沖縄における鍛冶関係の研究は、考古学、歴史学、民俗学、産業史・技術史など各分野からのアプローチがなされている。沖縄では、鉄を産出しないため、製鉄、鍛冶の技術自体の発達は、他地域に比較して遅い。鉄への大きな希求が、沖縄の説話、伝説に鉄や鍛冶の伝来に関わるものが多い理由でもあろうが、沖縄にいつ、どこから、どのような製鉄、鍛冶の技術が伝わったかについては、現在のところこれらの伝承に基づく推測の域を逸しないようで、考古学的な研究の進展が待たれるところである。民俗学分野では、屋号、地名、鞴祭などの年中行事、歌謡や伝説などについても様々な先行研究があるが、「鍛冶神」の図像の内容に関する記述は限られたものである。           
   沖縄の「鍛冶神」の図像のほとんどは、鍛冶屋が所蔵している「鍛冶神の掛軸」で、それらについては『沖縄の鍛冶屋』(福地曠昭著、海風社、1989年)に記録されている鍛冶屋の聞き取り調査の中でも多くの言及がある。ただし鍛冶神の図像そのものについての詳細な記述は少ない。次は朝岡氏が、那覇久茂地で鍛冶屋を営んでいた鍛冶集団の 一つ、阿嘉家について述べたものである。

    「ミンダカリカンジャー(新村渠)」は、もともと「ナーレイラ(宮平)」氏を中心にした鍛冶屋集団であったという。そして、阿嘉家は三代前までは首里の御用絵師であったが、明治の中頃に宮平氏のところに入り、鍛冶の技術を身につけて阿嘉鍛冶を起こしたのだと言う。元来が絵師の出身であったから、阿嘉鍛冶の初代は「鍛冶屋の掛け軸」をたくさん描き、仲間の鍛冶屋に分けてやったという。その掛け軸は、散逸してここには残っていなかったが、かつて鍛冶屋をしていた家のなかにはまだ保存しているところもある。それを見ると、「鍛冶屋の掛け軸」は、本土の金山講の掛け軸とまったく同じ様式を取るものである。簡単に言えば、金山様を中心に描き、その左に横座が坐り、右から先手が鎚を振るうという構図になっている。細かな点では違いがあるが、大様は日本中どこでもあまり差のないものである。注意すべき点は、この掛け軸の鍛冶作業の様子が、現実の沖縄の鍛冶の様相とはまったく無関係なことである。             

   本土ではこの掛け軸は金山講の時に使用するもので、講の寄り合いの席の床の間に掛けることが多かった。しかし、沖縄においては、鍛冶屋が仲間を作って金山講を持った形跡はまったくなく、鞴祭の時に用いてきたらしい。(朝岡康二、『日本の鉄器文化−鍛冶屋の比較民族学−』第四章「沖縄の鍛冶と鉄器文化」184)           
    鞴祭(フーチユエー)は沖縄の鍛冶に関する年中行事の中で重要である。日本本土では旧暦11月8日に行われるのが通常であるが、沖縄では11月7日 に行われるところ、7、8、9日の三日にわたるところ、6日から7日の二 日で行われるところもある。
   鞴祭の際には、鞴の前に鞴の神の図をかけ、火箸、ハンマーなどの鍛冶道具を供え、一年間火事損傷がないように祈願する。また隣近所に料理を配るなどする。また鍛冶屋の始祖とされる奥間カンジャヤーを拝みに行ったり、宮古のように船立堂に参詣する場所もある。
   朝岡氏は、沖縄の鍛冶屋と鞴祭との結び付きには、特に大阪の堺からの箱鞴の導入が関わっていると言う。大阪で は吹子町が形成され、規格化した箱鞴が生産され広く全国に売り広められていたと言う。また、沖縄の鍛冶神伝承に、 鉄と鍛冶技術の伝承に加えて鞴の導入について言及するものが少なくないのは、箱鞴が文明的な装置のひとつとして 受容されたことを示しており、種取祭や結願祭などの本来の村祭りとは形式的に相当な違いがある南島の鞴祭は、日本本土から新たに伝承し普及したものであると判断している(『南島鉄器文化の研究』、188,204、257)。

〈日本本土の鍛冶神像、金屋子神像〉
 金山講の寄り合いの床の間に掛けられた掛軸などの鍛冶神図像には、東北に多く見られるタイプの「鍛冶神図」や、中国地方の「金屋子神図」や「製鉄・金屋子神縁起」などがあり、近世には鉄の産地を中心に日本全国のタタラ師、鍛冶師、鋳物師などの信仰の対象であった。  
  そもそも鍛冶の守護神には火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)、金山毘古命(金山彦命)(かなやまひこのみこと)、金山毘売神(金山姫神)(かなやまひめがみ)、天目一箇神(あめのまひとつかみ)などがある。また、稲荷神はもとは五穀豊饒を司る神であるが、京都、近畿地方を中心に、農耕予祝のためのお火焚きという神事を通して、火の神として、ひいては鍛冶の神として信仰されるようになった。  
  タタラという言葉はインド語のタータラ(熱溶鉱炉)であると言われているが、日本では古事記、日本書紀中の女神の名前の中に入っている。勢夜陀多良比売(せやたたらひめ)、富登多多良須須岐比売命(ほとたたらいすすきひめのみこと)、またの名を比売多多良伊須気余理比売(ひめたたらいすきよりひめ)などという。火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)を生む際に陰所(みほと)を焼かれ、それがもとで伊邪那美神は黄泉の国に下ることになるだが、その「ほと」という言葉が女神たちの名前に入っている。また土炉の底に近い鞴から風を送る木呂(きろ)竹を差込む穴をホトと呼んでおり、タタラと女性神の関係を暗示している。 
  製鉄、鍛冶の神である金屋子神は、 島根県能義郡広瀬町西比田にある金屋子神社を中心に信仰される。金屋子神は播磨の国から白鷺に乗って出雲の国能義郡、西比田村黒田の森の桂の木に降臨したという縁起譚、降臨譚の成立は、近世であるとされている。
  金屋子神は女神であり、子供好きであるとされる。たとえば、岡山県苫田郡上斎原村には、タタラ製鉄に従事していたタタラ師が正月三が日に子どもたちを家に招き昔話や伝説を話して聞かせたという風習があったのは、タタラ師 の守護神である金屋子神への信仰があったためと言われる(丸山顕徳「金屋子神と子どもたち−タタラの村の民間伝承−」)。また金屋子神は大人の女が嫌いで、月経やお産が嫌いであるという赤不浄の観念が強いが、一方で黒不浄 を忌むことはなく、むしろ喜ばれるという伝承が多い。   
  また鞴祭の際に蜜柑が供えられたり、風呂屋や糊屋などの火を焚く商売でも鞴祭りに餅や蜜柑などをまいて子供たちに拾わせたらしい。山口県には一つ目で人相の悪い鍛冶神が犬に吠えられて蜜柑の木に登って助かったという伝承がある。炉の火を長く見つめることによってタタラ師が一眼を失うことはしばしばあり、そこから一つ目の鍛冶神が 生まれ、それが一つ目の鬼の伝説に変化していったようである。鉱山の近くには鬼村、鬼ヶ城などの鬼がつく地名がしばしば見られる。
  丸山氏は、金屋子神信仰と地蔵信仰は子供という共通点で結ばれているとする。また金屋子神には土地の神という性質を持ち、その点でも地蔵との類似が見られるとする。
  金屋子神の図像は大きく以下のような三つのタイプに分けられる。
            
  A)狐に乗る女神
   女性神が白狐に乗っている。女性神は片手に剣もう一方の手に宝珠を持ち唐服と領布(ひれ)を身につけた姿で描かれるもの、また如意を持つもの、または宝珠を付けた冠に鎧を身に着け、一方の手に袋を握るものなどがある。狐は尾に宝珠を付け、時に手鍬を口にくわえている。唐服、領巾を着、宝剣、宝珠を持つものは、本地垂迹の思想に基づいた稲荷神の本地である荼吉尼天(だきにてん)の姿に似ており、火の神、鍛冶の神として信仰されるようになった稲荷神と荼吉尼天との両方がある時点で混同されて描かれるようになったものではないかとされている。

 B)女性神と男女二人の従者
   主に金屋子神社の縁起、製鉄・鍛冶の作業を描いた掛軸の中に見られるもの。多くは山の頂近くの注連縄の張られた神域に長い髪に神女風の着物を着た女性神、その右手側には緋袴に打掛の官女風の衣服の女性、左側にはやはり公家風の男性が時に立ち時に座して控えている。白狐に伴われるものもある。山の下方では製鉄、精練の行われる踏鞴 や鍛冶の作業場面が描かれている。作業を行うのは公家風の男や烏帽子に直垂の鍛冶職人である。   

  C)三宝荒神の姿をとるもの
   金屋子神社が江戸末期から明治にかけて配布した木版墨摺の掛図に描かれている金屋子神は蓮座に坐す三宝荒神の姿を呈する。東北地方の鍛冶神掛図には三宝荒神の立像が多い。三宝荒神は鞴の上に立つことも多く、その下方に鞴と鍛冶作業の様子が描かれる。鬼が鞴差しを務めたり前打ちとして作業を手伝っていることも多い。

〈沖縄の鍛冶神図像〉 
   山原調査で実見することのできた四本の掛図は、詳細が異なるもののほぼ同じ構図を取り、鍛冶神が三宝荒神で描かれる上述のC)のタイプである。ここでは三匹の鬼が先手を打ち、着物の女が箱差しを務め、横座は烏帽子に直垂の男性になっている。鍛冶の作業の際に箱鞴が置かれる場所は、沖縄、日本本土、中国の間で異なる。日本本土では鞴差しがおらず、横座が鞴を操作することが、少なくとも中世後期には一般的になっていたようである。一方沖縄の特徴は、箱鞴を押し引きする鞴差しが横座の後ろに坐り鞴を操作するものである。沖縄では横座はいっさい鞴には触れることがなかった。鍛冶屋に勤めて最初にやらされる仕事が鞴差しであった。そうであるとすればこれらの図像は、朝岡氏の言うように、鞴を中心とした前打ち(先手)や横座の位置関係は沖縄とは反対ではあるが、横座と鞴差しとが別である点では沖縄の特徴と矛盾しない。しかし、岩手や岐阜などの掛図も多くは横座と鞴差しは別になっている。
   ただし、鞴差しが沖縄のように女性である例(図21、23、24)はあまり見られないようである。沖縄の鍛冶神図は、ほとんどがオリナルからの模写 、もしくは聞き書きされたものであることが聞き取り調査でわかっている。もともとのオリジナルはおそらく本土からもたらされたものであろう。阿嘉鍛冶がたくさん制作したという掛図もおそらく本土由来のものを手本にしたであろうが、そこに沖縄の現状を考慮して何らかの変更が加えられた可能性も全くは否定できない。
   実見できた掛図の鍛冶神はほとんどが三宝荒神に似た三面を持つ姿をしたものであるにかかわらず(図24)、沖縄では鍛冶の神は女であると認識されることもあり、図像との間にはズレがある。三面の鍛冶神のうちにはその顔も纏う衣服も女性的なものがある(図23)。出雲地方の金屋子女神が伝承としては伝わっており、絵師が恐ろしい形相の三宝荒神の図像と民間の信仰とのズレを埋めようとした結果なのかもしれない。
  鍛冶神図は本土から鞴に付随してもたらされたものなのか、あるいは別のルートでもたらされたものなのかについては、未見の鍛冶神図の調査も含め、さらに研究を進める必要がある。 
  朝岡氏は鞴祭の普及には王府の指示・政策などが反映しているのではないかと推測している(『日本の鉄器文化−鍛冶屋の比較民族学−』257)。鍛冶神掛図も鞴祭普及に大きな役割を果たした祭具の一つだったのであろう。琉球王府は尚質王20年(1667年)に、向象賢率いる「在村鍛冶制」を採用した。村役としての「鍛冶役」は非職人であり、それゆえに阿嘉鍛冶のような那覇の専門的鍛冶集団や、のちには廻村鍛冶などが発生し、「鍛冶役」の仕事は、鍛冶の仕事そのものよりも、鞴際の運営と鍛冶小屋の管理へと移っていったようである(朝岡康二、『日本の鉄器文化−鍛冶屋の比較民族学−』、152,193、224,225、249)。       
  鍛冶屋の神を祀る拝所は多く、「かじやで風」のように鍛冶屋の物語は古歌謡などにもうたわれる。鍛冶神は農具とともに農耕の発祥をもたらしたとして農業神とも同一視される(福地曠昭、『沖縄の鍛冶屋』255〜266)。国頭按司にかかわる伝説として、浦添間切謝名村奥間大親(うふや)の次男で察度王の弟の金万(金満・カニマン)は、奥間カンジャヤー(鍛冶屋)の始祖であるというものがある。奥間カンジャーはのちに尚円王となる金丸を助けたため、その次男は国頭按司に任ぜられたという。奥間カンジャヤーは沖縄中の鍛冶屋の始祖として名高いが、鍛冶屋から按司を出すまでに出世した奥間カンジャーの物語は、免税などの特権を与えられて裕福で力のある門中であっただろう鍛冶職の子孫が、自身の始祖探しをする際に格好のものであり、さらには農耕神による開闢神話へとそれを結びつけ金満を始祖と考えていくようになったと考えられる。今帰仁兼次の兼次上殿内=金満殿内では、金満按司とその妻を始祖としており、鍛冶神掛図は「カニマン様」を表す図像として認識されている(図35)。

(参考文献)
朝岡康二『鍛冶の民族技術』慶友社、昭和59年8月
朝岡康二『日本の鉄器文化−鍛冶屋の比較民族学−』慶友社、昭和59年8月
朝岡康二『南島鉄器文化の研究』渓水社、平成3年
鵜飼照喜「10.沖縄における住宅建築用具の生産と用具の昨日に関する研究」『住宅・土地問題研究論文集』財団法人日本住宅総合センター、昭和63年6月
『絵図に表された製鉄・鍛冶の神像』金屋子神話民俗館1994年
『沖縄県姓氏家系大辞典』角川日本姓氏歴史人物大辞典47、平成4年福地曠昭
『沖縄の鍛冶屋』海風社(南島叢書46)1989年