第9回 日大ミュージカル『若者たちの階段』制作秘話
最近、一部のマンクラOBの間で、日大ミュージカルの話題が盛り上がっているようで
すので、久しぶりにこの場をお借りして、40数年前の事を思い出して見ようと思います。
とは言っても相当古い事なので、記憶違いや間違い等でご迷惑をお掛けする方々が居
られるのではと心配ですが、その辺はどうぞご勘弁を…。
その記憶違いですが、同期の楠岡君からの連絡があるまで、『若者たちの階段』の作
者は岡本修巳さんだと思い込んでいました。しかし、岡本修巳さんは第7回と第8回の
作者で、第9回は庄司見栄男さんでした。
みなさんは岡本修巳という方をご存知ですか? 岡本おさみと書くとピンとくる方も居
られると思いますが、襟裳岬(森進一)や旅の宿(吉田拓郎)の作詞で有名な、あの岡
本おさみさんが日大ミュージカルに2回も関わっていたんですよネ。
日大ミュージカルは文化団体連合会が総力を挙げて取り組んだ一大イベントで、当
時の新聞や週刊誌等でも相当話題になった記憶があります。
当然、マンクラも文団連に所属するクラブとして協力しなければいけない訳ですが、
ミュージカルの公演が10月、マンクラの定演が11月、と言うことは如何に大変な事か、
容易に想像がつくと思います。
ですから、それまでミュージカルへの協力は、極力マンクラの定演に影響の少ない形
で行われて来た様に思われます。
しかし、マンクラ9期の山本高志君が文連の役員として活躍。彼の「音楽クラブであ
る以上、音楽でイニシアティブをとりたい」という言葉に、キツイ事とは知りながら音楽
監督という大役を引受ける事にしたのです。
音楽監督を引受けたからには、これだけは絶対譲れないという提案をしました。
過去の日大ミュージカルを見てきた訳ではないので断定は出来ませんが、それまで
ミュージカルの舞台音楽は、吹奏楽が中心となって演奏されていたようです。
そこで私の提案、「オーケストラピットにはオーケストラを!」
しかし、当時の日大にはまだオーケストラは存在していませんでした。
そこで臨時編成のオーケストラを作ることにしました。管と打楽器は吹奏楽、弦セク
ションはマンクラによる「ミュージカル・オーケストラ」の誕生となった訳です。
オケピットで、殆どフルオーケストラに近い編成で演奏することは、当時の現役の皆
さんにとっても、なかなか貴重な経験だったと思います。その代り、前述したように、一
ヶ月後の定演(『新世界』の全楽章演奏がメイン)を控え、すべてオリジナルのミュージ
カルナンバーの練習と本番というのは、演奏する部と員にっても相当大変な事を強い
てしまった訳です。
「制作秘話」などと言っても、秘話でもなんでもないその時の音楽に関する思い出話
に過ぎないのですが、だらだらと思い出すままに…。(以下、氏名の敬称略)
音楽監督は何をしたかと問われれば、先ず全曲のアレンジ。
『若者たちの階段』では熊谷秀臣(リズムソサエティ)と関口正規(合唱団)が
メインの作曲を担当。(特に熊谷は8回、9回と続けてメインテーマ曲を作曲し
ていました)
その他に私も含めて2、3人が作曲に加わったと記憶しています。
確か一幕のダンスナンバー「吹雪の曲」とフィナーレ近くの「春の讃歌」は私の作曲
です。「春の讃歌」は何となくメロディと歌詞も覚えています。(春がやってくる、春がや
ってくる、待ち遠しい春が来る、春の風は〜といったワルツでした)
そのようにして出揃った曲を、その場に最も相応しい容にオーケストレーションする
のが一番重要な任務でした。
幸い吹奏楽の3年で鈴木功一という優秀な助手を就けてもらったおかげで、随分助
けられました。私の江古田の四畳半のアパートで、二人でああだこうだと構想を練っ
たり、練習用の音源をピアノとギターでオープンリールに録音したりしていたことが、
懐かしく思い出されます。(パソコンもシンセも無かった時代ですから)
その当時はブロードウェイミュージカルの全盛期で『サウンド・オブ・ミュージック』や
『屋根の上のバイオリン弾き』などが大ヒットしていました。(8期春の演奏会でもそん
なミュージカルナンバーを演奏しました)
そんなミュージカルには必ず、劇中に使われる音楽を巧みに盛り込んだ「序曲」が
ありました。
私が音楽監督でこだわったのはオーケストラを作ることと、序曲を作ることだったの
です。多分、今音源が残っていて聞くことがあれば随分稚拙な序曲だったのでしょう
が、当時はオーケストラで幕が開く前に演奏された序曲に随分感動したものです。
(誰か、長谷川の指揮で演奏したと言っていましたが、私が棒を振ったのは練習の時
くらいで、本番では吹奏楽4年の下田周治が棒を振りました)
そして懐かしく思い出されるのが、両国の日大講堂での合宿でした。
練習もさることながら、音楽担当で集まった、他のクラブの人達との交流は学ぶこと
も多く、大いに刺激を受けたものでした。
特に合唱指導の深沢茂行と作曲の熊谷秀臣とは何となく卒業後は音楽関係の道へ
進みたいという共通の思いがあり、夜を徹して語り合ったものでした。
その深沢は現在「ミュージック・クリエイション」という日本最大手のヴォーカル・コー
ラスプロダクションの代表として活躍する一方、T&Kシンガーズ(検索してみて下さ
い)というアマチュア(セミプロ?)のコーラスを率いて勢力的に毎年定演を開催してい
ます。
彼との親交は現在も続いており、昔からよく一緒に仕事をさせてもらっていますが、
特に懐かしく思い出されるのが「東京ディズニーランド」のオープニングセレモニーの
コーラスアレンジの仕事でした。(つい先日のニュースで、オープン27年目にして5億
人の入場者、という報道に接して、オープン当時の事を思い出しました)
オープニングセレモニーは、フルオーケストラと400人(?)の大コーラスの演奏で
行われたと記憶しています。
彼は、400人のコーラスメンバーを集め、そのコーラスに譜面を渡す事までを一気
にやってのけました。前田憲男さん編曲のディズニー大メドレーのスコア(アレンジさ
れたオーケストラとコーラス部分はメロディのみ)からコーラスアレンジをしながら直
接コーラスのパート譜を作るという徹夜の作業を一気にやったのです。
パート譜といっても確か数十ページに及ぶ大勧進帳で、コピー機もフル稼働。
まあ、若かったから出来た思い出ですネ。
話が、日大ミュージカルから随分横道にそれてしまいましたが、マンドリンクラブにし
てもミュージカルにしても、苦楽を共有した仲間ができた事は、その後の人生に大き
な影響を与えられた出来事でした。
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