【1〜10】頑張れ!岸和田競輪
【1=初めに】平成20年1月5日(土曜)
 昔、大阪には岸和田競輪の他に中央競輪(現長居競技場付近)、豊中競輪(現緑地公園内)、住の江競輪(現住之江球場付近)の4競輪場があった。また岸和田競輪場と南海電車を挟んで反対側に春木競馬場、長居には長居競馬場、オートレース場もにぎわっていた。
 大阪には、ギャンブル場がひしめきあっていたのだ。それが、今は岸和田だけ。西宮、甲子園が廃止になってからは、西日本のメッカだ。ところが、スター選手がいない。ファンを引きつける強い選手がいない。だから若いファンも増えてこない。
 こんな沈滞ムードでは、競輪の存続すら危うい。金網越しに見る選手は真剣そのものだが、結果がともなわなくては、応援のしがいがなくなって、競輪場から足が遠のく…。
 まさに剣が峰。来年、2009年3月には日本選手権競輪(ダービー)が開催される。大挙して大阪勢が出場してこそ大会も盛り上がるが、最近のGT戦では、熊本・全日本選抜で前田拓也、南修二、この1月の競輪祭にも同じ2人、補欠の金田健一郎が繰り上がるかどうか、とにかく少ない。
 ダービーは1年間の獲得賞金の多い選手から出場権を手にできる。昨年の稼ぎでは、2300万円を超えているのが前田拓也3700万、金田健一郎2565万、中沢央治2379万円の3人しかいない。寂しい限りだ。
 岸和田の専用場外発売所「サテライト大阪(会員制)」もミナミのど真ん中にできて、3月で満1年を迎える。ファンは地元、大阪の選手に声援を送っているが、寂しくハズレ車券を握りしめる姿がほとんど。
 こんな小さなHPで書いたところで選手が一変するわけでもないが、気持ちの中で、1月からの動向を追いながら、“泉州ダービー”へ数多く出場できるように応援していきたいと思う。
 と、同時に私が知っている限りの岸和田にまつわるエピソードなどを書いていきたい。古い話は、私が大先輩から頂いた「大阪競輪史」の資料もある。もう一度、大阪の競輪を勉強し直してみたいものです。

【2=平成20年1月6日(日曜)】
 大阪で一番初めに競輪を開催したのは住の江競輪だった。小倉競輪(11月に開催)に次いで、昭和23年12月11、12、18、19、25、26日の6日間開催と決まって、面白いのが宣伝方法だ。
 「第1回大阪住の江競輪」の実施に、各新聞や雑誌への広告告知はもちろん、ポスターでの掲示も多岐にわたっていた。
ポスターは、大阪市内外の各駅、停留所を始め百貨店、喫茶店など至るところに掲示。電車、バスの車内に貼りだし、心斎橋にはぼんぼり提灯などを連ね、高層建築物からは垂れ幕をつるすなど、あらゆる手を打ったそうだ。
 前景気を煽るために入場券の前売りを実施。それも前売り券は賞品として自転車及びタイヤチューブなどが当たる抽籤付きのものだった。当時、自転車は割当配給で一般には入手しがたいモノだから、効果も絶大だった。
 新聞の広告文は、世界標準一級規格の一大競輪場が完成し、数万円もの配当が当たるスポーツとスリルを併せ行うサイクルレースと、紹介された。
その告知内容はー。
 期日 12月11、12、18、19、25、26日 毎日10時出走。
 場所 大阪競輪場、大阪住の江公園、南海電車住吉公園下車。
 車券 50円(10円券5枚分)単勝式、複勝式、連勝式、車券は5枚1組で1枚や2枚の切売はしません。
 勝車払戻 75%配当無制限。
 入場券 30円、抽選券引き替え前売り券発売中。
 先着1万5千名限り毎日抽籤、1等自転車、毎日5台宛。
2等タイヤチューブ、毎日5本宛。
 使用する自転車の種類、実用車、競走車甲規格(27吋8分の1タイヤ付)乙規格(26吋4分の1タイヤ付)
 競技種目、実用車レース、千bのみ(特賞レースあり商工大臣賞が出る)甲規格千b、二千b、三千b、乙規格千b、二千b、三千b
(別に特賞レースあり、これは甲乙レースの勝者のみの特別編成番組で距離は五千b、このレースにも商工大臣賞及び他の賞品あり)
 出走者の特典 汽車賃実費、出走料1日500円支給、宿舎紹介、傷害保険1競走1万円。
賞金 一般競走1レース2万円、特賞レース3万円、未勝者レース1万円、各レース9名出走、賞金5等まで。
 以上の内容が「大阪競輪史」に書かれてあった。客集めのための必死さが伝わってきて、おもわず何度も読み返したものだ。36年も記者をやってきながら、こんな“歴史”をかじっただけで、ちょっと情けない思いをした次第。しばらく歴史の勉強を…。

【3=平成20年1月7日(月曜)】
 開催前夜のてんやわんやぶりも、おもろく書かれている。
 大阪府自転車振興会の事務所は大阪市阿倍野区阿倍野筋6丁目の自転車工業会関西支部の事務所の一部を間借りしていた。だだっ広いところに衝立で区切りをつけて、互いの仕事に取り組んでいた。
 番組編成は事務所ではできずに近所の「喜美屋」という旅館を借りた。電話は不自由で、毎夜のように停電するのでローソクの灯の下で三日三夜、不眠不休で仕事を完成させた。
 番組が出来上がって発表というときに、事務所へファンや関係者が多数押しかけ発表を迫った。人手の不足から夜の7時にごろになって百余名の選手の番組を長さ数間の大きな紙に書いて張り出すというようなこともやったとか。
 選手の獲得にも一苦労も二苦労もあった。ただ、小倉競輪の開催に大阪振興会は選手派遣の仕事を引き受け、近畿地区を中心に五十余名の選手を獲得して小倉へ送り出した。もちろん住の江競輪の開催には必ず出場するという条件付きだったし、必要な百名の選手を集めるのに八方に参加勧誘の手を伸ばした。それでも百名に達せず、あらゆるツテを求めて選手(戦前のアマチュア選手か)の所在を探り、長文の電報を打って参加の申し込みを募った。
 こんな状態だから、選手の確定はぎりぎりまでつかず、番組の編成も前日になってようやく出来上がる始末だった。
 開催前日の前検日には予定の選手も揃い、大手前の府庁の南側、元憲兵隊西側の広場で検査を行った。初めてのことで検査には長時間要したそうだ。その後、宣伝を兼ねて競輪場への行進を行ったが、当時は一定のユニホームがなく、選手はそれぞれ所属の自転車メーカーの商標のついたものを着ていた。
 あたかも自転車屋の広告隊の行列のようで、しかも音楽隊もなく、旗のぼりもなく、寂しいオンパレードだったそうだ。
 今では考えも及ばないことだが、住の江までのパレードなら10`前後の距離がある。自転車を持って歩いたのか、走ったのか、いずれにしても、希望に胸をふくらませての行進だったのだろう。

【4=平成20年1月8日(火曜)】
 競輪記者を始めた頃、ベテラン選手から昔話をよく聞かされたが、今、「大阪競輪史」を見ていると、当時を少しずつ思い出してくる。特攻帰りの厳つい顔をした選手がいて、びくびくしながら取材に行くと、意外と優しく、競輪を教えてくれたものだ。そして稼いで、飲んで、遊んで、家を建てて、など楽しい話に花が咲いたのも当然だ。
 ただ、選手になる動機を聞くと、仕事が無くて、生活のため、というのがほとんど。といっても、苦労話はしない。どんなレースでも1着を目指して戦える、いわゆる挑戦できるという、男の心意気を感じさせられた。
 今は選手になる年齢も撤廃されて、競輪学校での訓練を受けてくれば活躍できる。当時、というより草創期は、どうだったのか。
 大阪府自転車振興会では近畿地区を中心に全国に競輪選手の募集に着手した。テストケースで開催の小倉競輪は選手集めも困難だったが、大阪では初めての住の江競輪出場の選手も兼ねて一般から募集した。ところが終戦前に存在した多くのアマチュア選手は、終戦後の混乱で把握するのに困難を極めた。
 当時、大阪では昭和21年の国体に出場した横田隆雄、天野勝のみという状態で、二人を通じて各方面に呼びかける一方、自転車メーカーを足がかりに選手の狩り出しに当たる始末で、いま考えればウソのような話であったーと書いてある。

【5=平成20年1月9日(水曜)】
 第1回競輪の小倉、住の江には百数十名の選手を急造して間に合わせ、本腰を入れて選手養成に乗り出した。当時の自転車選手は、ほとんどメーカーに所属し、一度プロに踏み切るとなかなかアマチュアに戻れないため、競輪選手を志望するのにちゅうちょしていたそうだ。
 競輪の見通しも明るいものになってきた昭和24年10月ごろから大阪在住の選手らがメーカーを中心にクラブを結成、数ヶ月後には11クラブが誕生した。
 島野333クラブ(後藤欣一)サンスタークラブ(大橋清)トマスクラブ(山本金哉)丸信クラブ(増田晴治)東亜ライオンクラブ(横田隆雄)富士クラブ(紫垣正春)泉龍クラブ(井村豊)白鶴クラブ(堤俊雄)エバレストクラブ(岡本信雄)中山太陽堂クラブ(小川昌司)光クラブ(江尻義夫)
 以上のクラブが競輪に結びつき、現在のような大阪選手会の母体となった。相互の親睦団体として生まれたが、競輪の前進、興隆とともに昭和25年4月、大阪府競輪選手会が設立された。会長は横田隆雄、副会長が大橋清、山本金哉、会計幹事が紫垣正春だった。
 紫垣さんは60歳を超えても走られていたし、井村さんも選手会の要職についておられて何度か取材をしたが、横田さんは“伝説の強者”で、レースをみたこともなかった。
 それにしても、選手になる基準など無かったのが、草創期の選手事情だったようだ。

【6=平成20年1月11日(金曜)】
 話は第1回大阪競輪・住の江競輪の開催に戻る。昭和23年12月11日、この日は風もなく師走の陽光が暖かく絶好の競輪日和だった。最初の競輪ということで朝から続々と観衆が詰めかけ、広いスタンドも広場も人で埋まった。
 競技に先立っての開場式には、色とりどりのユニホームに身を固めた百余名の選手が参列。大阪府知事の開場の式辞や通産省、その他の祝辞、選手代表・横田隆雄氏の宣誓があって、競技に移った。
 競技は11日を第一日として、12日、18日、19日、25日、26日の6日間開催されたが、第1日の入場者12、806人、車券売り上げ581万5350円、6日間の総入場者23,931人、入場収入31万4952円、車券売り上げ3682万3350円という始めての競輪として、当時としては驚異的成功を収めた。
 この大会で制裁審議があった。進路妨害事件で失格した柴田俊彦選手及び競走中棄権した伊藤一寿選手、無断不参加した木村正選手、その他ルールに違反した7名の選手に対する制裁審議会は12月17日、競輪場内において開催。柴田選手、伊藤選手には1ヵ年の出場停止、木村選手ほか7選手には懲罰などの要求が委員からでたが戒告の裁定を下し、大阪競輪初めての制裁審議会が終わった。
 こういった失格などは序の口で、以後は騒擾事件にまで発展した。8車立競走で、7人がスタートして第1コーナーに達しても、3番車の本命・鈴木高次郎選手(神奈川)はぺーサーに車を保持させたままスタートせず、その後、ゆっくりとスタートして2周目第2コーナーで集団に追いついた。が、8位でのゴールに大騒ぎとなった。また、着順判定写真事件など、騒擾事件が後を絶たなかった。

【7=平成20年1月12日(土曜)】
 そんな不穏な情勢のなかでも隆盛を続けて、昭和24年には第1回全国争覇競輪が行われることになった。競馬に倣って、競輪も春秋2回の全国争覇競輪の開催を決定した。
 第1回は6月3日から4,5,10、11、12日の6日間、大阪府主催、通産省後援で、大阪住の江競輪場で、競輪界初めての全国争覇戦が行われた。
 この大会には競輪開始以来、全国競輪界で第1着、第2着の栄冠を持つ有力選手110名を招いた。実用車競走には登録してあるメーカー27社から各1名の粒選りの選手が参加。総理大臣賞、通産大臣賞、府知事賞などが出るとあって、前景気は上々だった。
 当日は好転に恵まれ、午前10時には観衆も1万人を突破し空前の盛観を呈したとある。
 入場者は第1日11、010人、第2日8650人、第3日13,380人、第4日7684人、第5日8700人、第6日14,090人、合計63,904人の大入りだった。売り上げの6日間総計は1億3776万7900円。
 【選手の成績】
 ◆甲規格 @横田隆雄(大阪)A後藤欣一(大阪)B松本和一(愛媛)C毛利武男(東京)D柴田博司(大阪)
 ◆乙規格 @横田隆雄(大阪)A後藤欣一(大阪)B原田和男(山口)C紫垣正信(大阪)D柴田博司(大阪)
 ◆実用車 @後藤欣一(大阪)A小山和夫(千葉)B山本金哉(熊本)C橘 勇蔵(千葉)D矢野金一(大阪)
 【選手宣誓文】
 昭和24年春季全国争覇競輪に参加する栄誉を担いたる選手一同はこの感激を以て終始一貫スポーツマン精神を発揮して自転車競技法の示す処に従い正々堂々レースを行うことを誓います。
 「大阪競輪史」とは、ほんと読んでて楽しい。が、誰かに解説してもらえるなら、もっと面白いのだろうけど、私もそんな時代を知らないのが残念だ。

【8=平成20年1月14日(月曜)】
 大阪競輪の開始以来、全国各地で競輪場ができあがってきた。大阪でも昭和25年2月17日の岸和田競輪場の竣工をトップに、同年3月23日に長居の中央競輪場、同年7月5日に豊中競輪場が相次いで竣工した。大阪における競輪は4つの競輪場を持ち、一大飛躍への段階に足を踏み入れた。
 ☆4競輪場の規模☆
 ◆大阪(住の江)競輪場=競走路周長500b 幅員9b。収容人員2万人(観覧席1200人、広場8000人)。工費18885万円。
 ◆岸和田競輪場=競走路周長400b 幅員10b。収容人員1万8000人。工費4367万6000円。
 ◆大阪中央競輪場=競走路周長500b 幅員12b。収容人員5万5000人(観覧席2万5000人、広場3万人)。工費9千万円。
 ◆豊中競輪場=競走路周長500b 幅員12b。収容人員3万人(観覧席1万5000人、広場1万5000人)。工費6296万円。
 まあ、大阪中央競輪場(長居)の収容人員5万人にはビックリだ。まだ始まったばかりの競輪に、そんなに人が行くのか、疑問にも思わなかったのだろう。周りには競馬場、オートレース場に野球場まであった。私も4、5歳のころ、近所の人に連れられてオートレースを見に行ったことがあった。すごい轟音に、ドキドキしたのを覚えている。
 また、通っていた阿倍野区北畠の阪南中学では、野球部の冬季練習の一環として、廃止になっていた長居競馬場の馬場に行って、ダートコースでランニングをしたものだ。大学を出て新聞社に入るまで、ギャンブルとは無縁だったが、子どもの頃を思い出すとギャンブル場とは深い関係があったのだ。

【9=平成20年1月15日(火曜)】
 大阪中央競輪の開幕は昭和25年3月23日で6日間に渡って開催した。入場者は6万あまり、空前の盛況だったとか。当時の新聞報道によるとー。
 入り口のアーチは古代桃山調の色彩美しい大理石の大円柱で、さながら博覧会の入口を思わせるもので、また同家臨場の周囲及び内部には桜、ツツジ、銀杏の若木を植林しており、数年後には新名所となるであろう。競走路も立派なもので日本一と称えてもよいと思われる。即ち既成日本一の後楽園、京王閣競輪場の12車立、1周400bに対して、同じ12車立ながら1周500bを有しており、工事面においても相当の苦心を払っている。
 工事にあたった河村技手は「ここの地盤は沼地だったので沈下を防ぐため何度もローラーをかけ、その上に御影石を敷き詰めて厚さ10a、幅10bの鉄筋をつなぎ合わせ、継ぎ目、継ぎ目には震動を防止するためにアスファルトブロンク入れて、凸凹をなくするよう努力した。またバンクの角度を33度として転倒防止に留意し、幅もバンクで12b、直線コースで14bとした」と語っていた。先月、全国各地で歴戦してきた横田、柴田、芥各選手が下検分したところ、日本一に競走路だとの折り紙をつけた。
 色とりどりのユニホームに身を固めた百数十名の選手がファンの万雷の拍手のうちに入場。開会の挨拶の後、選手代表・大橋清選手の力強い宣言が行われ、33娘といわれる3月3日生まれの娘達から花束が贈呈されて目出度く開会式の幕が閉じられた。
 午前10時半より新鋭古豪入り乱れる白熱のレースの幕が切って落とされ、1レースより高配の続出にファンの血を湧き立たせた。
 なお6日間の売り上げ高累計は次の通り。
 単=170万6200円 複=500万8700円
 連=1億2407万5500円    計=1億3079万400円
 中央競輪場は、すごい施設だったんだと思えるが、関東の後楽園、京王閣と比較するなど、対抗心がにじみ出ているのは、何時の世も同じか。打倒・関東なのだが、平成の競輪界も関東隆盛の様相は変わらない。

【10=平成20年1月17日(木曜)】
 後になったが第1回岸和田競輪も中央競輪(長居)よりも1ヶ月早く昭和25年2月17日から開催した。17、18、19日を前節、24、25、26日を後節として行われた。新設の競輪場として人気は上々であったが、大阪市からは少し遠すぎた関係もあって、入場者は他の競輪場に比べて少し劣ったが、それでも6日間で3万9350人を集めた。
 しかし、入場者の割には車券の売り上げはすこぶる良好。6日間で9746万6100円で、一人あたりの平均は2476円。とくに後節は一人あたり3200円〜3500円に達した。当時における各競輪場に例を見ない購買力の高さであった。
 また、第1回豊中競輪も昭和25年8月18日より連続6日間開催された。関心が強く、新設競輪場として人気を呼んで連日、平均9000人以上が詰めかけ、6日間で5万4163人が入場した。車券売り上げは1日平均1700万円を超え、6日間では1億541万9000円の好成績を収めた。
 これで大阪には4競輪場がそろって、競輪の発展に寄与し、大阪府や衛星都市も税収などで潤い始めた。
 華々しく開始した大阪競輪だが、主催者も実施者も、またファンも、競輪というものに馴染みが無く、施設や競技場の整理、車券の売買にまごつき、至る所で悲喜こもごもの風景が展開されたそうだ。当時の事情を身をもって体験した人達の回想談も載ってあるので、次回【11】【12】で紹介しよう。