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【41】〜【55】我が野中和夫 |
【41】平成19年8月6日(月曜)
無冠に終わった昭和52年だったが、年間を通じて最高の勝率を残したモンスター野中和夫。前期は田中康宣8・49、後期は彦坂郁雄9・00が1位に輝いたが、野中は年間で8・52をマーク。しっかりと存在感を示した。年が明けた昭和53年2月8日、東京・三田の「笹川記念会館」で『昭和52年優秀選手表彰式典』が行われた。MVPは加藤峻二が手にし、最高勝率選手に野中、最多優勝選手(V12)に彦坂、全国記者クラブ大賞・優秀選手賞には松本進が選ばれた。
野中は「昨年に続き、今回も最高勝率選手賞を獲得できたことは非常にうれしい。昨年は多くの賞を受賞し、プレッシャーがかかっていた。それでも、今回、一つでも受賞できて、今はホッとしている」と、喜びを噛みしめていた。51年には及ばなくても、勝率8・52、複勝率72・5、1着113回、優勝9回はMVPの加藤の勝率7・82、複勝率61・7、1着84回、優勝6回をすべて上回った。選手生活10年目に突入した野中、さらなる進化へ、またまた豪腕を発揮したいところだ。
53年のターゲットは、まず3月丸亀での「鳳凰賞」だ。彦坂が特別路線にカムバック、北原友次との「全冠合戦」もある。話題満載の「第13回総理杯」は、ボート界前半戦の最大のイベントだ。
【42】平成19年8月7日(火曜)
「宿命の対決」ー大きな見出しが、対決ムードを盛り上げた。モンスター野中和夫と失地回復を期す彦坂郁雄のどちらが“王道”を歩むのか。そして割ってはいる北原友次と野中の“全冠合戦”と、昭和53年3月16日から21日までの丸亀競艇「第13回鳳凰賞」はファンの関心事だった。2月の蒲郡で優勝、その後も芦屋で優勝4着、下関で優勝と順調に流れ出した野中の53年。ところが問題が起こった。
「芦屋で50・5sまで落としていたのに下関が終わって55sに戻ってしもたんや。ちょっと太り過ぎや」と体調に不安が生じた。ビッグレースの前はゴルフやサウナで汗を流し、万全の態勢を整えていたが、今回は“本番”での減量だ。
「はっきり言って、鳳凰賞とは相性が悪いのかも知れん。直前にスタート事故で出場できんかったり、せっかく優勝に乗ったときはフライングやしなぁ」と嘆き節もでるほど。ただ、丸亀は野中の得意コース。昭和49年夏にはMB記念、昭和51年12月には年間V16の新記録を決めるなど、抜群の相性度だ。
「今度の鳳凰賞は取りに行く。エンジンや展開やとか言っておれん。何がなんでも取る。これでダメならあきらめもつく。向こうから逃げていくのに、追っかけても堂々巡りや」と、力ずくの攻めを強調した。勝てば“全冠制覇”だが…。
【43】平成19年8月8日(水曜)
あろうことか、野中和夫だけが準優勝戦4着で脱落した。彦坂郁雄のビッグ路線復活、野中と“全冠”の先取り合戦をする北原友次は、なんなく優勝戦に進出した。昭和53年3月21日の丸亀競艇「第13回鳳凰賞」の最終日、野中は6、9Rで1、2着で終えた。鳳凰賞に5回目のチャレンジも、やっぱり女神は微笑まなかった。
その優勝戦には彦坂が6連勝の快進撃で久々の特別Vをパーフェクトで飾るか注目を集めた。北原は絶好の6号艇を引き当てた。1号艇の彦坂は共同インタビューで「ダメだね。モーターが最悪になったよ。準優はスタートで勝てただけで、重くなった。優勝もスタート次第だね」と、なんとも不安な口ぶり。逆に北原は「モーター、枠番とも私に味方している」と自信たっぷり。
予想を担当した私は、正直? な彦坂を無印にして、北原を本命に抜擢した。デスクから「彦坂はパーフェクトやろ。せめて▲印はいるんとちがうか」とお叱りを受けたが、私は自信を持って「いりません」と返答。そのまま彦坂はノーマークで押した。結果は平尾修二のフライングにも北原は動ぜず、がっちりと逃げ切り、史上初の“4冠制覇”を達成した。彦坂は4着に敗れ去った。この一戦に参加できなかった野中は寂しい思いで丸亀を後にした。さらに輪をかけて4月の三国周年でフライング、7月からの事故率B級落ちも決まった。また苦難の道が続く。
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【44】平成19年8月9日(木曜)
49、51年と奇数年は常にフィーバーを巻き起こしたのに、昭和53年はどん底の状態を味わうはめに…。取りに行った「鳳凰賞」には逃げられ、野中和夫の巻き返しは「笹川賞」しか残されていない。7月からは事故率B級。特別の舞台には立てない。まして「第5回笹川賞」は住之江競艇場での開催。第1回、第3回の覇者として、野中がモンスターへの第一歩を踏み出したタイトルなら、執念を燃やして当然。「B級は仕方がない。ルールやから。そうは言っても、笹川賞はゆるめるわけにはいかん」と、いつも通りの“気合走”だ。初日は2着に敗れたが、残りの予選を5連勝。
勢いを増して、準優勝戦に臨んだ。野口徳三がトップスタート。野中も速い。1マークで「俺は(Fは)大丈夫や。トクちゃん(野口)はダメや、無理な突っ込みはしたらあかん」とスタートには自信を持って、冷静なハンドルワークを見せた。が、野口に続いて野中の枠番も電光掲示板にくっきりと浮き彫り。「まさか!」と、我が目を疑ったが、判定は非情だ。わずかコンマ01、20aの勇み足で、野中は散った。
期の初めのF。またずしりと“重荷”を背負った。それでも、最終日の7Rで野中は“勝負”に出た。北原友次、常松拓史、中道善博、岡本義則、松田慎司を相手に「控え室でみんなに言うたんや。フライングの後やけど、このレースで勝負しよう」と、気合を入れた。準優勝戦で90%の返還に対するせめてもの“迷惑返し”だ。野中は5コースに構えスタートで一気に決着をつけた。これが野中の真骨頂なのだ。
【45】平成19年8月10日(金曜)
「俺は辛かった。笹川賞のフライングはB級落ちよりも悔しかった。地元のプールやで、ファンの人に迷惑をかけてしもうて…。そやから最後は負けるわけにはいかんかったんや」。野中和夫が“前座”をスカッと締めくくった後、“王者”の称号は、また彦坂郁雄に移った。昭和53年5月8日の住之江競艇「第5回笹川賞」優勝戦で、彦坂は野中バリの強烈な3コースまくりを決め、4年ぶりに特別タイトルを奪い、会心の笑みを浮かべた。45年地区対抗、47年MB記念、49年鳳凰賞を含め、笹川賞が4つ目のタイトル。
「カレ(野中)があんなこと(F)で脱落したが、誰でも一回は歩む道です。でも、カレがいないと大変です。責任が重くなります。4つのタイトルのうち、こんな気持ちのいい勝ち方は初めて」と、野中を気遣いながらも、うれしさを隠しきれなかった。
野中と彦坂は競艇界の二枚看板。両雄並び立たずなのか、野中が快進撃の時は彦坂がいない。彦坂が這い上がってきたときは、野中が同じ道をたどるように特別戦線から離脱。「ヒコさん(彦坂)が、しっかりファンをつかんでくれるよ。俺は、A級へカムバックするように、頑張るしかない」と、笹川賞を終えて、2ヶ月の長い“梅雨休み”に入った。
【46】平成19年8月11日(土曜)
フライング休みが2ヶ月。いくらモンスター・野中和夫でも、こればっかりは逆らえない。休みを買い取るわけにもいかない。黙って、日数を消化するしかない。幸いなことに、野中には人脈が多い。選手仲間のほかに友人、知人、49年夏から始めたスナック「ブッチー」の客もいる。代わる代わるゴルフの誘いだ。それでも胸の内は晴れない。しょせんは“遊び”のなかのスコア争い。『勝師・野中』には合わない。レースで戦ってこそ、野中だ。
「頭の中からレースのことは抜いてるけど、なんかシャキッとせんなぁ。毎日、毎日、ほんまゴルフだけでは、からだもなまってしまうわ。ついつい食べるし、贅肉もつくしなぁ。2ヶ月は、長いでぇ」。真っ黒に日焼けして、精悍そうに見えても、健康とはほど遠い。夜は唯一の“職場”の「ブッチー」で、例によってエプロン姿で、包丁、フライパンを手に、得意の料理に腕をふるった。もちろん他店に美味いモノがあれば食べに行って、味の濃さや、色の良否などをチェック。そして「ブッチー」でも試食して、客にふるまう。
こんな日課をこなしていると、朗報が届いた。昭和53年夏の住之江競艇「太閤賞」にB級でも走れることになった。いわば野中のための規則変更だ。「そうか、よーし、頑張らんと」と気持ちは“太閤賞連覇”に固まっていった。
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【47】平成19年8月13日(月曜)
長い2ヶ月の休みが終わった。野中和夫の復帰戦は初めて記念優勝を手にしたゲンのいい徳山競艇「25周年記念」。23、24周年に続いて3連覇もかかっている。レースが近づくにつれて、顔も体も引き締まってきた。各選手の動向も耳に届き、碧南に本栖での訓練もこなした。徐々に臨戦態勢は整っていった。流れの悪い昭和53年、徳山から上向くのか。
「徳山の後は、オールA級やった『太閤賞』にB級でも走れるんやから、その期待に応えんとね。そやから、徳山の初日は負けられへんのや。初めから負けたんではナメられてしまうし、今後の競走にも影響する」。徳山の初日はコンマ07のすごさで圧勝だ。周りの選手からも「やっぱり怪物や」の声。その後も1113111着で優出。3連覇へ王手をかけた。
ところが、最後の最後でフライングが頭の中をよぎった。「初めてフライングが気になった。40bでアジャストしてしまった。握ってたら? そら2本目(F)やった」。コンマ08でとどまり、結局3着で終えた。大阪へ戻る新幹線の車中は野中のサイン会。追っかけのファンが、わんさといた。差し出す出走表や化粧バックに色紙、ハンカチなどにサラサラとペンを走らす。「次は太閤賞ですね。私らは遠くて行けないですが、頑張ってください」と、岡山で降りたファンからの激励に「よっしゃ、精一杯、頑張るわ」と力強く答えた。久々の実戦に、モンスターも息を吹き返した。
【48】平成19年8月14日(火曜)
せっかくの“お呼び”に野中和夫は、いつも以上に気合がこもっていた。「徳山は初戦だけは別にして、ボチボチ走るつもりやった。それでも初日が終わると考えも変わるもんや。レースは楽しいし、徳山は住之江と同じぐらいファンの反響がきついんや。ほんま地元と同じや」。徳山周年の3連覇は逸したが、「太閤賞」の連覇は残っている。昭和53年8月13日から18日までの住之江競艇「第12回太閤賞」は、気持ちとは裏腹に、もっと深刻な事態に陥った。
「体重が落ちへんのや。体調は良くないよ。徳山でも肝臓の薬を飲んでたけど、スキッとせえへん。問題は体重や。55`から少し下がるぐらいで52`いうと気の遠くなる数字や」。体調面の不安は、レースにも影響した。初日のドリーム“千成賞”は5着に敗れ、巻き返しを期した2日目は、なんと出遅れ(L返還)のスタート事故。これで、来期の事故率B級も決まってしまった。以後は気合だけで21621着にまとめたが、54年の夏まで、ビッグな舞台から遠のくことになった。「歯車が狂うてしもたなぁ。我慢をせなあかん。特別のレースに戻ってこれるように、A級復帰だけを考えるわ」。しばらく牙を研ぐしかない。
【49】平成19年8月16日(木曜)
悪い年は忘れて、昭和54年は晴れやかな一年に…2期連続のB級暮らしのモンスター野中和夫。事故B級の3期連続だけは阻止しないと、表舞台からさらに遠ざかってしまう。A級復帰をかける今期も期始めの若松周年でフライング。年が明けて唐津周年で優勝6着、続く戸田で1211112112@着で優勝とリズムを取り戻しかけたが、2月・三国の近畿ダービーで3111反41C着。優勝に乗っても、予選での反則失格で事故点は35点に達した。
「三国の反則は痛い。出走回数は大丈夫としても、事故は御法度やからなぁ。頭が痛いけど、格好の悪いレースはでけへん」と悩みながらも、三国の準優勝戦、決勝戦はコンマ03、08のスタートタイミングで飛び出すなど、果敢さは失っていない。見ている側がヒヤヒヤ、ドキドキだ。そんな流れで3月1日から尼崎競艇「サンスポ旗争奪・尼崎選手権」に登場した。
4月はフライング休みを利用して、体質改善(持病の十二指腸潰瘍の手術)を計画中。「去年の11月ぐらいから痛みが激しくなってきたんや。A級復帰を決めてから手術をする予定や」。とにかく“A級”を決定づけるのが先決だ。
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【50】平成19年8月17日(金曜)
事故は起こせない! それでも野中和夫にはレースを楽しむ余裕があった。昭和54年3月1日〜6日までの尼崎競艇「サンスポ旗争奪・尼崎選手権」では、予選4日目にインから先手を奪った古賀武日児を3コースから強烈なツケマイで仕留めた。古賀が「スタートも僕の方が早いし、下手なターンもしてないのに…。ファンの人は下手や思ってるでしょうね」とガックリさせるほどの威力だった。
古賀といえばタイトルに近い男と言われながら、攻めの消極さが仇となって無冠に終わった。岡本義則の弟子で、ワザには長けていた。そんな古賀を一撃した野中は「どや、ええツケマイやったやろ。イン以外でも勝てるところを見せとかんとな」とご機嫌だった。事故を怖がりながらも攻める野中、ここらが古賀と違うところだった。
初日から24311111着で優勝戦に進出。初日はコンマ52でスタートを遅れたが、以後はコンマ20前後の安定したもの。モーターは谷川宏之と古賀武日児、加藤元三にはかなわないが、戦法は「6コースから谷川さんを引っ張る。まくってもらっての差しや」と、谷川の5コースまくりに命運を託した。が、結果は古賀が逃げ切り、野中は予定通りに差しに入ったが、他艇と接触、4着に終わった。それでも「転覆とか失格にならんで良かった」と無事故完走にホッとしていた。
【51】平成19年8月20日(月曜)
A級復帰へのカウントダウンは「10」となった。尼崎の後、丸亀競艇・施設改善記念を走り終えて事故点が35点。出走回数は77。A級を決めるには87走が必要だ。「ひとつ歯車が狂うと、なかなか元に戻らんもんやな。ここ一、二年は事故ばっかり。ええかげんにメも上向くと思うけど、それにしても苦しかったなぁ」。最後のレースは住之江競艇「第8回飛龍賞」だ。オールB級戦とはいえ新田宣夫、後川博ら好メンバーが揃う。
「スタートに関しての不安はない。怖いのはアクシデントによる事故やな。自分で気をつけていても、これだけは避けられへん。優勝? みっともないレースはしたくないね。地元やから」。この昭和54年の優勝は2月の戸田競艇だけ。その戸田でオール入着の優勝で、戸田では3人目の「完全出走者(準パーフェクト)」だった。売り上げは野中効果で新記録。まさに“野中さま、さま”の6日間開催だった。
住之江は7日間の開催。野中にとっては出走回数の不安はない。連日、予選6日間で入着を果たすと12走、優勝戦を含めると「13走」できる勘定だ。丸亀の最終日に2連勝で締めくくり、この大会には10〜15連勝の記録も期待がもてる。「連勝はどうかな。しばらく10連勝もしてないしなぁ」と、地元戦でのA級決定へ、気力は万全だ。
【52】平成19年8月21日(火曜)
どこまでドッキリさせるのか。無事に住之江競艇「第8回飛龍賞」の優勝戦(昭和54年3月31日)にコマを進めながら、最後はコンマ04のスタート。どうみたって“事故B級”を怖がっている選手とは思えない。それが、野中和夫という男だ。ファンあっての競艇、ファンあっての野中、だからこそ“秒針ゼロ”に命をかけて、1着を目指すのだ。
優勝戦には@河村修治A新田宣夫B後川博C森武新治D野中和夫E本田博行の6人。記念クラスの後川、新田が当面の敵だが、一番の気になる選手は新田。とにかくスタートが早い。彦坂郁雄が「名前は出さないが四国にすごい若手がいる」と将来の大器と太鼓判を押していたのが新田だ。
インを固めた野中ー後川の大阪コンビに対し、新田は3コースからコンマ01で襲いかかった。野中も出負けはない。ただ、2コースの後川がコンマ14の“中へこみ”のスタイルが新田のまくり・差しを許してしまった。
野中は「ワシも(Sは)行ったで。まくられると思わんし、差しも許さん」と受けて立ったが、新田の切れも鋭く、2マークまで内・新田、外・野中でマッチレース。ところが「2コーナーはスピードをもって回らなあかん。それが頭にこびりついて…野中さんでなかったら」と新田は豪腕・野中を意識するあまり、1周2マークを行きすぎた。そんなチャンスを野中は逃さない。きっちり首位を奪い返した。そして晴れて“A級”を取り戻した。
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【53】平成19年8月22日(水曜)
「長かったなぁ」ーモンスター野中和夫がホッとひと息ついた。事故に悩まされ、昭和54年3月31日の住之江競艇「第8回飛龍賞」の優勝戦が終わるまで綱渡りの連続だった。期初めの若松周年のフライングは、月2回配分のB級にはズシリと重い事故点だ。三国・近畿ダービーで反則失格で限りなく“B級残留”のケース。それでも粘り強く戦い、4月のフライング休み前に90走1着52、2着7、優勝2、勝率8・18、事故率0・39として、7月から1年ぶりのA級カムバックを果たした。
「無事に走り終えて、肩の荷が下りたみたいや。これでA級やなぁ」と“A級”の言葉に実感がこもっていた。ゴールをした瞬間には右手に力をこめて、がっちりとハンドルを握り返していた。それほど待ちに待った“A級”だ。
「予選で2回負けたんが悔しい。(ファンに)迷惑をかけたからなぁ。まあ優勝で帳消しかな。エンジンは朝からリングを換えたけど、新田(宣夫)の方が強めやった。まあ、ええか。優勝したんやから。十二指腸を手術して、5月から出直し。もうB級はイヤやでぇ」と、差されて先行を許した新田を逆転したレースを思い浮かべ、安堵感を漂わせた。4月4日に、持病の十二指腸手術のため入院。5月からの新期に向けて、心身ともに出直す。
【54】平成19年8月24日(金曜)
A級へ返り咲きを決めて、昭和54年4月6日に大阪市内の病院で十二指腸潰瘍と胃を3分の2を切除した野中和夫。「悩みがなくなって、すっきりしたわ。悪いのは持病の十二指腸だけやなかったんもんなぁ。胃も3分の1しか残ってへんらしい」。手術の際に麻酔は3時間しか効かなかったとか。
なんでもアルコールの飲み過ぎで、麻酔も適量ではきかなかったのだ。おまけに手術中は「暴れ回るんで困りました」と和子夫人があきれるほど、痛みと闘っていた。水面では対敵と、病院では痛みと、モンスターは闘うために生まれてきたのか。
「入院前に計った体重が53`。それが、手術しても同じ53`。何も食べとらんのに、どないなっとんのかわからへん。減量できて一石二鳥やと思ってたんや」と、減量効果がなかったことにガックリ。
小さな胃袋に入るのは、おもゆていど。“断食”とほとんど変わらない生活だ。14日の夕食から米粒がポツ、ポツと見える七分ガユ。よほど胃の吸収力がいいのか、目方はいっこうに減らない。それでも、経過は良好。病室では、ソファにどっかりと腰をすえてテレビ観戦。好きなプロ野球を心ゆくまで楽しんでいた。
【55】平成19年8月27日(月曜)
新しい期が始まるのが5月1日。フライング休みを利用して十二指腸潰瘍と胃の手術を終えた野中和夫は、2日からの福岡競艇へ向けて、病室でのトレーニングを計画。「問題は腹筋やろなぁ。部屋の中でちょっと走ってみたけど大丈夫や。それよか腹筋や。これが一番の問題。レースでは腹の力が無いとダメやもんなぁ。まあ、心配せんでええ。(持病の)痛みがなくなって、何でもできるからね」。
いつものフライング休みなら、ゴルフにサウナ、とにかく毎日、体を動かし、鍛え続けていた。今回は手術と、体にメスが入って、復帰に影響するのは当然のこと。テレビで漫才を見て腹を抱えながら「痛とうてたまらん」と笑わすが、盲腸の手術でも1ヶ月ほどは腹の痛みが続くもの。それが、退院してすぐに過酷なレースに臨むのだ。
「抜糸まで時間はかかるけど、レースには行く。(福岡へ)斡旋されてるのに、休むわけにはいかん。そのためにフライング休みを利用したんや」。周囲の心配をよそに、野中は25日に退院すると、新期第1戦の福岡へ出発した。
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