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ミニミニ法話 15       千葉県我孫子市  釋法照
冥福(めいふく)

著名人などが亡くなると、よく新聞やテレビ、ラジオなどで、「ご冥福を祈ります」とか「安らかにお眠りください」というコメントが出ます。

その影響もあってか、巷でも、葬儀などに参列すると、亡くなられた方が信仰しておられた宗教や宗派のいかんも問わず、まず間違いなく「ご冥福を祈ります」「安らかにお眠りください」という言葉を耳にします。

しかしちょっと待ってください。この「冥福を祈る」「安らかにお眠りください」の意味をご存知なのでしょうか。


「ご冥福を祈ります」などという言葉を聞きますと、わたしなどは「亡くなられた方は、ひとり残らず阿弥陀仏の願力によって浄土に往生し、即成仏しておられますので、あなたのような未熟な人に祈っていただく必要はないのです」と、つい反発心を起こしてしまいます。

では、「冥福」とはいったいどのような意味なのでしょう、一緒に調べてみましょう。
「冥福を祈る」とは、「冥途(土)での幸福を祈る」という言葉を簡略化したもののようですが、では「冥途(土)」とは何かということです。

この「冥途(土)」の「冥」の字の本来の意味は「暗い」「隠れる」ということで、これに「途(土)」を付けると、「暗い世界」「暗黒の国」という意味になり、いわゆる「地獄界」を指します。

この「冥途(土)」思想の元々は、中国の冥府信仰に基づくもので、本来の仏教思想にはなかったものです。それが、仏教がインドから中国へと伝えられ根付いていく過程で、土着の思想とも結びついて、いつのまにか仏教の世界にも取り入れられました。

ところで、その「冥途(土)」つまり暗黒の世界、地獄界には閻魔王に代表される十王が住み、その地獄に堕ちてくる亡者や悪鬼を裁くところなのだとされています。

 ここまで分かると、賢明な皆さんなら、「ウヘッ、わたしたちは、亡くなった方を暗黒の世界、地獄に送り込んでおいて、〝そこで幸福になってください〟といっていたわけか。知らぬこととはいえ、とんでもないことをしていたんだな」と気づかれると思います。

 そうです、亡くなられたかけがえのない大事な方を、あなたは、〝阿弥陀仏がすべての人を浄土往生させ仏と成らしめようと願われ努力されている〟ことを無視して、手前勝手に暗黒の世界に送り込んで、そこで「幸福になってください」と念じているということです。こんな残酷なことは、きょう限りぜったいになさらないように願いたいものです。

 それと、「安らかにお眠りください」などという言葉も残酷きわまりないものです。
 なぜなら、人間はわずか五日間ほどでも安らかに眠っていると、「床ずれ」ができてしまう身体なのです。

ましてや「永眠」などしていたら、床ずれはますますひどくなり、体中がただれてしまいます。ですから間違っても、「安らかに眠ってください」などという酷いことを、かけがえのない大事な方にいってはいけません。

 亡くなられた方は、阿弥陀仏が見護ってくださっていて、ひとり残らず必ず浄土(極楽)に往生(往って生まれる)させてくださり、浄土往生した人は、必ず即(ただちに、一瞬の間もおかず)成仏(仏と成り)されて、ふたたびこのわたしたちの世界に戻られ、わたしたちを教え導いてくださるのです。

 この一連の働きを、「往相回向(おうそうえこう)」と「還相回向(げんそうえこう)」すなわち「往還の二回向(おうげんのにえこう)」といいます。

 もしあなたが仏教徒なら、「冥福を祈る」ことも「安らかにお眠りください」ということも、きょう限り、おやめいただきたいものです。



ミニミニ法話 14       千葉県我孫子市  釋法照
布施

「お寺へのお布施はどのくらい包めばいいのかなぁ。えっ、そんなに包まなきゃいけないの? 高いなぁ」「戒名料、○○円も取られちゃったよ。あのお寺のお布施は高いよ」などという会話をときどき耳にしますが、これは「布施」の本来の意味を知らないゆえの、じつに嘆かわしい、〝はずかしい〟会話ということになります。

「布施」とは、インドの古語サンスクリットの「dana(ダーナ)」を漢訳した言葉で、読んで字のごとく、「あまねく施す」ことをいいますが、また「喜捨(きしゃ)」ともいって、〝困っている人があれば、お金であれ、物であれ、心遣いであれ、持てる人は相手を選ばず、一切の見返りを求めず、さらには奢ることなく、照れることなく、たんたんと施す〟ことをいいます。つまり、お寺に届けるものだけが布施ではないということです。

余談ですが、一家の主、あるいは大店の主などのことを「檀那(だんな)さま」と呼ぶことがありますが、これは「dana(ダーナ)」を音訳したもので、家族に対して、あるいは使用人に対して「施し(慈しみを持って庇護)をする人」のことを指すのであって、慈しみの心を失って庇護を放棄したような人、「養ってやっているのだから文句をいうな」とか「給料を払ってやっているのだから黙って働け」などという人は、「檀那さま」と呼ばれる資格はありません。


さて、「布施」には大きく三つがあります。
第一が「財施(ざいせ)」です。お金に限らず物も含めて、財物を施すことをいいます。なお、施す相手はお寺に限らず、布(あまねく)施すことをいいます。

第二は「法施(ほうせ)」です。仏さまからわたしたちに対する施しで、仏法を説き聞かせてくださることをいいますが、そこから転じて僧侶が人々に対して仏法を説くこともいいます。

第三は「無畏施(むいせ)」です。これは、全ての人々から「畏怖(いふ)」の念を取り去る、たとえば〝死は怖ろしいものではない、畏れなくていいのだよ〟と、仏さまの教えを通して恐れおののく心を取り去ってさしあげることをいいます。

以上の三つを「三施(さんせ)」といいますが、じつはこの三つの布施のほかに、「無財の七施(むざいのななせ)」といって、財産を持ち合わせていなくても、仏法を説く力や、怖れを取り去ってあげられるような力がなくても、誰にでもできる七つの布施があります。

①慈眼施(じげんせ)」=慈しみに満ちた優しいまなざしで接すること。②「和顔施(わげんせ)」=常に和やかで穏やかな顔で人に接すること。③「言辞施(ごんじせ)」=優しく思いやりのある言葉で接すること。

④「身施(しんせ)」=自分の身体で奉仕や手助けをすること。⑤「心施(しんせ)」=心をくばり、喜び悲しみを共にすること。⑥「牀座施(しょうざせ)」=たとえば自分が疲れていても、電車の中などで喜んで席を譲るようなこと。

⑦「房舎施(ぼうしゃせ)」=風雨に難儀する旅人に一夜の宿をしてあげたり、あるいは自分の半身が濡れても相手に傘を差し掛けてあげるような思いやりー―などです。

ところで、「戒名料」「法名料」などという言い方をする人がありますが、これは自分の無智をさらけ出す言葉です。「戒名」や「法名」は売り物ではありませんから、「料」などという「対価」がつくことはありません。


ミニミニ法話 13       千葉県我孫子市  釋法照

一蓮托生

福岡県直方の上頓野というところに青蓮華(しょうれんげ)の咲く溜池があります。二十~三十センチの白い花を六月から八月にかけて咲かせます。蓮の華は、泥の中に咲いても泥に汚されず、清浄であるところから、観音さまのシンボルともされています。

千手観音菩薩は右手のひとつに青蓮華を持ち、十方の浄土に生まれ変わりたいとの衆生の願いを、青蓮華を手にお願いをすることにより救って下さるとされています。またインドでは、美しい瞳を〝青蓮華のような眼〟ともいうようです。花弁の一枚一枚が眼(まなこ)に似ているというわけです。
     
この「蓮の台(うてな)」の上に〝共に生まれる〟という言葉が、「一蓮托生」です。一般的には〝運命や行動を共にする〟という意味で使われています。その典型的な使われ方に、悪事が発覚した政治家や結託した企業などを称して「一蓮托生……」と新聞などで目にすることがありますが、良くも悪くも強い結束を表して、〝死なばもろとも〟と悲壮感の漂う言葉であるように思います。

しかしほんとうにそのような意味なら 「一〝連〟托生」と書くべきではないかと思います。あたかも手錠・手鎖につながれて、いったいどこに生まれようとしているのでしょうか?

「一蓮托生」の「托生」とは〝この世に身を寄せる〟ということで、ほんとうの意味は、〝死後、浄土に往生して同じ蓮の華の上に生まれる〟ということなのです。「死んでからまで同じ墓には入りたくない」と思う人にとっては「一蓮托生」はありがたくないでしょうし、逆に「生まれ変わっても一緒にいようね」と誓い合える人たちにとっては、まさに願いに叶った言葉ではないでしょうか。

「私は後妻ですが、夫をはさんで先妻と同じ蓮の華の上に乗るのでしょうか?」と訊ねた方があるそうですが、お浄土とは、そのような現世の愛憎を引きずっていくところではなく、この世のあらゆる欲望や苦しみのもとである煩悩から開放された「いのち」が生まれていくところなのです。

「倶会一処(くえいっしょ)」という言葉を耳にされたことはありませんか。浄土真宗の教えを戴かれている家の墓碑には、「○○家之墓」という文字よりも、「南無阿弥陀仏」のお名号か「倶会一処」という文字が刻まれていることのほうが多いようですが、これは「倶(とも)に一つ処(ところ)で会う」ということで、一つ処とは、つまり〝お浄土〟を指しています。「一蓮托生」はその意味で、「倶会一処」と同じなのです。

仏教本来の意味から離れ、いつのまにか私たちの現実の都合に合わせた言葉として使われることが多いのは、欲望の世界を生き抜くための小手先の技なのかもしれません。しかしそのような小技では、本当の「いのち」を生きるための救いには決してなりえません。  

蓮華は泥のなかから生じますが、しかし決してその泥の色に染まることはありません。そのことが、仏さまや「仏性(仏になる因)」の清浄性の喩えとされます。

人は亡くなると仏さまと成り(成仏)ますが、また生まれながらにして「仏性」という仏さまに成る因(たね)を宿して生まれてきているのです。その種が蕾(つぼみ)を持ち、やがて蓮華という花を開く。その蓮華は、どれほどの欲望や様々な苦しみの泥沼のなかでも、その泥の色に染まることはありません。

そのように、わたしたち一人一人も、それぞれにそれぞれの色の蓮華の蕾をもって生まれた「いのち」を大切にしながら日々を送りたいものです。                  



ミニミニ法話 12       千葉県我孫子市  釋法照

愚癡(痴=ぐち)

春はいろいろな人生のスタートの時期ですね。人それぞれ、いろんな希望を持っていますが、順風満帆のときばかりではなく、残念ながら、いろんな挫折や障害と背中合わせなのが私たちの人生です。

あなたは笑って暮らす人生と、愚痴って暮らす人生のどちらがシアワセだと思いますか?それは笑って暮らすほうがいいですよね。でも、周りにいませんか、やたらと愚痴っぽい人
。私の周りにも、それって幸せなんじゃないの? って首をひねりたくなるような愚痴話をする人がいます。

反対に、病気になったり家族に問題が起きたり、次々に辛いことが重なっても、「愚痴ってもしようがないしね~」と淡々と暮らしている友人もいます。もって生まれた性格? だけではなさそうです。

ひとつ大変な山を越えると、また次の大変な山が現れてくる。その中で、自分の価値観が少しずつ変わってくる、苦しさに育てられていく過程で、幸せの意味もまた変わっていくように思います。


「愚痴をこぼす」などの「愚痴」とは、「言っても仕方のないことを言って嘆くこと」という意味で一般的に使われます。
仏教では、「愚癡(痴)」は私たちを悩ませる三つの根本的な煩悩(ぼんのう)である「三毒」のひとつと説いています。

三毒とは、「貪欲(とんよく)、瞋恚(しんい)、愚癡(痴)」の三つを言います。
ひとつめの「貪欲」とは、溢れて際限なく広がる水のように、どこまで求めても満足できない欲の心です。

そして欲しいものが手に入らないと、めらめらと燃え上がる炎のような怒りの心が二つ目の「瞋恚(しんい)」です。そして、自分より勝れた者をねたむ心が「愚痴(痴)」となります。

「私は、そんなに欲深い人間じゃない」と思われる方もあるでしょう。多くを望まなくても、何も望まない人はいません。幸せになりたい、子供にも幸せになってもらいたい。そう思って生きています。

「私は人をねたんだり、うらやんだりはしない」と思われる方もおありでしょう。〝普通の幸せ〟という言葉がありますが、〝普通〟とは何と比べて普通なのでしょうか。普通があるということは、それ以上と以下があり、何かと比べたり、評価したりする心があるということです。

多少の差こそあれ、人は心の中でその三つの毒の動きにふたをしたり、なだめたりしながら生きているのではないでしょうか。

「愚痴(痴)」とは〝愚かで物事の道理を正しく認識したり判断したりできないこと〟で、更には〝仏教の教えを知らず物事を如実に知見することができないこと〟を言います。
では仏教の教えとは何でしょうか。お釈迦さまは、「すべての物事はいつまでもそのままではない」と説かれました。

「もちろんそんなことは分かっている」と思われるかもしれませんが、私たちが普段知っている道理は、私たちが作った、その時代の中での道理でしかありません。若いときには絶対だと思っていた価値観が、子供が生まれ、育てるうちにあっけなく壊れてしまうこともあります。

年をとるほどに、〝決して変わらないものなどない〟ことに気づかされます。その時々の「三毒」の煩悩にきりきり舞いに振り回されながら、そのことに気づかずにいる私なのです。「仕事が…、子供が…、生活が…」などと愚痴っていたときを振り返ってみれば、〝何だそれほどのことでもなかったな〟と思えることはありませんか。

親鸞聖人がおっしゃた「煩悩具足の凡夫」とは、まさしく私たちそのものであり、そう考えてみると、「愚痴」とは、愚かな私たちの儚い「シアワセ」の証(あかし)のようにも思えてきます。


ミニミニ法話 11       千葉県我孫子市  釋法照

利益(りやく)

お正月は初詣に行かれましたか?  インターネット上で「オンライン仏像初詣巡り」というサイトがありました。〝お願い〟の内容に適う仏像が安置してある寺を検索してくれるのだそうです。

ここのお寺は御利益があるとか、 あそこの観音さまはすごい御利益があるとかいわれると、家内安全、商売繁盛、病気快癒、合格祈願、縁結び等々、はてはボケ封じまで、さまざまな現世利益(げんぜりやく)を求めて神社仏閣を梯子してまわるにわか信者であふれかえります。

「現世利益」とは、仏菩薩の慈悲、あるいは修行の結果としてこの世で得られるもの〟という意味ですが、一般にいう「現世利益」は、神仏に祈ることによって自分の願いが叶うこと、欲望が満たされることを指しています。

神仏に祈れば果たして災難に遭うこともなく、一生ずっと何ごともなく息災に長生きできるのでしょうか。


親鸞聖人は、現世利益を期待しての祈りは排除しなければならないと厳しく戒められました。親鸞さまが残された歌である『和讃』や、親鸞さまの言葉を書き止めたとされる『歎異抄』にも「現世利益」という言葉があります。しかしその意味は、多くの人が思っているような現世利益とはだいぶ意味が違います。

歎異抄 第一条
「弥陀の誓願不思議(せいがんふしぎ)にたすけられまゐらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき、すなわち摂取不捨(せっしゅふしゃ)の利益にあずけしめたまふなり。弥陀の本願には老少・善悪のひとをえらばれず。ただ信心を要とすとしるべし」

「阿弥陀仏の本願の不思議なはたらきに助けていただいて往生することができるのであるということを信じて、念仏を称えて阿弥陀仏に帰依しようと思いたったとき、ただちに阿弥陀仏の摂取して捨てないという御利益が与えられるのです。阿弥陀仏の本願には、年寄りか若いか、善人か悪人かという選別はありません。ただ、信心だけが重要なのです」と親鸞聖人はおっしゃっています。

神仏に祈ることで、もし家内安全や商売繁盛などの願いがかない一時的に幸せになったとして、その幸せはずっと続くでしょうか? 

親鸞聖人の現世利益は、そのような目先の物質的な利益のことではありません。他力の信心を得たことにより「どのような人生にぶつかろうと、どのような形でこの〝いのち〟が終わろうと、私は必ず仏に成らせていただく」という安心が利益なのです。真の利益は心に宿るのです。

〝苦しいときの神頼み〟などといいますが、たとえば愛しい人を亡くしたときのような、まさしく自分の力ではどうにもならない苦しみに直面したとき、私たちはどうして思わず「どうか助けてください」と仏さまに手を合わせてしまうのでしょうか。

仏さまに手を合わせながら、苦しみの底にある自分(自我)と深く向き合うような気持ちになったことはありませんか? そのとき見えてくるのは、目の前の現実を受け容れられずにいる私の心が、実は私の苦しみの因(たね)であるということです。そのことに気付かされたまさにそのとき、私たちは大きな願いに救いとられているということなのです。

あちこちの仏さまにご利益巡りをして歩いても、大きな安心の世界に包まれていくという利益を得ることはできません。生きている限り、次々にまた違う困難や欲望が現れ、違う形の苦(思い通りにならないこと)を見つけることの繰り返しです。真の信仰とはそのような物質的な利益を目的とはしないのです。 


ミニミニ法話 10       千葉県我孫子市  釋法照

無分別(むふんべつ)

「おはようございます」と登校中の小学生が通りがかりの男性にあいさつをしたところ、「うるせえ!」という罵声とともにいきなり殴られて怪我をするという事件がありました。

学校では地域のひとに挨拶をするように指導していたそうですが、この〝無分別〟な男の仕打ちによって、善い行いをしましょうという指導が崩される結果になってしまいました。

これから、まわりの〝分別ある〟大人はどのように対応していくのでしょうか。相手が悪かった、ということでは済まされませんし、「もう知らない人に挨拶しないでよろしい」と、安易に方向転換するような事でもないでしょう。

それとも「相手を見て判断せよ」と教えるのでしょうか。子供はそのような〝分別〟する心を持たないからこそ、無垢な子供なのではないでしょうか。



「無分別」とは、思慮がない、見さかいがない、など一般的には悪い意味に使われています。一方〝分別のある人(分別をする人)〟とは、物事をわきまえた思慮のある人となります。しかし仏教では、逆に〝無分別〟こそが仏さまの智慧であると教えています。

そもそも私たちが〝分別〟する、つまり物事をわきまえる、とはどういうことでしょうか。
私たちは世法(法律)や常識、その中で生きている自分の経験などによってつくられた物差しを通して、物事を見ています。

例えば、同じものを同じように見ても、すべての人が同じように感じるわけではありません。自分の物指を通して物事を見たり判断するというのは、実は、ほんの一面しか見えていない、把握していないという事でもあります。

「ピラミッドはどんな形ですか?」と訊かれたら、どのような姿を思い浮かべますか? 三角形でしょうか? もしあなたが上空で暮らしているとしたら、それは四角いものと思うかもしれません。

自分では正しい事と判断し、〝分別ある〟行動をしているつもりでも、ある人から見れば〝無分別〟な行為と写る事もあるでしょう。このように考えると、人の判断は自分の主観が入る限り、一定ではないということです。

仏教での〝無分別〟とは、そのような〝分別から離れている事〟つまり自分と相手(物)を区別したり、対象となる物(事)を、言葉や概念によって分析的に把握しようとしないことを言います。私の一面的な物差しで相手を識別しない、ということです。

〝無分別〟とは差別をしない、評価をしない、ということであり、その人あるいは物事を〝ありのままに受け止める〟ということです。

自分の目で(一方向から)見ている限り、ピラミッドは三角であったり、四角であったりします。三角だと信じている人は、四角だと言い張る人をなかなか認められません。健康が一番だと信じて生きてきた人は、病気になると、自分はだめになったように思うでしょう。お金が一番大切と思って生きている人は、お金がなくなると何よりも辛いと感じるでしょう。

自分の中で正しいと信じている〝分別〟は一面的であり、決して全てではないことを、私たち〝凡夫(ぼんぶ)〟は、なかなか悟ることができません。この〝分別〟を超えた目で全てのものを見、ありのままに受け止めて下さる存在が仏さまであり、仏さまの智慧なのです。そしてこの仏さまの智慧を、〝無分別智(むふんべつち)〟と言います。

本来、仏教的な意味である「分別をする、しない」という言葉が転じて、いつのまにか「分別がある、ない」といった世間的な生き方の話のような間違った使われ方をされるようになってしまいました。

同じように〝無学〟という言葉も本来の意味とは反対に使われています。この言葉はまたの機会にお話しいたしましょう。    
ミニミニ法話 9       千葉県我孫子市  釋法照

無学(むがく)

 わが国の最近の児童・・学生の学力レベルは、国際評価で見ると下がってきているようです。文部科学相の「『ゆとり教育』とかいって、学校での学習量を減らした結果、早くも学力低下の問題が起きてしまったようです」とのコメントが報じられました。

「ゆとり教育」についての論評はさておき、日本の児童就学率は限りなく100%に近く、ほとんどの日本人は最低限の読み書きはできるという状況にあるようです。ということは、いわば〝無学の人〟は、ほぼ存在しないということになります。

 「無学の人」とはどのような人を指すと思われますか? 多くの方は「知識のない人、学のない人」といったイメージで捉えていませんか?

この「無学」という言葉も元は仏教語ですが、その捉え方は全く違います。「もう他には学ぶべきことがないところまで、あらゆることを学びきった修行者」という意味なのです。
 
 仏教では修行の結果到達する位を四段階に分けています。
①預流(よる) ②一来(いちらい) ③不還(ふげん) ④阿羅漢(あらかん)――の四段階ですが、このうち初めの三段階を「有学(うがく)」といい、最後の段階を「無学」といいます。 

「有学」の位の人は未だ煩悩が断じ尽くされていないため、まだまだ学習することが残っている段階をいいます。すなわち「無学」は、もはや学修すべきことはない段階に達したということです。
したがって「有学・無学」の意味内容は、世間一般の用法とはむしろ逆になります。〝学問が無い〟のではなく、〝もう学ぶべきことは無い〟ということですね。

 学ぶ、学修するということの捉え方も、そもそもが違います。学習とは①学問・技術などを学び習うこと②人間も含め動物が、生後に経験を通じて知識や環境に適応する態度・行動などを身につけていくこと――と辞典にはあります。

学校での勉強だけでなく、生きていくうえでの知恵はすべて学習して身につけていきます。環境に適応するには、社会の変化と共に学習すべきことも際限なく変わるということです。

 私たちは円周率を「3・14」と習ってきました。ところが近頃の小学校では、〝ゆとり教育〟と称して「おおよそ3」と教えてきたようです。円周率を「3」と学んだ子供たちは、いずれ「3・14」と学び直すことになるでしょう。

科学や医学・技術の進歩だけでなく、社会の動向によっても学習すべき内容はどんどん変化していきます。七十歳代以上の方々は、戦争中は敵国語として英語の勉強を禁止されましたが、現代の日本では国際的な人間になるためにと、英語は必修科目となっています。時代の流れで学習の方向は変わるのです。

 しかし仏教の教えは変わることはありません。それは仏教が古くて進歩しないからではなく、私たちを取り巻く環境がいかに変わろうとも人間の本質は変わらない、人が生きていくための「真実」は決して変わらないというところにあります。

 「真実」は、そのときどきの都合や事情で「3」になったり「3・14」になったりすることはありません。仏教では、そのように変化する周りのことではなく、自分のこと、自分自身の中にあるものを学ぶのです。
       
 人それぞれに事情は違っていても、その中で喜び、悩み、苦しむ自分自身の心の底にあるものは同じです。私たちの心の変化は、すべて煩悩から現れていることを知ること、そのことに気づくことを教えているのが仏教です。

環境で変わる価値観を拠り所に生きていては、本当の人生を送ることはできないことに気づき、真実の教えを学ぶ、それが仏教です。

 「学修」とは学問を学び身につけることです。何を学び、何を自分の生きる拠り所とするか、そのことをともに考えていきたいですね。    


ミニミニ法話 8       千葉県我孫子市  釋法照



愛は地球を救う〟〝人類愛〟〝ラブ&ピース〟――平和と幸せを願って「愛」が叫ばれます。 
キリスト教が日本に入ってきたとき、仏教の「慈悲」の意味に近い「アガペー」という言葉を、「神の愛」「献身的な愛」というふうに訳して使ったことから、「愛」は今日では〝良い言葉〟として優勢を占めるようになっていますが、仏教では「愛」は、どちらかと言えば否定的に捉えています。
なぜなら「愛」は私を苦しめる根源、つまり「煩悩」から起こるものと考えているからです。

     
仏教で言うところの「愛」とは、サンスクリット語の「タンハー」を訳した言葉で「渇愛(かつあい)」と言います。

「渇愛」とは、「砂漠で水を求めるがごとき喉の乾き」「飽くなき渇望、欲望」という意味で、要するに「愛」とは「飢えた状態」を表す言葉なのです。

ですから仏教では、「このような過度の欲望は離れよ(自己をよくよくコントロールせよ)」と教えています。

 この他にもうひとつ「愛」と訳されたサンスクリット語に「カーマ」があります。こちらの本来の意味は、「意欲」「意志」のことを表わす言葉だったようですが、後に変化して「欲望」に、更に変化して、男女間の「愛欲」の意味にも使われるようになったようです。

 いずれにしても、「愛」は仏教では「貪りの心」を表わす言葉として肯定的に、つまり良い意味に使われることはあまりありません。

因みに漢字の「愛」は、〝(物などを他に)与える〟という形を表す象形文字だそうです。
激流に溺れている子を、火宅に取り残された子を、親はわが身の危険をも省みず渦中に身を投じて守り救おうとします。

その無償の愛の姿は純粋なるがゆえに貴く美しいと言われます。しかしどれほど身を呈して我が子を愛したとしても、それに子供が応えてくれるとは限りません。

例えば、独り暮らしの息子の栄養不足を心配したお母さんが、料理を作ってわざわざ遠い道を届けたとします。ところが行ってみると、そこには恋人がすでにいて、親の心配など無用と追い返されたとしたら……。

そのとき世の中を眺め渡してみると、〝ああ、あの子にもそういう人がいてくれてよかった。安心した〟と喜ぶ母親ばかりでもなさそうです。

〝せっかく私がこんなにしてあげているのに…〟と、占有欲を心の奥から湧き立たせる人もあるのではないでしょうか。そのような欲の心をふるいたたせることを「渇愛」と言うのです。

〝可愛さ余って憎さ百倍〟ではありませんが、いとおしむ心の真ん中にいるのは、実は他(息子)ならぬ自分自身です。

「あなたの為を思って」という台詞は、「こうすればあなたの為になると〝わたし〟が思っている」ということであって、つまりは、子を独立した一人の人間として見るのではなく、いつまで経っても庇護すべきものという、いわば所有欲のあらわれなのです。この所有欲を「渇愛」と言います。

 半面で、〝ああよかった。あの子は幸せなようだ〟と喜ぶ心も同じ自分の中にあります。その〝愛する人が幸せなら、それがわたしの幸せ〟と思える心が慈悲心です。

そう思えたとき、わたしの目から〝わたし〟というコンタクトレンズがはずれ、阿弥陀さまの慈悲の眼を通して相手を見ることができるのです。

わたしたちの心の中には、欲して止まない煩悩が渦巻いています。ともすれば「愛」という言葉で自分の思いを押し付けたり、相手の思いをないがしろにしたり、そんなことを繰り返しています。そのことを渇愛という言葉は教えてくれています。             

ミニミニ法話 7       千葉県我孫子市  釋法照

不退転

「首相、不退転の決意で取組むことを表明」「○○の課題に対し大臣が不退転の決意」などと、ときどき新聞の見出しに躍ります。いまや「不退転の決意」は政治家の常套句となった感があります。しかし、それらの決意表明が完遂されることはあまりありません。なぜでしょう。

〝決意などするから転後退する〟という揶揄もありますが、それは言葉の本来の意味をきちんと把握せず、上の空で使うからに他ならないでしょう。「不退転」は、仏教経典に由来するもので、そこには厳とした意味があります。
     

「不退転」とは、菩薩が修行を通して達する位(くらい)のことなのです。この位に達すれば、後はいかなる悪魔(欲望)に誘惑されようと、その欲に染まって迷いの世界に転落し、再び苦しめられる状態に後戻りすることはない、という堅固な心の状態を言います。

そしてその将来には、まさに正覚(しょうがく=さとり)を得て仏陀になることが約束された菩薩の位なのです。

現代社会で安易に使われている「不退転」の使われ方が間違っているという意味は、ここにあります。

『般若経』では、大乗仏教の修行者を「菩薩」と呼び、初発心菩薩(しょほっしんぼさつ)、久発心修諸勝行菩薩(くほっしんしゅうしょしょうぎょうぼさつ)、不退転地菩薩(ふたいてんちぼさつ)、一生所繁菩薩(いっしょうしょけぼさつ)と四段階に区分されていますが、不退転地菩薩の境地は、生死を超えた世界に至っているということです。

『法華経』には、「弥勒菩薩が長い間行を修めて得られた位」と説かれています。「修行を重ね、善を信じて失わず、悪を持して起こさない」人を、不退転に住する人としています。近い将来、仏陀となることが約束された位です。

しかし、このような厳しい修行によってしか至れない位が不退転であるとすれば、欲の世界にどっぷりと浸かっているわたしたちには、とうてい達することはできないのではないでしょうか。

ところが、わたしたちの拠り所である『大無量寿経』には、「すべての人々は、阿弥陀仏の名号のいわれを聞いて信じ喜ぶまさにその時、浄土に生まれようと願うその時、たちどころに往生すべき身に定まり、不退転の位に至る」と説かれています。
 
親鸞聖人は、「阿弥陀仏の本願を聞いて疑いのない信心が起こったその瞬間に、わたしたち衆生は必ず往生することの出来る身に定まる。そういう利益(りやく)が与えられる」と説かれました。

必ず仏になることが決定(けつじょう)したことを「正定聚に住する」と言いますが、これが「不退転(の位)」なのです。「信心し、念仏ひとつで往生が定まるというその救いは、すべからく如来の計らいによるもので、私たちの計らいによるものではない」という絶対他力の理を、親鸞聖人ははっきりと示されました。

親鸞聖人が法然上人のもとにおられたときのことですが、お弟子さんたちの間で念仏往生についての議論が交わされました。議論の主題は、「〝信不退・行不退〟のどちらの座に着くか」という問いでした。

「信不退」とは、〝信心ひとつで往生が決まる〟と信じているということです。「行不退」は、〝念仏の行にはげむことで、その功徳により往生は決まる〟とするものです。親鸞聖人は、念仏を往生するための手段・行と捉えることを批判し、信心の絶対性を示されました。

繰り返しますが、「不退転」は、わたしの決意によって為せる業(わざ)ではないということです。どのように固い決意をしようとも、思い通りにならないのがわたしの人生であり、わたし自身です。

わたしの計らいなど及びもつかないこの大きな宇宙の計らいによって生かされていることに気付いたとき、不退転の位に住することができるのです。   
             
ミニミニ法話 6       千葉県我孫子市  釋法照

方便

二つに岐かれた道の前で旅人が迷っていました。どちらの道に行けばいいのか。そこに二人の村人が通りかかりました。訊ねますと、Aの村人は言いました。「右に行くと町に出るよ」。Bの村人は「いや、左だ。Aは嘘つきだ。それに較べて私は嘘をついたことがない」と。旅人はAの言った右の道を選びました。「嘘をついたことがない」というBを〝嘘つき〟と思ったからです。

人生の中で、本当の事だけを話して生きていくのはとても大変なことです。例えば、あなたがあなた以外の方に〝あなたのためを思って…〟とか〝小さな子供には理解できないだろうから…〟と考えたとしても、〝嘘〟が〝本当〟に変わることはありません。
死期の迫った病人に「がんばればきっと良くなる…」と励まし続ける一方で、本当のことが言えずに苦しみ続ける家族もいます。

「嘘」に〝正しい〟嘘と〝正しくない〟嘘があるとは思えません。〝嘘も方便〟という水戸黄門の印籠のような使われ方をすることもありますが、今回はこの〝方便〟について考えてみましょう。

     
〝方便〟とは、そもそもサンスクリット(梵語)の「ウパーヤ(近づく、到達する)」の漢訳で、仏さまが衆生を救うためのたくみな方法(手だて)のことをいいます。
すると、「では、仏さまとはどんな人のことをいうのですか?」「阿弥陀如来とお釈迦さまは、どう違うのですか?」こんな質問が聞えてきます。

「仏さま」とは、普遍の真理(宇宙のはたらきの理)に目覚める、あらゆる煩悩(苦しみ、悩み)から脱したばかりでなく、未だ苦しみ悩む全ての人を我と同じ世界に導き、救いとることができる存在のことをいいます。歴史上の人としてはお釈迦さまがあります。

また「阿弥陀さま」とは、「アミターユス(量ることのできないいのち=無量寿)」と「アミターバ(量ることのできない光=無量の智慧)」という二つの意味を備えた存在で、「宇宙の永遠の真理」ということです。したがって、阿弥陀さまは〝色も形も無く、言葉にして表現することもできない〟存在なのですが、目には見えないからこそ偉大な力を持った存在ともいえましょう。

阿弥陀さまは、智慧と慈悲を備えた方便(手だて)によって、私たちを救い、真実の世界(覚りの世界)に渡そうとしてくださっています。
私たちは、思い通りにならない苦しみ悩みを次々とつくり続けながら暮らしています。 「苦しみを克服する、前向きに生きる」といった言葉に逆に苦しめられながら…。

けれども、その苦しみをつくる煩悩を否定するのでなく、そのままに受け止めていくのだと気付いたとき、煩悩は私たちが救われていくための「方便」であったことが見えてきます。「方便」とは、行く手をさえぎる川を渡してくれる筏(いかだ)のようなものなのです。

私たちが〝正しい〟としていることは、じつは時代や人の都合で変わることのほうが多いのです。本当の意味で「正しい」こととは、どんな時代であっても変わらない、揺るぎのないことであり、それを「法(ダルマ=宇宙の真理)」と言います。これが「仏法」です。

「仏法」は、〝ありとあらゆるものは移りゆく(無常)〟と説き、だからこそ煩悩を抱える私も執着を離れることにより〝永遠のいのち〟へと生まれ変わることができると説いています。

真実を伝えることは、必ずしも直ちに幸せに繋がることではありません。嘘でごまかすことよりもはるかに力のいる、すべてを引き受ける覚悟のいることです。その苦しみを超えたとき、本当の喜びを見出すことができることを教えてくださっている手立てが、「方便」なのです。                
      
ミニミニ法話 5       千葉県我孫子市  釋法照

縁起(えんぎ

お彼岸には、お墓参りに行かれましたか? 普段はご無沙汰しているご先祖さまに手を合わせに行かれる方でも、シーズンオフのお墓やお寺にはなかなか足が向かないどころか、なかには「お寺やお墓なんて縁起が悪い」と言う人まであります。世界遺産に指定された日光東照宮の家康のお墓には世界中から観光客が押し寄せるというのに、不思議な現象です。「縁起」とは果たして、良かったり悪かったりするものでしょうか、考えてみましょう。
        *
「縁起」に似た言葉に「因縁」があります。「因」とは〝直接的原因〟ということであり、「縁」は〝間接的条件〟ということです。「権兵衛が種蒔きゃ烏がほじくる」なんていうざれ歌がありますが、実りがあって米がとれるという結果が出たことは、〝権兵衛さんが蒔いた種(因)〟が、芽を出すのに必要な太陽や雨に恵まれ、さらには犬やカラスにもほじくられずに済んだという間接的条件(縁)が整ったということです。

「自分の蒔いた種」などという言葉をよく使いますね。どんな種を蒔いたか、どんな縁に恵まれるか、様々に実りは変化します。

「縁起」とは、「これあるに依って彼のことあり」とも言われるように、そうした因と果の連鎖(つながり)を言うのです。すべての結果は、「因(たね=直接的原因)」と「縁(間接的条件)」がお互いに関わりあうことによって生じるということです。

テーブルの上に転がしておいた種から芽が出ることはありませんし、種を蒔いてもいない植木鉢にどんなに水遣りをしても、芽が出ることはないのです。

お釈迦さまのお覚りとは、この「縁起」の理法(ことわり)を論理的に感得されたということです。いかなるものも突然、唐突にピョンと出現するわけではありません。必ず何らかの因と縁が整って、そこからある結果が現出するということで、何ものにも依らずに存在あるいは現出するものはないということです。

これは存在ということだけではなく、私たちが抱えている様々な苦しみについても同じことが言えます。ある日突然ピョンと苦しみが現れるわけではありません。それが現れる前には、そこに至る原因と条件があるということです。

様々な苦しみの中でも、「死」という問題は誰も逃れられないことです。常にはそれを自覚できず「死」を目前にしてはじめて私たちはうろたえ、なぜ自分ばかりがこのように苦しまねばならないのかと思い嘆きます。たとえば、病気は苦しみですが、その苦しみの根本は病気にあると思うから、治せば苦しみは解決するだろうと、あらゆる治療法を求めて解決をはかろうとします。

しかし、病気はひとつの切掛けにしか過ぎないのです。もちろん身体の苦痛は苦しみではありましょう。けれども、その病気によって自分の存在、生活、あらゆるものが損なわれ失われていくことの不安が、苦しみをいっそう増長させるのではないでしょうか。

どんなときでも、苦しみの原因である種(因)は私たちの中にあります。外から降りかかった災いではなく、そのことを受け止められない私の価値観(縁)が苦しみを増長させているのです。
 


ミニミニ法話 4       千葉県我孫子市  釋法照

三宝(さんぼう)

あなたにとっての「宝」はなんでしょう?
こう問いかけますと、なかには「わが子が宝」あるいは「友人が宝」と言う人がある一方で、「わが家の宝はこれだ」と品物を持ち出す人もあります。

そう言えば、『なんでも鑑定団』というTV番組が視聴率を上げているようです。さも、いわくありげな品物の値打ちを鑑定するという番組ですが、それまで大事に思っていた品物が、鑑定をしてもらったところ二束三文だったと知って愕然とする人や、思惑以上の結果が出て小躍りして喜ぶ人まで、人さまざまの姿を見せています。

いかに人の目の頼りにならないものかということを見せつける番組ですが、視聴者は、わが身の愚かさも忘れてそれらを他人事として笑って見ているようです。

しかし仏教では、そのような時代が変われば値打ちが変わるようなものや、いずれ消えてなくなるようなものを宝とは言いません。いつの世であっても消えてなくならないもの、いのちを超えたもの、それが宝です。

その宝には三つがあります。それを「三宝」と言います。今回は、その「三宝」について考えてみましょう。

「三宝」とは、「仏・法・僧」の三つを指しています。
第一の宝は「仏さま」ですが、仏とは「覚りをひらいた人、悟った人」ということです。「覚る、悟る」とは、「真理を知る、真実に気づく」ということです。

人間に生まれてきて一番大事なことは、この世の真理を知り、真実に気がつくということで、地位や名誉や財産を手に入れることではありません。この世の当たり前のことを、当たり前と気づく私になろうということです。

この世に生まれた生きとし生けるものは、いつか必ず死んでいかなければなりません。ところが、この当たり前のことが私たちにはなかなか受け入れられません。思ってもみなかった病気や事故に遭ったとき、〝みんな亡くなるんだから〟と腹をくくれる人はどれほどいるでしょうか。

〝なぜ、どうして〟と受け入れられずに苦しみます。そんな死に方だから辛いのでしょうか。違う死に方ならいいのでしょうか。そのようなことではありませんね。

この世に生まれてきたものは必ず死を免れることは出来ないのですから、死を受け入れるだけの覚悟、当たり前のことをちゃんと引き受けるだけの覚悟が出来ているかということが「覚る、悟る」ということです。

私たちは普段「死」を真剣に考えることはあまりありません。「死」を真剣に考えないということは「生」もまた真剣に考えていないということではないでしょうか。だから、どうでもいいことを優先して大切なことを後回しにしてしまうのです。

地位や名誉や財産などは、亡くなっていくとき全てこの世に置いていかなければなりません。しかし、いのちが終わったとき持っていける宝が、たったひとつだけあります。それが「仏法」です。「仏法」とは、宇宙の真理、真実世界の理です。

お釈迦さまは、私たちの世界は「縁」によって成り立っていると教えて下さいました。何びとも、他と関わらず己だけで生きられる人はありません。お互いに繋がりあってしか生きられないのです。それがこの世の法則です。これを仏教では「法」と言っています。

三番目の宝は「僧」ですが、これは単に「お坊さん」という意味ではなく、サンスクリットの「サンガ(仏道を歩む仲間、集まり)」という言葉を音訳したもので、仏道を共に歩む仲間を宝としたのです。仏教徒になるということは、この三宝に帰依する、即ち、拠り所とするということなのです。

南無帰依仏 南無帰依法 南無帰依僧
ミニミニ法話 3        千葉県我孫子市  釋法照

唯我独尊

先日、新聞の書評欄にこんな言葉がありました。
ある研究者の人生を綴った一冊の本についての内容でしたが、「本の帯に〝唯我独尊こそわが人生?〟とある。ありとあらゆる面で、自分が正しいと思えば他は無視してその道を貫いた…」と。
「唯我独尊」はお釈迦さまの言葉として伝えられていますが、はたしてそんな意味だったのでしょうか。


お釈迦さまの誕生日を祝う「花まつり」は、日本では宗派を超えて毎年四月八日に法要が勤まります。とりどりのお花で飾られた花御堂(はなみどう)のなかに甘茶を満たした盥(たらい)を置き、その中心に小さな生まれたてのお釈迦さまのお像を安置して、そのお像に盥の中の甘茶を柄杓(ひしゃく)で掬(すく)って注ぎます。
このことから、「潅仏会(かんぶつえ)」とも言います。

ところで、あの甘茶をそそがれるお釈迦さまのお姿をちょっと思い出してみてください。お釈迦さまは右手で天を、左手で地を指差していらっしゃいますね。

これは、お釈迦さまは誕生されるとすぐ七歩あゆんで、右手で天を、左手で地を指し、「天上天下唯我独尊(てんじょうてんげゆいがどくそん)」とおっしゃった。


その仏伝(お釈迦さまにまつわる言い伝え)を表現したものなのです。

 * さて、本題に戻って「唯我独尊」の本当の意味を尋ねてみましょう。

ある国語辞典には、「世の中で自分ほどえらい者はないと、うぬぼれること」とあります。一般的に「ひとりよがり」「うぬぼれ」のように使われることが多いようです。

しかし本当の意味は全く違います。「唯我独尊」を文字の順序に読みますと〝(この世で)ただ我ひとり尊し〟となります。
このように単純に読んだところから大きな間違いが起こったのです。

 まず「唯(ゆい・ただ)」という字には「ただそのままで」、つまり「他の何ものとも比較しない」という厳たる意味があります。

 では、「尊い」とは何か。それは、誰か他の人と比べて何か素晴らしいことをしたとか、人から称えられるような行いをしたというような、この世の価値観をもとに計ることができるようなことを指しているわけではありません。

それは〝宇宙広しといえども、我という存在は二人といない。全く稀有な存在〟という意味なのです。たとい私という存在のクローン人間が現れたとしても、私自身と全く同じ人生を重ねることはできません。
私という人間は、まさしくこの宇宙で二人と存在しないのです。だから尊いのです。

しかし尊い存在だからといって、独りよがりのわがままな人間になってもよいということではありません。私の隣りにいる人も、その隣りにいる人も、すべての人が、まさに二人といない尊い命をもって存在しているのです。「唯我独尊」は、また「唯他独尊」でもあるのです。

愛する人を亡くして初めて知る〝いのち〟の尊さ。病を得て知る我がいのちのいとおしさ。私たちのいのちは何と多くの人々によって、人間以外の多くのいのちによって支えられていることでしょう。
そのことを知るとき、私のいのちもより尊いものとなって輝きだします。
これが「唯我独尊」のこころです。
 
ミニミニ法話 2                    千葉県我孫子市  釋法照

お経

「佛教」とは「佛さま(お釈迦さま)の教え」であるとともに、「(この私も)佛に成れる教え」であるということですが、ではお釈迦さまは、いったいどのようなことを説かれたのでしょうか。その説かれた内容を纏めたのが「お経」なのです。

「経」とはサンスクリット語の「スートラ」を漢訳した言葉で、意味は「縦糸(たていと)」ということですが、お釈迦さまの「教え」を現わしています。すなわち、仏教徒である私たちは、お釈迦さまがしっかりと張ってくださった縦糸(お経=教え)の上に、それぞれの人生(横糸)を織り込むことで、美しい一枚の布に織り上げていきましょうということです。

お釈迦さまは苦しみ悩む全ての人に「佛法(真実の理)」を「お経」を通して説き聞かせることで、自らの道を開いてゆくことを助けてくださっているのです。

人間には、百人いればそこには百とおりの悩み苦しみがあり、どれひとつとして同じものはありません。佛さまは、そのひとりひとりに合わせて救いの道を説かれたのです。これを「対機説法(たいきせっぽう=その人の能力や悩みの内容に合わせて法を説くこと)」といいます。ですから、佛教の経典は「八万四千の法門」ともいわれるように、数多くあります。

お釈迦さまのお弟子方は、お釈迦さまが亡くなられると間もなく寄り集まって、それぞれが聴いた教えの内容を確認し合いました。

お経はこうして語り継がれ、さらに後代になると文字でも記録されるようになり、やがて「北伝(北インドからガンダーラ、中央アジア、中国、朝鮮、日本など)」や「南伝(スリランカ、タイ、ジャワなど)」佛教として世界に伝播していきました。その過程でいろいろな国の言葉に翻訳されましたが、わが国には主に中国で漢語に訳されたものが伝えられました。

因みに、漢訳されたお経の冒頭は、「如是我聞(にょぜがもん)」あるいは「我聞如是(がもんにょ
ぜ)」という書き出しで始まっていますが、これは前述しましたように、お釈迦さまが亡くなられると

お弟子方が寄り集まって、「私はお釈迦さまからこのように承りました」と確認し合ったことの名残りで、〝お釈迦さまがお説きくださった内容に間違いありません〟ということを意味しています。

 親鸞聖人は、これら数多(あまた)のお経の中から浄土の教えを説いた『仏説無量寿経』『仏説観無量寿経』『仏説阿弥陀経』の三つの経典を撰(選)び取られて根本聖典とされましたが、これらを総称して「浄土三部経」と呼んでいます。

なお、浄土真宗の日常勤行(ごんぎょう)で読まれているのは『正信念仏偈(お正信偈)』ですが、これは親鸞聖人がお書きになられた『顕浄土真実教行証文類(「教行信証」)』の中の一部なのです。

ここには救い主である阿弥陀さまのこと、そのことを教えて下さったお釈迦さまのこと、それらを中国、日本に、さらには親鸞聖人にまで伝え届けて下さったインド・中国・日本の七人の高僧方への感謝の思いが感涙をもって詩の形で書かれています。

 お経は、週刊誌のように一度読めばすぐに理解できるというものではありませんが、そこには汲めども尽きることのない素晴らしい宝が埋もれていることを知っていただけたら、嬉しく思います。

ミニミニ法話 1                    千葉県我孫子市  釋法照

佛教

普段、私たちが何気なく使っている言葉のなかには、佛教からきた言葉がたくさんあります。しかも、インドの二千年以上も前の人々が使っていたパーリー語や、当時の知識階級の間で使われていた標準語ともいうべきサンスクリット(梵語)が、そのまま日本語となっているものもあります。それらの言葉を拾いながら、そのいわれや本来の意味を一緒に学んでいきたいと思います。

「佛教」とは何か
 まず、「佛教」という言葉について考えてみましょう。「佛教」とは、読んで字のごとく「佛さまが説かれた教え」ということで、ブッダ・釈尊の「お覚り」によって開かれた教えです。

「佛」とは本来、ブッダ(佛陀=覚った人)という意味で、暦史上ではお釈迦さまのことを言いますが、広く「真理に目覚めた人」つまり「覚りを開いた人」のことを言います。

佛教と他宗教との根本的な違いは実はここにあって、「神(=唯一の存在)」とは異なり、私たち全ての人は「覚りを開く(真理に目覚める)」、すなわち「成佛=佛に成る」ことができるという教えです。

「佛性(ぶっしょう)」という言葉を聞かれたことはありませんか。「佛性」とは、また「如来蔵」とも言いますが、意味は、私たち人間には誰一人洩れなく、「佛に成れる因(たね)」が宿っているということです。

ところが私たち人間は、本来備わっているはずの「佛と成れる因」を、自ら作り出すさまざまな欲望(煩悩)によって覆い隠し、埋もれさせてしまっています。

ちなみに「煩悩」とは、〝あれが欲しい、これも欲しい。ああしたい、こうもしたい。ああなりたい、こうなりたい〟といった過度の欲望のことで、除夜の鐘の数に象徴されるように百八つあると言われています

(百八というのは特に象徴的なもので、実際にはまだまだあって、私たち人間の欲望には限りがありません)。

そのようなたくさんの煩悩を抱えた存在である私の「因(=種)」を育てるには、適切な光や水や空気が必要です。この光や水や空気のことを「縁」といいます。
良い実(果)を結ぶには「因(=種)」とともに「縁(=外からの働きかけ)」が必要だということです。

「ゴンベェが種まきゃあカラスがほじくる」なんてざれ歌がありますが、ゴンベェさんがまいた種(因)をカラスもほじくらず、適切にお日さまが照って雨も降り、台風もこなかった(縁)とき、はじめてよい作物(果)が稔るわけです。これが「因果の道理」です。

では、佛性という種を育くむ「光や水や空気」とは何でしょうか。
それが「佛法」です。

「佛法」とは、佛さまの世界の「法」のことで、真理の世界の働きのことをいいます。煩悩に苛まれ苦しむ私たちをその苦しみから救い、覚りを得られるように助ける「法」なのです。

この法には、人間が作った法(これを「佛法」に対して「王法」といいます)とはちがって罰はありません。それこそ佛さまの智慧と慈悲によって、苦しみ悩む全ての人を見限ることなく必ず救い取り助けて下さるのです。

わたしたちは、佛さまに大きく包まれている存在であるということです。


報恩講 ……お釈迦さまと阿弥陀さま……          金沢市千日町 西蓮寺 畠山得雄氏

 お釈迦様は、今から2500ねんほど前、北インドの釈迦国の王子として生まれ、80年の生涯を送られた歴史上の人物です。

 かれは、35歳のとき、この世の一切存在(いのち)の真実をさとり、そのさとった法を大衆に説いたので、人々はかれのことを「仏陀釈尊」と讃えて呼んだのでした。

 阿弥陀さまは、お経には物語の主人公のように登場し、私たちが礼拝する阿弥陀像も人のような形をしていますが、阿弥陀さまは人ではありません。

 阿弥陀さまは実は、お釈迦さまがおさとりになった「真実の法」そのものなのです。
ですから親鸞聖人は唯信抄文意に「法身はいろもなし、かたちもましまさず、しかればこころもおよば
れず、ことばもたへたり」と説かれています。

 阿弥陀さまは、色も形もないので「無」のようですが、無ではなく、はたらきなのです。
「真実の法」には、それ自体に人をして真実をさとらせるはたらきがあります。

そのはたらきを阿弥陀の本願というのです。本願ははたらきですから本願力ともいいます。また本願は永遠にやむことなくはたらき続けるので、阿弥陀さまを無量寿仏ともいいます。

また本願はどんな人にもはたらいてきて、その人を目覚めしめるので、無碍光仏ともいいます。 また本願はいろいろの相(すがた)をとってはたらいてきます。

 唯信抄文意には続いて、「この一如よりかたちをあらわして 法蔵比丘と名のりたまいて」とあるように、法蔵菩薩という人の姿をとったり、あるときは仏の教え・すなわち「経」となったり、あるいは現実の出来事となったりして、私たちの身の上にはたらいてきます。

このようなことを「方便」といいます。ですから仏壇に安置されている御木像ゃ御絵像、また「南無阿弥陀仏」の名号は方便法身といわれています。

 以上のようなことを、親鸞聖人は正信偈で「如来所以興出世 唯説弥陀本願海ー釈迦如来がこの世に出られたのは、ただ、大きな海のように、深くて広大な阿弥陀の本願を説くためであったのだ」

とうたい、また、御和讃には「釈迦弥陀は慈悲の父母 種々に善巧方便し われらが無上の信心を発起せしめたまひけり。

-お釈迦さまと阿弥陀さきは、一切衆生を救う慈悲の父母です。さまざまな巧みな善い手立てを尽くして私たちにこの上ない信心を発起せしめるのです」とうたっておられます。


盂蘭盆法会 ……ともに み仏さま にあう……

 八月十二日、加賀市「光 闡 坊」・佐野顕明様の法話の一部をご紹介します。
「じゃけん(邪見)きょうまん(憍慢)」ということ。(正信偈の四十一行目から)

白禅寺様のお盆法要に寄せていただき皆様と共に「ほとけ様の道」を話し合えるご縁に感謝致しております。

 さて、皆様「家族に手を合わせますか」誰も合わせていないでしょう。家族の存在も、家族の心のつながりも、当たり前だと思う心、これが「邪見憍慢」なのです。

 お釈迦さまが、゙人間が生きる真実の道゛である仏法を明らかにされた最初のきっかけ(出家)は「老・病・死」を、見られたからなのです。老人をご覧になり、自分が持っている若さの憍慢心に、気付かれたのです。こんなに元気よく動くことが出来るのは、当たり前ではなかったと気付かれたのです。

 病人をご覧になり、人はみな病気にかかるもの、己の健康に対する憍慢心が、崩れたのです。葬儀をご覧になり、人は必ず死ぬものであることに気付かれ、生きていることが当たり前と思っていた憍慢心に気付かれたのです。

人は皆、誰もが、わかったような顔をしているけれど、実は何も分かっていないまま日々を重ねているのです。

 妙好人の「源左さん」は、毎日夜になると、我が手をなで、我が足をなでて、拝んだそうです。
今世界中に食べ物がなく、たくさんの人が死んでいっています。当たり前と思っている、日常の心がひるがえった時念仏申す心が出てくるのです。…

永代経法要……今 いのちが あなたを いきている……

 白禅寺恒例の永代経法要は、六月十七日(日)にの午後一時から、および七時からと勤まりました。

 心の中で生き続けている身近なほとけ様と、遠い昔からの数え切れない御先祖様と、今の私への命のつながりを思い、尊い時間を伴にしたいと思います。

 だれもが、日頃、今生きている自分が、いつかは死ぬなどとは、思っていません。そんなことは、考えたくないと思って暮らしています。

 そのことは、永遠に死は来ないと思っているのと同じことなのです。
もし、人が絶対死なないと思って生きるとしたら、生はだらしなく広がっていくだけです。

 仏前に心静かに座り、この身が限りある命の中にあるという事実に、本当に真向かいになった時、いま生きていると言うことがどれほど
深い、尊いことであるかに気付かされるのではないでしょうか。

 亡くなっていかれた方は、身をもって残された私たちに、それを教えてくださっているのです。
 生をいただいた深いご縁に感謝し、仏前に合掌して、自然の理(ことわり)に心を開きましょう。

法話 …自然法爾の教え…

 お寺の法話など聞きに来られた人から「いくら良い話を聞いてもすぐ忘れてしまいます」と、よくお聞きします。しかし、仏教のお話とは、覚えることではないのです。覚えていても良いのですが、時としてそれは学びの妨げになります。

 「それも聞いた、あれも聞いた、知っているよ」と、感動もなくなり、聞く耳を持たなくなります。

 仏教の教えは、覚えて理解すると言うことではなく、お話の中から、自らの姿を仏陀の教えに言い当てられ、自ら驚いて目を覚ますということなのです。積み重ねの中から、本当の信心を深めることができ、日々穏やかに過ごすことができるようになります。

カルト宗教は何が問題?

・家族との会話が成り立たなくなります。自分の中に閉じこもり、周りが全く見えなくなります。
・他の情報に耳を傾けなくなります。親や身内の言葉さえ拒否し、テレビや新聞も拒否します。
・日常の生活ができず、自分が入信している集団のことしかしなくなります。真夜中まで仲間と話し合ったり、研修を受けたりするようになります。
・経済観念が無くなります。自分が入っている集団(新興教団)にのみお金を使うようになります。集団のためには、借金さえ怖くなくなります。
・うそを平気でつきます。行動やお金の使い道などその集団のためにうそを言うように教えられます。

悔いのない 新生活のために

 入学・進学、就職にと、若人が社会へ巣立っていく季節です。経済的なことのみに大きく目を奪われていませんか。心の備えは万全ですか。 

 大学(社会)へ入ったとたんに、開放感と不安と希望、そして大きな目的を達成した後に来る空虚感。そこを狙って、「破壊的カルト」が、入り込んできます。

 「破壊的カルト」は、全くそんな装いを見せず、気軽く、親しげにやってきます。「うちの子はだいじようぶ」等ということは絶対ありません。

 日頃から真宗の教えに触れていないため、またその手口も知らないために、実は人間破壊の集団であることに気がつかず、深く入り込んでいってしまいます。

「家族とかみ合わなくなってから気がついて、大学途中で家を出ていってしまった」などといった悲惨な事例もまれではありません。
 今こそ真理である真宗の教えについて、ご家族で話し合ってみましょう。
 

カルトとは 

「宗教などの名を借りて、救いを求めて入った人たちに、ある種のテクニックとパワーと詐術でもって自由に操り、それらの人を餌食にして、さらなる被害をもたらすグループ」のことです。

 自分の意志で入会、入信しているように誘導しながら、いつの間にかその人の思考や行動を変えて、集団や教祖への過剰なまでの利益追 求へと、すり替えてしまうものです。これを「マインドコントロール」と言います。

 その結果、その人の本来の思考は全く停止し、集団や教祖に絶対服従し、高額な献金や奉仕活動をするようになります。

また、身体も拘束され、自由が奪われ、外部との接触や情報が遮断されます。そして反対する人すべてを敵と思うようになります。

お文様は、私の鏡

(お文 = 蓮如上人のご門徒へのお手紙)

先日福井教務所のお文様の研修会に参加致しました。いつも必ずお参り下さるかなりご高齢の方に、「お文様をどのように頂いておられるのですか」
と、お尋ねいたしました。

その方は、
 「お文様は、私の鏡です。末代無知とおっしゃっておられますが、本当にその通りです。私は毎日暗くなるまで畑仕事をしています。孫は『危険だから、明るいうちに帰って』と、言うのです。

 好きでしていて、誰に迷惑かけるわけでなしと、思っておりました。ところが先日、畑仕事の帰り道、暗がりを歩いておりましたら、もう少しで車に跳ねられるところでした。あやういところでした。少しばかり怪我をし、車を運転している人にも、家族にもひどく迷惑をかけました。

 人間、一寸先が見えません。ひとの心を分かろうとしないものです。自分中心のおごった心で生きています。

 無知とはこのことだと、つくづく感じさせてもらいました。ありがたいことです」
と、おっしゃられ、頭が下がりました。

 仏様の声に耳を傾け、今を感謝して日々を送りたいものです。

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