福禄寿、すなわち「三星」とは文字通り、三つの星辰「福星」「禄星」「寿星」の総合体を指す。福星とはすなわち歳星(木星)で、その照臨は民に「福」を授けるとされ、福運を象徴する。尤も福気・福運・幸福などと解釈される「福」は、内実として寿・富・徳・康寧・子孫繁栄など、およそありとあらゆる人生目標を含む極めて広範な概念といえる。いっぽう、寿星は又の名を南極老人・南極仙翁といい、即ち「角亢(南十字星、アルゴ座のカノープス)」。長寿の象徴である。天下泰平の世になると出現するといわれ、国家の盛衰・寿命延長の兆を占う星として、代々の国家祭祀中において重要な位置を占めてきた。国家禍福の象徴・保護神としてのその政治色は、時代の推移とともに色褪せてゆくいっぽう、民間色はますます強まり、人気・影響力ともに群を抜く神祇である。このような寿星の人気は、あらゆる幸福のうちでも「寿」をとりわけ重視する吉祥観念、ひいては中国的な時間感覚と結びつく。また禄星は、文章宮の第六星であるともいわれ、官禄を象徴する。福星・寿星に比して、単独で描かれることはほとんどなく、やや影が薄い。上記に見た如く、三者の成立時期は一様ではなく、いち早く成立した福星・寿星信仰に遅れて登場した禄星信仰が結びつき、三位一体となったものである。群体としての福禄寿三星の出現時期については詳らかではないが、明清期にはすでに広く社会に盛行していた。これらは小説や芝居の登場人物として取り込まれるなど、広く人口に膾炙した人気の神々であった。

 沖縄の福禄寿信仰に関しては、断片的な記録が幾つか残る。例えば『中山紀略』には、1663年御冠船の宴会パフォーマンスに「寿星」役が登場したとの記録があり(矢野輝雄「冠船の寿星」参照)、また『中山伝信録』には、国王の天使館行幸に際し、下天妃宮前の池付近に寿星を含む吉祥飾りが設えられていたことが記されている。これはとりもなおさず、当時、寿星が国家公認の神であったこと、また当然のことながら一般民衆の眼にこの寿星図像が広く留まったであろうことを示している。図像だけではない。信仰にまつわる物語もおそらく部分的に入ってきていた。なぜなら、近世の那覇では、この福禄寿=三星を「ミトゥクルヌ神(三所の神)」と呼び、「子ウェーキ・銭ウェーキ・命ウェーキ」の三神として、これらが別個の三種の神の複合であることを認識していたからである。これは近世  の大和で「寿星」ひとりを「福禄寿」と認識する愉快な誤謬が生じたことと、好対照の事例である。また、人々が熱烈に求めたという册封使の揮毫には「福禄寿」としたためる場合が少なからずあった。これは、現在でも文字絵「福禄寿」(図6)あるいは墨書の掛け軸・扁額に脈々と受け継がれている。さらに、古くなった「三星図」を、新しい「七福神」図像(図9)で代替する例も確認されている。これは、両者がそれぞれ出自を異にしながらも、同じ吉祥招福の神祇として(すなわち意味内容上の共通性を媒介して)受容されていることを示している。尤も、七福神中の寿老人・福禄寿(本来同じ「寿星」の二種類の図像であったものが、相前後して伝わったことで二人の神祇へと「分身」してしまった)と「寿星」はもともと同じ神なのだから、必然的な邂逅とでもいうべきかもしれない。

 なお、福禄寿の受容に関しては、「一門ではなく、チネー(家内)の守護神とする見方が一般的」(『那覇市史』p.450参照)で、関帝王との祭祀・信仰のありかたと対照的である。一説に分家筋には三星図が、本家筋には関帝王像が多いとの説もある。文献や儀礼に残るように、沖縄に来臨した外来の神々は、ひとり中国由来のものでも、大和由来一本やりのものでもなかった。それらが同時期に同じ場所で、しかも破綻なく混淆して使用されていた。これらの信仰や図像を巡って問題となるのは、それらがどのような位相のもとで捉えられ、使用・応用されたかという個別具体的な問題であろう。各識者のご高見を賜りたい。

福禄寿図像 

 福禄寿=三星の典型図像は次のごとくである。中央に福星、その左右に禄星と寿星を配す。福星は吏部天官の姿で、身には朝官装束、龍繍玉帯を纏い、手には大きな如意(「意のままに」の意。所謂「孫の手」で、痒いところに随意に手が届く吉祥シンボル)をもち、足には登朝靴を履く。鷹揚にして慈愛に満ちた表情を浮かべ、五束の鬚を偉丈夫らしくなびかせる姿には、風格と高貴さが漂う。傍らに‘玉堂富貴’を象徴する花瓶を捧げ持つ童子を引連れる場合も多い。この福星が独立して描かれたものを「天官賜福」といい、これもまた人気のある図像である。いっぽう、禄星は員外郎の姿。頭に牡丹を挿し、往々にして腕に嬰児を抱く。子どもの神様、張仙と習合したともいわれる所以である。いっぽう寿星の最も顕著な特徴は、その長大なる脳天で、これは明らかに陽物の象徴である。ひょうたんを括り付けた拐杖や桃が彼の持物である。《南極登仙》《群仙祝寿》など元明雑劇中の寿星の姿は、如意蓮花冠を被り圭を持つ白髪白髯老人で、のちに流布した寿星とは似ても似つかない。従って禿げ長頭の寿老人図像は、おそらく明代以降に定型化したものと言われている。また、三者を一群として描いたものとして、ワシントンのフリーア・ギャラリーに16世紀明代の作例が所蔵されるが、のち民間で醸成・定型化された画面構成上の文法を踏襲していないことから、比較的早期のものであろう。沖縄の三星図像の原形と目される上記の如き典型図像は、18〜19世紀広東の輸出絵画中にも見え、また朝鮮王朝や東南アジアへも伝播していたようで、その伝播力の強大さがうかがえる。沖縄の三星図を吟味してみれば、関帝王図像の例に同じく、構図・モチーフ上は中国の図像定型を踏襲していること、明らかである。しかし微細な部分、とりわけ服飾や神々の持物に関して、絵師の創意・想像というべき変化・曖 昧さの増幅が認められる。図像を言葉に喩えるなら、あたかも伝言ゲームの如くである。基本的に沖縄の三星図像は、それら請来図像の引き写しに、独自の解釈・変容が加わったものと考えてよい。いっぽう、沖縄の三星図像の独自性 として注目されるのが、時折挿入される女性神の存在である(図5、7)。明確に白衣観音と認められる例もあるが、これが何者であるか、また如何なる経緯で参入してきたかについては、更に調査を進める必要がある。総じて、誤謬ともいえる 図像変化を含みつつ、外来図像であったことを示す「異」的雰囲気は保存されている。
 なお、福禄寿図像のうち、相互に酷似するものが数件ある。すなわち、ひとつの種本をもとに、トレース等の手段で図像が大量生産されていた可能性が指摘できる。例えば久場島清輝氏の画稿(『久場島清輝展』図録参照)などをみると、図像製作における種本(図像集)の使用が存外ありふれたことであった可能性が高い。こうした神画像製作の実際については、以降、調査と考察を深めてゆく必要があるだろう。

(参考文献)
窪徳忠『増訂 沖縄の習俗と信仰:中国との比較研究』東京大学出版界、1974年
窪徳忠『中国文化と南島』第一書房、南島文化宋書、1981年
外間守善・波照間栄吉編『定本 琉球国由来記』角川書店、1997年
馬書田『中国民間諸神』団結出版社、1990年
矢野輝雄「冠星の寿星」(『沖縄文化』沖縄文化協会四〇周年記念誌、沖縄文化協会、1989年12月)
『那覇市史』資料編第二巻 7「那覇の民俗」那覇市企画部市史編纂室、1979年
『久場島清輝展』図録、石垣市立八重山博物館、1990年