◆1〜12◆ちょっとした思い出
◆1◆平成19年6月1日(金曜)
 公営ギャンブルとは無縁の存在だった。小学生のころから野球一筋。大学では入学前の高知・安芸キャンプで痛めていた右肩を悪化させ、無念のマネジャー家業に。それでもフリー打撃の投手をしたり、選手と一心同体で4年間を終えた。最後の年には春、秋を連続優勝して、選手から日生球場(元近鉄のホーム球場で大阪・森ノ宮にあった)で二度も胴上げされた。マネジャーが学生服姿で胴上げなんて、前代未聞の出来事だった。悔い無き学生生活を終えた。
 そして、ひょんなことから競艇、競輪との関わりが…。卒業する野球部員とガードマンのアルバイトで配属されたのがギャンブル場だった。住之江に岸和田、西宮、甲子園で交通整理の補助や特別観覧席の入場整理などだったが、目の前のレースを見ることができた。印象に残っているのは加藤峻二の鳳凰賞(現総理杯)の優勝だった。2号艇の黒のカポックが、大外から吹っ飛んでくるのが、今も目に焼きついている。当時はバックにも屋根だけの立ち見スタンドがあって、今とは違った角度でレースを観戦できた。だから、記者になってからも、カメラマンには対岸からだとか、水面に近い位置からだとか、注文をつけて他社と違ったアングルの写真を掲載できたものだ。


◆2◆平成19年6月2日(土曜)
 昭和46年6月24日のスクラップに、奈良競輪場に「全国初の電動式周回板置く」とあった。1周333bの小回りバンクで400や500と違って周回数も多く、手動式では周回を間違える懸念があり、競技の一層の公正適正化をはかるために設置ーとある。この電動周回板は先頭選手が第2センター(3〜4コーナーの中間)を通過すると、放電装置によって周回板が変わり、最終周回には自動的にブザーが鳴って黄色の点滅がつく仕掛けになっていた。今では周回板や発走台などが変わっても取り上げられることもないが、当時としては画期的な“文明の利器”だったのだ。ただ、数年後に周回誤認レースがあったのだから、それほどの効果はなかったのかも。

◆3◆平成19年6月3日(日曜)
 競艇選手や落車がつきものの競輪選手の体は不死身ーということを思い知ったのが昭和45年10月の出来事だった。住之江競艇場で開催の「第17回全日本モーターボート選手権」(競艇ダービー)の優勝戦は、競艇界の“神様”といわれていた倉田栄一が1マーク手前で他艇と衝突、落水して後続艇のプロペラで左足のふくらはぎをS字型に切り裂かれ、一面は血の海となった。初取材のダービーで、新米記者(私)は血の気が引く思いをした。すぐさま救急車で運ばれた病院へ駆けつけ、手術の結果を待った。医師の診断は「左下腿挫滅傷並びに骨折で全治三ヶ月」の重傷だった。原稿は当然のごとく「倉田、左足重傷で再起不能」を書き記した。ところが不屈の闘志で奇跡のカムバックを果たしたのだから、いかに新米記者の甘い判断だったか。以後、少々のことでは驚かなくなった。倉田は少し左足が短くなったが、引退するまで闘志は衰えるどころか、さらに燃え上がっていた。通算3088勝(記念優勝35回含み通算優勝は123回)は史上3位の成績を残した。

◆4◆平成19年6月4日(月曜)
 取材を始めたころ、松本勝明はすでに通算千勝を達成していたが、忘れられないのが石田雄彦、古田泰久、吉田実の“千勝取材”だった。それぞれにドラマがあって、原稿を書くのにも力が入ったものだ。松本に続いて「あと28勝」に迫っていた石田を昭和46年10月19日付けで取り上げた。37歳の古豪だが、記念競輪の優勝や特別競輪の決勝戦に進出するなど、若々しいレースぶりだった。「年齢的なハンデはあっても、、まだまだ勝つ自信はある。まあ、ツボにはまったときやけどな」とパワーには揺るぎない自信をもっていた。この日の紙面は岸和田競輪の決勝戦・予想で、石田の原稿は83行(1行15字)にものぼり、準決勝のレース経過を含めると145行にも達していた。それほど石田の存在感が大きかったのだ。

◆5◆平成19年6月5日(火曜)
 初めて伊豆・修善寺の日本競輪学校へ取材に行ったのが昭和46年の12月中旬。正月用の原稿に松本勝明、石田雄彦に続く近畿の「スター候補生」として29期の渡辺孝夫、山下文男を取り上げるためだ。ともに1着回数で1、2を争っていた。アマ1で中京大出身の渡辺、高校時代に世界選手権にも出場した山下。地足の渡辺、ダッシュの山下。タイプは違っても、鳴り物入りでプロの門をくぐった。そんな二人を連写機能もない記者カメで自転車に乗って肩を組むショットをパチリ。昭和47年元旦の新聞にはバッチリと収まっていた。当時はポーズ写真はもちろん、レース写真も“流し撮り”の高等技術で写したものだ。社内では競輪や競艇には、まだ理解のない時代だった。
◆6◆平成19年6月6日(水曜)
 昭和47年の元旦原稿が29期のスター候補生なら、5日付けには松本勝明、石田雄彦のベテラン二人がメーンだった。43歳の松本が1184勝、37歳の石田が984勝。松本は前人未踏の勝ち星街道を歩み、石田は千勝レーサーの仲間入りを目指す。もちろん、そんな内容の原稿だが、生涯の獲得賞金が1億円を突破した松本は「初めての賞金は父に渡しました」と心温まる話。そして「家を建てることと嫁さんをもらうことに賞金を費やした」とある。一家を築いたあとは「不動産とか貯蓄に分散してます」と、がっちりと生計を立てていたそうだ。石田は千勝への話題ばかりだが「前人未踏じゃないんだから千勝にはこだわらない。長く走ってればいつかは千勝に達する。それよりも一日の1レースをおろそかにせずに走りたい」と“一走入魂”を強調していた。ベテラン二人のこんな原稿、やっぱり“味”がある。原稿の側には二人のデビューから各年ごとの成績表も載っていた。石田は昭和36年に106戦、84勝、2着8回、3着5回、着外9回というすごい記録には感動した。

◆7◆平成19年6月27日(水曜)
 競輪界2人目の“千勝男”を目指して、石田雄彦が「あと3」に迫っていた。昭和47年4月26日付けには、そんな石田を練習地の大阪府富田林の「滝谷不動尊」へ取材に訪れた記事がでかく載っていた。金剛山のふもとの滝谷不動尊。そこから延々と続く起伏の激しい山道が、石田を超一流の選手に育てたのだ。その日は「朝の7時出発や」と聞かされて、カメラを手に出かけたが、いっこうに石田は現れない。そんな時に、練習仲間のベテラン選手が「地力をつけるには山登りが一番。だから雄彦ちゃんは、毎日、毎日、早朝から一人でやってたよ。飲んだ明くる日でも、ちゃんと練習に来てるから、ここらが並の選手と違うとこや」と秘話をこっそり教えてくれた。約束の時間に少し遅れたが、石田は“深酒”にもかかわらず元気に姿を見せた。そして「自転車を貸すからついといで」と記者に一言。とんでもない。野球で鍛えた体でも、ロードレーサーなんて乗ったこともない。断ると、今度は「車を貸すから」と言う。よほど鍛錬の場を知ってほしかったのだろうが、「いえいえ、練習の邪魔になりますから」と丁重に辞退した。そして「石田さん、自転車に乗って、スピードを出さずに、僕の方へ進んでください」と注文をつけると、ワンチャンスのカメラをめがけてスタンディングからゆっくりと進んでくれた。もちろんバッチリとパチリ。そして「持病の痛風があるよってなぁ、3連勝ですぐとはいかんで。2、3場所かかるやろ」と、昭和42、43年頃の肝臓疾患で苦しんだ時代を振り返りながら、あくまで“自然体”で千勝に臨むつもりだった。《初夏を思わす微風がハダに心地よい。若葉の緑も鮮明だ。都会の騒々しさとはうって変わった静寂の金剛山。このふもとに滝谷不動尊がある。ここは石田の鍛錬の場…》で始まる原稿が、写真とともに収まっていた。

◆8◆平成19年6月28日(木曜)
 《白地に赤のユニホーム(7号車)がゴールを1着で駆け抜けた。その瞬間、石田雄彦は右手を高々とあげ、約半周バンクを回ってから走路に立ち、両手で自転車を頭上に持ち上げファンの声援に応えた》ー昭和47年5月7日(8日付け)の四日市。石田は松本勝明に続く“千勝”を達成した瞬間だ。「あと3」で臨んだ福井は2勝止まりで、この四日市初日に記録がかかっていた。逃げたのは竹野暢勇。地区は違っても当時は「強い先行選手に強いマーク屋が付く」時代。まして竹野は石田と仲良しで、いわば“仲間”だ。お膳立てが整えば、かかるのはプレッシャー。石田は朝、目覚めると持病の“痛風”が出ていた。「走れるだろうか」と不安がよぎり、痛み止めの注射を打って走った。ところが控え室にもどると、立てないぐらいに腫れて、翌日からのレースは欠場となってしまった。「デビュー当時は弱くて、一人前の選手になれるのかと思いましたが、よくここまでやれました。(千勝は)父と妻が喜んでくれるでしょう。好きなことをやらしてもらって、僕は幸せ者です。ほんとはグイッとビールを飲みたいとこやけど、そうもいかんわ」。デビュー2年間で2勝しかできなかった男が、金剛山の山登りで1着を1000個も積み重ねた。この祝賀会は昭和47年10月13日に行われ、芙二子夫人ともども200人の列席者から祝福を受けた。日頃、なれない背広姿に「こんな堅苦しいのは1回でこりごりや」と笑わせ、「千勝など意識せず、ただ勝つことだけを考えて走ってきました。きょうの感激を胸に抱き、今後とも選手として競走に全力を注ぎます」と挨拶していた。初出走は昭和25年1月31日の西宮。タイトルは第14、18回日本選手権、第1回オールスター、第11回高松宮賜杯、第3回競輪祭。努力無くして、栄誉は手に入らないー石田にふさわしい言葉だ。
◆9◆平成19年6月29日(金曜)
 松本勝明、石田雄彦に続いて古田泰久、吉田実が相次いで昭和48年に“千勝男”の仲間入りを果たす。しばらくは、この話題で。まず日本自転車振興会のデーターを基に調べてみると古田泰久が石田と同じ“あと3”に迫ったのが昭和48年2月。10日からの門司記念に臨んだが、初日に落車、腰部を強打して競輪場近くの関原外科に入院。そして広島の自宅に帰ったのが13日。ちょうど、電話取材を申し込むと、気軽に応じていただいた。競輪場でも話したことのない若い記者に対して、無口な古田が、約1時間、しゃべった。「あと3勝とは知らなかったね。まだ7つぐらいあると思っていたのに」と話し出すと「都道府県の3場所連続優勝のころが一番、脂が乗っていたね。昭和32年の第11回ダービーで坂本昌仁選手の2着に突っ込んだのが最高の思い出」と熱がこもってくる。そして「昔から一人で走った。先行位置から逃げ切るか、追い上げて先行でレースをするかだった。他の人の後ろに位置すると怖かったしね。だから大きな事故も起こさずにここまでやってこれた」と“無事これ名馬”の例え通りの戦いが、古田を支えていた。第3回オールスターの一般戦V、第12、13、14、17回の都道府県選抜競輪を優勝。松本や石田のように華やかではなかったが、一発の破壊力は満点だった。とくに穴党ファンを喜ばせたのが昭和46年。当時の若手スターの阿部道、荒川秀之助、福島正幸らを相手に記念競輪を4場所連続優勝を飾ったのだ。それも3・88のギアを4・33の大ギアに変えて、爆発力が倍加したのだった。この記事を掲載した14日には、他社のベテラン記者から「あの古田さんが、ようしゃべったなぁ。よっぽど聞き方がうまったんやね」とほめられて、得意満面だったのはいうまでもない。ところが、千勝までは1ヶ月以上の難産となった。


◆10◆平成19年6月30日(土曜)
 昭和48年4月の四日市。古田泰久は準決勝で1着を奪い、千勝に王手をかけた。各社の記者も当然、四日市へ。石田雄彦と同じ四日市なら“なにかの縁”だが、そうは問屋が卸さない。まくって行った古田だが飛ばされて不発。“あと1”で高知記念へ持ち越しとなった。4月6日の夜、我々も高知へ向かったが、行きは大阪南港からフェリー。超の付く満員で、記者5人はトイレ前の空間を探して、新聞紙を敷いて約9時間の船旅をしのいだ。午前6時、高知港に着くと昔の競馬場が見え、浦戸湾に鯨が泳いでないか探して笑いあったものだ。疲れもそこそこに空腹を満たすため国鉄・高知駅へ行ったが、今とは違い、コンビニも、24時間営業のファミレスもない。駅の水だけ。結局、早めに競輪場へでかけたが、何もない。選手宿舎は別で、選手も居ない。地元の選手やアマチュアの選手が早朝練習をやっていただけ。なんとか開催事務所を探して旅装を解いたが、古田のレースまでは半日もある。車券は当たらない。我々の顔を見た古田も緊張の色。結局、またもまくり不発で、準決勝へ持ち越し。千勝・珍道中の話はまだまだ終わらない。さあ、宿舎の予約もしていない。飛び込みでは泊まれない。市内には高級ホテルか料理旅館しかない。仕方なく駅の案内所でお願いすると、ほとんどが満室で、わずかに5人で一部屋の和室があった。紹介された旅館へ行ってみると6畳一間で、大の男5人が寝るだけで、荷物の置き場にも困るほどだった。それでも若さは恐ろしい。飲み屋街で飲んで、食って、旅館へ帰るとすぐに高いびき。狭さも疲れも吹っ飛んで、古田の翌日の千勝達成へ英気を養った。
◆11◆平成19年7月2日(月曜)
 明けて昭和48年4月9日。準決勝戦には一匹狼の古田泰久に“味方”がいた。先行果敢な松川周二郎だ。高知名物のドラが鳴り響く最終の4コーナーから松川は一気にスパート。バックでは単独の番手となった古田。もう千勝はもらったも同然だ。それでも、意外にも直線で伸びない。緊張から、いわゆる脚が三角に回っていたのかも。「長かった。ゴールがあんなに遠く感じたのは初めてや。気持ちが先走って肝心の脚が動かなかった」と、ホッとしながら、難産の“千勝”を達成の喜びを味わっていた。「これでぐっすり寝ることができる。一つの区切りがついたのだから。でも、いつまでも若者に負けたくはない。松本(勝明)さんや石田(雄彦)君に勝ち星の差を話されずに、これからも力の限界がくるまで走り続けたい」と、力強く語っていたものだ。参加選手から胴上げされて、顔は喜びでくしゃくしゃだった。もちろんバカチョンカメラでワンショットをパチリ。原稿と写真は翌日の紙面にバッチリ掲載。そして、毎年、「古田泰j久賞」の開催される広島競輪場にはメモリアルパネル展の一角に、私のセピア色の原稿も紹介されていたのには感激したものだ。昭和24年7月に鳴尾競輪場(甲子園競輪場)でデビュー以来、2288走で千勝に達した古田。“我が道”を貫いて、通算1183勝をマークしたのは特筆すべきものだった。
 この日、記者5人は大阪に帰れない。それでも翌日には仕事がある。今のように携帯電話も無い。国鉄・高知駅に午後8時集合で、各社の支局で原稿と写真を電送した。乗ったタクシーは支局を知らない。降ろされた夕闇の高知城近くで、走り回って支局を探して、やっと写真を現像して送った。ちょうど、午後8時。連絡もとれないが、とにかく高知駅へ。他社の連中も悪戦苦闘で、大差のない待ち時間で合流。夜行で大阪へ向かう手段もない。まだ四国と本州は「宇高連絡船」が架け橋だった。とりあえず前、前で、高松まで鈍行に乗車。午前1時着で、宿も駅で探したもの。今は廃業したビジネスホテルで泊まったのだが、名物のうどんを食べてゴロリ。ひとつの仕事を終えた疲れで爆睡だった。こんな不便な出張取材も、古田の千勝のお陰。貴重な体験だった。

◆12◆平成19年7月3日(火曜)
 4人目の“千勝男”は吉田実。最大のライバルは石田雄彦だった。豪快な石田に対して、低レシオ(ギア3・45)の吉田は抜群のダッシュ力で互角の戦いを演じた。“石田・吉田時代”を築き、一世を風靡した。「レースもそうですが、配分が一緒の時は酒の飲み比べまでしましたよ」と、互いに負けず嫌いだった。昭和48年8月10日付けには“あと2”の原稿を掲載。12日からの防府で一気に達成かと思いきや「防府でひとつ、そして甲子園(23日から)でひとつと、一歩一歩登りつめます」と慎重な言葉だった。昭和47年には、年間の優勝が15回を数えるなど、完全復活を果たしていた。だから、この48年10月に地元・高松で開催の「オールスター競輪」のファン投票では、10日の中間発表で44位にランクされるなどファンの支持も高かった。「まだ忘れずに投票してくださるんですね。ありがたいことです。そのためにも早く千勝を達成しないと…」と、胸を熱くしていたものだ。タイトルは昭和33年、35年のダービー、35、36年のオールスター、37、38年の都道府県とで獲得。とくに35〜37年は全盛期。35年95走72勝、36年93走73勝、37年103走79勝と圧勝の連続だった。その後の苦難の時代を乗り越え、防府を終えて“あと1”と迫った千勝は、甲子園でメモリアルに挑む。