腑分け絵師

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 三条白川橋まで来ると、橋のたもとでは宿場馬が道草を食んでいた。
 艶のない黒鹿毛の老馬で、土を踏む足取りも弱々しい。痩せた身体には幾本もの肋骨
が浮かんで見え、草を噛むごとに大儀そうに小さく揺れている。
 ――これでは人と荷物を一緒に乗せられるのか?
 幸次郎はあきれながら、馬の傍らで煙草を飲んでいる馬子を見た。
 がっしりとした体格の若者で、馬よりもよほど頼もしい。どちらかといえば、この
若者に背負ってもらったほうが、心強そうである。
 そう思いつつ、幸次郎は橋に向かって歩いていった。自分達を見つめる視線に馬子も
気づいたようで、誘いかけようと立ち上がってこちらに顔を向けた。
 どうもその顔に覚えがある。眼を凝らしつつ近づくにつれ、幸次郎はようやくのその
正体が分かった。
 同じ、円山町に住む源次である。
 幸次郎とは仲がいいというほどでもない。が、人の良い男でしかも他人の面倒見がい
いから、近所の人間としては嫌な相手だと思ったことはなかった。
 やあ――と、幸次郎が手を上げると、源次もようやくこちらが誰だか分かったよう
だった。人懐こい笑顔を浮かべながら、幸次郎のもとに走りよってくる。
「なんです、師匠。珍しいじゃありませんか。こんな、街外れまでくるなんて、どうい
う風の吹きまわしです? まさかこのまま旅にでも出るつもりなんじゃあ」
「何を言ってるんだい。こんな格好で東海道を下れるわけがないだろう」
 紺縞の着流しに草履という姿を見せながら、幸次郎は云った。白川橋を渡るともう
京都の郊外で、この先の粟田口からは、東海道が江戸まで続く街道の起点になっている。
馬子の源次がここいるのも、旅に出る人間を客にしているからだ。
 そうしていると、老馬が源次を慕って寄ってきた。源次は馬の長い首を撫でながら幸
次郎に訊いた。
「それじゃあ、やっぱあれですか。東山の峰でも描きに来たとか? 修行熱心なことで
すねえ」
「まあ、そんなところかな」
 源次の問いに、幸次郎は曖昧に答えた。
 別に用事などなかったのだ。ただ、考えことをしながら漠然と歩いてきたら、いつの
間にかここにいたというだけのことだ。確かに絵筆は持ち歩いているから、写生だとし
ておくのが一番無難な答えではあろう。
 そんな曖昧な答えが冗談口を躊躇わせたのか、源次は少し困ったような顔をした。そ
して、雰囲気をよくするつもりなのか、思い出したように話題を変えた。
「そうだそうだ。今度はおめでとうございます」
「え、なんのことだい?」
 突然の祝辞に面くらいながら、幸次郎が訊き返すと、源次は「とぼけないでもいいで
しょうに」と云って笑った。
「いや、聞きましたよ。なんでも、長喜庵の書画会でだいぶ好評だったそうじゃありま
せんか。絵師の方々の間じゃ、石川汀鵬師匠のお弟子さんが、大層な絵を持ってきたっ
て評判ってことですよ。いやあ、師匠もようやく芽が出始めたってことでしょうねえ。
修行のかいがあったってもんでさあ」
 またか。
 幸次郎は、苦虫を噛み潰したような気分になった。正直もう、この話にはうんざりし
ているのだ。
 書画会というのは、絵の評論会のことである。絵師や好事家が集まって、持ち寄った
作品の良否を談ずる。もともとは、寛政のころ皆川淇園が始めたものであるが、淇園の
死後も長喜庵に引き継がれ、今でも毎年秋に行われていた。ここで、良い評判が立てば、
絵師としての箔もだいぶあがる。
 その、先月行われたこの書画会で、幸次郎の師である石川汀鵬の弟子の一人が、後世
に残るような見事な絵を出品したのだ。その噂が一人歩きして、源次の話――つまり、
幸次郎の絵が認められた――になったわけである。
 実のところは、単なる誤解なのだ。
 師匠の汀鵬という人は弟子を取らない人で、手慰みの習い事程度の者を除けば、弟子
といえるの存在は、長いこと幸次郎一人しかいなかった。
 ただ、それもついこの間までのことで、今はもう一人いる。まだ十三の少年で静馬と
いうのだが、実のところ例の絵を描いたのは、こちらの弟子の方なのである。天才肌の
少年で、描く絵に自然とに気韻のようなものがこもる。その静馬が半ば冗談、恥かきの
つもりで書画会に出した絵が、並み居る絵師達を唸らせたのだ。
 もし、この話をはたから聞けば、普通なら兄弟子の幸次郎が描いたと思うだろう。だ
から、誤解もしかたないと思うのだが、いちいち弟弟子にあっさりと抜かれてしまった
のを説明して歩かなくちゃいけないのだから、正直なところやりきれない。
 相当に憮然とした気分を抱えながらも、幸次郎は源次に向かって訂正しようとした。
放っておくと、さらに噂が広まって、さらに何度も訂正しなくてはいけなくなるからだ。
 そう思い、幸次郎は口を開きかけたその時――
「おい、源さん。そりゃあ、違うんだ」
 不意に背中から太い声が聞こえた。
 振り向くと、そこに立っていたのは、友人の良庵だった。細身の身体つきに総髪に束
ねた頭。手には薬箱を持っている。
「こりゃあ、良庵先生。これから病人のところですか?」
「そんなところだ」
 源次の問いをあっさりと受け流して、良庵は云った。良庵などと隠居した年寄りのよ
うな名前をもっているが、年はまだ二十三である。
 良庵はようやく見習いから脱却した若医者である。幸次郎と同じ駆け出しだが、絵師
として一向に芽の出ない幸次郎と違って、良庵は確実に医者としての腕を上げてきてい
る。そのせいか、幸次郎とは一つの年長でしかないのに、良庵はごく自然と兄のように
振舞っていた。
「それで、先生。違うっていうのは、どういうことなんで」
 源次が良庵に訊いた。
「つまりだな、例の書画会で十年に一度の逸材と褒められたのは、幸次郎じゃあないん
だよ。弟弟子の静馬のほうでな」
「え、そうだったんですか……これは、どうも、失礼なことを」
「そういうわけでな源さん。あまり、いじめないでやってくれよ」
「いじめるだなんて、そんな気はありゃしませんでしたが……」
 源次はそう云って口ごもった。さすがに、ばつが悪いようだった。良庵はその姿に向
かって「冗談だよ」と云って呵呵と笑った。
「まあ、悪いと思ったら、周りの連中にもこのことを伝えてやってくれ。本人が否定す
るんじゃ、やりにくいだろうからな。なあに、つまらん誤解だ。すぐに消えるよ」
 最後の言葉は、源次に云ったのか、幸次郎に云ったのか。どちらともつかなかったの
で幸次郎はそのまま無言でいた。 
 三人の周囲を遠巻きに何人かの旅人が見ている。源次に馬を頼みたいのだが、幸次郎
たちを先客だと思っているらしい。
 源次がそれを気にする様子をみせると、良庵は幸次郎の肩を叩き、
「さて、行くか」
 と云った。
 良庵はどこに行くとも云わなかったし、どこかに一緒に行くという約束もない。だが、
幸次郎は良庵についていくことにした。別にやることも無かったし、いつまでもここに
いても仕方がない。
 幸次郎が頷くと、良庵は源次に挨拶をして歩き出した。
 街に戻るのかと思えば、良庵は幸次郎を伴って白川橋を渡ってゆく。後ろでは、源次
が客を見つけたようで自慢の老馬に初老の男を乗せていた。
 東の粟田口に向かって歩くにつれ、少しずつ東山の風景が変わってきたように感じた。
どこにゆくのかは訊かずに、幸次郎は良庵の横を歩いている。夏が近づいてきており、
散策には悪い時期ではない。
 やがて、正面に粟田口の光景が見えるようになった頃、良庵は訊いた。
「ところで、今日はどうしたのだ」
「どうしたもないさ。ただ、ぶらぶらと歩いていたら、あそこまで来ていただけでね。
べつに用があったわけじゅあない」
 良庵の問いに、幸次郎は投げやりに答える。
「そうか。だが、今日は師匠のところに顔出すって云っていたろうが。そっちはどう
なったんだ」
「無論行ってきた。その帰りに散策と思ったわけだ」
「ふむ。要するに、また落ち込むような小言を聞かされたということか」
 幸次郎は思わず酢を飲んだような気分になった。図星だったからだ。今朝、幸次郎は
朝飯時が終わったころに師の汀鵬の元を訪れた。が、結局すぐに辞してきた。そこで聞
かされたのが、いつもの用件だったせいである。
「最初から気が進まなかったんだ。どうも、最近、師匠は私が邪魔のようだからな」
 幸次郎は、憮然としながら呟いた。
「何故そう思うんだ」
「だって、そうじゃないか。いくらなんでも、他の師匠の下で絵を学べなんて、普通
だったら云わないぞ」
「破門にするとも、弟子を辞めろと云っているわけではないのだろう? だったら、い
いじゃないか。普通の師匠だったら、弟子は囲い込むものだ。それを外に勉強に出すな
んて度量が広い証拠だ」
「師匠は、静馬っていう才能ある弟子が出来たから、古いのは要らなくなっているのさ。
弟子は少ないほどいいってのが口癖だからな。他に引き取ってもらいたいんだろう」
 幸次郎の言葉に、良庵は大きく肩を竦めた。
「まったく、拗ねやがって。男がそう悪く悪く考えてたら、肝っ玉が小さくなるぞ」
「悪かったな。これが、俺の性質なんだよ」
 幸次郎が拗ねた返事を返すと、良庵は大きく溜息をつき、問いを続けた。
「で、汀鵬師匠はどの絵師の所に修行にいけって薦めているんだ?」
「別に誰とは決められていない。ただ、他の流派の絵を学べって煩いのさ」
「ほう、他の流派か。狩野以外ってことだな」
 師の石川汀鵬は狩野派の一派である京狩野の一門だった。といっても、狩野の中でも
傍流に近いため、宮中などの依頼はこない。それだけに、あまり狩野の形式を重視しな
いところがあり、その軽さが幸次郎にとっては不満といえば不満だった。
「狩野以外というと、土佐派か。それとも、文人画。じゃなければ、四条派の絵師」
 独り言のように良庵が指折り数えた。京の画壇の流派である。
 土佐派は、長い間狩野派と共に宮中のお抱え絵師を排出してきた流派である。和風の
絵の伝統を持っており特に人物画が強い。同じ宮中絵師であるから、互いに似た部分も
多いが、信長の時代に南蛮の影響を受けて成立した狩野とは多少趣きを異にしている。
 他の二派は、市井から出ている。文人画は、中国の山水画などの影響が強く受けてた
流派であり、主として知識人達が余技として始めたものだ。そして、円山応挙を祖とす
る四条派の絵師たちは、特徴として写実的な画風を持っていた。物のあり様をあるがま
まに捕らえるというのが、四条派の特技である。
 流派としては、土佐派や狩野派が絵の伝統としては古く、文人画はそれに継ぐ。四条
派の絵は一番の新参でまだ三世代を経ていない。せいぜいまだ応挙の孫弟子が活躍して
いるところである。
「そうだな。どうだ、四条派なんか学んでみたら」
 暫く考えた末にそう云って、良庵は名案だというように手を打った。幸次郎はそれに
ひどく当惑した。
「師匠と同じことを云わないでくれ」
 幸次郎は慌ててそう云った。汀鵬の意見も、良庵と一緒だったのだ。二人で同じこと
を云われると、そのまま実現してしまいそうな気になってしょうがない。
「百歩譲って他の師匠のもとで絵の学ぶのはいいとするとしてだ。なんで、他の流派
じゃなくちゃいけないんだ。汀鵬師匠だって、伝手くらいあるだろう。同じ狩野派の中
から、選べばいいじゃないか」
「別の流派じゃなくちゃ駄目だな」
「どうしてさ」
「お前は、形式が好きすぎるんだ。絵なんて、独自の画風がなくちゃ話にならないのに、
お前の絵と来たらやたらと狩野風だけだ」
「これでも、努力はしている」
「それは俺も認める。寝食忘れて絵を描いているのは確かだからな。だが、お前は全力
あげて狩野風であることに自分を閉じ込めているのさ。そんなのを百年やっても、結局
は同じことだ。無駄な努力さ」
「酷いこと云うな」
「だったら、訊くが――」
 良庵はそう云って、腕を組んで横目で幸次郎を見た。これが、説教をするときのこの
男の癖だった。
「お前、どうやって修行をしているんだ」
「師匠に教わった通り、粉本を模写している。古来の名作を写すのが、大成するための
一番の近道だからな」
「そこさ。どうしてそれが最良の方法だとわかるのだ」
「何故って……そう決まっているだろうが」
「他の方法を試してみたわけでもないのだろう? 現に、一向に絵がよくならない」
「まあ、そうだが……師匠は、そう教えてくれた」
「だからだな――」
 良庵は空を向いて嘆息した。
「師の言うことなんて、半ば以上間違っていると考えられるようになって、初めて半人
前なんだ。そうやって、手前の了見で腕を上げて、やっぱり師匠の云うことには一理あ
るんだなと知れれば、それでようやく一人前の端くれだ。
 なのに、お前さんは、教えられた範囲から出ようとしないんだよ。だから飛躍しない。
それを心配して、他の流派を学べと云っているんだ。汀鵬師匠も俺もな。石の上にも三
年って云うが、そりゃあ座る石を自分で選んで始めて云える言葉だよ」
「だか、そうは云うがなあ……」
 理屈が受け入れられないわけではない。ただ、やはり感情が反発する。幸次郎は、な
んとも八方ふさがりになったような気分でいた。
「どうもな。師匠の顔を立てたいって気もあるんだが、四条派っていうのが特にな」
「四条派の何処がいけないっていうんだ?」
「だって、あれは画じゃない。図だよ」
「また、これだ」
 良庵はやたらと大きな声を出した。幸次郎は思わず周囲を見回した。幸いにも気にと
める人間がいないようだった。
 安心すると、腹が立ってきた。多少むくれながら幸次郎は云った。
「何が、『また』なんだ」
「お前さんの云っていることには、いつもの駄目なところが、くそやたらと混ざってい
るってことだ。弟弟子に抜かれて、少しは改まったかと期待していたのに、なんのこと
はない。やっぱり何の進歩もなしか」
「いくらなんでも、そこまで、云われる筋合いはないぞ」
「いや、云うね。云ってやらねば、気づくことができないだろうよ」
「何をだ。だったら、気づかせてもらおうじゃないか」
 幸次郎はさすがに喧嘩腰になった。今日の良庵は、やけに絡む。
「じゃあ、云おう。お前、その評価をどこから聞いた?」
「え、それは……」
 どこだったか。確か、誰かから聞いたのだが、どうも覚えていない。だが、
「どこでもいいじゃないか」
 そう思って幸次郎は、反論した。良庵は、ますます苦い顔をした。
「そりゃあ、どこでもいい。いいが、俺が云いたいのは、そこにはない。
 どうしてお前は、そうやって、他人の評価をそのまま鵜呑みにするんだ。
 いいか、その『図である。画にあらず』っていうのは、四条派の祖である円山応挙に
対して、やっかみ半分に云われた言葉だ。それがそのまま隆盛を誇った四条派に対して、
他の流派が貶めるための言葉になったのさ。
 だが、そんなことはどうでもいいことだ。いい絵はいいし、駄目絵は駄目。だが、そ
れは自分の眼で確認しなくちゃいけないことだ。なのに、お前さんはその下らん戯言を
後生大事に抱えて、半ば以上は自分の意見だと錯覚している。しかも、一事が万事そう
だ。食わず嫌いもいいかげんにしないと、何時まで経っても半人前以下だぞ」
「……」
 幸次郎はさすがに言葉を失った。
 ここまで、辛らつに云われるとは思っていなかった。確かに、幸次郎は世間の権威や
らその種のもの威圧される傾向がある。それは、分かっていないわけではないのだが。
 良庵は云いたいことを云った後は、無言のままでいる。
 幸次郎もまた、次の話題に移ることもできずに、ただ良庵について歩いた。
 やがて、目の前に柵に囲われた一帯が現れた。中央には、火刑台の名残がある。
 粟田口の処刑場だった。死罪になった罪人が、ここで打ち首、磔、火焙りといった刑
で殺される。自然の風景は特に殺伐としたものでもない。だが、ここで流された血と怨
念の量が重い空気を作り上げている。
 その入り口に来たとき、良庵が立ち止まった。
「入るぞ」
 良庵の簡単な言葉には、不思議なほどの気迫が込められていた。
 だが、処刑場に良庵がなんの用事があるのか。どんな医者であろうと、死人を甦らせ
ることは出来ないだろうに。
「こんなところで、何をするんだ?」
 幸次郎の問いに、良庵は拳を強く握り締めた。
「腑分けだ。今日ここで死罪人が処刑される。その身体の中身を見る」
「腑分けって……おいっ」
 幸次郎が聞く間もなく、良庵は粟田口の処刑場の中に入っていった。幸次郎は、仕方
なしにその後を追った。