水
 
 むかし
  おんなを造りし
    をとこ ありけり

    	○ 

 弾ぜるような水音が夜気にこだました。
 透明な音色が夜気に沈んでゆく。
 闇が濃い。
 新月の空は深い濃紺をまとっている。
 ただ、星のみが手にとるように近い。月光に遮られることの無くなった凶星が、古びた
格子の間から青白く瞬きを放っていた。
 澱んだ空気の中には、強い腐臭が漂っている。
 王城の守護たる羅城門も半ば朽ち、昨年から続く疫病で死んだ人間の骸が、身につける
ものすべてを剥ぎ取られた姿で、楼上の狭い空間に無造作に打ち棄てられている。
 餓鬼道の入り口を思わせる光景であった。
 仏家のいう無常が夜の闇に息づいているようですらある。
 だが、その陰惨たる場景の中に居ながらも、私の身体は突き上げるような淫靡にさらさ
れている。
 芯からこみ上げてくる官能に、昂ぶりはすでに限界に達しようとしている。
 その理由が、眼前の闇の中に居る。存在(それ)は、漆黒の空間の中、白い靄のように
浮かび上がっている。
 また、水の音がした。
 肌を撫でられるような錯覚に、反射的に身を乗り出す。
 私の動きを、圧倒的な存在感が制した。
 見上げる頭上に、二つの金色の光が浮かんでいる。
  低く、くぐもった息吹とともに、それの金色の光が赤く濁った。血の赤。禍々しさを湛
えたその光は、二つの眼球であった。それも人のものではない。
 鬼だ。
 私は、鬼の傍らにいる。
 鬼の眼を見上げた。哀願のこもった私の視線に、鬼は静かに首を振った。
 待てということらしい。もう、十分に待ったではないか。さらに待たせるのか。
 そう、あれは、一月前のことだ。
 私は、この鬼と遭遇した。夜の深まったこの羅城門の下でだ。
 鬼は闇の中から現れた。血に飢えた瞳で私を見つめ、人を喰らうのは久しぶりだと舌で
牙を研いだ。巨大な紅い口から漂う、饐えたような血臭は、私を気死させるほどの恐怖に
陥れた。
 出来る限り鬼を正視した。この鬼と取引をしなくてはいけない。
 私は願いがあると告げた。鬼は不思議そうな表情をした。
 勝負をしてくれ。叫ぶように言った。もし私が負けたなら、大人しく生きながら喰われ
よう。最後の血の一滴までお前にやろう。しかし、もし、もし私が勝ったならば、望みの
ものを呉れ。私が永の年月望んだものを……
 鬼は首を傾げた。何かを考えているようだった。おそらく、私の提案を受け入れるかど
うかではあるまい。目の前にいる人間がなぜこのように奇妙な取引を持ちかけるのか。そ
れが、鬼の疑問であったに違いない。
 私は懐中に入れた短刀を握った。鬼斬りの太刀という触れ込みだった。恐らくは、刀鍛
冶の嘘であろう。だが、そんなことはどうでもよかった。無理にでも、鬼にそう信じ込ま
せる。そうして、勝負へと持ち込むつもりだった。
 が、その必要は無かった。驚くべきことに、鬼は私の申し出を了承した。鬼とって、な
んの利益もないのにだ。
 内心の驚嘆を押さえつつ、私は賽での勝負を申し込んだ。勝負はただ一度のみ。運命の
すべてを天にまかせよう。
 その決心が通じたのだろうか。勝負は私の勝ちに終った。私は鬼の様子を注視した。約
束を反故にすることも考えられた。あまりにも簡単に申し出を受け入れた鬼に、少なから
ぬ疑惑を抱いていた。
 しかし、その心配は無用に終った。あっさりとした口調で鬼は言った。
 負けた。約束だ、褒美をとらせよう。なんなりと、望みのものを言え。
 ――-女が欲しい
 私は即座にそう答えていた。それまでの恐怖は、どこかに消え去ってしまっていた。今、
永き年月にわたって求めてきたものが手に入るかもしれないのだ。その想いが私の心身を
小刻みに震わせていた。
 ――女だ、この世のものとも思えないほど美しい女を呉れ
 確かに叫んでいたはずだ。
 だが、鳥も蟲も私の声に反応しなかった。無意識のうちに声を顰めていたに違いない。
このことを、私の全霊の欲望が叶う機会を、誰にも知られるわけにはいかない。鬼以外
には……
 それが通じたのだろうか、鬼は眼だけで愉快そうに笑った。そして言った。
 お前の望みの女など、この世にはいない。だから、すぐには無理だ。次の新月の夜に、
またここに来い。なぜなら……
 急に鬼が身体を退けた。その向こうに、息づいた闇が見える。
  いや、完全な闇では無かった。霧のような青白い燐光が滑らかな曲線を象って浮かんで
いる。
  瞳を凝らす。繭にも似た燐光の中に、長い髪と赤い唇の女が居た。
  美しい。
 整然とした顔立ちと、水の化身のような清らかさと艶やかさ。とてもこの世のものとは
思えない。
  そうであろう。何しろ、この女は人ではない。いや、鬼や妖ですらない。
  あの時、鬼はこう続けたのだ。
  なぜなら、造らねばならない――と。
  お前の求める女など、この世にはいない。ならば、造らねばならない。それでも――人
でなくとも良いか、と鬼は聞いたのだ。
 瞬時に頷いていた。私の永年の想いと鬼の言葉が重なっていた。
 人の女など……そのように醜く浮薄なものは、要らない。私が焦がれるべき女が、人で
ある必要などどこにもないではないか。
  女が立ち上がった。一糸纏わぬ姿は、透き通るように幻惑を誘う。
  私は、その頬に触れた…・

		○


		1

 洛中。
 誰そ彼どきの陰影が、人々の目鼻立ちを怪異に演出している。
 どの貌にも力が無い。痩せ、黒ずんだ顔色には、死の影が次第にその範囲を増している
かのようですらある。
 朱雀門から東西に伸びる御所の築地塀には、ところどころ破れが見える。その中から、
一匹の痩せ犬が彷徨い出た。眼に狂気を孕んでいるが、弛緩した牙には獲物に飛びかかる
力は残滓も残っていない。
 飢えているのは犬ばかりではない。人もまた飢えている。
 先年から続く飢饉は、平安京全体を襲っていた。鴨川の河原には、痩せた死体が積み重
ねられ、嘔吐を呼ぶ死臭は風に乗って左京の端にまで漂ってゆく。
 飢饉が呼び込んだ疫病が、ただでさえ打ちひしがれた京の民衆に猛威を振るっている。
その悪風は御所の壁を越えて、公卿達をも襲っていた。ここ一月の間だけでも命を失った
公卿の数は十指を越える。死の恐怖のみは、位人臣を極めた者でも、乞食同然の飢民でも
一向に違いがない。
 秋の陽は落ち、空の赤味が急速に夜に飲み込まれてゆく。
 大内裏の上殿の間にも夕闇の翳りが入りこみつつある。
 広い上殿の間の左右にしつらえられた控えの間に、数人の貴族達が集まっていた。
 狭い部屋の四隅に灯火が灯され、秋の涼風に揺れている。それらの火影が殿上人の顔を
照らし上げていた。落ちかけた化粧の合間に浮んでいるのは、深い脅えだった。
「やはり、怨霊の仕業であろうか」
 公卿の中の一人が言った。盗み聞く者もないというのに、はばかるがごとく声を顰め、
周囲を見渡した。聞かせたくないのは人ではなく、虚空に住む怨霊にであろう。
「白川の三位、一条の中納言、近衛の大人、いずれも中将の処刑を主張された方々だ。そ
れが、ここ一月足らずの間に、枯草でも刈るようにばたばたと……」
 息を呑む音が、静寂に遅れて流れた。互いに目で頷きあっている。
 その緊張を壊したのは、太い舌打ちであった。
「まだ怨霊と決まったわけではあるまい」
 朋輩と思われる男が言った。公卿の中に混じりながらも、この男は化粧をしていない。
蓄えた髭を弄ぶ指は太く、素肌をさらしている両腕には分厚い筋肉がついている。豪胆な
眼光といい、武士であるに違いない。
「畏れるからいけないのだ。病にかかっても、怨霊に祟られたと思えば、気力が落ちる。
治る病も治らなくのなるもの道理だろう」
「だが、この飢饉と疫病はどうなのだ。中将の処刑が済んでから、急に京に死神がやって
きたようではないか」
「飢饉は、この夏の長雨が原因だ。疫病は鴨川に詰まれた屍体が運んできたものよ。中将
のしわざでなどあるものか」
「そ、そのようなことを大声で……。祟られれば、ただでは済むまいぞ」
「ふん。この俺が祟られないのだ。それが、怨霊などがおらぬ最大の証拠ではないか」
 表情を引きつらせた公卿たちを、武士は露骨な舌打ちで睨んだ。唾を吐こうとしたよう
だが、場所が場所であるだけに自重したようであった。似合わない装束といい、男の普段
の生活の野卑さがわかる。
 公卿達のうろたえぶりを横目に見ながら、男は屏風に描かれた絵を見た。疫神を踏みし
だく憤怒の形相をした鬼の図柄であった。怨霊の邪気に対抗するには、それ以上の鬼力が
いる。そういうことだろう。
 不意に鬼の絵の上に、人影が写った。
 男の背後に立った者がいたのだ。
 反射的に男は身構えた。気配らしい気配を感じさせずに近づいてきたからだ。ここに太
刀があれば、迷わずに鯉口を切ったであろう。
「酒をお持ちいたしました」
 抑揚を欠いた声が男の耳朶を刺激した。盆に置いた酒器を掲げながら、一人の女御が
座っている。女は、俯き加減に袖で顔の半分を隠している。
 化粧が濃い。それに下手だ。だが、その美貌は隠せなかった。分厚く塗りたくった白粉の
下にある整然とした目鼻立ちは、尋常なものには見えない。
 公卿達は女を見て、急に席を立った。非難するでもなく、酷く脅えた様子であった。
 男は、侮蔑の視線を去ってゆく姿に投げた。女が杯に注いだ酒を無視して酒器を奪い、
中身を喉に流し込む。酒成分が高い。濁り酒ではないようだった。飢饉の中にあっても、
御所の中では酒に向ける米が余っているらしい。
「女、名はなんという」
 男が聞いた。
「志乃といいます」
 女が小さく会釈をした。
「そうか、俺の名を知っているか」
「源勝さまでございましょう」
「ふん。光栄なことだな。部屋住みの武士が、御所の女官にも知られておるとは」
 むしろ機嫌を損ねたように勝は吐き棄てた。源勝の名はここしばらくで急に人々に知ら
れるようになっていた。ただ、その知られようは必ずしも良い意味ではない。
「ご有名なことですので、わたくしのような身分の低い者でも知っております。橘の中将
様の御首を落としなられた方でございますもの」
「やはりそれか。おかげで、誰もが俺を不浄の者でもあるように見る。いかに下等な武士
とはいえ、清和天皇の末裔であるこの俺が、どうして首切り役人と同じようなことをせね
ばならないのだ。左大臣直々のお達しとはいえ、人を愚弄した話ではないか」
「そのようなことを他人に聞かれては、後々困りましょう。怨霊の祟りはあるかなしか判
りませぬが、人であれば必ず障ります。無用なことは、胸の中にしまっておくほうが、賢
明というものでしょう」
「ほう」
 勝は声をあげた。酔眼の中に感歎の表情が混じっている。女の中で、いや、男の中です
ら京を襲っている怨霊の力を否定したものはいなかった。それが、そのまま勝の好奇心に
変わる。
「一つ聞くが、俺のような端下の武家が抱くには、畏れ多い御仁か。貴殿は」
「わたくし自身は、単なる下女に過ぎません。とはいえ、わが主はそのように軽きことが
ことのほか、お嫌いでございます。もし、お耳に入れば勘気をこうむりましょう。私だけ
でなくも貴方も」
「志乃といったな。どこのお方の下に仕えておるのだ」
「さる、尊貴なお方お世話なっておりまする」
「俺の首一つどうにでもなるほどに尊貴なお方か」
「内親王殿下でございますれば」
 負けた、とうように勝は両手を上げた。赤らんだ鼻を、小さく擦る。落とした杯を拾い
上げ、胸元に掲げた。そこに志乃が酒器に残った最後の酒を注ぐ。
「とはいえ、わたくしの場合はどうでしょうか。主は、わたくし疎ましく思っているよう
でございますので。おとこにほだされて、自分のもとを去ったとあれば、むしろ喜ぶので
はないでしょうか」
「言っていることが判らないな。嫌われているのならば、どうして殿下のもとを追われな
いのだ」
「遠慮しているのでございましょう。いえ、畏れているというほうが正確ですか」
「馬鹿なことを言う。なぜ、内親王殿下が下女を畏れねばならぬ」
「それは、わたしくが、橘の中将様の姪だからでございます。
 内親王殿下でも、祟りは恐ろしいのでしょう。わたくしを邪険にすれば、中将様が黙っ
ておりませんから」
 くすくすと、小さく志乃が笑った。鼓膜を刺すような、刺激を伴った声であった。
 さすがに鼻白んだ様子で、勝は言った。
「では、なぜ俺に近づいた。仇撃ちか」
「そのような他愛のないこと……。ただ、わたくしは一つ知りたいことがあるのでござい
ます。それが叶えられるなら、どなたにでも抱かれましょう」
 そう言って、志乃は袂で顔の数箇所を拭った。厚い化粧が取れ、きめ細かい地肌が表面
に現れる。
 そこには、酷く美しい女がいた。
 勝は息を呑んだ。この女は、普段自分の美貌が目立たないように、化粧で醜く化けてい
るのに違いない。
 志乃が勝の腕に手を触れた。
「中将様の首。どにあるのでしょうか。教えて下さいますよね」
 幻惑されたかのように勝は、首を縦に振った。

		2

 青年が星を見ている。
 西の空には太白星(金星)が、威圧するかのように白く眩い。
 今宵は、明星の位置が低い。同じ西の空に浮ぶ歳星(木星)を圧迫するかのような威容
を誇っている。
 陰陽寮では、この太白星の輝きに色めきたっていた。
 夜空の主星の一つである歳星がこうもあからさま犯されるとは、明らかな凶兆であると
しか言いようがない。星々の運行から吉兆を占う陰陽寮が、この現象に注目したのは当然
のことであった。
 喧騒に包まれる陰陽寮とは対照的に、その凶兆を見つめる青年の表情には、静寂が浮ん
でいる。
 青年の名は珠鬼という。
 七位の陰陽師である。職制としての陰陽師にはまだ任官しておらず、学生の身分でしか
ない。美貌の青年ではあるが、かならずしも女に好まれる容姿ではないであろう。むしろ
異相といっていい。面長の、まるで陰の気を凝縮したかような妖しさをともった姿は、女
達の憧憬の対象よりも、神の怒りを鎮める贄にこそふさわしい。
 見上げた視線を戻し、珠鬼はまだ人のいる官舎に入った。
 陰陽寮の官舎に入ると、初老の陰陽頭が文書を広げていた。つい先日、昇進したばかり
の新任の頭であった。実力よりも縁故の優先された前の陰陽頭は、京を襲う疫病を予測で
きなかったため、すでに更迭されている。今度の頭も左大臣に取り入った者ではあるが、
無能には定評のあった前任者よりは、まだ力量はあるようであった。
 珠鬼は、月明かりに青白く染まりつつ、陰陽頭のもとに進んだ。
 片膝をつき、頭を下げる。
 癖の無い漆黒の髪が、板敷きの床に触れた。
「太白の妖気はさらに増したようです。歳星が剣気にさらされるのも、時間の問題でしょう。恐らくは、十日とかかりますまい」
「そうなると、すぐにでも大物忌みを行なわねばならないか。
 任官早々、大任なことだ……」
 顔を上げた珠鬼を見る陰陽頭の眼光は弱い。視線を外さずにいると、陰陽頭は顔を横に
逸らした。文書を読む振りをしているが、珠鬼を恐れているのは明白にわかる。
 以前の珠鬼は、公卿の傍系として老齢になれば五位に端くれまでに昇進する、せいぜい
その程度の中堅陰陽師であるに過ぎなかった。そこそこの昇進はするであろうが、陰陽寮
の長官である陰陽頭や次官である介にまではなれない。周囲の扱いも、それに準じたもの
であった。
 だが、以前とは打って変わって、同僚も上官も珠鬼への接し方が変わってきている。
 理由は明らかだ。
 それは、珠鬼が橘の中将の甥だからだった。
 珠鬼のありふれた運命を急変させたのが、叔父である橘の中将の斬刑だった。
 半月前、まるで前触れもないままに中将は検非違使に捕らえられた。そして非常に稀な
ことに、翌日にはすでに三条河原で斬刑に処されている。普通の死罪であれば、見せしめ
のために公開されるのだが、それもない。まるで、何かに迫られたかのように慌しい処刑
だった。
 いや、例外といえば中将の斬刑はすべてにおいて通常ではなかった。そもそも、朝廷で
はよほどのことが無いかぎり死罪を言い渡さない。死罪となった罪人が、怨霊となって祟
ることを恐れているのだ。それが、公卿であれば尚更であった。実際に、罪を下した人間
を知っているのである。当然恨みも強く、死罪となれば必ず祟る。そうならないために、
最高刑は流罪というのが不文律のようになっていた。
 でありながら、中将は斬刑になった。
 その中将の処刑を決めたのは、当時の左大臣を中心とした公卿たちだ。
 権勢の中心にすわる人間達の決定であったが、中将の死と政治的な権力争いと関係があ
るとは思えない。
 不気味な変人、というのが中将の評判だった。
 一日中屋敷の中にこもり、一人何かに没頭している。名門橘家の総領でありながら、よ
ほど催促されなければ、たとえ御所に呼ばれようとも決して外に出ようとはしなかった。
珠鬼自身も、叔父と会うなど稀なことでしかない。古代豪族の血を引く橘の家において、
叔父が中将程度にまで昇進しなかったのはこの性格のせいであった。
 その中将が何をしたのか。
 陰陽寮にいるだけに、ある噂だけは珠鬼の耳にも届いている。
 思考に心を閉ざそうとしたとき、陰陽頭の声がした。
「ところで、珠鬼。貴様は次の叙任で六位に昇進することが決まった。学生ではなく、正
式に陰陽師として任官することになる」
「若輩者に過分のご沙汰。光栄かつ恐悦至極です」
「いや、貴様の能力からすれば当然のことだ。それに、橘家の嫡流に近い人間を、下人に
毛が生えたような地位においておくことはできないからな」
 陰陽頭は、媚びるような仕草で珠鬼の方に向き直った。
「それに、前の陰陽頭は東国に流されることが決まったようだな。無実の貴様を捕らえて
処刑しようとしたのだから、当然といえば当然だが……」
「あれは、御所からの指示だったのではないのですか……」
「そ、そのようなことはない。あれは、前の陰陽頭が自分でやったことだ。橘の中将の係
累をもともに死罪にしようなどと、そのようなこと……。御所がそのようなことを決める
はずはない……」
 陰陽頭は、珠鬼に告げるというよりは、自分自身にいい聞かせているようだった。
 いや、虚空にいる中将の怨霊に聞かせているのであろう。
 本来であれば、珠鬼は中将とともに処刑されるところであった。一族誅殺という最も苛
烈な処置が、御所から下されたのだ。
 珠鬼も捕らえられ。獄に繋がれた。その晩には、三条河原に引き出されたのだ。
 いまもありありと思い出すことが出来る。
 新月の晩だった。
 正座をする河原の石が冷たかった。
 珠鬼の顔の前に、和紙が張られていた。紙一枚でありながら、夜の闇も重なって漆黒の
の中に沈んでいるようだった。
 闇と自分の運命とに慄いていると、足音が近づいてきた。隣に人間が座らされるのが判っ
た。何か珠鬼に話し掛けたようだったが、よく聞き取れなかった。ただ、今では珠鬼の名
を呼んだような気がした。
 叔父であった。これから処刑される人間であるのに、酷く落ち着いた気配がした。不思
議と力つけられ、珠鬼の心が落ち着きを取り戻し始めた。
 次の瞬間、生暖かい液体が頬にぶつかった。数秒後、重い荷物でも開放するのように、
鈍い音がした。首の転がった音だった。
 太刀が翻えされ、冷たい殺意が首筋に突きつけられた。
 恐怖が珠鬼を支配し、不意に心の糸が切れた。気を失ったのは、幸いであったろう。そ
のままであったら、狂ったに違いない。
 気が付いたのは翌日だった。前の晩のことが、まるで夢であるかのようだった。そうで
ないことにわかったのは、珠鬼に接する人間に少なからぬ恐怖が浮んでいたからだ。
 珠鬼が死罪に処されなかった理由がわかったのは、一月以上経過してからだ。
 首が落とされた後、中将の首が消えたという。
 残された身体も、珠鬼が介抱されている間に何者かが持ち去ったらしい。
 この事実は、御所の公卿達を震え上がらせるのに十分だっようだ。そして、珠鬼への扱
いもまた腫れ物に触るかのようになった。
 だが、不思議なことだ。
 かつての珠鬼であれば、周りの態度の豹変に一喜一憂したに違いない。だが、今は奇妙
なほどに平静な心境が続く。
 一度死を見たのが、珠鬼の心を変えたのだろうか。
 だが、それだけではないような気もした。

		3

「痛っ!」
 小指の先に鋭い痛覚を覚えて、勝は志乃の腰にまわした手を引いた。
 見る間の内に血ぶくれが生じ、指先からしたたってゆく。小さな傷の割には出血が酷く、
夜着も寝具も朱に染めた。
 怒気を発しようと勝は志乃を睨んだ。が、その意志がそのまま歓喜に変わった。
 薄絹に灯火の朱と血の赤とを交えながら、透明な肌が浮かび上がっている。深まってゆ
く夜を凝縮させたかのような妖艶さだった。それが勝の五感を狂わせている。痛覚と快感
の違いがわからなくなっている。
 勝の血を吸った小刀に舌を這わせながら、志乃は足を開いた。湿った音がした。
 痛みを忘れて這い寄った勝の鼻先を、切っ先が通過する。小さな血の後が鼻と額とに浮
かび上がった。
「お約束が先でございましょう」
 志乃のかすかに笑いながら言った。喉ではなく、胸郭から直接響くような笑いだった。
いや、勝には陰部の奥から響いてきたようにすら感じていた。
「あの夜、あなたは中将様の首をお落としになられた」
「ああ……そうだ……」
「その後、首は消えたのですね」
「ああ……」
「そして、その首はどこにいったのでしょう。暗闇の中とはいえ、首だけが無くなるなど、
おかしいではありませんか」
「だが、確かに中将の首は消えた。河原に落ちた音は、聞いたのだ。それに、水音はしな
かったが、川に流されぬともかぎるまい」
「そうでしょうか。わたくし、あなた様が持ち去られたのだと思っていたのですが」
「俺がなぜそんなことをしなくてはならない?」
「あなたが、中将様に恨みを抱いていたからですわ」
 志乃は、乳房に手をかけた勝の頭を抱き、その喉元に刃を当てた。勝の筋肉質の全身が
緊張し、唾を飲む。
「冗談はよせ」
「冗談などと……。わたくしは、本気でございますわ」
 志乃は小さく手を引いた。喉に紅い線が出来る。
 反撃が無理であることを、勝は悟った。捉まえた腕の力といい、躊躇しない手馴れた手
つきといい、か弱い女のものではない。
「ま、待て…・・。俺は、中将を恨んでいたわけではない」
「嘘です。あなたが、中将様の処刑役をすすんで引き受けたのはわかっているのです」
「それは、違う。大体、たかが武士が公卿を死罪に陥られるわけないではないか」
「あなたが陥れたとは申してませんわ。中将様の死は、朝廷に恐れられたため。あの方の
崇高な行為が、凡人には理解できなかったのです」
「な、ならば俺は関係ないではないか」
「ですから、わたくしが探しているのは、中将様の首でございます。あなた様がどこかに
隠されたのです。あなた以外に、いったい誰がやるというのですか」
 志乃の眼が据わった。紅く奇妙な眼光を湛える。その光は、普通のものではない。
 勝はさらに萎縮した。
「あなたは、中将様の首を辱めようとしたのですわ。そのために、落とした首を持ち去っ
たのです。さあ、おっしゃってください。どこにあるのですか」
「ま、まて……。勘違いだ。俺は、中将殿を恨んでなどいなかった」
「戯言を……」
「嘘ではない。考えてみてくれ。俺と中将殿との間に、どのような接点があるというのだ。
昇進が遅かったとはいえ、あちらは殿上人。俺は、ただの衛門の武士だ。中将殿と出会っ
たことすらない。
 俺の昇進の邪魔になったということもない。だいたい、あの御仁は他人の昇進などに興
味はなかった。事実、俺は中将殿の顔すら知らないのだ。これで、どうやって恨みを抱こ
うというのだ」
「……・では、何故斬刑役を引き受けたのです」
「お、俺が殺したかったのは、甥の珠鬼の方だ。俺が眼をつけた女官が、あいつになびい
た。さんざん貢がせられたというのに。
 それに、陰陽師などというものを、俺はこのまぬ。眼に見えないものを退治したと偽っ
て、そのたびに褒章を貰ってやがる。俺たち武士は、命がけで太刀をふるっているという
のに、この落差はなんだ」
「つまり、中将様の斬刑役を引き受ければ、共に珠鬼殿も殺せると……」
「そうだ。中将殿の首を落とした後、奇妙にも近くから首が消えた。介添えの二人は、恐
れのあまり慌てて逃げ去った。やつらは度胸がないから、中将殿は妖力を持っているなど
と信じていたのだ。」
 志乃が小さく笑った。含みのある表情が勝の鼓動を速くした。
「それで、どうなさったのですか」
「中将殿の首のことは、気にしなかった。二人が去った後、わたしは珠鬼の首を斬ってそ
こを立ち去ったのだ」
「……斬首したのですね」
「ああ、間違いない」
「それは……いいことを教えていただきました」
 志乃の語尾が空中に消えた。小刀が喉から離れる。
 勝にとっては、志乃に抵抗する機会であったろう。だが、勝はすでに志乃に気を飲まれ
てしまっていた。抵抗しようという意志すら沸いてこない。
「一つ教えてくれ」
 勝が言った。不安のこもった声であった。
「中将殿は、どうして死罪になったのだ」
「ふふ……。そんなことも知らないで、斬刑役をお引き受けになったのですか」
「俺は知らない。誰も教えてくれようともせぬ。それどころか……、あれ以来、周囲の人
間の様子が変だ。皆、俺から遠ざかろうする。いくら、中将殿の屍を持ち去った者がいる
からといって、それほどに恐れる理由はないではないか」
「あなたは、まだ良いほうですわ。中将様の斬刑を注進なさった方々の中には、流刑になっ
たものおりますもの」
「なに、それは本当か? では、俺はどうなるのだ……」
「未だ決めかねているのでしょう。実際に、首を斬った者をどうするか。殺すのが一番で
しょうが、殺し方が甘ければ、死者の祟りが倍増することありえましょう。どちらにして
も、先の死罪は決まったようなもの。
 ほんと、あなたさまはお気楽でございますこと」
「なぜだ、なぜそれまでにあの御仁を恐れねばならぬ」
「中将様の高尚なご趣味によるものです。朝廷が震え上がるほどのことを、中将様はやっ
ておられましたわ」
「それは、……巫蟲か。誰かを呪ったのだな。世俗のことに興味を持たない変わり人であ
ると聞いていたが、人並みの嫉妬はあったということか」
 鮮血が飛んだ。勝が右目を押さえた。志乃の持つ小刀に眼球が刺さっている。
 声にならないうめき声をあげて、勝が残った左眼で志乃をみつめた。
「中将様をただの人間と比べるなど……。あまりにも、畏れ多きことを……。
 あの方は、おろかな公卿などに嫉妬を覚えるような、下等な人間ではありませぬ。あの
方は、人など超越しておられるのです」
「……」
「教えてあげましょう。中将殿が、何故殺されたのかを。
 それは、くだらない呪詛などではありません。
 あの方は、造ろうとしていたのです。
 人を―――その手で―――
 新しい人間を造るのが、あの方の生涯の目標でした。
 そして、とうとうそれに成功なされた」
「ま、まさか……」
「造られたのは、女でした。姿形は、そう。私と瓜二つとか……
 どちらにせよ、あなた様は中将様の首を落とした。その報いは受けねばなりません」
 勝の胸に何かが刺さった。小刀ではなかった。志乃の細い腕が、勝の分厚い胸筋から生
えている。
 志乃が何かを握った。勝の口から、多量の血が溢れた。
 静寂が秋の夜に訪れた。

		5

		○
 
  見えるものといえば、只々灰色に燻んだ壁ばかりでした。
  わたくしの居た場所は狭く、またそれ以前に、どこか感覚が茫洋としており、首を傾げ
ることすら困難です。
 もちろん、そのような状態では、外に出ることはおろか、視線を変えることも容易では
ありません。だから、まばたきの間以外は、いつも同じところばかりを見つめていたので
す。
 でも、それが不幸だなんて感じたことは一度もありませんでした。
 だって、そうではありませんか。その頃のわたくしは、生まれてからずっとあの場所し
か知らなかったのです。比較の対象が無いのに、幸福だ、不幸だのだなんて、そんなの可
笑しいですわ。
 ただ、今振り返ってみれば、どうやらそこにいたのはさほどに長い期間ではなかったよ
うにも思います。半ば夢と同化しているような不確かな記憶ですから、はっきりとしたこ
とはいえませんが、季節が一つ変わらない時間でしかなかったでしょう。
  何故かといえば、あの方を見たのが、さほどに多くはなかったからです。
  ああ、そう、あのお方。
  いつも一人きりのわたくしの前に、ただ一人だけ姿を現してくれる、愛しい男。
  待ち焦がれるという気持ちが、あんなにも辛いものであったとは。あの方の背中を見て
いるときの心の熱さと、裏腹な一人壁を見る寂とした想い。あの方の存在は、私の感情の
起伏に完全に一致していました。そして、その間にゆれ動きながら、あのころの私は、夢
うつつの中でぼんやりとしていたのです。
  靄のかかったような思考にただよっていますと、感情はあるのですが、具体的な悩みみ
たいなものは浮かんできません。感じることはあっても、考えることはないとでもいいま
すか。ただ一つだけの私の悩みといえば、あの方が時折力なく肩を落とすことでした。常
には凛々しく何事かに没頭しているあの方がです。そんな時には必ず、優しげな眼で私を
見つめた後、大きなため息をついて首を振りました。
  この時の私の心のうちが察せられますでしょうか。もう、それは酷い焦燥感が私を襲い
ます。なぜなら、あの方の落胆の原因はおそらく私にあるのですから。
  考えることが苦手な私でも、必死になって原因を探りました。それもこれも、あの方に
辛い想いをさせたくなかったからです。でも、結論は出ません。私は、私自身のことも含
めてほとんど何も知らなかったのです。
  そんなときは、一心にあの方の姿を見つめました。微かな息吹さえも見逃すまいという
想いでです。
 あの時もそうでした。普段無言のままのあの方が、珍しく呟いたのです。
「鬼のようにはいかないか…・」
 と。
 この一言が、私の現在を決めたのです。

		○

		6

 自分はこのような人間であったろうか。
 最近、珠鬼はそう想うことが多い。
 肉体の中に流れるものが異なっている。焦燥とは別に、酷く醒めた感覚の元にそう感じ
る己がいる。
 いったい、何が起こったのか。
 叔父の死。それに立ち会ってから、異質なものが取り付いたように感じる。
 以前の珠鬼は、多少人好きのしない性格であったものの、通常の人間からかけ離れた性
質を持っていたわけではない。
 陰陽寮といえども、官の役所であることに変わりはなく、その中の一員として、数年間
珠鬼は生活してきた。描いていた将来も、他人と異なるわけではないのだ。
 上司。下僚。人間関係の中で喜怒哀楽しながら、恐らくは五位にまで昇進しないままに
退官する。そういう、一般的な将来を漠然と考えてきた。
 好いた女もいた。通った末に女に子ができれば、そして女が自分以外の男を選ばなけれ
ば、父親となるかもしれない。意図的に選んだわけではないが、自分よりも門地のよい女
だった。それが、今後の出世に良い影響を与えるかもしれない。そう考えたことがないわ
けでもない。
 だが、今は心が動かない。女も仕事も。
(虚ろな……)
 不意に浮んでくる虚無の色が、珠鬼の心身を捕らえている。その時、珠鬼の脳裏に何か
を忘れていたかのような、薄ぼんやりとした膜のようなものがはびこる。このようなとき
には、必ず頭の芯で何者かが首をもたげようとする錯覚に襲われた。
 ただ、それは不思議と不快なものではない。
 額を押さえて下を向く。周囲の物音が耳朶に響く。同僚が、珠鬼の仕草をみて囁きあっ
ているようだった。中将の事件が起こした波紋だ。しかし、周りから浮き、孤独を感じる
ようになっても、むしろそれを喜んでいる自分がいる。
 はやり、自分は何かが変わったようだ。

 そもそも、なぜ人は他人と共にあらねばならないのか。どうして、官にあっては昇進し
なくてはならないのか。女を抱き、子をなさねばいけない理由などあるのか。
 以前ならば、当然としていた前提が次第に崩れてゆく。見える世界が変わってゆくよう
な感覚にとらわれる。
 そして、この感覚にはどこかに覚えがある。
 珠鬼にはそれがわかっていた。思い出そうとしなかったのは、肯定したくなかったせい
である。
 それは、中将と会った時に感じるのと同じ感覚であった。
 中将とは会ったことは少ない。
 最初に出会ったのは、まだ小童の頃であったと思う。中将もまだ青年になりきっていな
いころであったろうか。
 橘の本家の代替わりで、中将の父、自分にとっては大伯父が死んだ時だ。
 本家に連れてゆかれ、鹿爪らしい挨拶をしても、叔父は何も言わずに珠鬼を見ていた。
後に聞いた、幼少のころから騒がれた神童としての面影は、まだ十分にその容貌に残って
いるようだった。本家に赴いたのは、初めてではなかったが、中将の顔を見たのはこのと
きがが初めてだった。
 中将を前にして、珠鬼に畏怖はあったが、それ以上に戸惑ったのは、どこか異世界を感
じさせる感覚に囚われてしまうことだった。
 子供心にそれは踏み込んではいけない領域であったと感じた。今は亡き珠鬼の父も、そ
う言った。お前は、本家に好かれてしまったようだと。そうして、注意するようにとも言っ
た。以来、父は珠鬼を中将のもとに連れてゆこうとはしなくなった。それは、橘の家の長
子でありながら、母の門地が低いが故に家督を中将に譲ったことが理由であるようには思
えなかった。
 次に会ったのは、父が死んだ時だ。まだ、半年ほど前のことに過ぎない。
 珠鬼は父の死に伴って家督を継ぎ、陰陽寮に任官する際に本家に報告しなくてはならな
かった。中将に珠鬼の後見役を期待していたわけではない。ただ、形式とはいえ本家の了
承を得たかたちにしなければ、珠鬼の継承が公式のものにならない。
 珠鬼としては、出来れば中将自身には会いたくなかった。会えば、恐らくは中将の持つ
毒のようなものに当てられる。
 家督相続で珠鬼が訪れたとき、橘の本家はだいぶ傾いている様子だった。使用人の数も
り、一様に暗い。屋敷内の北の隅に造られた離れにこもったまま、中将は滅多に表には顔
を出さないという。老年の執事はそう言った。そして、せっかくの挨拶であるが、主人は
お会いにはなりませんでしょう、と疲れた声で答えた。
 珠鬼としては、むしろ有り難かった。執事への口上で、本家への挨拶を済まそうとした
が、執事はとりあえずお伝えしましょうと言って、中将のもとに向った。
 さほどの時間はかからず、執事は戻って来た。眉間を寄せ、小首を傾げながら、中将が
珠鬼に会うと言ったと告げた。その態度からみて、即答した様子だった。
 珠鬼は少なからず動揺した。何に興味を持ったにしろ、あの叔父のことだけに、通常の
ことではないような気がしてしかたがない。
 対面の場は、中将のこもる離れではなく、母屋の客間であった。上座に座った中将は、
気だるそうに脇息に肘をついている。
 中将の姿は珠鬼を驚かせた。
 血色が悪く、髪に艶が無い。全体として、やつれ果てている。しかしながら、中将は以
前珠鬼が会ったころから、さほどに年齢を重ねていないかのように見えた。歳のころは、
そういまの珠鬼と同じくらいに見える。
 橘の家特有の彫りの深い目鼻立ちを、簾越しに差し込んでくる初夏の陽光に晒し、中将
は口の端を上げて笑った。
「珠鬼か。随分と、成長したものだ」
 叔父にしては平凡な感想を洩らし、中将には再び黙った。
 珠鬼は叔父の前に平伏した。視線を合わせていたくなかったからだ。
「このたび、父の喪が明けまして、我が家を継ぐ事になりました。若輩者ではございます
が、ご本家にても父同様宜しくご引き立て頂きたく、ご挨拶に参りました」
「ああ、そうか……」
 聞いているのかいないのか、完全に興味が無い様子だった。無言の圧力に耐えられず、
珠鬼は顔を上げた。そこには、中将の視線があった。濁ったような、それでいて混濁の奥
に強い意志と多分の狂気を孕んだような視線だった。
 言いようのない不安を感じて、珠鬼は再び顔を伏せた。
 脂汗が床板に落ちる。独り言のような中将の声が聞こえた。
「お前は俺に似ている」
 言葉の意図するものがわからずに、珠鬼はそのまま平伏の度合いを深めた。中将の声は
そのまま続いた。
「おそらく、私は、近いうちに死ぬこととなろう。その時は、お前に世話になるやもしれ
ぬ。心得ておいてくれ」
 不思議な声音だった。不吉な内容にも関わらず、爽やかですらある。どこか、虚空から
響いてくるような印象が、後味のように残った。
 返答を期待されていないようだったので、珠鬼はそのまま辞した。中将も引き止めなかっ
た。その半年後、中将の言葉は現実となった。だが、その死の場にいながら、珠鬼が出来
たことは何もない。
(しかし、叔父が人を造っていたという……それは、本当なのか?)
 情報通の者達の中に、疫病のように蔓延ったこの噂は、陰陽寮では当然のことのように
なっていた。むろん、珠鬼に面と向って言う人間はいなかったが、人の口に戸は立てられ
ない。自然、珠鬼の耳にも入った。
 珠鬼自身は、その噂に懐疑的であった。本当に人など造れるものか。
 しかし、周りは信じてるようだった。だからこそ、これほどまでに珠鬼の遠慮をするの
であろう。そして、珠鬼自身も完全に否定できないでいる。あの叔父であれば、そのよう
なことを企てたとしても不思議ではない。成功の可否をおいておくとしても。
「珠鬼様でございましょうか」
 深い想念を破ったのは、女の声であった。珠鬼は無言のままに振り返った。
 美しい女御が立っていた。綾井傘のうちから覗く唇の朱がやけに鮮やかだった。
「ああ、そうだ」
 珠鬼が簡単に答えると、女は心の底から嬉しそうな表情をした。
「お会いしとうございました……様」
 語尾は風に消えた。

		7

 大内裏の上空に北斗が浮んでいる。
 南の空には、細い二日の月が陰気な光を放っている。
 東寺にそびえる塔の影が、長く薄く朱雀大路に垂れている。
 誰一人としていない広い通りは、闇の影とに彩られ、遠く眼に映る羅城門の門影は異界
へと続く暗がりの一路であるかのように、虚ろに浮かび上がっている。
 珠鬼の足が地面の泥濘を踏んだ。足元を捉えるえも言えぬ触感は、なにか得体のしれぬ
ものに捕らえられるかのような錯覚を湧き立たせる。
 女が後ろを向いた。珠鬼のほうだ。
 暗い。
 美しい貌が見えない。
 何故か、紅の唇だけが見える。見えるはずがないのにだ。白い肌が網膜を刺激しないの
に、それよりも暗い赤が見えるはずがない。
 しかし、これが闇だ。
 闇は、自分が想い描くものを見せる。善きもの。悪きもの。畏ろしきもの。いずれにし
ても、この世のものではない。
 闇は嫌いだ。いや、嫌いだった。
 暗闇に浮かび上がってくるそれらの、異界に属するものたちに接するのが怖い。
 それも、人であるならば、普通のことであろう。
 だが、今はどうなのだろうか。
 女が笑った。紅い唇が嬉しそうに濡れている。
 酔ったような痺れを脳の奥に満たしながら、珠鬼は想った。自分は、何故この女につい
て来たのだろう。
 ――美しかったからか。
 そう考えて、珠鬼は不意に愕いた。
 女を美しいと想ったのは、叔父が死んでから初めてではないか。
 今、何故そう想ったのか。いや、それ以前にどうして女を美しく感じなくなったのだろ
うか。
 女は志乃と名乗った。本名ではあるまい。しかし、この女に名などあるのか。
 志乃が薄い月光に貌を晒した。微笑が燐光のように淡く漂っている。
「どうしました、珠鬼様」
 志乃が言った。声がしたのかどうか。直接脳裏に響いたのではないか。
「どこにゆくのだ」
 あそこだろう。
 判っていた。女の還るところは、一つしかない。
 羅城門が見える。この世とあの世の境だ。
 睦言のように志乃が笑った。
「あそこでございますわ」
 そう言って、羅城門を指さした。いや、羅城門のある闇をだ。
「お前は……何者なのだ」
 珠鬼は訊いた。志乃が不思議そうに小首を傾げる。何故そのようなことを訊くのか。知っ
ているくせに。そう言っているかのようだ。
「珠鬼様は、中将様のことを覚えておいでですか」
 珠鬼の問いに答えず、逆に志乃が問いを発した。
「叔父のことは良く覚えていない。いや、良くは知らないといったほうがいいか。私にとっ
ては、畏怖の対象でしかなかった」
「ふふ……。
 恐ろしいのですか? 中将様が。あのお方は、よく陰口されておりました。不甲斐なき
方よと。橘の家の御曹司でありながら、世に出ることもなく、唯々家を傾けている」
「お前はそうは思っていないのだろう」
 ふふ、と再び志乃が笑った。
「叔父は、世など見てはいなかったのだ。
 現世の理など、所詮は水面に映る影のようなものでしかない。確かなものなど何も無い
のに、映った影の美醜に一喜一憂してどうなる。世に満ち満ちている、そのような浮薄な
ものは、いずれは、消える。結局のところ何等の意味もないものだ」
 本当か。口にしながらも、珠鬼は自分に問いかけていた。
 そのような浮薄な中で、できる限り美しいものを追い求めていたのではないのか。少な
くとも、今までの珠鬼であればそうであったに違いない。
 たとえ大した地位でなくとも、一つでも良い位階を。多少なりとも、見目、容貌良く門
地も増しな女を。老いさらばえ、老醜をさらしたとしても、一刻でも長い生を。
 虚ろな現世だというのに、願うことはそのようなことばかりだ。
 人であれば、当たり前のことだ。疑問にすら想わなかった。
 それが崩れてきている。
 崩れたという事実に愕いているだけで、その先はわからない。
 が……。
 現世が浮薄だと否定したみたところで、何が得られるというのだろうか。普通の人間で
あれば、何も得られないということを知っているのだ。
 珠鬼は志乃を見た。
 美しい。だが、それは人の美しさではない。
 いわば、絵画の美しさだ。自然と偶然がない混ぜになった美しさではない。
 この美しさは、説明ができる。
 主題は整であろうか。計算された、左右の対象性。均整の取れた配置。そして、酷く透
明な肌。全体として静けさを感じさせる姿は、人の域を越えている。
 だが、それを見て取れるのは、特別な人間なのではないか。唯の人であれば、単に美し
い女の一人として思えないような気がする。
 そう考えて、珠鬼は自分を哄った。この思考の果てに行き着くのは、珠鬼自身がその内
に、特異に研ぎ澄まされた美意識を秘めているということではないか。
 珠鬼は女を見た。やはり、通常の美しさではないような気がする。
 それに……。そうだ――酷く懐かしい。
 これが、現世を棄てたときに得られるものなのではないか。
 志乃が笑った。珠鬼の想念に肯くかのように。細く白い腕が、珠鬼の背に回る。
「珠鬼様。幼少の頃を覚えておいでになりますか」
「……何故そのようなことを訊く」
「珠鬼様の疑問にお答えするためでございます。ご幼少の頃、中将様のお屋敷に参られた
のではありませんか」
「ああ……」
「橘のお屋敷には、山桜の木がございました。老いた大木でございます。もう花をつける
こともなくなっておりましたが、橘の家では大切にしておりました。
 あれは、かのお屋敷を守護する神木でございました」
「そうであったな」
「ふふ……。
 老木でございますから、いつ枯れるともつきませぬ。中将様は、いっそ根の手入れをな
さろうといたしました。家人の止めるもの聞かずにで」
「覚えている。誰も手を出そうとしなかったのだ。それ故、自ら掘った。己の言に逆らう
周囲が面憎かったのだろう」
「そうであったのかもしれません。しかし、掘り進んでいるうちに、出てきたのは根だけ
ではありませんでした。幾重にも根に絡まれていたのは――」
 そうだ。思い出した。あそこにあったのは……。
「そうです。骨でございました。恐らく、あの老木は塚の上に植えられたものでございま
したのでしょう。それが、橘の先祖であったのかはわかりません。しかし、根の中に横た
わっていた白骨は、神木の木霊であったことは確かでございます。
 中将様はそれを暴きなされてしまった」
 骨といっても頭蓋だけだった。他にもあったのかもしれないが、朽ちてしまったのか、
周囲に埋まっていなかった。小さめの頭蓋だった。子供のものではなかったのだろう。