ONE-EIGHT-HISTORY

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 《筆者・児島一彌=こじま・かずや=1947年(昭和22年)5月1日生まれ。血液型B型。177p、68s。阪南中学、関大一高、関西大学と野球部に所属。関大野球部ではマネジャーで2年の春、4年春、秋と3度の優勝を経験。4年春の全日本大学野球選手権大会で久保田美郎投手の完全試合をスコアをつけながらベンチ内で経験。サンスポへ入社後は競艇、競輪、野球の記者として活動。競艇の野中和夫は昭和49年のビッグ3連覇や昭和51年には世界の王貞治を越える獲得賞金6千万円を稼ぐのを取材。競輪・中野浩一の世界選手権はV4(フランス・ブザンソン)、V7(スイス・チューリヒ)を取材。定年後の活動予定は無い》
 晴れて自由人になった。首根っこを捕まれて馬車馬のように働いてきた。体はボロボロ。気力も半減。これでは残りの人生に光もない。それでも生き抜くには動かなければならない。体調を戻し、わずかでも人のため、世のため、社会のために役立つように、やっと巡ってきた自由の日時。しっかりと一歩を踏み出したい。
 長年勤めたサンケイスポーツ新聞(大阪)を5月31日に定年退職した。昭和46年から36年間、あっという間に過ぎ去った。初めの14年間はレース部で競艇、競輪の記者として二足のわらじを履き、木曜から日曜にかけては競馬の手伝い。そして異動でプロ野球記者(近鉄バファローズ、南海ホークス)を4年、その後はレース部に戻りデスクから部長を経て、晩年は競輪の専門職として岸和田競輪を軸に競輪の仕事に携わった。
 最後の予想は◎印(本命)に推した91期の柴崎淳(三重)が、見事に一番人気の期待に応えて優勝を飾った。その瞬間、ホッと肩の荷が下りて、飲みに出るよりも、まっすぐ帰宅したものだ。もう疲れ切っていた。
 さて、ここからが本題。長年の積み重ねで、当たる予想をすればいいんだろうが、まったくってもって博才はゼロに等しい。たまに儲けても、すぐにオケラ街道をとぼとぼ歩いていた。ただ、勝っても、負けても、夜の町へは毎晩、出歩いて、色んな人と出会って、たくましく成長させてもらった。まるでギャンブルと縁の無い人たちの輪に入って、競艇のモンスター野中和夫と競輪で世界チャンピオンを10年間も続けた中野浩一の素晴らしさを伝えるのが楽しみだった。
 2人の話になると、誰もが耳を傾け、また出会うたびに「野中さんは?」「中野さんは?」と活動状況を質問されるようになった。みんが野中、中野、ひいては競艇、競輪のファンになっていた。かくいう私も、野中信者で中野信者だったのは言うまでもない。
 

プレーバック
そんな流れで、私の本棚に眠っている昭和63年までのスクラップから、思い出に残るシーンをプレーバックしたくなっていた。私が取材をした記事ばかりで、たまに目が冴えて眠れない日などはスクラップを見ながら初心に戻ったものだった。
だから、新しい競艇や競輪、野球のファンにも楽しく、知らない時代の懐かしい選手やレースのアヤなど、意外な発見があるかもしれない。

競艇・野中に競輪・中野
もちろん軸になるのは競艇のモンスター野中和夫と競輪の世界選手権V10男・中野浩一の2人。密着しながら執筆した記事は、他紙には載ってない内容もしばしば。あえて、2人を深く知って、競艇と競輪の素晴らしさを再認識していただきたいと願っている。