博愛の医師 淳庵

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医は仁術なりと生涯を貫いた町医者佐藤淳庵の話である。

 佐藤淳庵は、江戸時代末期の町医者である。淳庵の生き様は、緑川玄三の著書、三条太平記に記されているほか、いくつかの出版誌に紹介されている。地元、三条新聞にも紹介されたことがある。淳庵は、関川家の生まれであるが、残念ながら記録は残っていない。

 夜風は秋を感じさせますが、気候の定まらない今日この頃、いかがお過 ごしでしょうか。ご健勝のことと拝察申し上げます。 最近、同封の小冊子、三条歴史研究会の「三条・一ノ木戸歴史散歩 人物編ー江戸・明治の栄華を訪ねてー
が発刊されました。三条の歴 史に興味ある人々にとっては好評とのことです。 
 第 26話に、「
三条の赤ひげ名医佐藤玄雪と一族と言う話が掲載 されています。その文中に、佐藤淳庵の名前がありますが、わが家、関川 のご先祖です。
 淳庵は 17才で、医師佐藤玄厚の弟子となりました。名を 定祥、字を荘敏、号を松坨( しょう と だ)と 言いました。 この淳庵については、三条の作家緑川玄三の「三条太平記」に紹介され ています。残念ながら、わが関川家には、淳
庵なる人物の人となりなど、詳 細な記録は残っていません。 同封しました冊子に記載されていない淳庵について、現存する数少ない 資料から人物像を紹介してみたいと思います。
  八幡神社の境内に、淳庵の 教えを受けた玄厚の二人の孫 たちによって建立された、顕彰碑 が淳庵を知る資料の一つです。 寿命幾ばくも無く、幼い二人 の孫の行く末を案じる師の懇請 を受け、淳庵は、関川家の名を捨て、佐藤
家を継ぎ、幼子たちを立派な 医師に育て上げました。 淳庵は、性質が温和で、端正な容貌をしていた、と緑川玄三は、三条太 平記で記しています。実に見上げた人物です。恩義に厚く、道義をわき まえた人物と言えると思います。
顕彰碑は、実の親も及ばぬ、淳庵の養育 に感謝する二人の子どもによって立てられました。 関川家の檀家寺浄圓寺には、淳庵の手になると言う複製の「吾が家の 医薬は売物にあらず誠をもて請うれば必ず与う」と言う看板が現存し
ています。 診療にあたっては、浄圓寺に残っている看板どおり、貧しい人たちからは、 お金を取らず「医は仁術なり」と、その精神を生涯通したと伝え聞いてい ます。 下田村の景勝地八木鼻の真下に 、自然石に掘られた碑があります
。 我が家では「松坨岩 (しょうだい わ )」と呼んでいま す。年に一度くらいは、その自然石を 訪れ草取りなどしています。 この自然石の碑は、一端急あれば、 何をおいても、患者のもとに駆けつけ た、という淳庵に対する敬慕から、
下田地区の人たちの有志によって作られたと聞いています。 この自然石に、しばし腰を下ろし、八木ケ鼻の絶壁を愛でたり、麓を 流れる清流に耳を澄ませたりして、好きな絵を描いていたのかも知れませ ん。絵の腕前はかなりの物
だったと言われています。我が家に絵は残ってい ません。 文政 11年 11月 12日(一八二八年 12月 18日)の、三条大地震で、 梁の下敷きになり、左肩を骨折という大けがをしながら、被災患者のた めに尽力したと伝え聞いています。
「淳庵は、恩師玄厚の志を継いで孫二人を訓育、立派に佐藤家を興隆 させた。晩年、淳庵は医療に尽くした功により、時の県令から表彰を受 け米十俵を貰っている。慶応二年九月二十七日七十二歳で他界し た。」と三条太平記に
紹介されています。 つれづれに筆を執りました。ご一読いただければ幸甚です。 時節柄、盛夏のお疲れが出ませんように、どうかお体をおいといくださ い。

佐藤淳庵が軒先に掲げたという看板

関川家の檀家寺淨圓寺に伝わる
佐藤淳庵の手になるという「我が家の
医薬は売り物にあらず誠もて請うれば必ず与う」
複製

淳庵に対する敬慕から、村人によって作られたという自然石の碑

最近、下田ライオンズクラブによって立てられた標柱

八幡宮築山の一角に立つ淳庵の碑

松坨碑にまつわる三条新聞記事.pdf へのリンク

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