15年前にも横浜にお招きいただきました。その時には、確か、東京の沖縄・一坪反戦地主会関東ブロックの上原誠信さんとご一緒だったと思います。

 

いま高江の映像を見ていただいたのですが、昨年228日のゲート前の現場に私もいました。朝3時に那覇を出て、防衛局が到着する前に全員そろっていようということで、7時頃にはゲートに到着していました。アイデアも色々出てくるもので、長い杭で広い網をつなぎながら、作業員が作業区域に入れないようにしました。また各団体が古い横断幕をできる限り集めてきて、道路沿いにつなぎました。横断幕には小泉総理への抗議の文字も出てきて、まるで沖縄の運動の歴史を見るような景観でした。

3月から6月までは野生動物の繁殖期ということで工事はストップしていますので今は静かな地域です。テレビで佐渡のトキが話題になっていますが、沖縄北部の森は、希少種が最も多い豊かな森です。そこに人口が少ないからと言って、あるいは、北部訓練場の過半を返還するのだから沖縄全体の負担軽減になるのだから、という理由で、新たなヘリパッド建設を進めようとしているわけです。これに対する住民の座込みが5年続いています。

映像の中で、木工の作業をしていた住民の会共同代表の伊佐さんは、315日の那覇地裁判決で、工事を妨害していたと認定されてしまいました。キャベツの虫取りをしていたもう一人の共同代表の安次嶺さんは、認定されませんでした。この判決を出した酒井裁判長は、2007年の普天間爆音訴訟判決を書いた裁判長が辞められて、新たに着任した人です。辺野古違法アセス訴訟でも、酒井裁判長です。高江の裁判でも、現場によく見えて、辺野古にも、高江にも現場検証に来ています。私たちも、もしかしたらよい判決が期待できるのではないかという思いもありましたが、結局、判決では住民一人に不当な妨害禁止命令を適用しました。

きょうの私のお話は、高江の問題も含めて、121日から28日にかけて沖縄からワシントンに出かけていき要請行動を展開した、その報告です。

 

なぜ訪米要請行動か?−日本政府頼りにならず!

 

 なぜ寒い1月の時期に訪米行動をしたか。訪米の準備は昨年10月頃から始まりました。なぜ米国なのか。批判も耳にしました。自己満足ではないか。会える議員は限られている。お金が無駄ではないか。しかし、米国議会にとって1月が重要な時期でした。議会では防衛予算の削減について、海兵隊のグアム移転の予算内容について議論していました。

20099月に民主党政権が誕生し、9か月後に鳩山さんが「普天間県外移設はやっぱり無理でした」と言って辺野古に回帰して辞任しました。鳩山さんが首相になったとき、米国政府の報道官が出したコメントを鮮明に覚えています。日米合意を踏襲する。辺野古移転は変わらない。そう言いました。9ヶ月間、沖縄に不要な期待を持たせ、期待を高めてしまった鳩山さん、という言い方がされます。2010528日、雨の日に日米共同声明が発表され、辺野古回帰が宣言されました。翌日の新聞には、「4回目の沖縄処分だ」と書いてありました。1879年琉球処分、1952年講和条約による沖縄切り離し、1972年基地の自由使用の密約付きの施政権返還から4回目です。

528日の1か月前には9万人の空前の県民大会があり、その模様を報告した沖縄タイムスと琉球新報を持って国会に要請行動を展開しました。県議会の議員や議長、自治体の首長と一緒でした。国会議員のすべての部屋に新聞をポスティングし、国会前に座込み、防衛省、外務省、総理官邸、米大使館に要請行動をしました。その1か月後、そのような沖縄の思いを無視して日米共同声明が出されたわけです。

これはもう、日本政府に頼っても仕方ないという強い思いを持ちました。

 

戦後67年間の沖縄の思いを凝縮した5項目の要請

 

この経験を踏まえて、同じように県議会や首長に米国要請行動を展開しようと働きかけましたが、なかなかうまくいかない。そこで市民が中心になり、そこに議員や首長も入ってもらおうという形になり、米国に沖縄の声を届ける会の結成となりました。伊波洋一さんの訪米経験を元に企画を練り上げ、5つの要請項目をまとめました。

@普天間の閉鎖返還A辺野古移設計画中止B嘉手納へ統合することなく海兵隊の県外海外移転C高江ヘリパッド建設中止D日米地位協定の改定です。5つも要求を出すより絞り込んだほうがよいのでは、という議論もありました。でも考えると、5項目は不可分の関係でつながっていることが分かります。

 沖縄戦で住民多数の犠牲を払った沖縄には、集落や田畑、墓地を含むすべてを接収されて基地が建設されたという歴史があります。戦後、米ソ冷戦に向けた戦略的な拠点と位置づけられてきたこと、そして今や、冷戦終焉後20年を経ている現在でも同じような状況で基地問題が解決していない。沖縄の基地がどのような過程で形成されてきたのか。沖縄戦で生き残った人たちは、156か所の収容所に囲われて、その場にとどめ置かれた。その間に、米軍は普天間基地を建設したわけです。ある民主党議員が普天間基地の司令官を訪ねていくと、「ここにはパイナップルとサトウキビしかなかった。何にもないところだったのに、住民が基地の周りに住み始めた」などと平気で言ったそうです。その民主党議員は、その時に市長だった伊波洋一さんに「そんなことを言われたけれど、本当ですか?」と尋ねた。伊波さんは怒って答えた。パイナップル畑なんかどこにもなかった。集落があり、墓があり、学校があり、役所があった。その場所が根こそぎ取られていた。67年間にもわたって占領されている基地の返還を求めることは、歴史的に見ても、当然のことではないか。

人口密集地にある普天間基地では、過密な演習が、住宅地域の真上で行われている。その結果が、2004年の沖国大への墜落事故でした。この基地を「世界一危険だ」と言ったのは、ラムズフェルド国防長官です。上空から、滑走路のクリアゾーンも確保されていない現状を見て、そう言った。米国自身が危険性を認識しているわけです。ところが危険な飛行場と言いながら、そこで日夜繰り返される飛行演習で、普天間基地の周辺には、保育園から幼稚園、学校まで本当にたくさんの施設があって、爆音に日々苦しめられている。

 

米議会軍事委員会のレビン委員長が、最近沖縄に来て、美しい海を見て、「辺野古移設は非現実的だ。普天間の移設先は、既存の嘉手納基地に統合するしかない」と言った。民主党の中にも、この嘉手納統合案を支持する意見が出始めている。残念ながら、沖縄選出の一議員も、統合案に賛成している。

辺野古がだめなら、と言って、なぜ沖縄の中に移設しなければならないのか。ご存知のように、嘉手納空軍基地はいくつかの市町村をまたいで存在する大きな基地ですが、1997年に、爆音訴訟との関係もあって、初めて健康調査が行われ、嘉手納基地の最も爆音が激しい地域の生まれてくる赤ちゃんの低体重児の率が全国一高い。聞き取りで、爆音によって、どれほど心身に痛みを抱えているか。あるいは学校の子どもたちは、爆音に遮られて、授業も十分に受けられない。あるいは爆音に慣れてしまって、そのまま授業を続けるが、大事な部分が欠けていく。断片的な記憶になってしまう。また恐怖に駆られてしゃがみこむことも起る。

住民の切実な訴えは、夜間および早朝の飛行訓練を止めてほしいということ。静かな夜を返してほしい。嘉手納への統合の動きは大変に危惧している。

 辺野古ほどに高江は注目されてこなかった。「負担軽減になる」と盛んに宣伝されてきた。私たちが米大使館に出向いて行き公使に要請すると、「SACO合意で北部訓練場の過半が返還になるのだから、沖縄のみなさんにとって良いことでしょう」と言われた。でも高江の現状からすると、どうして負担軽減になるのか。住民地域を取り囲むように6か所のヘリパッドを整備しようとしている。まるで集落をターゲットにして演習をするかのような位置取りになっている。実は1960年代の初めに、高江に「ベトナム村」があった。ベトナム戦争の訓練のために、ベトナムの村に見立てた小屋を作り、子どもも含めて高江住民20人ほどをベトナム人に扮装させて爆撃の演習をした。当時のワトソン高等弁務官は、高台から演習の様子を視察し、「みなさんのご協力でわが米国の将兵がどれだけ助かるか計り知れない」と感謝したと言います。当時を知る住民の証言で、訓練に参加しないと生活に必要な水を汲むことが許されなかったことがわかりました。この高江の声を米国に伝えることが重要だと考えました。

 沖縄ではタクシー強盗や交通事故、住居侵入、傷害など日常的に米兵による事件事故が起こっています。まして、私は軍隊による女性への暴力を追及していますが、米軍駐留から今日まで、本当にすさまじいばかりの米兵による強姦事件が起こり続けています。特に今回、日米地位協定の問題を持ち込んだのは、昨年1月、成人式を前にして、県外から帰郷した若者が交通事故で死亡した事件があったからです。酒気帯び運転の兵士は、基地からの帰りで公務中扱いで、米軍が引き取った。あまりのひどさに被害者の母親が訴えました。

 

米議員、研究者69人と接触。「相手にすべきは日本政府」と反論も

 

24人のメンバーを4チームに分け、英文で5項目の資料も準備し、通訳も確保し、正味4日間、要請をしてきました。国会議員二人については、日本外務省を通して米政府関係者の日程を取っていただきました。外務省はあまり熱心ではなかった。土壇場になって予約が入ったり、キャンセルがあったり、大変でした。国会議員二人のチームを夕食に招待することだけは、ちゃんとしてくれましたが(笑い)。外務省にとっては、沖縄から日本政府を飛び越えていくことに、必ずしも後押しをするという認識ではなかったと思います。残りの二チームは、ワシントンで総当たりで予約を取り付けました。軍事委員会の委員、外交委員会の委員、軍事費削減小委員会の委員をリストアップし、議員本人でなくとも、補佐官でも、とにかく要請しようということにしました。研究者も含めると全部で69人の人物とコンタクトをとりました。

「沖縄から海兵隊は撤退すべきだ」という議員もいましたが、「あなたたちは要請する相手を間違えている。東京の政府や国会議員に訴えるべきではないのか」と反論する議員もいました。米政府は日本部長が会ってくれました。昨年の3.11の直前に当時のメア日本部長が更迭され、新しく変わった日本部長です。メアさんが更迭されたのは、沖縄を訪問予定の学生たちへのレクチャーの中味が問題になったからです。「沖縄はしたたかなところで、ゆすり、たかりの名人」「沖縄は背が低くて、言葉にアクセントがあり、ちょうどアメリカのプエルトリコみたいなもの」という発言です。プエルトリコをいかに米国が差別的にみているかを象徴していますが、日本の中の沖縄に対する差別意識も表しています。彼は日本部長を更迭され、民間人になって、日本のメディアにも時々出て「不当な扱いを受けた」などと言っています。

私たちは、米議会調査局というところに行きました。米国は、議員一人ひとりが独自に法案を提案するというようなところです。議員が自分の関心のあるテーマについて、議会調査局に依頼する。その調査局の調査員は、議員から依頼されて沖縄に調査に行ったと言いました。沖縄県庁の職員に面会し、米軍基地の中にも入り、名護市長にも会った。軍からも、行政からも、地元からも聞き取りをしてきた。「県庁の職員は何と言っていましたか」と聞いたら、「副知事が、辺野古はもうない、と明確に話した」と。その調査員の彼女が、「2月の宜野湾市長選挙は、とても重要ですね。」とも言いました。

米国は、沖縄の事情について、とても詳しく調査し、把握している。そう感じました。

外交問題審議会の主任の方にもお会いしました。日本滞在経験もあり、オバマの対日政策のアドバイザーでもありますが、私たちが、「辺野古移設を認めているのは沖縄県の中では、たった3%です」と話すと、「けれども仲井真知事は、明確にはNOと言っていませんね」と応じました。「名護市議会の二人が変われば、名護市議会も変わる可能性がある」とも言いました。それから田中前防衛局長の差別発言問題についての論文も書いている。「アセス環境評価書はウェブサイトで公開されていますか」とも聞いてきました。

本当にきめ細かく沖縄の中の動きを見て、分析もしている。

 

占領状態からの脱却―沖縄の非植民地化Decolonizationを!

 

時間がなくなってきました。最後に、Occupy DCワシントンを占拠せよ!運動の現場にも出かけて行きました。そこで私は、沖縄は米軍の占領を解いてもらいたい、We want  un-occupy!と言いました。99%が1%のウォール街を占拠して変えていこうと始まったOccupy運動ですが、67年間沖縄は米軍に占拠されている。この占拠状態を取り除きたい。沖縄は1%ですが、99%の日本人がまったく無関心の状況がある。これを変えたい。オキュパイというよりも、Decolonization非植民地化という言葉で表現しようという動きが、ハワイの先住民の闘いにもあります。もっと女性たちの取り組みや、プエルトリコの話もしようと思いましたが、またの機会にしたいと思います。