土帝君、すなわち中国で謂う「土地公」である。中国の「土地公」信仰は、古く「社」(=土地の主)を祭る信仰 に由来するが、これは土を封じてその象徴とし、加護と保祐を願うものであった。のち「私社」が大量出現するに及び、これが唐宋代になると、より大規模な土地廟へと移行・展開してゆく。このように「土地公」信仰は、基本的にその土地土地に根づいた信仰であるため、勢い、その来歴というのもひとかたならず、個々の土地の事情により様々な来歴を呈することになる。すなわち、民間において傑出した人物あるいは鬼神の伝説などが取り込まれ、各地それぞれの「土地公」伝説・図像が生まれることになったのである。土地公は、村の家々や道路に通暁し、村内を監査し、鬼を捉え、村を守る機能があるとされ、木石などの彫像に象徴化されて、村の一角の質素な小祠に安置されることが多い。また「土地公」は、農耕社会において、村落の守護神であると同時に、豊年満作の寄託対象ともなった。春秋の社日と二月二日の土地公の誕生日には、村をあげてのお祭りが催される。人口に膾炙した親近な神であるため、「土地公」「土地老爺」と愛称され、温和な好々爺のイメージが与えられている。典型的図像としては、白髪白鬚に烏帽子を被り、皀靴を履く姿。穏やかな笑顔を浮かべ、ひじかけ椅子にどっかり鎮座する。時に老婦人の配偶者を与えられることもあり、いじわる婆々(ばあさん)との風評があり、こちらはあまり人気がないらしい。
土地公信仰は福建を往来した王府官人により招来されたと言われる。沖縄では一般に「トンティンクー」の呼称が ある。これは明らかに「土地公 tu-di-gong」の音訛である。ほかに「福徳神」(『琉球国由来記』)「土地君」 (『球陽』)などの名称の記録が残る。
土帝君に関しては、画像を使用する稀少な例もあるが、概ね彫像(陶製、木製、或いは石製)が多く、圧倒的な比 率を占める。また火ヌ神同様、天然石によってこれを象徴させる例もままある(ビシュルとの混交)。ウドゥンと呼 ばれる祠にほぼ必ず奉納されることも、特徴であろう。
土帝君像の招来に関しては、中国や台湾からこれを取り寄せる場合もあれば、それとは図像的に全く異なる容姿の「土帝君」を独自制作する場合もある。また一体の場合、二体の場合の別がある(まれに数体を合祀する例も)。彫像が多く、祠に納入されるといった土帝君の特徴は、「土帝君」がその管轄地域の守護神(地神)、すなわち共同体 における「公的」な神であったことと関連するかもしれない。土帝君が各地域へ導入された契機には、地頭クラスの王府官人の指示があっただろうとする説もある(窪徳忠氏)。
沖縄における「土帝君」は、一般に「ムジュクイタンメー」、すなわち豊穣・豊作の神として受容されることが多かったようだ。またその他には、瓦焼き職人が「土の神」として信仰する場合、また台湾の伝承同様、これに火伏せ の機能を認める場合、或いは地域の守護神として祀る場合のほか、屋内で屋敷の守護神としてこれを祀る場合もあったという(『那覇市史』p.451参照)。上泉と国場では二月二日を土帝君例祭としているものの、それが土地公 の誕生日であるという伝承は保存されていない。
土帝君図像
土帝君は素材の如何を問わず、概ね彫像として表わされる。それらは多く、ウドゥンと呼ばれる祠に奉納され、地 域の一角の拝所に安置される。図像的にこれを大別するならば、中国伝来の伝統的「土地公」図像と、それとは図像的に継承関係を持たない新装の「土帝君」図像に分けられよう。とはいえ、後者のそれは一定のイメージに凝集するものではなく、むしろ土帝君がもつ前述の地域性という特徴から、各地域により、様々な相異なる図像がかなり自由 に選択されているもののようである。したがって、図像的には各種各様、幅広く自由度が高い。すなわち王府などの権力による検閲・濾過をそれほど通過せずに根をおろした信仰であろうことが、ここからは読み取れるのである。
「土地公」タイプの彫像はおおむね中国・台湾招来の像である。その姿は前述の如く、白髪白鬚の温和な好々爺であり、烏帽に皀靴、官服を威風堂々と着用する。おおむね座像である。いっぽう、招来の「土地公」像逸失の後、新たに地元で制作されたケースでは、不思議なほどに前者の姿(図像)を継承していない。つまり、図像的類似性をもたせることの必要性は、ここではあまり重視されていないと思しい。たとえば、棚原の土帝君(壺屋焼)は、笑い踊るかの如き陽気な二体の男神立像として図像化され、その衣装に稲穂の文様がみてとれることなどから、農耕神として意識されていると考えられる。明らかに陽物を象った数体の石像群、あるいは孔子像に範を取ったと思われる座像、など多様である。つまり、沖縄の土帝君信仰においては、小祠に区切られたその象徴空間と「土帝君」の象徴(天然 石、或いは無像でも可)、眼に見えるものの奥にあるその象徴性こそが意味をもつと考えられるだろう。そして定型化した図像を持たないこととリンクするかのごとく、土帝君に付される機能もまた、極めて随意かつ多様である。
農耕神あるいは地域神としての機能の付与というように、根本的機能としては、中国・沖縄、共通する土台の上に立つが、それはむしろ「土地」というものの普遍的性格に由来する部分が大きく、図像的観点からみるならば、それらの信仰が伝播・継承というよりむしろ、各種各様に受容・勃興したものである可能性が示唆されるのである。すなわち、王府の統制・管理をある程度受けていたであろう観音図像や関帝図像に比べると、より土着的なのである。沖縄の土帝君図像は、表層の類似・継承性をあまり問題にしないという、超越物表現に対する沖縄的な特徴を顕示すると同時に、沖縄における図像メーキングの多様性・可能性についても多くの示唆を与えてくれる。
(参考文献)
窪徳忠『増訂 沖縄の習俗と信仰:中国との比較研究』東京大学出版界、1974年
窪徳忠『中国文化と南島』第一書房、南島文化宋書、1981年
馬書田『中国民間諸神』団結出版社、1990年
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