犯人は現場に戻る

 私が駆けつけたときには、もう捜査会議は終わっていた。
 京都で行われた、若手の刑事を対象にした府警との合同合宿に参加していたのだが、所
轄で発生して殺人事件の人手が足りないとのことで、急遽呼び戻されたのだ。
 私は、警視庁捜査一課の刑事だ。もっとも、まだ半人前扱いしかされていない。
 直属上司の山田係長を捕まえて、自分の持ち場を尋ねると、捜査に出かけようと急いで
いた係長は、「今回は俺の配下じゃない」とだけいって出かけていった。
 じゃあ、誰の指示を仰げばいいのか。
 それくらい教えてくれなくては困る。
 私は内心憮然としていた。あまり当てにされていないのしかたがないが、わざわざ出張
から呼び戻したのだから、それなりのことはして欲しい。
 が、そう思ったところで状況が把握できるわけではない。
 私は、他の上司を探した。一課長はいない。係長クラスも出払っているらしい。いや、
それどころか誰もいない。
 仕方なしに、電話で呼び出そうと受話器を持ったときだ。いきなり背後から声をかけら
れた。
「平井。今回、俺とお前は遊軍だそうだ」
「瀬谷崎さん」
 振り返った眼に飛び込んできたのは、瀬谷崎警部の姿だった。
 捜査一課の古参の刑事である。がっしりとした体格と寡黙な性格。昔かたぎの捜査方法
は、現在の科学捜査に合わなくなってきているが、それでも長年の経験で培った捜査能力
は、ツボにはまれば唖然と言わせるほどの力を持っている。
「遊軍って、なにをするんですか」
 私は訊いた。瀬谷崎警部は、そのまま憮然とした表情を崩さない。
「二人で、古屋係長の下だそうだ。ただ、まだ何をするかは聞いてない」
 私は内心で舌を出した。
 瀬谷崎警部と古屋係長は、非常に仲が悪い。
 もともと、キャリア出身で警部から始めて昇進してゆく古屋警部は、おそらくこのまま
警部のまま終わるだろう瀬谷崎警部を馬鹿にしているようなところがあった。それにたい
して、瀬谷崎警部が反発している。
 というのが、一般的な見方であったが、私はそうは思っていない。いや、もしかすると
他のみんなもわかっていて、表面違う態度をとっているだけかもしれないが。
 まず、二人が合わない理由の一つは、捜査に対する姿勢の違いである。古屋係長はキャ
リア出身らしく、理詰めで合理的な捜査方法を好む。それに対して、瀬谷崎警部は典型的
な足で稼ぐタイプであった。その相違が二人の距離を遠くさせている。
 それに、もう一つ。
 こちらの方が理由としては強く、それだけに、全員口には出さないでいる事実である。
古屋係長は、一課長と仲がよくない。いや、正確に言えば競合している。
 一課では、キャリア出身者で特に将来が有望視されているのは、一課長と古屋係長だっ
た。しかも、この二人の関係では、一日の長があるだけに、一課長の方が優勢なのだ。そ
れゆえに、古屋係長としては、焦らざるを得ないのだろう。
 ただ、古屋係長も正面きって一課長と対峙しているわけではない。その点においては、
クレバーな人だ。表面、一課長を立てている。だから、普通の人間だったら、二人の確執
に気がつかないかもしれない。
 しかし、こちらは刑事である。そういう嗅覚は発達しているし、捜査一課は花形だけに、
キャリア同士の対立もごく普通のことだ。隠していても、それはわかってしまうことだった。
 古屋係長は、瀬谷崎警部の捜査方針を攻撃するのは、そういう意味もこめられていた。
独立独歩、単独で捜査をする瀬谷崎警部の捜査方針というより、それを黙認している一課
長を暗に攻撃しているのだ。瀬谷崎警部の行動は、益の無い場合も多い。異を唱えるには
やりやすい相手ではあった。
 その古屋係長と共に、捜査をする。やりやすいことではない。
 だが、そんな私の不安も、瀬谷崎警部には届いているのかいないのか。
「平井、行くぞ」
 不意に瀬谷崎警部が言った。言葉が終わらないうちに、歩き出している。対して長い足
でもないのに、やたらと歩くのが速い。
「しかし、行くといってもどこに?」
 そう言うと、瀬谷崎警部が大きく鼻を鳴らした。私を非難しているらしい。
「行くって言ったら、現場に決まっているだろうが」
「でも、現場検証は終わっているんじゃないですか?」
「あんなものは、おもてっつらだけのものだ。被害者の状況を把握するため、しばらく現
場に住み込む」
「住み込むって、瀬谷崎さん!」
 署を出ると、呼んでおいたのだろう、覆面パトカーが止まっていた。ただし、運転手は
いない。瀬谷崎警部は、さっさと助手席に乗り込んだ。私は、運転席についた。
 エンジンをかけて、私は車を走らせた。本庁の出口に来たとき、谷崎警部から、晴海通
りだと短い指示が出る。
「でも、なんで住み込みなんですか」
 最初の信号待ちのときに、私は訊いた。
「なんだ、ガイ者の状況を知らなかったのか」
「簡単なことは聞きました。一人暮らしの老婆で、身寄りも少なく、他人と交流する性格
じゃなかったとか。おかげで、殺す動機のありそうな人間が見つからない」
「判っているなら、質問するな。要するに、殺りそうな人間が見つからない。だから、探
しているところだ」
「でも、それなら、ガイ者の住所録とかと見て、当たっていったほうが・・・・・・」
 そう言うと、瀬谷崎警部はジロリと私を睨みつけた。
「古屋みたいなことを言うな。そんなことは、他の連中がやっている。遊軍は遊軍でやる
ことがある」
「はあ・・・・・・」
 言っても無駄か。私はそう思った。考えてみれば、瀬谷崎警部が自分の方針を変えるわ
けがない。瀬谷崎警部最大の欠点だが、それだけがとりえでもあるのだ。
「でもいいんですか?
 古屋係長がこんな捜査方針に許可を出すと思えないんですが・・・・・・」
「くだらんことを心配するな。もうちゃんと、喧嘩としてきた。好きにしろっていう、お
墨付きだ」
「・・・・・・」
 やっぱり予感は当たっていた。この人に何を言っても無駄だ。その点については、もう
すでに先手を取っていたらしい。
 車は、晴海通りを直進している。渋滞のため、なかなか動かない。銀座が近くなると、
この道はいつも混雑している。
 さぞ、瀬谷崎警部も焦れているだろう。そう思って、助手席を見たとき、私は驚いた。
2、3分前まで話をしていたというのに、もう寝ているのである。
 いつも思う。この種のバイタリティについては、この人にはかなわない。

 被害者が住んでいたというマンションは、思ったよりも大きいものだった。ただし、だ
いぶ老朽化が進んでいるようでもあった。築30年は経過しているだろう。それでも、銀
座から大して離れていないこの地域であるから、被害者はそれなりの資産家であったのだ
ろう。
 マンションに住み込んで、もう三日になる。その間、我々は何をするでもない。
 瀬谷崎警部は、一日中窓から外の光景を眺めている。
 来た人間といえば、牛乳代の回収人と保険の勧誘員がやってきたくらいであった。
 被害者の老婆が他人と付き合っていなかったというのは、本当らしい。一応親類には連
絡したらしいが、新聞の記事も小さな扱いであったためか、やってくる人間が全然いない
のだ。それに、来たとしても被害者の死を知らない人間ばかりであった。管理人に口止め
としていたとしても、周辺住民と関係を持っていれば、こうはならない。
 私は、部屋の中を見渡した。
 きちんとしたものだ。コンビニの袋が床に散かっているが、これは私たちが持ち込んだ
ものだった。入ってきたときは、整然とした部屋の様子に、被害者の性格が見て取れるよ
うで、多少驚いたものだった。
 犯人は、この部屋で被害者を殺害し、机の引出しにあった現金を盗み出したらしい。ら
しい、というのはこの部分に物色の痕跡があったことから推測しているだけである。通帳
等が残されたままであったので、そう推測された。老人は、銀行からの現金引き落としが
ほとんどなく、支払いは直接回収人が訪れていた。そのため、それなりの額を生活費とし
て持っていただろう、というのがその理由である。
 最初は親類から、また領収書などを調べたが、これといった容疑者は出てこなかった。
まだ、殺しそうな人間がいないのだ。
 鑑識の話では、遺体に付着した髪などから、ある程度の人物像は出てきているらしい。
ただ、前科はない。当然、親類や近所の顔見知りなどは、チェックされたという。しかし
ながら、被害者の交際関係が不明であるが故に、それ以上の捜査の糸がつながってこない
ようだった。
 他の捜査員たちも、苛立っているだろう。
 しかし、私もそうであった。いや、彼ら以上にだ。向こうは、何らかの行動をしている
のだが、私はここでじっとしているだけでしかない。
 まだ、これが他の人間とであればよかったのであるが、一緒にいるのが瀬谷崎警部であ
る。正直、ずっと一緒にいるのは、気鬱でしかない。何があるか判らないため、基本的に
は二人でいなくてはいけないし、人がいるのを知られないために、テレビを見ることもで
きなかった。非常に長い一日が延々と続いている。
 そんな思考が浮かんでは消える。
 いいかげん、気分がめいっていたときだ。
 携帯電話のベルが鳴った。私のだ。瀬谷崎警部は、携帯電話を持たない。
 受信ボタンを押すと、古屋係長の声が聞こえてきた。
「平井か? あいつはいるか?」
 やたらと忌々しそうな声だった。瀬谷崎警部と話すのが、心底嫌であるらしい。
 私は、電話を瀬谷崎警部に渡した。誰だとも聞かずに、警部は電話を取った。
 二人は、しばらく話し合っていた。といっても、瀬谷崎警部の答えは簡単である。さあ
とかええとかいう内容だけである。その間も非常に長い。古屋係長が一方的に喋っている
のがわかる。
 やがて、話が終わったのか、それとも古屋係長が業を煮やしたのか、瀬谷崎警部は携帯
の電源を切って私に渡した。
「なんの用事だったんですか?」
 私は訊いた。
「たいしたことじゃない。それから、電源は切ったままにしておけ。連絡は、こっちから
すればいい」
「いいですか?」
「俺達は遊軍だ。かまやしない」
 ため息をついて、私は携帯電話をしまった。

 夕刻になったときだ。
 不意にドアが叩かれた。半分眠っていた頭をたたき起こして、私は緊張した。
 しかし、聞こえてきたのは聞き慣れた声であった。
「おい、開けろ」
 そう言ったのは、古屋係長だった。私は、ドアの鍵を開けた。
「ふん。随分とのんびりした顔だな」
 そう言われたのは、私だ。開口一番、瀬谷崎警部への嫌味から始まるものだと思い込ん
でいただけに、これは意外だった。
 当の瀬谷崎警部は、部屋の奥で相変わらず窓の外を見ている。返事をする気にならない
らしい。
 いつもなら、ここで一番古屋係長の口撃が出るところだが。
 そう思ってハラハラしていたが、予想に反して何も出てこなかった。非常に気詰まりな
時間が過ぎてゆく。
「捜査は進展しているのか?」
 また、古屋係長は私に訊いた。しかし、瀬谷崎警部に聞かせようとしていることは、明
らかにわかった。
 私は、今までの状況について説明しようとした。それを瀬谷崎警部が制止した。
「それを聞いて、どうしようってんです?」
「今のお前達の監督責任者は私だ。捜査の状況を把握しておこうとしているだけだ」
「……」
 瀬谷崎警部は黙った。そうしていると、何物をも寄せ付けない雰囲気である。
 古屋係長の言葉に嘘がある。それは、私にもわかった。
 おそらく、思ったように捜査が進展していないのだろう。古屋係長は優秀ではあるが、
エリート街道を順調に歩んできたせいか、逆境に焦るところがある。行き詰まった捜査の
打開のために、こちらの情報を知っておきたいを思ったのだ。
 本来であれば、無視するところなのだろうが、わざわざここに来ている。古屋係長が内
心だいぶ焦っていることがわかる。出来る限り態度に出すまいとしているが、それも上手
くいっていなかった。どうしても、下手になってしまっている。
 一課長だったら、間違いなく強権発動で提出させているな。
 変に冷静になりながら、私はそう考えていた。
 瀬谷崎警部がどう言おうと、警察組織の中で行動しているのである。捜査状況を上司に
報告するのは、義務以外の何物でもない。そのことに躊躇する必要は無いのだ。なのに、
古屋係長はおる意味、お願いをしている。
 瀬谷崎警部は古屋係長を横目ににらんだ。その後、私に向かってテーブルの上に置いた
メモを指差した。説明をしろということらしい。
 私は、簡単に説明をした。
「現状で、この部屋に尋ねてきたのは、二名だけです。一人は、牛乳代の回収人、もう一
人は保険の勧誘員……」
 そこまで説明したとき、古屋係長はメモを取り上げた。手早く手帳に書き込むんだ後に
は、もう身体を翻している。
「いいか、携帯電話の電源は入れておけ。命令だからな」
 そう捨て台詞を残して、古屋係長はドアの向こうに消えていった。

 もう、二十日になる。
 ここの生活にも慣れてきたのか、のんびりとしたものだった。他の捜査員達の苦労を思
うと、後ろめたい気持ちになるが、こうゆっくりしたのも悪くないと思ってしまう。 
 瀬谷崎警部は、相変わらず窓の外を見ている。
 一人暮らしの老人といっても、社会とは没交渉というわけではないらしい。そこそこ、
尋ねてくる人間もいる。しかし、犯人と思われるような者はいなかった。
 つまり、犯人が犯行現場に戻るというのは嘘だ。きっと、このままここにはやってこな
いのだろう。
 古屋係長からは、あれから一回だけ連絡があった。ほとんど嫌味だったが、私達が教え
た人間は二人ともシロだったそうだ。
 まあ、そんなところだろうとは思った。第一印象では、到底犯人には見えなかった。わ
ざわざ内偵する必要もないと思っていた人間である。話を最後まで聞かないのがいけない
のだ。
 もっとも、古屋係長のことだから、説明しても信用しなかったろうが。
 今日ももう夕刻だ。このまま、明日になるのだろう。
 そう思った時、ドアがノックされた。鍵を開ける。
 立っていたたのは、一課長だった。
「あ、課長。どうしたんですか」
 思わずそう訊いた。一課長は、何を言っているのかというふうな表情をした。
「捜査の進展を聞きに来たに決まっているだろうが。それとも、何か? お前ここでのん
びり休暇でも取っているつまりだったのか?」
 冗談ではない。瀬谷崎警部とマンツーマンの休暇なんて、とてもじゃないが過ごしたい
とは思わない。しかし、ちょっとだれ気味だったのも事実だ。
「そういえば、古屋が来たらしいが、いつの話なんだ」
「一週間前です」
「ふん、あいつもせっかちだな。何をするにも、どうも腰が据わっとらん。だから、出世
が遅いんだ」
 古屋係長の出世が遅いとは。始めて聞いた評価だ。一課長からみれば、古屋係長も頼り
ない人間なのか、それともこれは対抗心の顕れなのか。
「で、状況はどうだ?」
 一課長は訊いた。これは、瀬谷崎警部に対してだった。私、ちょっと落ち着かなくなっ
た。捜査は完全に行き詰まっている。犯人らしい人間は、今まで一度も現れなかった。
 瀬谷崎警部の言葉を待った。いつもの無愛想さで、警部が答えた。
「特に怪しい人間が来ていません」
「そうか。お前達がここにこもって、二十日だったかな」
 皮肉なニュアンスは込められていなかったが、私には刺さった。無能者となじられてい
るような感覚が満ちてゆく。やはり、こんな捜査方針は無意味だったのではないか。
 だが、次に続いた一課長の言葉は私を驚かせた。
「じゃあ、誰が来なかったんだ」
「年寄りの一人ぐらしですからな。特別なのはいないでしょう。月末に来る人間で、まだ
残っているのは、NHKの集金人と郵便局の人間ってところですか」
 一課長が携帯電話を取り出した。
「ああ、俺だ。至急ガイ者の地域担当のNHKの集金人と、郵便局の職員を調べろ。今の
調査は中断してかまわん。俺もすぐに行く。明日までに結論をだせ。いいな」
 一課長の矢継ぎ早な支持が飛んだ。私は、リアクションに困っていた。
 そんな私を見て、一課長が言った。
「なんだ、平井。そんな、鳩が豆鉄砲くらったような顔をしやがって」
「いえ、その……これは」
「ああ、面倒くさいやつだな。瀬谷崎、なんか説明してやれ。俺は、指揮に戻る」
 そう言い捨てて、一課長は部屋を出て行った。
 私は、その後を追おうとした。捜査に参加しなくてはいけない。
 だが、後ろから強い制止の声が届いた。
「平井、捜査の途中だ。勝手に動き回るな」
 見ると、瀬谷崎警部は以前と同じように、窓から外の様子を窺っている。捜査というの
は、今までと同じ内容なのか。
「で、でも、こっちも捜査に参加しないと……」
「これが俺達の捜査だろうが」
「だって、現われなくちゃいけない人間を調べていたんじゃないんですか?」
「そりゃ、課長の判断だ。古屋は犯人が現場に現わると思った。それだけだ」
「じゃあ、瀬谷崎さんは何を目的にここにいるんですか」
 そう訊くと、瀬谷崎警部は不思議なことに出会ったように眉をしかめた。
「それが判らんから、現場にいるんだ。最初に言ったろうが」
 つまり、捜査方針が立てられないから、証拠集めをしていたということか。現場にいつ
づけることで。
 それは、わからなくもない。わからなくもないが、ここまで来てそれを続けるつもりで
いるとは。
 なんというか、この執拗さ。
 一番わからないのは、この人だ。

 追記:
 犯人は、郵便局員だった。