡旋になった。7月26日の小倉は熱気に包まれていた。中野へ寄せる熱い期待だった。もちろん完勝だ。それもバンクレコードタイの11秒3。後続をぶっちぎり、右手を突き上げる派手なアクションで声援にこたえていた。
 九州で壱岐対馬や博多でバカンスを楽しんでいた私だが、前日にスポーツ紙を購入すると「中野、特進へ王手」の原稿が載っていた。だから社へ電話を入れると「出張旅費は出せないが取材はしてくれ」とデスクの頼み。もちろん二つ返事でOKだ。初めて見る中野、初めて取材をする中野、胸の中が高まっていたのは当然だった。そして豪快ショット。取材の場でも明るく、そして「明日からギアを上げて、A級で対応できるようにします」と身近な抱負を語っていた。まず一歩、そして一歩と階段を上って行くスタイル。やはり雲の上の存在・松田を破るためには努力の積み重ねなくしては果たせない。この特進の原稿は、開催中の小倉競馬場の記者席から送って、近畿、瀬戸内地区に配信されたから、九州に居た私は後日、大阪に戻って見るしかできず、残念ながらスクラップの中には収まっていない。FAXもパソコンもなく、不便な電話送稿の時代だった。

【2】平成19年6月2日(土曜)
 「競輪をスポーツに」と引退まで、競輪の社会的地位の向上に傾注した中野浩一。子供の頃、父の職業を「競輪選手」と書けなかったことが、脳裏から離れなかった。高校時代は陸上競技のリレーで全国制覇を達成。ところが太ももの肉離れで陸上j競技を断念。オリンピック出場も夢に終わったが、中野は競輪選手で世界へ羽ばたいた。世界チャンプへの道程の中で、まず最初の目標である“打倒・松田隆文”を果たさなければならない。昭和50年はデビューから18連勝、A級優勝6回と進撃を続けた。ただニュースの伝わるのは遅い。パソコンも専門チャンネルもない。ファンが中野の強さを知るには、現場で見るしかなかったのだ。
 昭和51年に入ると20連勝を含め、特別初出場となった「高松宮杯」(現高松宮記念杯)まで14場所でV8をマーク。3月の立川では宿敵・松田とプロで初対決。パワーアップの中野はジャンから逃げる松田をバックから猛スピードでまくり切った。後続はちぎれ、場内は割れんばかりの拍手で中野を称えた。この後も、中野は松田に負けることはなかった。5月にA級1班へ昇級。6月には別府31落(決勝戦落車)、武雄842で記念を経験。少しプロの厚い壁にぶち当たった。

【3】平成19年6月3日(日曜)
 初めてビッグの舞台に立った。「高松宮杯」決勝戦は昭和51年7月3日だが、中野浩一の名前はなかった。A級1班のレースは最終4コーナーを回ってからのスピードが違う。いくら、天性のダッシュ力をもってしても、勝てない状態が続く。
 予選の1走目は自信満々に逃げて、ゴール前はズブズブの3着。2次予選も主導権を握ってゴールを目指したが、やっぱり末の粘りを欠いて3着。正念場の準決勝は、得意のまくりに構えたが、今度は不発の4着。最終日も、またもまくれずの4着。初のビッグなら上デキの成績だが、王道を歩む中野には、未勝利で終えたのは屈辱だった。ただ、毎年、「高松宮杯」がびわこで行われるため、引退まで相性の悪さがつきまとったのは不思議な縁だ。
 とにかく、悔しさを晴らすには「練習するしかなかった」と、さらに鍛え上げた。効果はすぐに出た。続く門司記念141で2勝、広島で11秒3のバンクレコードをマークして完全V。これで勢いを取り戻し、玉野記念で初日にバンクレコードの11秒6で1着を奪い、結局、3連勝で初の記念優勝(8月2日)を手にした。直後に気分よく、初めての世界選手権へ菅田順和とともに旅だった。しかし、このイタリア・レッチェ大会で、中野の考えを根底から覆す“事件”が起こった。

【4】平成19年6月4日(月曜)
 気楽な気持ちで初めての世界選手権へ臨んだ中野浩一。前年に阿部良二が日本人で初めて銅メダルに輝き、期待されて送り出されていた。しかし、阿部がメダルを取っていなかったら、日本は世界選手権への派遣を中止する可能性もあったのだ。
 帯同した36期の菅田順和は松田隆文と同じくアマチュアでは名前を売っていた。いわば自転車界のエリートだ。二人には2大会連続のメダル獲得が至上命令でもあった。だから、中野は日本のメダルが確定した菅田とのの3、4位決定戦で敗れても、「僕の力はこんなもの。海外旅行をできたからいいや」とあっけらかんとしていた。
 ところが、だ。帰国してみるとガーンと頭を砕かれた。3位の菅田ばかりがもてはやされ、報道陣も中野の存在すら忘れかけていた。メダリストと4位では“価値”が違ったのだ。「悔しかったです。勝負の世界は負けてはダメだと、思い知りました」と、目立ちたがり屋で、負けず嫌いの中野は、以後、世界チャンピオンに向かって、大いなる野望を抱いたのだ。悔しさのなかに、光もあった。ナガサワ号との出会いだ。イタリアでメカニックの勉強をした長沢義明氏のアドバイスが中野を支え、二人三脚で世界を席巻することになる。

【5】平成19年6月5日(火曜)
 世界選手権4着の悔しさに輪をかけてショックを受けたのが前橋「オールスター」だった。銅メダリストの菅田順和は大ハッスル。初日からパワーを爆発させ、ドリーム戦で落車再乗9着の中野浩一とは、あまりにも好対照の評価となった。この“9着”が後々に、中野をさらに悔しがらせることになるとは、まだ知るよしもない。中野は2日目以降を欠場。右の肩胛骨のスジを痛め、11月まで実戦から遠ざかった。菅田は決勝戦に進み、初出場、初優勝の期待を受け、一番人気に支持された。連日、7、8分どころの外バンクをパワーに任せて快走。阿部道や荒川秀之助が「よってたかってつぶしに行っても菅田は負けないよ」と優勝を信じて疑わなかった。
 菅田の野望を打ち砕いたのは藤巻昇、清志の兄弟だった。二人は最終的に「菅田を内に詰まらせる」の作戦を綿密に練っていた。ピッチの上がったジャン前の2角から仕掛け、最終ホームで正攻法に付くとホッとするのもつかの間、マークしていた藤巻昇が菅田を叩いてしまった。後ろの弟・清志は菅田を出せず、ぴったりと兄・昇をガード。菅田が「抑え込まれても力で勝てると思っていた。ペダルさえひっかからなければ…」と嘆いた。逃げた兄・昇を弟・清志はまくってくる選手をブロック。兄弟の後ろには先輩・伊藤繁が内を締めてガード。兄・昇はファン投票1位の期待に応え、11年目にして初のタイトルを獲得した。菅田の味方と思わせた昇には、菅田はもちろん、ハイセイコー岩崎誠一や阿部良二らとの“密月”も一時的に解消されたものだ。そして、昭和51年10月6日付けの切り抜きには、時代のエースは「菅田」と書いてあった。競輪の難しさを思い知った菅田。久留米に帰って治療に専念した中野は、着々と失地回復の準備を整えていた。

【6】平成19年6月6日(水曜)
 再び、中野浩一の名が全国に知れ渡ったのは昭和51年11月21〜23日の「競輪祭・新人王決定戦」だった。オールスターの負傷(右肩胛骨のスジを痛めた)から1ヶ月半後の岸和田記念で復帰したが81C着。決勝に乗ったものの、1ヶ月の入院生活後なら「6分の調子」も仕方なかった。その後の「新人王」は菅田順和、松田隆文もそろい、誰がヤングで一番強いのかが、ファンの関心事だった。ところが菅田は初日予選の5着で脱落、松田が当面の敵となった。
 「僕が番手まくりでも、優勝の確率は松田(隆文)さんが80%で10%が僕、19%が沼田(弥一)さんかな」と弱気だった。残りの1%は他の選手だが、口と脚の回転は違う。サドルを3_下げて臨んだのも勝つための意欲だ。いくら完調でなくても、スターには“華”のある舞台が似合う。同じ久留米の後輩・大久保(江崎)広重が逃げ、作戦通りに中野が番手まくりを放つ。最大のライバル・松田は交わすよりも、中野を信頼して付いて行くだけだった。3連勝の完全Vで「新人王」に輝いた中野、地元ファンの声援を受けて、最高の笑顔をふりまいた。世界選手権からオールスターでの屈辱を晴らしてホッとしていた。暮れの久留米記念21D、岐阜記念32@、奈良記念11Cと、岐阜では記念V2も飾り、52年の“世界制覇”へ向けて一歩前進した。

【7】平成19年6月27日(水曜)
 デビュー3年目に入る。スーパースターへの道を歩む注目の年になった。正月は立川記念を走って決勝3着。“世界の脚”阿部良二の先行をまくりで仕留めたが、ゴール前は末の粘りを欠いて沈んだ。例え敗れても阿部を撃破したことの方が評価された。そして昭和52年の第2走目は1月16〜18日の和歌山記念。デビューの年の11月に和歌山(21A着)に登場しており、アクセスの悪さは百も承知。まだ関西空港もないころだから、伊丹空港からキャラバンタクシーで2時間ほどかけての長旅だ。注目度は一番。だから、当時のマーク屋の代表、新田計三、国持一洋が前検日から「中野マーク」を宣言して火花が散っていた。初日特選は斑目秀雄のカマシで展開は乱れたが、中野マークを奪ったのは国持。それでも中野がまくると一瞬、引き離され、斑目の番手から大津初雄の飛び付きがあって、国持も共倒れ。新田は阻まれながら大外を伸びて2着に入った。「えらかった」を連発した中野だが、強さは抜群だった。17日付けの紙面にも『中野強し!』『豪快なBSまくり』と中野一色の原稿だった。

【8】平成19年6月28日(木曜)
 和歌山記念の決勝戦(昭和52年1月18日)へ向けての談話で、国持一洋が「特選は中野君をマークできた。決勝も同じだ。新田さんに位置を譲れば僕はもう新田さんに勝てない」とマーク屋の意地を貫く覚悟だった。ところが、国持ちの考えは変わった。準決勝の朝、長男が誕生して、1着にこだわった。新田計三と競るよりも「競って共倒れよりも、新田さんの後ろへ控えた方が、切り替えやすい」と柔軟な作戦に変更した。そんな国持ちの“胸の内”を知らない中野は、打鐘で3番手の位置に構えながら、後ろが新田と国持の競りと思って、正攻法の井上馨を一気に叩いて、先行してしまった。まくりは強くても、末の粘りが甘い典型的なスプリンターの中野。 やはりゴールは新田、さらに中割強襲の国持(優勝)に抜き去られ、立川に続いて3着に敗れた。「ダメですね。先行だと、まだペース配分をつかめていない」とガックリしていたものだ。といっても、悲観材料ではない。競りと思った作戦上の誤算と、朝から下痢症状で、たまたま最後のひと踏ん張りができなかっただけだ。この後、ダービーへの出場者を決めるダービーTR(川崎12C着、西武園12@着)で特選シード権を獲得。続く伊東記念も42C着とまとめて、3度目のビッグ、一宮・ダービーへ挑む。

【9】平成19年6月29日(金曜)
 昭和52年3月24日から始まった一宮競輪「第30回日本選手権競輪(ダービー)」。中野浩一は特選シード権を獲得。まず1走目は中団キープから得意のまくりで逃げるライバル・菅田順和(2着)を仕留めて1着。ヤングのワンツーでファンの声援も高まった。2走目のゴールデンレーサー賞は立川、和歌山で連続して敗れた国持一洋が、当然、中野マークを宣言していた。逃げると末の甘さをのぞかす中野だが、この1戦では1角先行を敢行した。まくりを封じて、菅田らの仕上がり具合を確かめたのだ。番手の国持には絶好の流れになったが、この日の中野は国持の差しを封じて、力強く逃げ切った。難関の準決勝は最終ホームから一気にまくったが、今度は末脚がバタバタ。辛うじて3着に粘り込む強運だった。4着なら初のビッグ決勝の舞台も踏めなかった。菅田順和に世界の阿部良二、さらに前年の千葉ダービーを制した新井正昭もいた。誰もが優勝をねらって出入りの激しい展開になったが、中野は内から阿部に放りあげられて機を逸した。そんなときに新井が強烈なまくりを放った。ものの見事に決まり、追走した埼玉同士の小池和博が優勝を手に入れた。中野は7着、菅田は6着、阿部は9着と人気を分けた選手が全滅した。中野も初めてタイトル取りの難しさを味わった。

【10】平成19年6月30日(土曜)
 初体験のビッグ決勝戦で惨敗した中野浩一。昨年の前橋・オールスターで痛めた右肩も完治、しっかりと戦える脚もできあがっていた。だから暗さはない。昭和52年4月に入ると、スパーぶりを発揮だ。川崎記念で31@着の成績で優勝を飾ると、続く武雄記念も21@着で優勝。一宮ダービーを制した小池和博や荒川秀之助、阿部道、阿部良二らを撃破した。そして5月の全プロ大会では、スクラッチ(このころは、まだスプリントよ呼ばれていない)で10秒75の日本記録をマーク。模擬戦では、当時の世界のプロ・チャンピオンのジョン・ニコルソンやアマチュア界では“スプリントの神様”と言われているダニエル・モレロンとも対戦して、圧倒の連続だった。8月、南米のベネズエラで開催の世界選手権の小手調べとしては上々のアピールだった。そして宇都宮記念は3連勝の完全V。“輪界のハイセイコー”岩崎誠一や阿部道をパワーでねじ伏せた。その後も別府記念11B着は惜敗したが、高松記念21@着、門司記念11@着、観音寺11@着とVを量産して、「第28回高松宮賜杯競輪」でタイトル奪取へ絶好調でアタックする。

【11】平成19年7月2日(月曜)
 2年連続して「第28回高松宮賜杯競輪」(昭和52年6月30日〜7月5日)に臨む。昨年は3344着で終えたが、悔しさを残しままだった。逃げてはズブズブ、得意のまくりに回ってもまくれない。苦い初体験から1年。もう見違えるような存在感、いや光を輝かせていた。一宮・ダービー後に記念を4場所中、3場所に優勝。高松記念の決勝は11秒0の日本記録も樹立だ。初日から1121着。西の王座戦も制し、決勝戦は“本命”人気を背負った。相手は菅田順和ー岩崎誠一の北日本コンビと連係する福島正幸に谷津田陽一。味方は高橋健二ー矢村正で大和孝義ー丹波秀次もいた。先手を奪う菅田ー岩崎を中野はホームあたりから仕掛けると、まず岩崎から1コーナーから2コーナーにかけて金網付近まで飛ばされる手荒いブロックの洗礼。さらに3番手の外でへばりつきながら3コーナー過ぎにまくりかけると、またも金網付近へ飛ばされる岩崎のブロック。それでもパワーに任せて踏ん張り、さらに直線で猛追したが、中を割った谷津田に軍配が上がった。中野は敗れた悔しさが収まらない。引き上げると、真っ先に「(岩崎は)失格でしょう」と口をついた。もちろんラフプレーの岩崎は失格で、中野は3着に繰り上がって表彰台に登った。後日、「自分の中では絶対に勝てると思っていました。力から考えても負けるなんて思いもしなかった。勝つときに勝っておかないと…」と話していた。以後、この「高松宮杯」で引退するまで、一度も賜杯を手にできなかった。タイトル奪取への難解さを痛感したが、力だけで競輪は勝てないとわかっていても、力ませに戦う中野を、ファンは愛した。

【12】平成19年7月3日(火曜)
 目立ちたがり屋の中野浩一が、世界を、日本全国を、アッといわせる日が迫ってきた。昭和52年夏、中野は“世界チャンプ”を目指して南米・ベネズエラへ旅立った。世界選手権大会は昨年に続いての出場。菅田順和との3、4位決定戦に敗れ、帰国後は“負け犬”を味わった。そんな屈辱を晴らすため、パワーを蓄積してきた。選手団は中野、菅田に高橋健二も加わった。私は取材に立ち会ったわけでもない。だから、同行取材した先輩・野中武彦氏(元大阪・日刊スポーツ新聞社)が昭和53年、西宮競輪の「第21回オールスター競輪」開催に際してPR用に執筆された「あなたと競輪」(非売品)を参考にさせてもらっている。この冊子は、関西記者クラブが著書協力したもので、当時の競輪界の人脈や松本勝明氏の歴社などが盛り込まれたすぐれものだった。私の手元にも一冊残っていて、大助かりです。感謝。
 8月16日の午後6時15分、羽田を飛び立ち、ニューヨークで1泊。翌日、カラカス・サンアントニオ空港へ。さらにバスに乗ってサンクリストバルへ。2日間がかりで決戦の場に到着した選手団。翌日は小雨。ここでハプニングが起こった。中野はあろうことか、下見に行ったロードでスリップ・ダウン。右後頭部を3針縫う事故に見舞われた。中野の直後を走っていた菅田が「血が道路に流れ出したときは大変なことになってしまった」と、オロオロ顔だったとか。もともと怪我には強い中野。一日休むとケロッとしていた。そんな状況でも、中野は世界チャンピオンになる夢を見ていた。夢から覚めて「まあ、夢か。チャンピオンになれるわけがないね」と、思わず笑ったそうだ。そして頭の痛さと、事故のことを思い出した。大事に至らずにホッとした関係者。「日の丸をメーンポールに揚げてきます」と壮行会で岡村団長が力強く挨拶してきた。中野の夢が“正夢”だったとは誰も知らない。

【13】平成19年7月4日(水曜)
 入国から1週間目の52年8月24日、午後5時(現地時間)から入場式が行われた。カルロス大統領夫妻の入場で2万人の熱気は最高潮に達した。翌25日に競技が始まった。アマチュアでは6月にダニエル・モレロンを破ってスクラッチ優勝の長義和(島野工業)もいた。一時は競輪学校に願書を提出したが、モスクワ五輪への夢が捨てきれずプロを断念した。この大会は体調が思わしくなく16位に終わった。プロになっていれば“世界の中野浩一”が存在しなかったかも知れない。といっても、運は中野に向いていた。
 28日からプロの部が開始だ。中野に菅田、高橋がスクラッチにエントリーしたが、一次予選を勝ったのは中野だけ。高橋がニコルソンに抜かれ、菅田は内からまくってきたカルディに引っかけられてバックで落車。中野はペデルセン、ボスチャーの3人制で難なくまくって圧勝、好調さをアピール。左腕の治療をすませた菅田も再発走で逃げ切り、高橋も敗者復活戦で生き返った。準々決勝は高橋がトリニーに0ー2で破れ、菅田は2−0でペデルセンを退けた。問題の中野はカルディーに失格まがいのブロックを受けて1本目を失った。それでも2、3本目は圧勝。準決勝でチャンピオン・ニコルソンとの対決となった。菅田はトリニーが相手だった。ともに勝てば、日本人同士の決勝、例え負けても3年連続のメダルは確定している。気持ちは楽でも、4位よりも3位、さらに2位、1位の方がいいに決まっている。中野は、そんな屈辱を昨年4位で味わっていた。

【14】平成19年7月5日(木曜)
 やってきました、目立ちたがり屋・中野浩一が、世界に羽ばたく一瞬だ。2年連続プロ・チャンプのニコルソンとの準決勝は、事実上の決勝戦。中野は「ニコルソンといっても同じ人間。早めに片付けておくほうが楽」と、物怖じもしない。1本目はニコルソンがインまくりを敢行。中野はアウトで締めにかかり、バックストレッチで死闘を演じたが、締め切れずに敗れた。2本目は中野が2角から山おろしをけてエンジン全開。11秒05の圧倒で中野の表情にも余裕がのぞいた。そして3本目、1角からカマしたニコルソンだが、中野は作戦を読んでいた。あわてずに一気にまくりを放つと、3角で並び、後はパワーにまかせてねじ伏せた。中野を讃えるスタンド、得意満面の笑顔だった。菅田順和も2ー1でトリニーを倒し、昭和52年8月30日、世界選手権初参加以来、20年目にして、それも史上初の一国で金銀独占の快挙を達成した。
 中野、菅田のどちらが勝っても金なら、中野は負けられない。日本に帰ってもてはやされるのは“金メダル”ということを、昨年の4位で思い知らされている。「菅田さんと“よかった”と握手をしたけど、本当の勝負が残ってましたから。勝者と敗者では日本に帰ってから違います」と、決勝前から菅田よりも中野の執念が上回っていた。決勝の1本目、菅田が先行して、中野がバックからまくって快勝。2本目までの50分間の休憩に入ると雨が降り出し午前零時をすぎたため、2本目は翌朝に持ち越し。31日の午前9時25分、中野は菅田の動向を見ながら、1角半から踏み出し、そのまま11秒02で逃げ切り、世界チャンプの座についた。メーンポールに輝く日の丸の旗。中野は世界で一番強いプロ選手の看板を背負った。

【15】平成19年7月6日(金曜)
 「俺は世界チャンピオン」ーとばかりに中野浩一が凱旋帰国した。南米・ベネズエラで日本悲願の金メダルを獲得した中野、スター誕生に羽田空港のロビーはあふれんばかりの人の波、と思いきや、集まったのは報道陣ばかり。まだ中野も競輪も世間には認知されていなかった。それでもフラッシュを浴びながら、堂々と世界チャンプの風格を漂わせて受け答えしていた。少年時代に、父親の職業を競輪選手と書けずに「自由業」と書いた中野。だから「僕の子供には“競輪選手”と誇りを持って書けるようにしたい」と、茶の間にもとけ込むように、この金メダル奪取で一歩近づけた。帰国の日は競輪学校の40期・卒業記念取材前日だったため、私とスポニチ(大阪)の本田健三記者(故人)で羽田へ出向いた。そのとき、「おめでとう」と祝福すると、二人が懐かしい顔だったからか、うれしそうに「ありがとうっ、す」と、とびっきりのえびす顔で答えたのを思い出す。この後、中野は国内で、苦難の道をたどる。