鉄幹との親交
正修は、発足以来、新詩社と深い関わりがあった。自宅(現・柏崎市田塚)に新詩社第九支部を置いた。また、明星発行にと何度か金額の寄付もした。明治9年12月号の明星発売禁止による財政の危機には、落合直文、河井酔茗、鳳あき子らと、連名で新詩社基本金拠出を呼びかけている。
与謝野鉄幹とは、心の通じ合った深い関係にあったが、いわゆる照魔鏡事件が在った後しばらくは、明星への短歌の投稿をやめている。潔癖症だった正修は、この事件に耐えられなかったものと思われる。見ることの出来ない正修の日記には、山川登美子についても記載があったと聞いてはいるが・・・・・。
与謝野鉄幹が、正修の自宅を訪れたとき詠んだ歌が記された文書だ。こころざし 歌にあひたる我友は 越後にひとり 大矢正修 とある。
與謝野鉄幹が大矢正修を訪れた時の記念写真(卬須会の面々と)
正修は、肺結核で短い生涯を終えた。明星紙面には異例の弔詞が載った。
(文面は次にようであった。) 社友大矢正修君旧臘を以て 長逝せられたり。 享年三十四、君は越後國刈羽郡 田塚村の人、 篤学慷慨の士なりき。予と拾年の 旧交ありしの みならず、新詩社創設以来の社友 として、裏面の助成を与えられるこ と多大なり。今忽如として 君と永別す。ああ哀しいかな。新詩社 を代表して謹で弔詞を捧ぐ。 與謝野寛 |
大矢正修の歌風
正修の短歌について、私は何も論評できる知識も学もない。これから研究してみようという能力も無ければ、体力も無い。色々紹介されているところに寄れば、明星派の中にあって、独自の地位を占めていたという。正修の歌が、初めて紹介された明治33年8月発行の明星5号で、4首の歌が取り上げられている。その中の一首に、『乱れ髪けづらぬ我をなぐさめて誰か泣かんよ妹にあらずして』がある。この乱れ髪は、短歌の世界で初めて使われた言葉では無いだろうか。後年の與謝野晶子の歌集『乱れ髪』の題名となったのでは無いだろうか。
與謝野鉄幹は、明治36年3月発行の明星、『昨年の短歌壇』で新詩社の同人中昨年の作で、おのおの顕著な特色を発揮していると評している。作者名が無くても作品を見るだけで、誰の作か推測できるものとして、晶子、しら梅など数名を挙げている。その一人として、大矢正修が挙げられている。
正修の作は、時事を憤り、男子の志を延べ、自家の不幸を寓したものが多い。形式は、気を以て勝という風で時に彫琢を軽んじてある。慷慨派とよんでいると述べている。
昨年の佳作として、次の歌を挙げている。
○おほやまと大和ごころを
○あかる珠てる珠われに撲ちつべきその人いまも尋ねわびぬる
○詩も何か此世の我に願ひあらず亜細亜をとこの名に立たば足らむ
○地を蹴りて男の子たけびの歌あげよ聲さまたげぬ大亜細亜原
○天つ日にまくら高うもぬる子なしあなやさかしらかしましの國
○閨ふかうかけたる香のしめやかに京おもう人を雨にやどす日
大矢正修は、明治37年11月27日午前7時、東京品川の病院で生涯を終えた。辞世の歌、織りかへしまたくりかへし天路より潮みちくればもの思ふなし
明星派歌人として、名も無く短い生涯を終えた大矢正修
~祖父大矢正修とは~
残念ながら、祖父大矢正修については、全く知らない。子どもの頃、屋根裏部屋にあった物置二階に、正修の日記帳があったり、与謝野鉄幹の書簡があったりしたことは覚えている。座敷部屋に、髭面の肖像画が飾ってあったこともよく知っている。
しかし、別に興味も無かったので、肖像画は誰だと家人にも聞いたことは無かった。ただ、なんとはなしに、亡くなった大矢家の人物だと云うことは知っていた。戦中戦後、何も無い時期に、物置部屋に上がると、祖父正修の和綴じの古い書籍や古文書が有り、落書きをしたり読めもしない書籍をひもといて遊んだりしたことを思い出す。
成人して聞き知ったことだが、大矢正修に関する資料は、研究者や知人などが借り出し、火災で焼失したり、返品されないままに行方不明になったりしてしまった。そんなわけで、物心ついてからは、大矢正修に関する資料を実際に手にすることは出来ていない。
大矢正修については、塩浦彰氏の2編の論文や手持ちの1,2点の資料でしか知ることは出来ない。
最近、チャットで大矢正修について質問をしてみると次のような回答があった。しかし、このまま鵜呑みにしてはいけない。没年や大学名が違っているのではないかと思う。