新穀町って・・

 1845年の黒澤尻村、奥州街道を東西に挟んで東に87軒、西に79軒合わせて166軒の屋敷が記載された絵図面が残っているらしい。陸奥話記には黒澤尻柵の出てくるらしい、陸奥話記は1062年ごろのもの、そして前九年の役には秋田の平賀地方と岩手の和賀地方を結ぶ街道、平和街道が登場しているらしい。前九年の役は1051年ごろか。1604年ごろ奥州街道は山沿いから北上川沿いに新たに設けられ、黒澤尻に宿駅が作られた。これが本町である。本町ができてから82年後、1685年ごろに、色々な状況があったようだが新町ができ、1738年ごろ諏訪神社が今に場所に遷座された明治初期、1900年ごろ丁場から西へ道が設けられ、新穀町と名付けられるが、俗称新道(しんど)の名称で長く呼ばれてきた。明治30年ころの”しんど”は遊郭7軒、茶屋・宿屋6軒の記録があり、明治45年、芝居小屋寿座ができた。諏訪町の君代座、花屋町の若松座、そして寿座の3座が賑わった。”しんど”は西の玄関口として日本海ルートへの交差点として、鉱山の操業、寿座の開業、大正5年に馬市が岳駒町へ、などの環境を背景に地域有数の歓楽街・花街となっていった。”しんど”の西隣は鍛冶町、鍛冶町は鍛冶屋よりも大工が多く、大工町が相応しいと言われたらしいが、”しんど”、鍛冶町は大工、鍛冶師、仏師など多くの職人が住んでいたらしい、ある種の職人町でもあったらしい。

黒沢尻
奥州街道の宿場町黒沢尻は、明治二十三年(1890年)東北本線が開通、昭和初期の駅舎は、いまもその面影が残っている。
古くは、奥州街道、北上川の舟運とともに黒沢尻川岸を中心の町並みが造られ、鉄道の開通によって町並みが変った。奥州街道(国道4号線)筋の本町、新町、明治二十年(1887年)に開通した平和街道(秋田県平賀郡横手と岩手県和賀郡黒沢尻)の始点、新穀町が中心になった。
西和賀には明治、大正、昭和と多くの鉱山があった。大荒沢鉱山、赤石鉱山、土畑鉱山、松川鉱山、鷲之巣鉱山など、特に仙人鉱山は明治三十三年に精錬を開始し、大正八年頃は、八百人もの従業員がいたという。鉱山からの物資輸送は、明治四十年、鉄道が敷設され人力トロッコとなり、数年後、馬で引く馬車となって鉄道馬車の和賀軽便鉄道が開通。大正十年の横黒線(現:北上線)の開通まで走り、黒沢尻から仙人までで2時間半かかったという。
明治の初めに西に向かった一本の道は、新穀町と名づけられたが、新道(しんど)と呼ぶ人が多かった。
また、明治四十四年に本町で始まった馬市は、その後、大正五年馬検場(現:市役所)に移転、最盛期の昭和二十年頃は千二百頭以上の取引が成立したという。昭和四十三年の家畜市場が都市計画により移転するまで続いた。
全国から集まった馬喰が札束抱え、近隣の馬生産者である農家の人々、それを目当ての商人や露天商が集まり、新道は喧騒と雑踏の町となったという。 鉱山の活況や馬市の賑わいの影響を受けて新穀町は賑わいを増し、遊郭、料亭、旅館、芝居小屋、商店、商人、職人、山師、馬喰などさまざまな人が集まり、歓楽街が形づくられ、千花楼、賛成楼、常盤楼、玉泉楼、花月楼、松月楼、橋本楼、梅屋、新盛楼、仙花楼、富士屋、黒猫、清水庵、満州軒などの遊郭、料亭、小料理屋があったという。
新穀町の飲食街は西裏と呼ばれ、本町の東側の飲食街は東裏と呼ばれ、東裏には東京屋、大安楼、常盤木、観月、喜久乃屋、今野屋などの料亭があったという。
芝居小屋寿座は明治四十五年(1912年)に木造二階建て八百席で開業され、歌舞伎、浪曲、映画など明治、大正、昭和の、演芸娯楽の中心施設として親しまれてきた。昭和三十年代の後半からテレビの普及、市民会館の開館などで客足が遠退き昭和六十三年(1988年)閉館され、その後暫く使用されないまま建物が残っていたが、平成九年(1997年)建物が取り壊された。昭和46年、寺山修司は寿座で公演、「書を捨て街へでよう」の上映、詩の朗読を行った。この寿座での公演で、一騒動あったという。寿座のお客がおとなしく、寺山はお客を挑発した。その結果、観客が怒りだし、怒号が飛び、寺山は発煙筒で応戦したという。1991年、寿座のあった場所に近い橋本児童公園には、「さらば箱舟」の中で小川真由美が叫んだ「百年たったら帰っておいで百年たてばその意味わかる」粟津潔デザインの碑が建てられ、除幕式には、寺山修司のパートナー九条今日子(映子)も出席した。

街の町名も昭和41年の住居表示の実施によって消えたものや変わったものもある。40年程前の名簿から町名を拾うと上野町、中野町、常盤台、堤ケ丘、小鳥崎、孫屋敷、上川岸、中川岸、下川岸、北畠、角町、老松町、若松町、末広町、桜木町、栄町、花屋町、黒沢橋通、小林町、天神、蒲谷地、新富町、曙町、万世通り、中央通り、駅前通、諏訪町、大通り、幸町、青柳町、高砂町、清水小路、古城場、芳方町、舟場、南町、若宮町、川原町、平和通、岳駒町、大曲、芳町、本町、新町、新穀町、本石町、黄金町、鍛冶町、有田、山田通り、黒岩、稲瀬、上門岡、立花、内門岡、上台、平沢、などの町名があった。新穀町周辺は、黒沢尻西小学校(前黒沢尻小学校)、黒沢尻南高校、黒沢尻工業高校、専大北上高校など比較的学校が多く集まっている地域でもあったが、昭和55年、黒工が村崎野へ移転、南高校が校名を北上翔南に変更し平成16年に相去へ移転した。