神戸大学旧姫路分校
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かっての神戸大学姫路分校は、現在、兵庫県立大学環境人間学部キャンパスになっています。
創立 1923年(大正12年) の旧制姫路高等学校が新制神戸大学教養部に変わり、1949年~1965年まで神戸大学教養部姫路分校でした。
1964年(昭和39年)7月29日閉校式が執り行われ、 1964年(昭和39年)9月には最後の分校生が神戸地区の各専門課程に進みました。
姫路分校の神戸大学教養部の神戸鶴甲地区への移転後は、兵庫県立姫路短期大学に移管され、現在、兵庫県立大学環境人間学部です。
兵庫県立大学環境人間学部では、旧制姫路高等学校時代、神戸大学姫路分校と使われた本館の一部と講堂以外の学舎はすべて新しく生まれ変わっています。
現在は大切に保存されて、本館・講堂・正門周りが昔のまま残っていいます。
運動場や垣根やそのまま保存されている沢山の木々、全体のイメージがそのまま残っているように思いました。
旧制松本高校のように全体を残すことが困難な今、兵庫県立大学を設計・施工された方々に感謝です!
1926年(大正15年)建築のこの本館と講堂(設計・監督:萩原惇正)は、1999年(平成11年)国の登録有形文化財に指定されました。
本館は現在、兵庫県立大学環境人間学部キャンパスのゆりの木会館として使われています。
北海道帝国大学:営繕課:萩原惇正につきましては、 杉野目住宅P13~P15を参照ください。

キャンパスマップは兵庫県立大学環境人間学部のオープンキャンパス時のマップを加工して使わせていただきました。
姫路市立図書館・神戸大学 大学文書史料室には、お世話になりました。
神戸大学ESS UNION CLUB HOME PAGE・神戸大学文学部の同窓会(文窓会)の HOME PAGE に LINK をさせていただきました。
白 陵 三 下 会 の HOME PAGE の写真 2枚の当HPへの添付を御許可頂きました。ありがとうございます。

姫路市新在家に在る兵庫県立大学環境人間学部は、1949年(昭和24年)~1965年(昭和40年)まで神戸大学教養部姫路分校でした。

懐かしい~ 姫路学舎



入学許可書 には、姫路分校ではなく、 となっています。


神戸大学姫路分校時代 1961年 の全体図


この写真は国土地理院の地図・空中写真サービスからダウンロードしました。

姫路分校時代の全体像が、なんとか見る事ができます。
学校の周囲は田畑が多く、随分田舎だったのだなぁ~と改めて思い返しました。

1999年(平成11年)に登録有形文化財に指定される、木造下板張りペイント仕上げの学舎と講堂。
自慢の芝生の300メートルトラック。
単に長四角の池だったプール。
テニスコートもくっきり見えています。!
白陵寮もしらさぎ寮も仁科先生のお家も。懐かしい!
白陵寮の棟と棟の間に大きくそびえているのがいちょうでしょうか?



1960年の 姫路分校の しらさぎ寮と白陵寮 (学校西の丘から撮影)


大きい映像ご希望の方は、この写真をクリックしてください。

右上には昭和の大修理中の姫路城も見えていますよ!
本館のコの字型の2階建ての教室と大きな屋根の体育館も!
運動場には、かなりの人影!。
プールも見えました。

この写真では、分かりにくい、理系の校舎群や図書館は、
神戸大学附属図書館 バーチャルミュージアム「旧制姫路高等学校 物理実験機器コレクション」 旧制高等学校とは のページの写真
旧制姫路高等学校の校舎群(1920年代半ば) ←をクリック
が古いですが、余り変わってなくて、少し面影を見ることが出来ます。



「旧制姫路高等学校 物理実験機器コレクション」を 姫新線余部駅にある、姫路科学館で見てきました。2019年5月
  余部(よべ) ←をクリック



し ら さ ぎ 寮(女子寮) 昭和31年築

短期間ですが、入寮しておりました。


北をテニスコート、南を白陵寮の隔離室に囲まれた、しらさぎ寮と舎監の仁科先生のお家です。

仁科先生は教養課程の数学の先生でした。まだ珍しかったテレビがあったので、時に学生を呼んでくださいました。
多分昭和天皇時代の皇太子ご成婚のテレビ放映に全寮生に声をかけてくださったように記憶しています。

運動場から寮の入口に入っていく黄色の動線に囲まれた部分が、ちょうど仁科先生宅のお庭で、お庭で作業中の奥様を見かける事もありました。
多分それとなく、寮生の様子を見守って下さっていたのでしようね。
仁科先生ご夫妻に仲人していただいた寮の先輩もいます。

2006年発行の同窓会誌に先生の訃報が報じられていました。奥様も昨年亡くなられたと聞きました。合掌。


舎監先生宅と向かい合って在った、しらさぎ寮の玄関から、奥に向かって撮影されています。
奥右に出ている小さな建物は、洗面所とお風呂だったと思います。

一部屋8畳で、定員4名。2畳に机と身の回り品を置き、布団を敷いて寝る生活です。

この広告の中の学習机小を買ったと思います。




昨年亡くなった母がずっと使ってくれていました。


白 陵 寮(男子寮)



白陵寮の思い出は、

神戸大学文学部の同窓会(文窓会)の ホームページの   思い出で綴る文学部史 に、懐かしいエピソードを掲載されています。

白陵寮の生活は楽しかった  ←をクリック

姫路分校の先生方の思い出  ←をクリック


白陵寮閉寮記念誌「白陵」(S39年発行)にも懐かしいエピソードが掲載されています。
ディジタル化されていませんのでリンク張れないのですが、 神戸大学百年記念館の 神戸大学 大学文書史料室 で閲覧できます。

1993年(平成5年)にNHKが制作・放映した番組、「白陵寮70周年記念祭~旧制姫路高校 嗚呼白陵~」があります。
神戸大学 大学文書史料室 でビデオを所蔵しているとのことで、閲覧室で視聴しました。(貸出は不可、視聴は可)

映像は旧制姫路高校時代の白陵寮が主役で、新制神戸大学姫路分校の白陵寮は含まれていないようです。
が私達女子学生には秘密のベール包まれていた、王子様達の生活を彷彿させる映像を楽しみました。
沢山の寮歌やドイツ語の歌は、1,2,3ハイ で始まるのではなくドイツ語の Eines zwei drei !  だったのを思い出しました。
旧制姫路高校から新制神戸大学に移られた、お名前が記憶に在ります先生方が登場されていました。
心理学の中村秀先生、物理の橋本万平先生等。。。それから、野中先生、湯浅先生、米花先生。

米花先生は授業受けてなくて存じ上げないので、ず~と、ベイカーと言う外国人の先生と思っていました。
私の補導教官だった先生は、旧制高校時代のドイツ語の歌を何曲か教えてくださいました。
カタカナドイツ語ですが、今でも歌えますよ!



昭和10ー11年頃の旧制姫路高等学校時代の寮の写真は、神戸大学 大学文書史料室 の資料を参照させていただきました。

賀陽さんの案内は、講堂前の「あゝ白陵の碑」(1964(S39)年 建立)を揮毫された、木村善太郎・第三代旧姫路高校校長でしょうか?






学生集会所と学生控室

ピンクの大きな建物(学生集会及び売店)、の左の建物の中に 食堂 がありました。右の建屋は生協の売店でした。



女子寮生と通学生はこの 食堂 を利用しました。食堂 兼たまり場(学生集会所)でした。
白陵寮生は寮内の食堂利用していました。


食堂のおじさん、おばさんは親元を離れてきている学生たちの相談相手になったり、時にはキューピットになったり、と親身に接してくれました。
生卵が苦手な私に、いつも顔を見ると、今卵温めてあげるよ!とボイルしてくれたのを思い出します。
食堂のおじさん、おばさん達も姫路分校の神戸移転に伴い、工学部食堂に転勤されました。


神戸大学ESS UNION CLUB HOME PAGE の ESS資料館  思い出の写真集 姫路分校  1960年と1959年の項に、姫路分校時代の写真が掲載されています。

懐かしい 1960年(昭和35年)当時の学生控所(ブルーに着色)のESS部室の写真もありました。

ESS部室前の写真 ←をクリック




1964年(昭和39年)7月29日神戸大学姫路分校の閉校式が執り行われ、1965年(昭和40年)からは兵庫県立姫路短期大学になりました。

姫路分校の神戸鶴甲地区への移転後15年・1980年(昭和55年)の姫路学舎


この写真は国土地理院の地図・空中写真サービスからダウンロードしました。




1973年に催された、「旧制姫路高等学校の50年祭」の兵庫県立姫路短期大学の建物配置図です。
1980年の航空写真とほとんど変わりありません。

運動場は、新しく体育館が出来、テニスコートが運動場側にシフトしてきたので、大分狭くなったようです。
テニスコート跡には、県の施設が出来ています。
白陵寮は一番北の第六棟以外は姫路短期大学の幼稚園になりました。
残った一棟としらさぎ寮、仁科先生のお家は、部室として使われたようです。
白陵寮以外の学舎は、姫路分校当時の昔と余り変わりないようです。


1998年姫路短期大学から兵庫県立姫路工業大学環境人間学部に 2006年に兵庫県立大学環境人間学部になりました。

姫路分校の神戸鶴甲地区への移転後45年の姫路学舎

2010年の「兵庫県立大学環境人間学部」の全体図



この写真は国土地理院の地図・空中写真サービスからダウンロードしました。

教室部分が無くなり、旧体育館もなくなり、正面部分だけになった本館と校門・講堂以外はことごとく無くなりました。
必要が無くなった、白陵寮もしらさぎ寮も仁科先生のお家も、当然無くなってますよね。

その他で懐かしく思った面影は
300メートルが200メートルになって健在の自慢の芝生のトラック。
立派な植木もかなりありましたね。ユリノキ、イチョウ、桜、楠
ゆりの木会館の名前由来になった図書室横にあったユリノキ。
イチョウはいちょう南館、いちょう北館になって、白陵寮の跡地にその名を残しています。
(姫路短期大学時代は幼児教育科の幼稚園だったそうです。)
桜、楠はかなり沢山残っています。

この50年で、学校の周りにはほとんど田圃は残っていなくて、すっかり姫路の郊外になりました。

2016年(平成28年)12月思い出の学舎を訪ねる。(追加記事は、~2018年(平成30年)~少々延長)

思い出の学舎を訪ねる。 (2016年12月~2018年末)
(私が神戸大学姫路分校に入学して、約60年後)

以前の正門と旧本館(ゆりの木会館)の玄関


木の扉でした。
古い写真の門にある建て看板は「県下高校 英語弁論大会」と書いています。(気になる方へのお知らせ)


今は金属製の扉ですが、 石の門柱や石垣は変わってないように思いました。
印象は、昔のまま!
通学当時はそんなに由緒ある建物とは知りませんでした。
旧制姫路高等学校の威厳が感じられます。
姫路散策した中では一番変わってない場所でした。

門の右手のポスターは朝ドラの撮影に別棟の講堂の内部が使われたと報じています。


門の周りから東にかけて沢山のクスノキはユリノキと共に姫路市の保存樹に指定されています。

雪の正門

温暖な姫路でしたが、雪の日ありました。

2019年2月 雪の姫路分校見てきました。


2021年1月~3月ペンキも塗り替え等改修工事終了後の正門前




当時は多くの先生がバス通学されていましたので、評判の先生を観察するには、校門前のバス停が絶好の場所でした。
数学の井関先生は、カバンではなく、弁護士のように20センチ位の厚さの本を入れた風呂敷包みを持ってこられていました。
という話を信じないクラスの違う友人たちが、バス停に張り込んで確認し、ひと時笑いあった。楽しい思い出。
腕白坊主がそのまま大人になられたような井関清志先生でした。2011年に亡くなりました。

指導教官は、同じなら独身の先生を!と、数学の村上温夫先生を選んだハジケタ友達たちもいました。
そのお名前の温から、「ぬるさん」と言われていました。
学生達を御影に在った大きな先生の御屋敷へ招待してくださいました。
友達連れてきても良いよ!といわれたとかで、おっちょこちょいの私も、そのハジケタ友達たちと御屋敷見学ツアーに参加しました。




60年安保デモの出発を門の前で見送ったのが私の中では一番印象に残っている正門の思い出です。
当時の姫路分校自治会執行委員長が、安保デモ‎での公務執行妨害で、夏休み中に逮捕されました。
詳しい事情は神戸大学 大学文書史料室に、資料があると思います。

関連画像
当日の50米道路


旧姫路警察署の写真←をクリック

裁判所(旧館)の写真←をクリック






本館玄関前のソテツを通って門へ



正門を背に南(駅の方向)を見る。





姫路分校当時の学校の前はまだ田圃が多かったですね。
今は、校門前から岡町まで、ずっと家が続いています。

姫路分校当時の学校の前


左上は昭和の修理中の姫路城です。
校門前から駅に向かって歩く人の姿数人写っています!
白陵寮の食堂と第一棟の間の大きなギンナンの木とクスノキは、今もそのまま残っているようで、感激!(下の写真参照)

西の丘の児童公園から

西の丘には住宅が立ち並び、昔の写真と同じ物は撮れないのですが、学校とお城を入れて撮ってみました。(2018年9月)


工事中のブルーシートが掛けられている建物が、白陵寮の管理棟(食堂・炊事室・事務室)跡に建った先端食科学センターです。
先端食科学センター北に今も実をつけている、大きなギンナンの木が健在です。
お城と本館に印をつけています。本館手前のチョコレート色の建物が新しい県立大学の校舎です。

校門前から真っすぐ岡町までの道を、昔は「10分道路」と言ったそうですが、私の脚では「20分道路」です。


白 陵 三 下 会 の HOME PAGE 2007年(平成19年)の写真では東側はまだ田圃です。
書写山行きのオレンジの神姫バスが左に曲がり待ちをしています。


写真は 
白 陵 三 下 会 (神戸大学姫路分校白陵寮三寮1階で昭和32年4月から同33年9月まで生活を共にした仲間の頁)
から御許可を得てコピーさせていただきました。
HP は 2019年3月31日 閉じられました。



校門前、姫路駅前行きバス停横の田圃には、2010年(平成22年)に信用金庫が建ちました。


姫路市営バス


写真は姫路市営バス40周年記念誌(姫路市立図書館蔵)に掲載の物を使わせてもらいました。

現在も学校前から、姫路駅前行きのバス停は校門前の播州信用金庫の駐車場前にあり、神姫バス(オレンジ色の車体)が運航しています。
姫路分校時代のバス停名は 神戸大学 そして姫路短大時代は 短大前 になって現在のバス停名は県立大環境人間学部前です。

(バス停の変遷は、姫路市立図書館のレファレンス・サービスで教えていただきました。)




当時は姫路市営バスと神姫バスの両方のバス停だったのですね。


正門から姫路駅前へ

yamajii 様より当時の絵地図を提供頂きました。


私は昭和35年~昭和38年の間神姫バスで姫路駅から神戸大学姫路分校の前を通って少し先の高校まで通学しておりました。
正門の大きな樹木と共にこの建物は 懐かしい思い出です。
同期の内何名かは姫路分校に通っており 彼、彼女らは分校の最終学年にあたっていたのではないのでしょうか。 yamajii 様 談 

地図上には、神戸大学姫路分校が明記されています。
バス停名も神大前です。
現存する八代郵便局の場所には 〒 のマークも確認できました。

学校から駅までのバス道以外の道の周辺は、当時まだ田や畑が多かったという喫茶店アーク八代のご主人にお聞きした通りです。

バス道をまっすぐ駅に向かって歩くと、バス停名 姫高前 も確認できます。
今は城乾小中学校になっています。
姫高とは(姫路市立)姫路高等学校のことです。
在姫路当時から、(兵庫県立)姫路西高等学校と勘違いしておりました。
ご指摘いただき、訂正いたしました。(2021年8月)

この場所にあったのは市立姫路高校でこの高校が移転しました。
そして姫路西高は現在の場所に最初からあり移転しておりません。
yamajii 様からのご指摘で訂正します。(2021年8月)

学生時代、駅に向かってブラブラと歩いていたら、オートバイに乗ったお兄さんが拾って駅前まで送ってくれました。
良い時代でした。今なら小学生でも知らない人の車には乗らないでしょう。



この春、バス道ではない地図上の近道で、学校からお城まで散歩しました。
突然お城が見えだしました。
在学中は昭和の大修理中だったので、北側からお城の全容を見るのは、初めてでした。


勿論、在学当時はこの斜めの近道はほとんど田圃だったと思います。
ぶらぶら歩きの途中立ち寄った喫茶店 アーク八代 ☆ のご主人の話では、
この店開店した40年ほど前は、周りはほとんど田圃ばかりだった。
 そうです。



バス道⇒オレンジ   歩き(現在の近道)⇒紺   カメラ⇒矢印




正門を背に東(野里・姫工 方面)を見る。






東を見ながら学校側に目を向けると、新しく東門が出来ていて、門を入った左(写真手前)に保安室もできています。
右奥に立派な講堂正面が見えます。



正門を背に東(野里・姫工 方面)南側を見る。



「神大東通り」当時のお店は探すのは難しいですが、お店は少しあります。

八代郵便局  ・ラッキーパン   ・井上書林
健在!
  野里方面
←をクリック

この度、男山配水池公園から旧姫路分校を見た時の目印が、この赤い屋根の杵屋さんです。
(当時から杵屋さんはありましたが、この学園前店はありませんでした。)



杵屋さんの西の道を南下すると、橋本万平先生のお家がありました。

学校の南東の前の道をまっすぐ南下すると、市立姫路高校に出ます。
多分昔はそこから川に沿って斜めに歩くと、市之橋にでる近道と思いますが、今は川岸が通れなくなっています。



秋の 東門⇒旧図書館の銀杏並木



兵庫県立大学環境人間学部キャンパス・マップ上に、旧本館東校舎と図書館・書庫をスカイブルーで重ね書きしています。



左手にゆりの木会館(旧本館)の東側が見えています。

秋の 旧図書館⇒東門の銀杏並木



新緑の 旧図書館⇒東門の銀杏並木



右手にゆりの木会館(旧本館)の東側が見えています。

正門を背に西(書写山方面)を見る。






校門前西側は、紅松先生のお家他数件の他は、ほとんど田圃でしたが、今はぎっしり、お店と家で立て込んでいます。
老舗の洋菓子店大陸北店が、学校の西南角すぐ前に出来ています。
写真でも微かに確認できますよ。
この道を書写山方向に道なりに行くと、左手にアーモンドトーストで有名な MUCHE が出来ています。



書写山を通り過ぎて、まだまだ北に約20キロ遠くに在る雪彦山を見てきました。

雪彦山方面
←をクリック

書写山にはロープウエイではなく、昔通り山道を歩いて登りたいのですが。。。
イノシシが出る。とか
書写山ではないが、近くでクマも出た。とか
で、まだ歩いて登っていません。





学校周辺に数件あったお家の中の一軒で、学生時代後半下宿しました。
今、沢山の家が立ち並び昔の下宿先の家は探せないと思っていましたが、姫路図書館で昔の区画地図を見ていて、見つけました。
訪ねてみると、お世話になった当時小さなお嬢ちゃんだった娘さんが、お母様とそっくりに出迎えてくださいました。
まるで、タイムスリップ!感動のひと時でした。


本館(ゆりの木会館)正面





大正15年建築の旧本館(ゆりの木会館)は(国の登録有形文化財)です。
昔は凹形で、今写真に見る処は凹の下の部分です。事務所など管理部門があった所です。2階部分は教室でした。
残念ながら、凹形の両翼の教室部分は、肩から完全に取り壊されていました。



本館(ゆりの木会館)の中


本館 1997年

二階東:姫短同窓会室前と一階東:資料室(旧事務所)前     

1997年4月 第3回姫路寮歌祭 当時の写真
 使用フリーの旧制学校校舎写真集 からコピーさせていただきました。
内部はほとんど変わりないようですが、天井の照明が蛍光灯でした。



ユリノキの花

東側棟の一階入口より二階へ

赤矢印、一階東から、入ってゆきます。







廊下の窓は右側、教室は左側です。



まず、トイレが左にあります。多分新しいと思います。

その横は2階への階段です。


天井照明は、一時期蛍光灯に替わっていましたが、現在はこのボール型のペンダント・ライトです。

この階段を上がりきった右に茶室があります。



二階






二階に上がると、廊下の東突き当りにこの茶室があります。
姫短の同窓会等が使われている様です。




2階は途中で途切れないので、長い廊下の東棟から西側棟まで見ることが出来ます。
カメラの位置が茶室の前です。

階段を上がって左は、物置と演習室・会議室が続きます。




大教室)は、丁度玄関の上で、前に張り出している分、広い間取です。
内部は板戸と腰板ぐらいが残っていますが、すっかり近代化されています。
天井照明も、蛍光灯になっています。
冷暖房完備で、OA機器も揃っているようです。

一番西の教室は、姫路短期大学資料室です。


ユリノキの花

東側棟の一階





階段の向こうに玄関口まで続く、資料室・会議室は、姫路分校当時、先生の控室事務室だったところです。
学生の事務手続き等は、この東側の事務室だったと思います。
突き当りの戸を開けると、玄関口がみえて、西側棟の入口が見えています。





西側棟の入口です。
振り返れば、後ろにも同じ洋式の東側棟の入口があります。



ユリノキの花

西側棟の一階

西側棟の一階は、姫路分校時代は事務室・分校主事室でした。今、旧制姫路高等学校同窓会の史料室になっています。







ここにも2階に上がる階段があります。



階段を上り切ったら、左右に分かれた2階の廊下が見れるのですが、立ち入り禁止の表示が!


本館(ゆりの木会館)のアーチ型の玄関を抜け反対側から見ると



アーチから、正門と旧本館(ゆりの木会館)の玄関の写真の旧本館玄関前の大きな蘇鉄が覗き見られます。
2019年2月 雪の降る日に北側校舎の階上から撮影)


西門からピアノ・ブース跡を見る





姫路分校当時、垣根に沿ってピアノ練習用のブースがありました。
教育学部の音楽の先生や小学校の先生を目指している学生用の施設ですが、
学生に自由に練習させていましたので、うれしく、 下手な♪猫ふんじゃった♪等弾いてました。

小学校の先生を目指している、今まで一度もピアノを弾いたことがない男子学生が練習していて、
右手と左手同時に動かすのも大変なのに、教育学部に行ったらオルガンには足もついてるのに!どうしょう~
と嘆いて相談しているいるのがおかしくて、噴き出していました。

現在は、講堂北側の音楽堂にピアノ練習室があります。昔のピアノはあるのでしょうか?

本館の西側  


本館の西側  を通り過ぎると北側に6棟の男子寮(白陵寮)がありました。


白陵寮の南、管理棟の前の藤棚。


白陵寮の跡地

懐かしい、あの歌が聞こえてきます。

エノケンの{月光値千金}に知ってるドイツ語を入れて、得意になって皆で歌ってました。
旧制高校時代からあった?のではないかと思います。歌詞は間違ってるかもしれません!

アインス、ツヴァイ、ドライ
 (Eines zwei drei) 1,2,3 !

♪ 麗しの~、メッチェン()に~、出会ったときは~ ♪
優しく~、しとやかに~、ひざまづいて~♪
情熱あふるる、瞳をかわし~♪
♪ イッヒ・リィーべ・ディッヒ(Ich liebe dich)、そう言って、キッセン ()、しなさい! ♪

ドイツ語の大淵先生に、下駄も高下駄も間に合わないので竹馬を用意ました。
と成績のかさ上げをして頂いた身分なのに、何故かこの歌のドイツ語は覚えて居ました。



 ♪ 命短し~恋せよ乙女~ ♪ の{ゴンドラの唄}も歌っていました。男性陣はやっぱり寮歌が懐かしいようですね。





姫路分校当時の寮の跡地には新しい建物が何棟か建っています。
いちょう南館といちょう北館に囲まれた広場は、姫路短期大学時代は幼児教育科の幼稚園の中庭です。




白陵寮が大正14年旧制姫路高校の寮として完成した当時に植えられた、
小さかったイチョウも、神戸大学姫路分校時代にはすでに屋根をしのぐ大きさにでした。
その昔のいちょうの木が何本か残っています。

先端食料学研究センターの北側、 白陵寮の食堂棟があった所の北側 に大きいイチョウの木が一本あります。
空を見上げると、グリーンから黄色に変わった実がたっぷり付いていました。
時々上から実が降ってきます。


写真は2018年9月に追加。

10月には実がたっぷり落ちていました。


11月には綺麗に黄葉していました。庭はイチョウのじゅたんになっています。



姫路分校当時の学校の前の白黒写真の寮の管理棟と第一棟の間に、大きなクスノキと銀杏の木が立っているのが分かります。
今も元気に並んで立っています。
この銀杏の木が、今、残っているイチョウの木の中で、唯一の雌株です。
お掃除が大変なのと、実の臭いが嫌いな人が多いので、雄株だけが残るようです。

実は少し小ぶりですが、何とか食べてみました。
姫路分校時代、白陵寮の学生たちは、食べたのでしょうか?
学食でよく出た、八宝菜、お皿にほんとに八種類の具があるか?と数えた暇な学生でしたが、ギンナンは入ってなかったように思います。





寮跡の小ぶりのギンナン。落果後数日たっていたようで、果肉は簡単にはずれ、あずき粒位の種収穫!結構おいしい!大きいギンナンに比べ苦味が少ない。




新芽!





いちょう南館の南に、大きくて立派!な一本いちょうがそびえています。(左:夏、右:秋)



中庭には一本いちょうより少し小ぶりですが、三兄弟いちょうです。建物の後ろにそびえているのが、一本いちょうです。(夏撮影)




いちょう北館の前、農園に通じる道の前の銀杏は、早、黄葉していました。(10月中旬撮影)


中庭にはこの碑も立っています。



四角形の碑の各面に書かれている情報だけで計算すると、私より少し後輩の方たちのようですが。。。?
神戸新聞の記事を紹介している、【とんび岩】様のホームページで解明しました。

2004/10/03 神戸新聞の記事より。
神戸大学旧姫路分校 最後の寮生40年ぶり再会

東京オリンピックが開催された1964年、神戸大学姫路分校(姫路市新在家本町)の廃止に伴い、同分校の寮が閉鎖された。
それから40年。
最後の寮生らが2日、初めて寮全体の同窓会を開いた。全国から約80人が集い、思い出話で盛り上がった。(藤村有希子)
   ~~~~~中略~~~~~
同窓会は、廃止から40年の節目に元寮生らが企画。
この日集まったのは、両寮の閉鎖時にいた199人(女性23人)中、77人(女性10人)。
抱き合って再会を喜び、学舎を前に記念撮影。
姫路市内のホテルに移り、寮生活のエピソードを話したり、寮歌を歌ったりした。
鹿児島県から入学した主婦山田暢子(のぶこ)さん(59)=東京都東村山市=は
「分校廃止以来、初めて学舎を見て感動した。寮が8畳で4人と窮屈だったこともいい思い出。あれから40年たったとは思えない」。
神戸市須磨区の会社社長、利弘頼彦さん(61)は「仲間とけんかしたり、笑い合ったあの日々は宝物。20歳のころに戻った気分だ」と笑った。



永らくこの神戸新聞の記事を紹介したページに LINK させていただきありがとうございました。
この度このページを閉じられたので、御許可を頂き、運営者のとんび岩様のコメントを
神戸大学旧姫路分校 のページに張り付けさせていただきました。
(2019年4月6日)


 【とんび岩のコメント】
神戸大姫路分校が廃止されたとき、私は近くにある県立高校の陸上競技部員だった。
自校のグランドは野球部と競合するので、毎日のように同分校のグランドへ練習に通っていた。
同分校学舎の北側に、全面芝生で覆われた立派な300mトラックがあったのだ。
放課後でもあり、大学側がそのトラックを使っているところは見たことがなかった。
近隣の3つの高校の陸上競技部が三々五々集まって練習するようになっていた。
そんなある日、いつものように北門からグランドへ入ろうとしたら守衛に呼び止められ、「出入り禁止」を言い渡された。
県立姫路短大への移管に伴い、管理方針が変わったようだ。
学校長を通じて姫路短大に、従来通り使用させてもらえるようお願いしたが、許可は出なかった。
国立大の時代にフリーパスで入れたグランドが、県立短大になったとたんに出入り禁止になったのだ。
どうにも釈然としなかった。
県立の短大なら、同じ県立の高校なんだから、貸してくれてもいいじゃないかと思ったものだ。 




白 陵 三 下 会 の HOME PAGE に 2007年(平成19年)当時の 四角柱の横にあった、説明板が残っていた写真が掲載されています。
 
白 陵 三 下 会 の HP の説明は2007年の校門前の写真の説明を参照ください。


十年前の記念樹の幹に比べ、今は随分立派に成長したようです。




白陵寮の跡地記念樹桜

記念樹の桜は大きく立派な樹に育っていました。


    2017年4月14日 満開の桜   2023年4月21日 青葉の桜



白陵寮からしらさぎ寮への道の桜



今この道は、西門から駐車場に行く道になっています。


講堂正面へ


講堂正面


大正15年建築(国の登録有形文化財)

前出のESS季刊誌に 1960年(昭和35年)当時の姫路分校講堂前の写真もありました。

講堂前の写真 ←をクリック


ESS の記念撮影と同じ場所と思います。写真左中央に微かに確認できる渡廊下!





建屋と建屋を結んでいた渡廊下。唯一講堂と生物教室を結んでいた渡り廊下が残っています。懐かしい!

講堂と生物教室を結んでいた渡り廊下は、途中にトイレがあります。



写真右中央の講堂の北側入口から、手前に向うと生物教室(現在音楽堂)。
途中で左手に広がっているのがトイレ建屋です。



校門横のポスターには朝ドラにこの講堂内部が使われた写真が載っていました。

内部の見学は事前の申し込みが必要だそうです。

何か行事があった時に見に行っています。

2021年11月 兵庫県立大学生ら企画の姫路城下町巨大鳥瞰図を拡大コピーして講堂にて、 上を歩けるようににして展示をしていたのを見てきました。







2018年7月 学生団体のポスター発表を講堂で見てきました。





2017年7月 兵庫県立大学姫路環境人間学部のオープンキャンパス時、講堂で学生団体のポスター発表を講堂で見てきました。




壇上に在った、グランドピアノ はなくなっていました。
調律などしてなかったようでひどい状態でしたが、今は隣の音楽堂で大事にしてもらっていることでしょう。
ネット上の画像検索で見つけた2004年撮影の講堂内部には、まだピアノが置かれていました。  ←をクリック

立派な大理石を支柱にしたアーチをもつステージや天井のシャンデリア、二階のギャラリーも、立派です。




学生団体農業部の”畑っこ”では、旧姫路分校白陵寮の西側で畑をしているそうです。



なかなか立派な茄子始め夏野菜ができたそうで、展示していました。


旧制姫路高校時代の見取り図を見ると、やはり寮の西には、井戸(赤◎)もあったようですし、へ(厠)もあります。
この見取り図と古い写真から推察すると、当時から畑があったようです。


旧制姫路高校時代の校舎配置図は
神戸大学附属図書館 バーチャルミュージアム「旧制姫路高等学校 物理実験機器コレクション」 校舎配置図
からコピーさせていただきました。


1960年の神戸大学当時の写真を見ると、畝もありかなり立派な畑のようです。井戸(赤○)



今は井戸にコンクリートの蓋がしてあって





この水は飲めません。という事は、井戸から吸い上げているのかな?。




謎の施設でしたが、学生団体農業部の”畑っこ”の学生さんに聞き解決しました。
昔は「ビオトープ」だったそうです。
昔?旧制高校の時代なのか、神大姫路分校の時代なのか分かりません。
が「ビオトープ」から地中を通って脇の川に繋がつて石垣の中程から出ている排水管は、かなり古い物と思います。
今は全然活用されていないようですが、施設は立派です。








NHK 朝ドラの「あさが来た」のポスターは校門前の他に学内にも立ててありました。
職員さんのお話では学生さんもエキストラで出られたそうです。


講堂横 北側


講堂北側、1階の前出口から、渡廊下に続く屋根が見えます。


出口から、渡廊下に続くトイレが見えてます。


講堂 南側



道の突き当りにあるのは、保安室。左手に東門があります。


旧図書館横、中庭のゆりの木







2018年5月連休に撮影、満開のゆりの木の写真です。


2018年5月連休に撮影、満開のゆりの木の写真に差し替えました。

黄葉のゆりの木の葉



藤だな



1973年の兵庫県立姫路短期大学の全体図で見ると新体育館の東に藤だなの表記があります。
この図を見るまですっかり忘れていて、写真を撮る時期を逸してしまいました。
2018年4月下旬に撮影の写真を追加しました。

素人判断ですが、蔓が右巻きなので、山藤 でしょうか?綺麗!

グラウンドと新体育館と駐車場





勿論姫路分校当時は駐車場はありません。
姫路分校時代は、写真の新体育館はなく、新体育館のところも運動場だったので、かなり広かったのですね!
ソフトボール大会の時は、同時に二試合してたように記憶しています。

300メートルの全面芝生のトラックは、当時としては宝物と思います。

水を変えたこともなかったと思われるプールがありました。まぁ池というか沼と言うか~
水草は生え放題、カエルや昆虫も結構生息していました。
当然でしょうが、無くなっていました。
余りに汚くてバイ菌も死んでいるだろうと泳ぎました。
旧制高校時代~姫路分校初期には水泳部は活躍されていたようです。

校舎の後ろから天辺が見える六本の木は メタセコイヤでした。大きい!


新緑のメタセコイヤと紅葉のメタセコイヤ
新体育館の裏(南)側(冬)





新体育館の裏(南)側の満開の桜(春)



姫路分校当時はこの桜の木から北側がグランドだったと思います。
グラウンドの西



姫路分校当時、白陵寮とテニスコートの間に女子寮(しらさぎ寮)と隣に舎監の仁科尚文先生のお家がありました。



今、クラブハウス になっている所ではないかと思います。
テニスコートはこの道を挟んで右(西)にありましたが、左(運動場側)にシフトしています。



グラウンド



グラウンドから東側を見る(冬)





グラウンドから桜満開の東側を見る(春)




グラウンドから葉桜の北・東側を見る(夏)




グラウンドから秋の北の山を見る




グラウンドから秋の西の丘を見る


テニスコートの向こうに西の丘が見えます。1960年の分校の写真はこの丘から撮られたそうです。

雪のグラウンド


2019年2月 雪の姫路分校見てきました。

雪のグラウンド北西方向を見る。




グラウンドの北側



グラウンドの北側を外から見る(冬)



グラウンドの北側、北門(裏門)の桜





グラウンドの北側、北門(裏門)



門柱は姫路分校当時の儘と思いますが、以前は扉があったかなぁ?。あったけど、いつも開いていたのかなぁ?。
余り記憶ないのですが、古い写真を見ると、正門と同じく白にペイントされた木の門であった様です。
門を出たら、姫路分校当時広がっていた田畑はなく、今は家がびっしり建っています。






グランドの石垣の塀



校門前と同じく、石の塀は、グランドの周りにぐるっと残っています。控え壁も残っていますね。
外から金属製のフェンスでかぶせていて見えにくいのが、残念ですが、 沢山ある、柱の一つ一つに菱形の模様がほってあります。
上の裏門の古い写真で見ると、運動場周りの塀も控え壁も残っているのが分かります。


グラウンドの東側の桜、外側から見る(春)









グラウンドの北東、大野川




姫路城で船場川に合流している大野川。
この近くで下宿された方もおありと思います。今も学生用のワンルーム・アパート等がありますよ。



グラウンドの北側、八代大歳神社



かっての田園風景もすっかり住宅街になってしまった中で、見つけた八代大歳神社。
八百万の神々を代表していただいて、
このHPを最後まで見てくださった皆様のご健康をお願いしてまいりました。

そして、亡くなられた神戸大学姫路分校同窓生のご冥福をお祈りいたしました。

それでは。Ochabeh 大得意の関西アクセントのカタカナドイツ語で、最後のご挨拶


アウフ・ヴィタ・セー!
Aufwiedersehen! 

フィーレンダンケ!

Vielen Danke!



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