あっ!あっ!球が・・・

 ある夏の終わり頃、奥穂の畳岩を登りに行った。上高地の河童橋から眺めると、奥穂からジャンダルムと続く稜線のさらに左側に、一目でそれとわかる広大なスラブが有る。上高地から見上げると結構急な壁のように見えるのだが、実際には緩いスラブで、登る人もあまりいないようだった。会のIさんと、後輩のT、それとオコジョの3人で一寸変わったルートを登ってみる気軽な山行のつもりだった。1日目は岳沢ヒュッテ下のテント場までの楽な日程で、テントを張った後はゆったりと時間を過ごしていた。明日登る予定のルートは岩登りとも言えない程度の易しさなので、緊張感も全くなかった。
  翌朝、体も心もすっかり緩んでしまった我々は妙な倦怠感に包まれ、ノロノロと起き出し、ノロノロと朝食をとり、ノロノロと支度を整え、呆れることにすっかり昼間の雰囲気になった8時ごろに行動を開始した。しばらく登って傾斜が少し急になってきたあたりで、ザイルを結んだ。オコジョがトップで2本のザイルを引きながら登り、ビレイを取ったら下の二人が同時に登ってくる。しばらくこうやって登って行ったのだが、やはり2人よりはとても時間をくってしまっていて、登り切るには時間が足りなくなってきていた。3分の2くらい登ったところで、やむなくオコジョがザイルから離れソロで、残りの二人はそのままザイルを結んで登ることでスピードアップを図ることにした。ソロで登っても特に難しい事も無いので問題はなかったのだが、万が一落ちたら随分長い距離を転げ落ちるなとは思っていた。上部で段になっていて急な処があり、ホールドが無い出張りを、岩に頬を擦るようにしながらバランスだけで回り込んだが、ここだけはとても嫌だった。ここを抜けると間もなく終了点だった。正直かなりホッとした。しばらくして二人も追いついて来た。あたりはすっかり夕方になっていたので、休 む間もなく下山にかかった。急いで下って行ったが、天狗のコルに着いた時には辺りはもう闇に包まれていた。ここからは灯りを使うことにしたが、なんと他の二人は電灯を持ってきていなかった。あきれたが、仕方ないのでオコジョの電灯ひとつで天狗沢のガレ場を降りて行く覚悟を決めた。そしてスイッチを入れた・・・。「あれ!点かない。」カチカチとスイッチを何度か動かしてみたがやはり点かない。球が切れているようだ。でも反射板の裏に予備の電球を張り付けてあるので、慌てることはなかった。コルの真ん中に有った腰掛のような岩に座って電球を取り換える作業を始めた。右足を飛騨側、左足は信州側に置いて、手探りのようにしながら予備の電球を取り出したその時、手が滑った。「あっ!あっ!球が・・・。」コロン、コロコロ。コロンの処は体の前に、ところが後のコロコロがどちらだか判らない。岐阜県に落ちたのか、長野県に落ちたのか。慌てて手探りで探すが見つからない。煙草用に持っていたライターを点け、地面に顔を付けるようにして必死に探したが、結局見つけることは出来なかった。しばらく3人とも呆然としていたが、こうなれば仕方ない。月明かりも無い真っ暗な天 狗沢のガレ場を自力で降りるしかない。その頃まだ携帯電話など無かったのだから。(有ったとしてもこの程度で救助要請など考えもしないけどね。)
 そんな訳で手探りの下山が始まった。でもこの頃のオコジョは視力はとても良く、夜目もかなり効いたのでなんとか降り続けて行くことができた。半分ほど降りた時、突然どこかから女性の声がかすかに聞こえてきた。止まって耳を澄ませてみると、「助けて下さーい。」「助けて下さーい。」と叫んでいる。「何処だ」と周囲を見回してみると、はるか向かい側、重太郎新道の中腹あたりに灯りがいくつも有るのが見えた。重太郎新道は歩いたことが無かったので、彼らがどんな状況なのか全く判らなかったのだが、怪我人がいるわけではないということは何とか伝わって来た。「灯りが有るんだから降りられるだろうに、助けてほしいのはこっちのほうなんだけどなぁ・・・。」と思ったのだが、「そこを動かないで、待ってて下さーい。」と、大声で伝え先を急ぐことにした。それにしても一般登山道を灯りが有っても降りられないパーティーが、何故こんな時刻に行動してるの?(自分たちの事を棚に上げての話だが)と思いながら出来るだけスピードを上げて降りて行った。その間石1つ落さずに行けたのだからこの頃は体が軽かったのだなと、今では思うのです。そして無事に岳沢ヒュッテに降り立ちました。早速小屋の人に事の次第を告げたのですが、その反応は「大丈夫ですよ。怪我人がいないなら、そのうち降りて来ますよ。」だって。(よく有ることなのかな・・。でも動かないようにって言ってしまったしな・・)と少し困惑したのだが、少し待って降りてこなければ小屋の人達が動くだろうと思い我々はテントに戻ることにした。朝の出発から既に12時間以上動きっぱなしだったのだが、今夜中に上高地まで降りてしまおうと相談が決まり、テントの撤収にかかった。そうしているうちに先ほどのパーティーが小屋に降りて来たようで、小屋の前がざわざわとし始めた。聞いてみると暗い急な下りに女性たちが少しパニックっただけのことだったらしい。男たちがそれを抑えることもできないのかと少し呆れたが、まあ無事で良かったということでした。
その後、我々は暗い道を一気に上高地まで降り、朝のバスを待つ間、広場の隅でごろ寝をしたのでした。