【91】〜【105】我が中野浩一
【91】平成19年10月12日(金曜)
 神が与えた“休暇”を中野浩一は有意義に過ごした。入院は入院でも、行動に制約はなかった。自転車に乗ったり、食事に出たり、右肩に支障がないていどに動いた。ただ、平競輪場での「全プロ」には欠場。日本競輪選手会の広報課から「きょう(57年5月4日)中野選手から欠場の知らせを受けた。入院中に自転車へ乗ったそうですが、どうも本格的な踏み込みができなかったと言ってました。中野君が抜けて“目玉商品”がいなくなったわけですが、一日も早く完治することを祈ってます。本人から“ファンの人に迷惑をかけて申し訳ありません”のコメントをもらっています」と発表した。
 お祭り騒ぎが好きな中野。出場を断念したのは寂しいが、世界選手権(イギリス・レスター大会)には、全プロを欠場しても選考委員会で選出されるため、世界選プロ・スクラッチのタイ記録・6連覇へは挑戦できる。必然的に国内のスクラッチは5連覇でストップした。そのスクラッチで、初優勝したのが菅田順和。尾崎雅彦と“銀メダル”同士での対決は菅田が1本目を逃げ切り、2本目は10秒82のまくりで尾崎を圧倒した。「中野がいないならオレが…」と頑張ったのだ。初のスクラッチ覇者となった菅田だが「今年は競輪に懸ける」と、“無冠返上”を期して世界選出場を辞退した。

【92】平成19年10月13日(土曜)
 “限界説”まで飛び出した中野浩一の周辺。そんな雑音を打ち消すように昭和57年6月3日からのびわこ競輪「第33回高松宮杯競輪」に向かった。3場所続けての落車が初めてなら、負傷から1ヶ月半も実戦から遠のいて大レースを迎えるのも初めて。果たして“全冠制覇”をねらう中野の胸の内は…。
 「家にいてもうるさがられるし、大事をとって入院していただけ。自転車に乗って全プロに出ようとしたけど、やっぱり右肩が言うことをきかなかった。でも、もう心配ない。乗り込むだけは徹底的にやった。元気ですよ」
 “ボクの取り柄はケガをしないこと”と、いつも丈夫なからだに生んでくれた両親に感謝していた。それが立て続けに転ぶものだから“中野限界説”まで、まことしやかにささやかれた。
 「いまは耐えるだけです。人のうわさはバンクで消すしかないでしょう。宮杯? 取る気で行きますよ。人気が薄くなれば精神的にも楽です。九州地区の合宿(5月29日まで5日間)でも自分なりの練習はできた。これだけ悪いことが重なったんだから、そろそろいいことがあるんじゃないですか。ボク自身、何も心配していませんよ。まあ、宮杯を見てから何でも言って下さい」
 たっぷりと練習スケジュールをこなした中野。新車の“ナガサワ号”に乗って、悲願の宮杯制覇へ、自転車界のアイドルはただひたすらペダルを踏むことだ。

【93】平成19年10月15日(月曜)
 伊丹空港でスポーツ紙を買った中野浩一。関西の新聞には、どう書かれているのか。事前にチェックだ。昭和57年6月2日は、びわこ競輪場での「第33回高松宮杯競輪」の前検日。1ヶ月半の欠場後でも、意外と明るい表情で現れた。例によって冗談を飛ばしながら自転車を組み立てていく。報道陣の質問ももっぱら“大丈夫?”と気遣いの声が多い。「大丈夫。それなりの練習はしてきたんだから…」と何度もうなずく中野。そして「バンクで結論を出すよ」ときっぱり。検車を終えると、1年ぶりのびわこ走路に飛び出した。
 1回戦の組み合わせは初日10R。高橋健二との対戦だ。久々の実戦だったが、梨野英人のバックまくりに乗り直線一気に踏み込んで快勝した。2着の佐野裕志に2車身の差をつけた鋭さだった。「とにかくホッとした。何か知らんけど久しぶりだったので気をつかった」と、さすがにホッとした表情。それでもバックで西地孝介の飛び付きを捌いた一瞬、ぐらつくなど「転んだかと思った」と肝を冷やしたそうだ。 「(夢中で)4角から踏み込んだ感じは、どうだったかわからんかった。なんとか決勝まで行きたい」と今後の抱負をごくひかえめに、最後を締めくくった。
 また、スタート合戦では西谷康彦と佐野裕志がフライングで4度も再発走。スタートを決めれば無条件で中野マークを果たせるからだが、中野は「どっちでもいいから早く決めて欲しい」といらだったほど。勝った佐野は2着、敗れた西谷は8着、大きなスタート勝負だった。
【94】平成19年10月18日(木曜)
 幸先良く勝ち星をあげた中野浩一だが、2日目のびわこ競輪「第33回高松宮杯競輪」2回戦では、なんと転んでしまった。4場所連続、1ヶ月半の欠場あけで、またもバンクに叩きつけられたのだ。北村徹を目標に万全だと思われたレースだったが、最終ホームで斎藤哲也と野田正がもつれ合い落車、。内へよけた中野は野田に乗り上げて1回転。それでも必死に自転車に乗ろうと試みたが、タイヤが言うことをきかなかった。“グランドスラム”は夢に終わり、連続していた特別競輪の決勝入りも「15」でストップした。
 この日は9Rで井上茂徳が内線突破、痛恨の1着失格に泣いた。その後の11Rで中野の事故、九州勢には“厄日”だった。救急車で病院に運ばれ、診断の結果は右第3、4基筋指骨の亀裂骨折で全治3週間の見込み。11日からの世界選派遣選考合宿には欠場するため、中野は世界選出場も危ぶまれた。プロ車連の規則では“選考合宿に参加した者の中から派遣する”という項目があるからだ。
 翌5日、日競選の川村昭三郎理事長が「合宿に参加しなくても世界選には出場させたい」と“日本の顔”として中野を世界選に送り出す考えを明らかにした。その言葉を聞いた中野は、朝からびわこ競輪場内の医務室で包帯をかえながら「腰が痛くてどうしようもない。合宿に参加できなくても世界選には行くよ」とV6奪取へ意欲を見せ、最後には「腰を押さえているもんだからみんなにおじいさんと冷やかされたよ」と冗談を飛ばしながら、宮杯たけなわの競輪場を去った。帰郷後、7月3日まで入院生活を送った。

【95】平成19年10月19日(金曜)
 「第33回高松宮杯競輪」を挟んで2度の入院生活を味わった中野浩一。帰郷後の検査では腰部打撲、右手指亀裂骨折に加え腰椎のおう突起骨折も判明。仕方なく病室で過ごすしかなかった。それでも悲壮感が漂うほどではない。いつものように明るくふるまった。デビュー以来、落車は6度しかないのに、この年に4連続落車。ちょっとリズムが悪い。
 「ほんと、なんか悪いことでもしたのか、悩みますよ。厄払いにも行きましたよ」
 イギリス・レスターでの世界選手権にも川村昭三郎日競選副理事長の話では「私は中野君は別格と考えています。世界チャンピオンだし、行かなければ国際的にも批判を受けるでしょう。再起不能の事故ならともかく、休養さえとれば元に戻るでしょう。とにかく(6月)11日までに関係五団体で構成している副理事長会議で“合宿に参加しなくても派遣する”よう話し合います」と、出場を決めているが、肝心の中野の仕上がりが心配だ。
 「入院中も医者の許可をもらって早朝練習(約30`)をやりましたよ。筋力を落とすわけにはいかないしね。力を入れると尾骨に痛みが走ったけど、自転車に乗れないような状態ではなかったですからね。それにV6はどうしても達成したい。史上初の7連覇をするのが、ボクの使命と思っています」
 怪我をしようが、入院しようが、中野は世界に夢をかけているのだ。

【96】平成19年10月20日(土曜)
 取手記念と小松島記念を欠場した中野浩一。昭和57年7月3日に退院後は、世界選へ向けて“自費合宿”を張った。7日のテレビ収録後、岩手県・紫波自転車競技場で、メカニシャンの長沢義明氏(ナガサワレーシング代表)と計画を練っていたのだ。6泊7日の合宿には世界選のライバルであった菅田順和も応援参加。中野の練習台になった。
 「合宿で9分通り戻りましたね。10秒8、9は出ていた。競輪ではタイム通りにはいかないけど、スプリント(世界ではスプリントで、日本ではまだスクラッチと呼ばれていた)なら練習の力が100%近くは出る。世界選は出る限りは勝つし、勝つ自信もある」
 病院での早朝練習に紫波合宿で自信を取り戻した中野。復帰緒戦の福井記念では33D着で未勝利に終わったが、続く久留米記念11A着、そして3場所目の豊橋記念11@着で完全優勝を飾って、勝負勘も戻った。そして8月7日から13日まで、兵庫県・明石で強化合宿を行った。応援参加の同期・佐野裕志が山道をスイスイ登っていくが、中野はジグザグにじっくり、じっくり踏みながら最終地点までたどりついた。時間はかかっても「パワーをつけるにはジグザグに踏むのが大事」と、しっかりと鍛え抜いたのだ。
 昨年に続いて世界選に出場する亀川修一とともに、甲子園競輪場で“壮行会”も行われた。中野が来ることで、スタンドは満員だ。「中野、6連覇してこいよ」のスタンドの声に「まかしといて」と元気に答えた。臨戦態勢も整い、中野はイタリア・レスターへ旅立った。
【97】平成19年10月22日(月曜)
 V6へ立ちはだかるのはV5を争ったゴードン・シングルトンと“スプリントの神様”ダニエル・モレロンの弟子でモスクワ五輪の銀メダリストのヤーベ・カールだ。この二人は5月の全プロで来日、日本のプロ選手を寄せ付けずに連勝していた。日本を出発前に中野浩一は「V6を持って帰ってきます」と自信満々だった。
 「カールが銀メダルでも、ボクもオリンピックに出してくれていれば、カールのことを心配しなくてもすむよ」
 要するに、中野はプロ、アマを通じて世界でbPを自覚していたのだ。“ケイリンとスプリントの魔王”とか“太陽の昇る国からやってきた魔神”とか、新聞にはハデに中野の強さをかき立てていた。プロ・スプリントにエントリーしてきたのは12人。中野は準々決勝で10秒99のバンクレコードで勝つなど、あっさりと準決勝へ。相手はカール。モレロンを破ってV4を達成したフランス大会。カールは師匠の仇討ちを期して臨んだ。
 1本目はカールの逃げをまくれずに敗れ、世界選の連勝も「25」でストップした。それでも、2、3本目をパワーでカールを圧倒した。決勝はケイリン競走で金メダルに輝いたシングルトン。準決勝で亀川修一をストレートで退け、「ナカノに勝つ自信があるから世界選手権にやってきた」と豪語するほど。そんなシングルトンと“死闘”を展開した。

【98】平成19年10月23日(火曜)
 国内で連続優出の記録がストップしたり、4場所連続で落車したり、中野浩一には“疫病神”がとりついていた。シングルトンとの1本目。逃げるシングルトンに強烈なバックまくり放った。まくり切った後、外へ目をやるとシングルトンが内へ突っ込んできた、併走したまま、両者がゴールライン上で接触、転倒した。中野の締め込みで“反則負け”となったが、日本側が50ポンド(約2万5000円)を払って抗議すると、主張が認められてノーカウントに。しかし、中野は左背部と右目上、左手甲を裂傷、右肩と足も打撲。板張りバンクの木片が中野の背中に100本以上も突き刺さるなど、傷口から鮮血が流れ落ちていた。それでも左手甲はプラスティックスプレーで固め、気丈に“1本目”の舞台に立った。
 シングルトンは2コーナーで中野のインを急襲して逃げ切った。中野は完敗した。キズの手当中も意識はもうろう、宙をとんでいるようなうつろな状態だ。そこで長沢義明氏が中野の頬を2、3発叩いた。「いやぁ、もう中野はダメだと思ったね。今までの世界選で、あんな中野は初めて見た」と振り返っていた。
 “重症”の中野だが“勝負の神”は見放さない。5年連続チャンプには豊富なキャリアと意地があった。2本目もシングルトンが逃げた。中野は落ち着いて、3コーナーから仕掛け、ゴール前できっちりと捕らえた。その瞬間、シングルトンは中野に右肘を引っかけた。が、中野のスピードに弾き返され、右肩からバンクに転んだ。シングルトン側の抗議も認められず1勝1敗のタイとなった。このラフプレーで、シングルトンは大きな代償を払う羽目に。

【99】平成19年10月24日(水曜)
 決勝の3本目、中野浩一が待っても、シングルトンがスタート台に来ない。シングルトンは右鎖骨を骨折、棄権扱いで中野の不戦勝だ。この時点で、世界タイ記録の6連覇、ジェフ・シェーレンに並んだ。表彰式で金メダルを胸に笑顔をふりまく中野。その横でうらめしそうな眼差しのシングルトン。リッチな生活も、決勝のラフプレーでヨーロッパの自転車界から“永久追放”に近い処分を受けた。
 「ツキがありましたね。運も実力のうちですよ。負ける気はしなかったが、苦しかった。タイにしてプレッシャーを感じていたが、シングルトンは棄権だったからね。去年のシングルトンの方が強かったよ。背中は1針ぬったけど、木片は突き刺さったまま。抜くと痛いし、肉が盛り上がってくれば自然と抜けるはずです」
 昭和57年9月 5日、スカンジナビア航空989便で帰国した。V6の金メダルは燦然と輝く。中野は相次ぐ落車を乗り越えての快挙に、改めて「丈夫に生んでくれた両親に感謝します」と両親に感謝した。V6で競輪が茶の間への進出も増えた。この暮れにはNHKが30分のドキュメント番組を制作、歌番組にゴルフ番組にも引っ張りだこ。中野=競輪は、全国に知れ渡った。
 V6を手にしたなら、次のターゲットはスイス・チューリヒ大会で目指す新記録の7連覇。「終わるまでは、もう世界選に行きたくないと思いますよ。でも、勝つと、世界選が近づくにつれて“よーし”となるんですよね」。また1年、スーパースター中野は、国内でも頂点へ向けてペダルを全速回転だ。
【100】平成19年10月25日(木曜)
 死闘の末に世界選のプロ・スプリント6連覇を勝ち取った中野浩一。背中に100本以上の木片が刺さったままで凱旋帰国した。出迎えもハデになってきた。一般のファンも「中野」コールで出迎えた。成田空港では、行きかう人も中野の顔を知っていた。V1、V2あたりとは雲泥の差だ。
 「やっと分かってもらえるようになりましたね。まだまだ、これからですけどね」
 テレビへの露出も多くなり、9月5日に帰国以来、久留米の実家に戻ったのは8日の夜だった。その間、取材攻勢などで、東京で足止め。もちろん練習はできない。そんな状況でも、57年9月23日からは高松競輪で「第25回オールスター競輪」が開幕する。「世界選V6」の肩書きに加えてファン投票1位の人気。コロコロ負けるわけにはいかない。
 「9日から練習を始めていますよ。オールスターまでの期間が短いといっても、もう慣れています。それでないと世界選へ行けないもん。これからは、また競輪で頑張らないと」
 2月の西宮(2失1着)の失格でケチがつき、以後、連続4場所の落車、そして世界選でも落車。不運なレースが続いたが、世界選V6で厄払いもできた。
 「このままでは終われんもん。賞金レースでもまだギブアップしない。1億円はムリだけど、オレにも意地がある」
 井上茂徳が6794万円で賞金レースをリード。中野は3535万円。この差を埋めるためにも「オールスター競輪」の優勝は必要だ。

【101】平成19年10月26日(金曜)
 3度目のオールスターVへ向けて、スパースター中野浩一が“青い国四国”へやってきた。57年9月22日は高松競輪「第25回オールスター競輪」の前検日。選手の出入りする所にはファンがわんさといた。お目当ては、もちろん世界選V6の中野だ。「キャー」とか「かっこいい」とか、黄色い声に、テレながら現れた。高松では4回走ってV4と100%の実績なら、ファンも中野に寄せる信頼度は格別だ。
 「だけど気負いはないよ。5打数5安打が理想だけど、九州の誰かが優勝をするようにしたい」
 昨年の立川・オールスター競輪では井上茂徳に優勝をプレゼント。九州王国を建立するためには、さらなるタイトルホルダーの出現が必要。そのためには、中野が“世界の脚”で引っ張るつもりだ。ファンが選んだ153人の選手でごったがえす検車場。あふれかえる中をぬって車体検査を済ませた。世界選での負傷の痕はほとんど見えなくなった。プラスチックスプレーで血止めした手の甲もきれいになり、右目上の切り傷も太い眉毛の内に隠れている。背中に刺さった木片も完全にとれて、50日ぶりの競輪に心を弾ませた。
 「いつまでもケガのまんまでおれるかい」と威勢のいいタンカまで出た。2日目の「ドリーム戦」から本番モードに入る。 

【102】平成19年10月29日(月曜)
 ファン投票1位の中野浩一が「ドリーム戦」で2着に甘んじた。高松競輪「第25回オールスター競輪」2日目の「ドリーム戦」は久保千代志ー高橋健二の愛知コンビが意表をつくカマシ先行で攻めた。中野ー井上茂徳は高橋後位へ機敏に切り替えた。高橋が番手まくりを放つと、中野に絶好の展開が転がり込んだ。ところが、中野は高橋を交わしたが、さらに井上の猛襲を浴びて敗れた。ちょっと情けない結果に、4日目の二次予選に向けて早朝練習で入念に乗り込んだ。
 「うん、シャキッとした。4日目はドリーム戦よりもようなるやろ。それよか福岡が誰も勝っとらんのが心配や」
 高松では勝者を称えて出身地の民謡が場内に流されるが、3日目を終わって“炭坑節”が鳴っていない。中野の二次予選に注目が集まったが、中野は7番手に置かれた。逃げるのは菅谷幸泰。スタートで前を奪い、そのままホーム先行で強靱なねばりを発揮した。5番手の高橋健二が2角まくりで菅谷を仕留めたが、7番手からバックまくりを放った中野は意外に伸びない。マークしていた松村信定も直線では中を割るしかなかった。
 「これから、これから」と陽気にふるまったが、準決勝で不安を一掃できるか心配だ。
 それでもファンは過熱するばかり。選手が宿舎(当時は宿舎が別)へ戻るバスを取り囲んで、中野にサインのおねだり。競技会の担当者の機転で、色紙を預かって中野が宿舎でサインをすることになって騒ぎが静まった。
【103】平成19年10月30日(火曜)
 あ〜ぁ、悲鳴の混じったファンのため息が聞こえてきた。「第25回オールスター競輪」の準決勝、中野浩一が後輪破損の“事故”で優出を逸したのだ。目標にした北村徹がジャン過ぎに滝沢正光を抑えにかかったが、滝沢が突っ張ると北村がバランスを崩して落車。中野は落車をよけたが、北村と接触して自転車の後輪はバラバラ。ゴールへ到達したのは山口健治から半周以上も遅れていた。
 「また転んだかと思った。ほんと、5回目の落車でなくて良かった」と五体満足にホッとしたものの「残念や。せっかく1位に選んでくれたのに…」と戦わずの7着に悔しさをむき出し。レースでも北村にはマークしたが、位置はなく、同じ西勢にも見放されていた。“誰も入れてくれんかったね”の声にも、「いつも一人やもん」と“王者”の悲哀を味わった準決勝戦だった。それでも「こうなったら明日(最終日)はバンクレコードをねらう。それほど調子は上がってる」と、最終日「優秀戦」での確勝を誓った。
 決勝戦前の8R。中野によせるファンの声援は大きい。2角から強烈なまくりを爆発させると、なんと“一人旅”だ。“世界選V6の脚”はケタが違っていた。2着に入った梨野英人を5車身も引き離す圧勝だ。バンクレコードではなかったが11秒1の素晴らしさ。もちろんファンの「ナカノ」コールは、しばらく鳴りやまなかった。

【104】平成19年11月1日(木曜)
 日本で初めて“国際競輪”(現在は国際ケイリン)が行われたのは昭和57年10月2日の平競輪場だった。高松・オールスター競輪で決勝に乗れなかった中野浩一は“世界の中野”として栄えある第1回に出走した。当時は日本vs外国人で、日本人は1回走りで、毎日メンバーが替わった。初日の日本メンバーは中野を始め阿部良二、佐藤彰一、塚本昭司、鈴木良弘の5人で、外国人はカール(フランス)、バルタン(ベルギー)、ダザン(イタリア)、カネル(スイス)の4人。もちろんラインは2つに分かれるが、戸惑ったのはファン。どう買えばいいのか、判断材料がなかった。
 この10R売り上げも3331万8200円で、9Rの3681万5200円、11Rの5220万2600円を下回った。それほどファンは買いづらかったのか。
 そんな中で、中野が第1回戦の1着を手にした。展開は手元にないが、中野は上がり11秒3、追い込み勝ちとなっていた。2着以下はA佐藤B塚本C鈴木DバルタンEダザンF阿部GカールHカネルで日本人が4位までを独占した。ちなみに中野→佐藤で配当は1550円で6番人気の“おいしい”車券だった。
 オールスター競輪の準決勝の事故入で“厄払い”になったのか、この国際競輪をきっかけに、中野は後半戦へ向けて勢いがついた。続く京王閣記念21@着、熊本記念11@着を連取。花月園記念11B着は惜敗したが、まくりが面白いように決まるようになってきた。そして11月7日から大好きな岸和田記念に臨む。

【105】平成19年11月2日(金曜)
 またまた中野浩一は多忙だ。花月園記念を終わった後、ラジオ取材に田中豊勝の結婚式、そしてゴルフ、雨…と練習する間もなく岸和田競輪「開設33周年記念・岸和田キング争覇戦」後節(昭和57年11月7日〜9日)へやってきた。おまけに“前夜祭”が岸和田競輪場のホールで行われた。その前に、中野が競輪場に着くと、すぐに「自転車届いてないっすか」と尋ねた。なんと新車の「ナガサワ号」だ。そしてトレーニングスーツに着替えて、単車誘導でバンクを30周。気持ち良く汗を流した。
 「いやぁ、久々の練習ですね。ちょっと、乗りにくいかな。すべては長沢さん(義明氏)に任せてあるからね。連絡したって“乗りこなすのは君だよ”って言われるだけだしね。さあ、汗もかいたし、ビールを飲みますか」
 ファンが中野に群がって、サインやカメラに収まった。ちやほやされても、おごらないのがスーパースター中野。根っから、こんなにぎやかな場が好きなのだ。ビールも飲んで、大満足かと思うと「どっか(飲みに)行きますか」とミナミあたりへ気持ちが飛んでいた。前検日の前日でも、調整も無関係。高松・オールスター競輪の前にたっぷり乗り込んだ“貯金”がある。
 「そうよ、ズーッと調子がいいからね。前検日に、もう一度、乗り込めばいいでしょう」
 前検日(6日)は飲み疲れた体から、アルコール分をすべて出し切った。岸和田バンクで約45分間、びっしり乗った。アンダーウエアはグッショリ。「あ〜ぁ、さっぱりした」と宿舎へ引き上げ、ぐっすり睡眠をむさぼった。