トップページ >> カウンセリング論

多声性の視点から見た自己欺瞞の心理療法
-ヘルムート・カイザー研究-



著者: 田澤安弘

ここに示すのは、かなり長大な論文です。自己欺瞞とか、多声性とか、バフチンの対話理論とか、ハーマンスの対話的自己とか、そのようなことと、心理療法やカウンセリング(臨床心理学)に興味をお持ちの方には何か参考になるかもしれません。近々、勤務する大学の紀要に投稿するつもりでおりますが、ここにもアップしておきます。

2011年7月31日





Ⅰ.はじめに


 心理臨床家ヘルムート・カイザー(Fierman, L.B., 1965)の概念である「二重性(duplicity)」を自己欺瞞の特徴として捉え、それに焦点化された心理療法的アプローチについて、多声性の視点から検討する。言い換えれば、カイザーを研究することによって、多声性の観点から構成される自己欺瞞の心理療法について明確化を試みるのであるが、彼の概念化や治療的アプローチに含まれている限界を踏まえた修正も同時に行うつもりである。
 また本論では、カイザーとその後継者であるデイヴィッド・シャピロ(Shapiro,D., 1989)のアプローチを、「シャピロ-カイザー派アプローチ(Shapiro-Kaiserian approach)」と命名して論を進めるのだが、カイザーの師であるヴィルヘルム・ライヒ(Reich,W., 1949)の性格分析の手法と、ハーマンスとディマジオ(Hermans and Dimaggio, 2004)の現代的な多声性・対話的自己の心理療法をつなぐ接点に位置づけられるアプローチとして、その独創性を再評価するものである。


Ⅱ.ヘルムート・カイザーについて


 ヴィルヘルム・ライヒの直系に位置づけられるにもかかわらず、ゲシュタルト療法のパールズ(Perls,F.S., 1969)やバイオエネジェティックスのローウェン(Lowen,A., 1975)ほど、カイザーは高名ではない。私の知るかぎり、カイザーに関する研究論文や彼について言及した論文は、わずかばかりである (Paltin, D. M., 1993; Welling, H., 2000)。しかしながら、晩年の非指示的な姿勢や純粋なコミュニケーションの強調はロジャースの来談者中心療法に類似するものであり (May, R., and Yalom, I.D., 2005)、カイザーに直接教えを受けた後継者のみならず (Shapiro, D., 1989; Fierman, L.B., 1997)、実存的心理療法のマスター・セラピストたちにも引用される (Bugental, J.F.T., 1992; Yalom, I.D., 1980, 2002)、まさに知る人ぞ知る臨床家であったことに疑いはない。
 彼が高名になれなかった大きな理由は、ふたつの世界大戦という時代的な背景によるものであろう。書き残した学術論文は数えるほどしかない (Kaiser, H., 1930, 1931, 1934, 1955, 1962, 1965)。著書も、彼の死後に弟子たちが編集した論文集一冊だけである (Fierman, L.B., 1965)。以下に、彼の生涯について振り返る。エネローとアドラー(Enelow, A.J., and Adler, L.M., 1965) の要約である。
 カイザーは、1893年にドイツのハイデルベルグで生まれ、1961年に心筋梗塞のため68歳で急死する。1929年に精神分析家としてのキャリアをスタートし、米国のメニンガー・クリニックに勤務していたこともある。
 1912年、若きカイザーはゲッチンゲン大学に入学して法学を専攻するが、数学と哲学に興味が変わり、新カント派の哲学者レオナルド・ネルソンに師事する。しかし、1915年にドイツ陸軍に召集されて砲兵隊に所属し、激戦であったフランダースとヴェルドゥンの戦闘に参加するなどして、陸軍には1919年まで所属している。26歳のときにゲッチンゲン大学に戻るが、Ph.Dは1922年にミュンヘン大学で取得している。
 大学の教員になることも考えたが、ドイツの戦後のインフレのせいで、大学の給料では妻と二人の娘との生活を維持することはできなかった。それで、電気製品のオスラム社に事務局長としてのポストを得るのだが、自分にとって面白みのない仕事内容(税務関連の仕事)のためにうんざりし、抑うつ的になり、治療として精神分析を受けることになった。
分析が終了すると、今度はみずから精神分析家となることを思い立ち、ベルリンの精神分析協会の扉を叩く。しかし、トレーニングを医師に限定しようとする協会の意向によって、カイザーの申し込みは却下された。これに落胆することなく、彼はクライストの戯曲「公子ホンブルグ」に関する精神分析的研究論文を執筆して、それがイマーゴに掲載された。これがフロイトの目に留まり、彼がカイザーをとりなすことで、協会の扉は開け放たれたのである。カイザーは、トレーニング分析をグスタフ・バリーに、スーパーヴィジョンをサンドール・ラドー、カレン・ホルナイ、ハンス・ザックス、ヴィルヘルム・ライヒに受けている。
 だが、まもなくヒトラーが首相となり、ユダヤ人であった彼は1933年にドイツを後にした。放浪の始まりである。最初はマヨルカ島に住み、快適に暮らしていたものの、1936年のスペイン内線勃発により、スイス、イギリス、フランス、イスラエルなどを転々としている。つねに意識していたのは、ドイツに強制送還されてナチの強制収容所に送られる危険性であった。その日暮であったが、手先が器用なことを生かして、木材旋盤工として生計を立てていたこともあった。
 1949年、カール・メニンガーに乞われて、トペカ精神分析協会のトレーニング・アナリストとして、メニンガー・クリニックで働くために合衆国にわたった。この17年を通じてはじめて、彼は、治療者として、教育者として、臨床にのみ専念することがやっと可能になった。
 カイザーの実践は、いわば精神分析から基本規則と内容解釈を抜き取ったものであったのだが、トペカでの実践のなかで、ますます古典的な精神分析技法から遠ざかっている。つまり、自分のしていることを技法として説明することをやめたのである。むしろ彼の見解では、セラピーには、患者の対等性と自立性が尊重されるような関係を実現することへの関心から自然に生じる、そうしたセラピストの側の態度が重要であったのである。
 彼は、トペカで出会った多くの人たちの考えに、多大な影響を及ぼしている。しかし、それにもかかわらず、しだいに彼は学生たちと接触しなくなっていった。1954年には、居心地の悪さを感じて、コネチカット州のハートフォードに引っ越している。ここで彼は開業し、個人的な小さな研究グループを作った。
 カイザーはハートフォードで狭心症を患い、1959年にカリフォルニアのパシフィック・パリセーズに移り住んだのであるが、そこは穏やかな気候であり、とてもすごしやすいところであった。ここで彼は執筆し、わずかではあるが開業して臨床活動を続け、教育活動を行っている。そして、1961年10月12日、近所の小さなレストランで二人目の妻ルースと昼食中に、急死してしまったのである。


Ⅲ.アプローチの変遷


 カイザーの出発点は、ヴィルヘルム・ライヒ(Reich, 1949)の「患者がどんなふうに話をするかは、患者がなにを話すかという問題と同じように、解釈の材料として同等の重要さをもつものである」(訳書, p.61)という教えであった。そして、ライヒの手法を徹底することによって、防衛の背後に無意識的な願望が秘匿されていることをクライエントに伝える方法である精神分析の内容解釈(content interpretation)は有害であるとして、その手続きを捨て去ってしまった。分析家の活動は、行動のうちに姿を現わす防衛(抵抗)に対してクライエントを直面化することに限定すべきであるというのである(Kaiser, 1934)。
 このように、彼の手法はライヒの抵抗分析の系譜にあるのだが、ライヒ自身は抵抗が解消されたあとの最終ステップとして内容解釈を行うように勧めており、「彼の結論は性格分析の理想的な事例にかぎっていえることである」(Reich, W., 1949)とカイザーを批判している。カイザーに対する批判は、その他にもフェニヘル(Fenichel, O., 1935)の「いかなる解釈の手続きをもまったく承認しない者を、もはや分析家と呼ぶことはできないと思う」や、アレクサンダー(Alexander, F., 1935)の「精神分析が、抵抗の現われを患者に指摘するだけの、極度に不毛な手続きに引き下げられてしまう」があるが、そもそも内容解釈が放棄された理由はこうであった。すなわち「分析家の解釈行為が特殊な抵抗を患者のうちに呼び起こしてしまう。その抵抗は克服することのできないものではないが、最初の抵抗よりも克服することは困難である(解消するにはもっと時間がかかる)」(Kaiser, 1934)である。
 1949年にメニンガー・クリニックに移籍してからは、内容解釈と同時に、自由連想を求める「基本規則」も放棄されたのだが、そうすることによって、思い浮かぶことを話さねばならないことへの抵抗もクライエントに認められなくなった。そしてカイザーは、みずからの技法を抵抗分析から「防衛分析(defense analysis)」と改めている。防衛分析とは、自分の真のフィーリングや衝動や動機への気づきから、クライエントがどのようにして身を守っているのか、そのことに目を向けさせることであった。クライエントに対して、彼は「あなたは○○することで○○から身を守っているようだ」と解釈していたようである(Enelow and Adler 1965)。
 このようにしてカイザーは、精神分析の立場からスタートし、そこからしだいに脱却して独自の立場を切り開いていった。彼が次に手にした新たな視点は、以下の3点である。すなわち、(1)他者との「融合幻想」としての「普遍的精神病理」、(2)コミュニケーションにおける「二重性」としての「普遍症状」、(3)セラピスト側の「コミュニカティヴな親密さ」ないし「コミュニカティヴな態度」としての「普遍的セラピー」である(Fierman, 1965)。
 カイザー(Kaiser, 1965)によると、心理療法において上記の二重性は、ねじ曲がっている、間接的である、見せかけである、純粋でない、全身全霊がこもっていない、統合されていない、一貫していないといったかたちで、クライエントのコミュニケーションに姿を現わす。そして、その二重性を主観的な不快感として体験する臨床家は、クライエント本人が認識していない側面や気づきたくないであろう側面に対しても、敬愛の念を持って触れていく態度つまりコミュニカティヴな態度によって、そこに認められる二重性にクライエントを直面化するのである。十分な時間をかけてこのようなコミュニカティヴな関係を臨床家が提供すれば、孤独という実存的不安からくる融合幻想やコミュニケーションにおける二重性はしだいに消滅し、この変化のプロセスにおいて、分離や自立性や個別性に関わる覚知が高まることになる。
最終的にカイザー(Kaiser, 1965)は、心理療法に必要なのは二重性にクライエントを直面化することだけであるという考えを放棄して、それに代わって、純粋でコミュニカティヴな関係性を確立してそれを維持することにもっぱら関心を払うことだけが、効力のある心理療法にとっての必要にして十分な条件であるとした。カイザーにとってはクライエントとのコミュニケーション自体が自己目的になっていて、心理療法の外部に症状の緩和などの目的を立てないことによって、心理療法を目的実現のための手段にしていないことが特徴である。端的にいえば、収束すべき目的のない心理療法、あるいはゴールのない心理療法なのである。


Ⅳ.二重性


 1.自己欺瞞における二重性
 自己欺瞞の定義はさまざまであるが、シャピロ(Shapiro, 1996)はそれについて、「何かを感じたり信じたりしていることと、自分は何かを感じたり信じたりしているのだと考えること……これらふたつが乖離していること(disjunction)が、いわゆる自己欺瞞である」としている。彼(Shapiro, 1989)は、このような乖離が認められる発話を「自己を欺く発話行為(self-deceptive speech act)」と命名し、神経症者一般の特徴として規定している。
 シャピロがいう自己欺瞞は、自分の師であるヘルムート・カイザー(Kaiser, 1965)の概念、すなわち普遍症状としての「二重性(duplicity)」を意味している。行動に姿を現わす「非コミュニカティヴな諸要素 (noncommunicative elements)」(p.159)である、この二重性が認められる際のクライエントについて、Kaiserは「患者はストレートに話さない(patients did not talk straight)」(p.36)、あるいは「言葉に全身全霊がこもっていない(they were never wholeheartedly behind their words)」(p.36)と表現し、聞き手に与えられる印象を「他人事のような」「回りくどい」「不自然」などと描写している。以下はさらに詳しい説明である(Kaiser, 1965)。

「患者の話に耳を傾けるには、極めて特別な努力が必要であった。いや、これは的確な表現ではなかった。患者の話に耳を傾けるには内的な努力の感覚がかなり引き起こされたのだが、それはまるで二人の話し手が話すのを同時に聞き取らねばならないかのようなのである。患者のコミュニケーションについていえば、そこには奇妙な二重性があった。単語や、文や、全体のストーリーはとてもよく理解できるものであるし、それ自体は筋が通っていた。けれども、それに伴われている声のトーンや、表情や、ジェスチャーが、全体的なコミュニカティヴな作用を微妙に妨げてしまったり、ときには著しく妨げてしまうこともあった。それは、話されている内容から聞き手の関心を大きく逸らせてしまい、その理解を、不確かで、はっきりと分からないものにとどめてしまった。また、聞き手の関心が逸れてしまうことと同時に生じているのは、話していることに対する患者本人の関心と発話に随伴する迫力とのあいだに一体性(unity)がない、ということであるように思われた。たとえ患者が生々しい言葉を吐いても、大声を張り上げて激しくジェスチャーを示しても、私は、全体的な印象として迫力がないと感じることがよくあったのである」(pp.36-37)

 このようなコミュニケーションにおける二重性を、カイザー(Kaiser, 1965)はあらゆる精神病理に認められる「普遍症状(universal symptom)」であるとしている。これと類似する概念としては、たとえばベイトソン(Bateson, G.D.D., 1956)の「二重拘束(double-bind)」、ロジャース(Rogers,C.R., 1951)の「自己構造」と「体験」の「不一致(incongruence)」、パールズ(Perls, F.S., 1969)の「勝ち犬(topdog)」と「負け犬(underdog)」の「闘争(struggle)」、グリーンバーグ(Greenberg, L.S., 1993)の「分離(split)」などがある。
 クライエントが何らかの二重性を示す場合、つまりストレートに話さない場合、彼の行為と言葉には「実が入って(present in)」いないし、自分自身の言葉と行為に「責任(responsibility)」を感じているわけではない(Kaiser, 1955)。カイザーにおいては、二重性と責任ないし主体性の問題が分かちがたく結びついているのであるが、そこでは自分の抱えているハンディキャップが「内的動機づけ(motivation)」に発するのではなく、もっぱら外部からの「不可抗力(force majeure)」として口にされることが特徴である(Kaiser, 1955)。これは、意志薄弱とも訳されることのある、いわゆる「アクラシア(Akrasia)」(Aristotle, 1894)の問題でもある。カイザー(Kaiser, 1955)は以下のように述べている。

「比較的健康な人は、いかんともしがたい脅威に直面してそれに屈服するときであっても、みずから決断したのだという感触を保持している。他方、ある種の重篤な神経症者は、「自分には選択の余地がなかったのだ」と(脅威のないはずの要求を耳にするだけであっても)感じる傾向がある」(p.3)

 では、二重性は具体的にどのように発現するのであろうか。カイザーは二重性について、系統的に説明しているわけではない。以下は、彼のテクストを読解した私の要約で、同時的二重性、継時的二重性、あいだにある二重性の視点から分類したものである。

 2.二重性の具体例
 まず、同時性のうちに認められる二重性である。クライエントの言葉や行為と、それに対する「内的態度(inner attitude)」が「一致(at one)」していない、あるいは「不一致(rifts)」の状態にある場合で、端的に言えば「つじつまがあっていないこと(inconsistency)」である(Kaiser, 1955)。思考や言語の視点から、「矛盾した表現(inconsistencies in expression)」、「謬見(erroneous thoughts)」、「抵抗-思考(resistance-thoughts)」、「欠陥思考(faulty thoughts)」(Kaiser, 1934)、「作りごと(artifacts)」(Kaiser, 1955)などと別言されているのだが、その意味で言えば、推論や思考に「欠陥(flaws)」ないし「粗雑な論理(sloppy logic)」(Kaiser, 1955)が認められるものである。具体的には、言葉(話の内容)や、行為や、ジェスチャーや、表情のあいだに不一致が認められたり、言葉そのものが「二つの異なる意味を包含する曖昧な表現(an ambiguous expression which covers two different meaning)」(Kaiser, 1955)をとる場合もある。

具体例1: 言葉とそれを口にする態度が一致しておらず、つじつまがあっていない二重性である(Kaiser, 1934, pp.388-389)。ここには、深刻な話題にもかかわらず、「自分がそうしていることに気がつかないまま笑っている」(Kaiser, 1965, p.90) ような場合も含められるであろう。
面接中、クライエントは少し怒った感じで、今朝、姉の夫である義理の兄と会うつもりであったが、会えなかったと報告する。義理の兄のことをとても慕っていたので、会えなかったことは彼にしてみるととても残念なことである。会えなかった理由を口にするクライエントの声は少しかすれていき、イライラした声のトーンで話し続ける。分析家は「怒っているような声だけど、どうしてですか?」と尋ねる。クライエントは「まったくもう、どうしてつっかかるようなことを言うのですか?だから、クソッタレと会えなかったと言っているでしょう。それがどうしたんですか?」と答えてすぐさま、分析家のほうを向いた。彼はリラックスした様子で、何かを理解したようであった。
 義理の兄を慕っていて、会えなかったことが残念であると口にするのだが、その声の質は話の内容とはつじつまの合わないイライラしたものであり、ここに二重性が認められる。セラピストの介入によって、知らぬ間に抑え込まれていた他方の声(感情)が「クソッタレ」という言葉になって現われている。

具体例2: 心理療法が何の救いにもならないと口にしながら、実際には来談するという、言行不一致の二重性である(Kaiser, 1965, p.80)。

クライエント: あなたを楽しませるために来たんじゃない。あなたが私を救うことができないって分かっていたら、ここに来た自分はまったく大ばか者っていうことになる!でも、あなたのおべっか使いの言葉を聞いて、救われるんじゃないかって淡い期待を持ってやってきた自分がバカみたいに思える。[30秒の沈黙]あなたが言うべきことはそれだけですか?
セラピスト: あなたの質問は私の印象を裏づけてくれるように思います。つまり、あなたは「濃い灰色」のような気がするときに「黒」と口にしがちだということです。[ちょっと間があいたが、患者が少し驚いたようなので続けた]うーん、あなたの、非常に圧倒的な言葉が伝えるほどに私の力量を100%疑っているのであれば、言うべきことはそれだけかなんて聞かなかったでしょう。
クライエント: [皮肉をこめて]「黒!濃い灰色!」どんな違いがあるっていうんだい?もうみんなうんざりなんだよ。それが事実さ!
セラピスト: そうだろうと思います。さもなくば、ここには来なかった!
クライエント: そうさ!

 心理療法を求める態度と、心理療法(セラピスト)を否定する言葉とのあいだにある、言行不一致の二重性の一例であるが、セラピストの介入によって、心理療法を求める態度の近縁にある別の声が姿を現わしている。すなわち「もうみんなうんざりなんだよ。それが事実さ!」である。

具体例3: 言葉そのものに、相反する意味が包含されている二重性の一例である(Kaiser, 1962, p.200)。

クライエント: どうしてそんな風に言うのですか?いいえ、言いたかったのはそんなことじゃない!ごめんなさい![彼は何か言おうとするが、うまくいかない]
セラピスト[真剣に]: そうですか?むしろあなたが口にしたことは、まさに言いたかったことであるような感じでしたよ。それに加えて、口にすべきではないと思っているようですが。
クライエント: まったくその通り、もちろん口にすべきではないのです!

 セラピストに対する否定的な声と、それを抑止しようとする声とのあいだに二重性が認められる。そして、セラピストの介入によって、「べきではない」というまた別の声が現われている。つまり、曖昧な表現を生み出す内的態度に発する声である。
次は、継時性のうちに認められる二重性である。同時性のうちに認められるものとは異なり、複数回の面接を経てはじめて感受される微妙な二重性もあれば、一回の面接の中で、場面が転換するたびに継時的に感受されるものもある。いずれにせよ、セラピストに与えられる「ゲシュタルト知覚(gestalt perception)」(Kaiser, 1965)が継時的に変化し、それらのあいだに二重性が作り出されるということである。

具体例4: 出産後に性的関心を失ってしまった女性の事例である(Kaiser, 1965, pp.48-50)。彼女は、ある主題について熱心に話していたかと思うと、「もうひとつ気になっているのが」と述べて次々と異なる主題へと飛び回り、それを耳にする聞き手は、狐につままれたように面食らってしまう。「夫がいなくなったら生きていけない」と述べ涙を流す、そうした彼女の態度と言葉は矛盾していない(consistent)ように見える。けれども、聞き手は、またしても他のことに気をとられて狐につままれたような気になる。彼女はすすり泣き、涙も頬を伝うのだが、情動が浅薄であるように思われる。頭部を発作的に動かしながら、悲しみと恐れの表情が現われたかと思うと突然に消え去ってしまい、彼女の声は不快な思いを漏らすだけである。
 このような、話される主題の目まぐるしい転換、あるいは情動の急速な転換は、短期力動心理療法において「分散化(diversification)」(Della Selva, P.C., 2004)と命名されている。ここに、継時性のうちに発現する二重性(多重性と表現したほうがよいのかもしれない)を見て取ることができるであろう。
 また、彼女は、上記の分散化以外にも顕著な特徴を備えている。つまり、そのつど口にされる恐れや困惑の説明、それに語りのストーリーをメロディ(melody)とすれば、自分の口にしたことは正確であろうかと懐疑したり、ストーリーの側線として頻繁に別のことに言及したり、不必要な問いや謝罪を口にしたりすることが、背景のノイズ(background noises)として随伴しているのである。したがって、こうした語りのストーリーであるメロディと、それに随伴する側線としてのノイズとのあいだにも、継時的な二重性が認められるといえるであろう。

具体例5: 自分の人生など無意味で、退屈で、虚しいものだと口にする男性の事例である(Kaiser, 1965, pp.51-52)。クライエントは最初、「うん、ああ、何か話したほうがよいみたいですね」と砕けた態度で話すのだが、いざ自分のストーリーを語りだすと、そのような態度とは奇妙なくらいのコントラストをなす落ち着き払った態度である。ここにまず二重性が認められるのだが、それは初回の受理面接では感受されなかったことである。
 クライエントが語るストーリーは、いかにもひとつの物語になっている。それは、確信に満ちた、巧みなスタイルとともに展開するので、はじめ聞き手は興味を持って話に耳を傾ける。クライエントのナラティヴは深く感動させるものであり、とても魅了されるので、セラピストは終了の時間が来たことをほとんど忘れてしまうかもしれない。けれども聞き手は、話し手の不幸な体験に対して、共感や同情とともに耳を傾ける気にはならない。むしろ、力のある手でわしづかみにされ、袋小路すなわち最終地点の石垣にぶつかるまで、曲がりくねった袋小路を無抵抗のまま連れまわされたような気分になるのである。セラピストにしてみると、クライエントは自分と悲劇的な出来事を分かち合っているのだという感じは皆無ではないが、聞き手としては攻撃されたような、一撃を食らったような気がしてしまう。
 ここでの二重性は、クライエントが物語る悲痛な結末と、それとは裏腹な冷静沈着な動じない態度とのあいだにある。そのような態度によってそのようなストーリーを語ることが、不自然な二重性として捉えられるのである。だがそれだけではない。クライエントの話に耳を傾けることによって、セラピストのゲシュタルト知覚は、イライラさせるような、はっきりしない状態に置かれる。つまりセラピストは、クライエントが劇的に仕立てて口にする幼い頃のことや、苦悩や、ひどい失意をメロディとして、耳を傾ける自分を無力な状態に追い込む力動的な力を背景のノイズとして、それぞれ理解するのだが、このメロディとノイズとのあいだにも二重性が認められるのである。言い換えれば、これは、セラピストの主観的体験と、すでに二重性のうちにあるクライエントとのあいだにある、複合的な二重性である。またこの場合、メロディとノイズからなるセラピストのゲシュタルト知覚に継時的な転換が生じやすいという事実、つまり、メロディとノイズが転換しやすいという事実も重要である。
 では、どうしてセラピストは無力な状態に追い込まれるのであろうか。おそらくそれは、コミュニケーションの一方向性のためであろう。このクライエントにとっては、セラピストと話し合うことや、セラピストに話しかけることなど眼中になかった。彼は、一方的に物語ることを仕事(job)としており、その仕事が終わると終了の時間が来るまで沈黙し、ぶっきらぼうに挨拶して立ち去ることを常としていたのである。クライエントのナラティヴは、セラピストとの接触を回避して引きこもるように機能していたといえるであろう。

具体例6: 若い男性の事例である(Kaiser, 1965, pp.52-53)。彼は流暢に話すので、その話を理解することは難しくないし、丁寧で品がある。セラピストは、自分のゲシュタルト知覚に関してはっきりとしない苛立ちを体験することなく、クライエントの想起したことや空想に耳を傾けることができる。ところがしばらくすると、そうしたクライエントの話の特徴自体が、積雲のごとく増大していくかのように思われはじめる。そして、セラピストのゲシュタルト知覚はぐらつく。
 行動力のないこの男性は、引用符で囲まれたような話をする。たとえば、話そうとすることを、「ふと思ったのは」「考えていたのは」という言葉から始めるのである。彼はセラピストに向けて(to)話しているのではない。セラピストがそこにいるというのに、瞼のセラピストに(in front of him)話しているのである。彼は自分のことを心理学実験の対象と考えているようで、彼が語るのは、セラピストに手渡すための思考や空想や記憶の標本である。
 この場合、どこに二重性があるのだろうか。やはり「具体例5」に提示した事例と同様にして、クライエントと、セラピストの主観的体験とのあいだにあると言えるのかもしれない。つまり、いずれにおいても自分を語ること自体に努力が傾注されていて、聞き手のことが眼中にないのである。セラピストは、何がしかのことを語るクライエントを目の前にするものの、自分が呼びかけられている気がしない。その違和感が、目の前でせっせとマテリアルを語るクライエントと、二重性をなすのである。クライエントがセラピストに対してストレートに話さないとは、いわゆるモノローグ(内的対話)のことを指しており、そのため、セラピストとの外的対話が二の次になっていることを意味するのではあるまいか。
 カイザーの言う二重性においては、セラピスト側の違和感としての内的な声たちも重要な役割を演じていることが理解されたであろう。以下に、そのようなセラピストの声も含めた、あいだの二重性についてさらに論じるつもりである。
 クライエントが自己欺瞞の二重性を呈するとき、同時にセラピストの内面には、クライエントの声と脱ハーモニーにおいて響き合うおのれの声が聞こえているはずである。つまり、そのようなクライエントの話に耳を傾ける際には、「他人事のような」「回りくどい」「不自然」などといった印象が与えられたり、聞くこと自体に「内的な努力の感覚」が引き起こされたりするのである。カイザー(Kaiser, 1965)は、次のように述べている。

「このタイプの話に耳を傾けると、セラピストはまず次のような『ゲシュタルト知覚(gestalt perception)』を形成する傾向がある。つまり、脅威となる疎外と結びついているクライエントの恐れや困惑の説明を図として、あるいは音響的な用語を使用すればメロディとして知覚し、自分の口にしたことは正確であろうかと懐疑したり、側線として頻繁に別のことに言及したり、不必要な問いや修正や謝罪を口にしたりしたことを、背景のノイズとして知覚するということである。したがって聞き手は、ストーリーつまり『メロディ』に注目し、混沌とした背景から生じるとりとめのない騒乱にはできるかぎり注意を払わない傾向があるであろう。時間がたつにつれて、とりとめのないノイズは減じるのではなく、自分のゲシュタルト知覚を保持しようと努力することが、聞き手にはよりいっそう求められ、欲求不満や、その結果として苛立ちを感じるかもしれない。ところが、背景のノイズと引き続き格闘する結果、聞き手のゲシュタルト知覚の転換が起こるかもしれない。それ以前はメロディとして知覚されていたものが背景に退くであろうから、とりとめのないノイズはそのとりとめのなさを失い、メロディの諸要素として姿を現わすであろう。苛立ちと内的奮闘から新たなゲシュタルト知覚へと至るこの新しい図式は、普遍症状としての二重性という概念を考え出してから、クライエントに耳を傾けるときに頻繁に体験され、ほとんど例外なしに繰り返し起こったことである」( p.50)

 セラピストの内的な声たちは、ライク(Reik, T., 1948)の「第三の耳で聞くこと(listening with the third ear)」によって感じ取られるのであろう。第三の耳によって、われわれは「本来なら聞こえない、自己の内面から響いてくる声たち」や「ピアニッシモで囁かれること」(p.145)を聞き取ることができるのである(Reik, 1948)。では、セラピストの内的な声は、何に対応しているのであろうか。それは、図と地の反転によって見え隠れするクライエントの声であり、二重性のうちに同時的に姿を現わすクライエントの声である。このように考えると、二重性が現象する空間は、クライエントとセラピストのイントラパーソナルな平面が、インターパーソナルな平面と係合する、あいだの空間であるといえるのかもしれない。バフチン(Bakhtin, M.M., 1930)が、「内言と外言の葛藤」ないし「言葉の苦しみ」(訳書, p.136)と称する出来事が生じる領野である。この点については、後述するつもりである。


Ⅴ.二重性を多声性から見直す


 自己欺瞞のプロセスにおける二重性は、「内的多数性(internal multiplicity)」や「多声性(multivoicedness)」が、クライエントとセラピストとのあいだに振る舞いとして姿を現わしたものであると理解することができる。そして、この二重性を、声たちが演じるハーモニーや脱ハーモニーの視点から理解すれば、シャピロ-カイザー派アプローチは、心理療法における「対話的自己(dialogical self)」(Hermans and Kempen, 1993)の理論へと接近することになるであろう。
 多声性の視点は、人間の心を多くの下位人格の集塊として考える「多重心性(polypsychism)」(Ellenberger, H.F., 1970)のモデルに類似している。「声(voices)」とはそのような下位人格、あるいは「言葉を交わすパーソナリティ、言葉を交わす意識」のことであって、「その背後にはいつも意志や欲望があり、自分自身の音色と倍音たちで満ちている」(Emerson, C., and Holquist, M., 1981, p.434)。「多声性」とは、このような声たちによる対話や、声の「内的多数性」を意味しており、その他にも「心の諸状態(states of mind)」(Horowitz, M.J.,1987)、「イマゴ(imagoes)」(McAdams, D.P., 1996)、「下位-人格(sub-personalities)」(Rowan, J., 1990)、「ポジション(positions)」あるいは「I-ポジション(I-positions)」(Hermans, H.J.M., 2004)、「声(voices)」(Firestone, R.W., 1988, Stiles, W.B., 1999, Georgaca, E., 2003)、「モード(modes)」(Cooper, M., 1996)などの呼び名がある。われわれの自己は、多数の声たちによって形成されている「コミュニティ(community)」(Osatuke, K., and Stiles, B., 2006)として、あるいは「相対的に自律しているI-ポジションたちの力動的多数性(dynamic multiplicity)」ないし「声たちの劇場(theater)」(Hermans, H.J.M., 2006)として、あるいは「対話的ポジションたちの布置(constellation)」(Georgaca, E., 2003)として理解される。
 カイザーは、心理療法における対話的関係について、どのように考えていたのであろうか。彼は、クライエントは「ストレートに話さない」と述べている。これは、セラピストとクライエントの外的対話の側面を言ったものであろう。また彼は、クライエントの二重性を「非コミュニカティヴな諸要素」とも呼んでいる。これは、外的対話(コミュニケーション)に対して妨害的に作用するクライエントの内的対話の側面を言ったものであろう。このように考えると、カイザーは、対話的関係におけるインターパーソナルな平面とイントラパーソナルな平面を想定していたとみなすのが自然である。このことをさらに裏打ちするのは、彼の「クライエントはセラピストに向けて (to) 話しているのではない。セラピストの目の前で (in front of) 話しているのである」(Kaiser, 1965, p.53)という表現であり、同じことを言い換えたシャピロ(Shapiro, 1989)の「本人は、相手とコミュニケーションを営むことに関心があるというよりも、むしろ自分自身の耳に向けて話している」(訳書, p.55)という表現である。
 二重性を帯びたクライエントのナラティヴが外的対話の平面に姿を現わすとき、それはダイアローグではなくモノローグのように感じられるはずである。セラピストは、自分が話しかけられているような気がしない。イントラパーソナルな平面における声たちの対話、つまり内的対話としてのモノローグが、セラピストの目の前で展開するのである。
 このようなクライエントの発話の構造を理解するために、しばしバフチンの対話理論について考えることにする。バフチン(Bakhtin, 1926)は、「実際に発せられた(あるいは意味をもって書かれた)あらゆる言葉は、話し手(作者)、聞き手(読者)、話題の対象(主人公)という三者の社会的相互作用の表現であり所産なのである」(訳書、p.30)と述べている。クライエントとセラピストの外的対話にも、このような構造があるのは自明である。クライエントは、何かについて、セラピストに対して話すのである。だが、それはあくまでストレートなコミュニケーションが営まれたときにいえることであり、それが阻まれたときには、二重性と形容されるような別の事態が生起しているはずである。バフチン(Bakhtin, 1952-1953)はこう述べている。

「発話の本質的な(生来の)特徴は、それが誰かに向けられていること(directed to someone)、それが宛名を持つこと(addressivity)である。……この受け手(adressee)は、日常会話の直接の参加者である話し手(immediate participant-interlocutor)のこともあれば、……(情動的タイプのさまざまなモノローグ的発話に見られるように)まったく不特定の、具体性を欠いた他者(unconcretized other)のこともある。」(訳書、pp.180-181)

 つまり、クライエントがセラピストに向けてではなく、自分の耳に向けて、あるいはセラピストの目の前で話すときには、クライエントは具体性を欠いた他者、あるいは対話における二人の当事者を越えた「潜在的な第三者 (potential third)」(Bakhtin, 1959-1961, 訳書、p.217)、あるいは対話の参加者すべての上に立つ姿なき「上位の受け手 (superaddressee」(Bakhtin, 1959-1961, 訳書、p.236)に向けて話しているのである(注釈)。一般的なことを言えば、「どんな対話の言葉も、それ自体はモノローグであるといえるが、しかしまた、どんなモノローグも大きな対話のなかの言葉なの」であり、「モノローグ性にもさまざまな度合いがある」(Bakhtin, 1959-1961, 訳書、p.220)わけであるが、外的対話におけるセラピストとクライエントのコミュニカティヴな関係に、クライエントの内的な複数の声によっておりなされる「ミクロの対話(microdialogue)」(Bakhtin, 1963, 訳書、p.83)が係合し、後者(ミクロの対話としてのモノローグ)が支配的になる事態が、カイザーの言う二重性なのではあるまいか。端的に言えば、「内的に対話化された複声的な言葉の優位」(Bakhtin, 1963, 訳書、p.409)、あるいは「コップの中の嵐(tempest in a teapot)」(Bakhtin, 1934-1935, 訳書、p.129)である。
 たとえば、具体例3として示した例証で論じてみたい。この例では、セラピストの発言に対して、クライエントはまず「どうしてそんな風に言うのですか?」と抗議ないし懐疑を示している。そして、すぐさま「いいえ、言いたかったのはそんなことじゃない!ごめんなさい!」と前言を撤回している。この相反する二つの発話のあいだに何かが起こった。つまり、クライエントの内面にそのようなことは口に「すべきではない」という声が響いて、クライエントはその潜在的な受け手に対してみずからをポジショニングし、前言を撤回するに至ったのである。だが、まだこの時点では、ミクロの対話の受け手の姿は隠されていて、「隠された対話関係 (hidden dialogicality)」(Bakhtin, 1963, 訳書、p.397)と呼ぶことのできる段階にとどまっている。それに対して、セラピストがコミュニカティヴな態度で「そうですか?むしろあなたが口にしたことは、まさに言いたかったことであるような感じでしたよ」と介入すると、やっとクライエントは「まったくその通り、もちろん口にすべきではないのです!」と認め、「すべきではない」という内的な声の存在に開かれたわけである。
 カイザーの言う二重性とは、さまざまなかたちで姿を現わす声のmultiplicityのことでもある。しかし、提示した具体例4はまさに多声性を示しているものの、duplicityという命名だけに、カイザーはクライエントの「二声性(double-voicedness)」(Bakhtin, 1959-1961, 訳書、p.207)、あるいは「二つの声を持った言葉(double-voiced word)」(Bakhtin, 1959-1961, 訳書、p.225)に対して特に着目していたのであろう。そして、この二重性をなす声たちは、互いにぶつかり合って葛藤しているわけでは必ずしもないようである。たしかに二重性は「闘争する声たち、内部で分裂した声たちのポリフォニー」(Bakhtin, 1963, 訳書、p.522)として理解されるのであるが、セラピストにとって矛盾しているその声たちは、クライエントにとっては矛盾することなく同一の平面に並存したり、交代して姿を現わしたりで、まるで二人の人間と対峙しているかのような様相を呈するのである。異なる声たちが際限なく交代して姿を現わし、同一のストーリーをさまざまに変形する様は、「共不可能性(incompossibility)」(Deleuze, G., 1985, 訳書, p.182)と呼ぶことも可能であろう。
 後に提示する具体例10がよい例である。この事例は最初、セラピストに対して自分の秘密を「話すべき」という声と「話したくない」という声を、矛盾することなく発している。二つの声のあいだに葛藤がない、ということはつまり不安を感じていないのである。最終的には、セラピストの介入によって、自分は「話したい」のか「話したくない」のか、声たちの葛藤が生じている。
 スタイルズ(Stiles, B.S., 1999) の「同化モデル(assimilation model)」を使えば、自己欺瞞の二重性は次のように理解されるであろう。われわれの自己は、内的な声たちのコミュニティによって形成されている。精神的に健康な状態では、必要に応じて声たちのあいだの対話が繰り広げられ、互いの風通しがよいのだが、多くの精神病理学的諸状態においては、意味の架け橋(記号によって媒介された声たちのあいだのリンク)が脆弱であるか、欠如している。この場合、声たちの内的なコミュニケーションは、苦痛で、質が悪いか、極端な場合にはまったく存在しておらず、本人にとって問題のあるいくつかの声は、コミュニティから切り離されたり、沈黙を守ったりしている。自己欺瞞は、そのような問題のある声が意識に回帰するために、そこから来る不安や苦痛から逃れようとして耳を閉ざそうとする営みなのである。自己欺瞞を呈するクライエントには複数の声が衝突することによる葛藤に耐える強さはなく、自己状態の変化が突然であったり連続性を欠いたりすることや(ポジショニングの目まぐるしいスイッチ)、反対に、一定の自己ポジションに定住することが認められる場合がある。二重性とは、耳にすることを望まない問題のある声が声たちのコミュニティに侵入して、クライエントの声を含めた振る舞いが二声性(多声性)を帯びることなのであろう。そして、後述するカイザーのコミュニカティヴな態度によって問題のある声との対話が進展し、声たちのあいだでの葛藤をへて、問題のある声は声たちのコミュニティへと同化されるのである(注釈)。
 次に、ナラティヴの視点から二重性について再考したい。ハーマンス(Hermans, 2006) は、「解体した自己ナラティヴ(disorganized self-narrative)」について、「ポジション・レパートリー(position repertoire)」の視点から三種類に分類している。すなわち「非生産的なナラティヴ(barren narrative)」、「不協和音(cacophony)」、「モノローグ(monologue)」である。この分類の「不協和音」を、「解体した対話(disorganized dialogues)」(Dimaggio, Salvatore, and Catania, 2004)、「解体したナラティヴ(disorganized narratives)」あるいは「ナラティヴの過剰生産(overproduction of narrative)」(Dimaggio and Semerari, 2004)と呼ぶものもいる。また、「非生産的なナラティヴ」と「モノローグ」を包括する概念であろうが、それらを「精彩を欠いた対話(impoverished dialogues)」(Dimaggio, Salvatore, and Catania, 2004)と呼ぶものもいる(注釈)。

a「非生産的なナラティヴ(barren narrative)」: すべての対話が最低限のものにとどまり、融通の利かないわずかばかりの自己ポジションによって縛られてしまう。この状態にある自己は、空虚で惨めなものとして体験され、語られる。さまざまな体験をしているのであろうが、口にされるストーリーは極めて簡潔である。

b「不協和音(cacophony)」: 階層的な秩序が欠如している。個々の自己ポジションが秩序なく言葉を発したり、互いを無視して言葉を発することによって、イントラパーソナルな平面の対話、あるいはインターパーソナルな平面の対話には、めまいがするほど多数の自己ポジションがずらりと並んで姿を現わす。ポジション・レパートリーは、豊かで生き生きとした世界体験を描き出し、それには感情が十分に備わっているが、全体としての構成を欠いている。十分な論理的結びつき、あるいは時間的結びつきがないナラティヴとなるのだが、ひとつの文の中に多数の矛盾を見出すことができる。不協和音のナラティヴは、一群の声たち(characters)が一気に発言したり、それまで口にされたことにはおかまいなしに絶え間なく互いの声を遮り合うようなものである。

 c「モノローグ(monologue)」: ひとつか少数のポジションしかとらない、力強いものの硬直的な自己ポジションの階層的秩序が、ポジション・レパートリーを支配している。このタイプのナラティヴにおいては、対話能力が極度に低減して、世界を、一貫性はあるが単一の仕方で整理するような、モノローグとなってしまう。さまざまな体験をしているのであろうが、そのすべてが、いつも変わらぬ自己ポジションから解釈される。空虚なポジション・レパートリー(話すストーリーのない)の非生産的ナラティヴの人と対照的なのは、内的に一貫したストーリーを構成するものの、それがあまりにも硬直的であるために発展せず、他人と理解を共有するには至らないということである。不協和音のナラティヴと対照的なのは、極めて少ないポジションから発せられるたった一つのテーマで、ストーリーが語られるということである。

 上記の三つの分類からカイザーの二重性を捉えなおすと、具体例4として提示した「産後に性的関心を失ってしまった女性」のナラティヴは、「不協和音」に該当するであろう。そして、具体例5として提示した「自分の人生など無意味で、退屈で、虚しいものだと口にする男性」のナラティヴは、「モノローグ」に該当するであろう。その他の具体例については、カイザーの描写が断片的であることもあり、定かではない。いずれにせよ、このようなナラティヴは「語りの世界への引きこもり」(Ogden, T.H., 1994, 訳書, p.207)なのであろう。
 これら以外では、ディマジオとセメラリ(Dimaggio and Semerari, 2001) がナラティヴ解体の一形式として分類する、「基本的統合の欠損(basic integration deficit)」も注目される。これは、コミュニケートされるテクストの意味と、体験されている身体的喚起の類別と、表情と、姿勢のあいだに、一貫性がないことである。カイザー(Kaiser, 1965) の「それはまるで二人の話し手が話すのを同時に聞き取らねばならないかのようなのである。患者のコミュニケーションについていえば、そこには奇妙な二重性があった。単語や、文や、全体のストーリーはとてもよく理解できるものであるし、それ自体は筋が通っていた。けれども、それに伴われている声のトーンや、表情や、ジェスチャーが、全体的なコミュニカティヴな作用を微妙に妨げてしまったり、ときには著しく妨げてしまうこともあった」(pp.36-37)という描写は、まさにこれに該当するであろう。カイザーのいう二重性には多様な側面があるのだが、この二重性こそが基本型となるように思われる。
 クライエントのあらゆる二重性は、「他者に対する二重の関係(dual attitude toward the other person)」(Bakhtin, 1963, 訳書、p.551)として、対話関係における二重性となって姿を現わすであろう。バフチンは「チーホンと話をしているのはさながら、一人の人間の内で互いに邪魔しあっている二人の人間であるかのようだ。チーホンに対立しているのは二つの声であり、その二つの声の内的闘争に、彼もまた参加者として巻き込まれているのである」(Bakhtin, 1963, 訳書、p.552)と述べているのだが、それはまさにカイザーの「それはまるで二人の話し手が話すのを同時に聞き取らねばならないかのようなのである」という言葉そのものである。
 次に、二重性のある振る舞いに認められる不自然さについてである。二重性のうちにあるクライエントの話しぶりやジェスチャーは、芝居がかった不自然なものに映る。純粋ではない印象を与えるのである。そのときのクライエントは、自分自身を納得させようとして、あるいは自分自身を鼓舞して安心させようとして、自分自身に対して他者を演じていることになる。シャピロ(Shapiro, 1996) はこう述べている。

「彼らの言うことは、自分がアクチュアルに考えたり感じたりしていることを表現しているようには思われなかったのである。その涙は、取り繕っているか、念入りに仕立てられているように思われることもあった。幼児期のことを語ったストーリーは、あらかじめリハーサルをしてきたかのように聞こえた。昨日あった出来事を怒りながら説明するものの、耳を傾ける者にはまるで公開演説のように聞こえた」

 自己欺瞞における、演技性の問題である。どうして不自然なのか、それは何かが本末転倒しているからである。これに関しては、以下のシェーラー(Scheler, M., 1915)の記述が説得力を持っている。

「先の学説(ジェームズ-ランゲ理論)が逆説的に表現しているように、ヒステリーの患者は現実に『笑うから楽しく、嘆くから悲しい』のである。だが正常な人間はその逆である。その場に居合わせている人、たとえば医師の側の印象や、そうした人が示す『社会的像(social image)』に合う態度をとることが、そこでは直接的に、またいわば自動的に情動の発散を規定する。患者の感情と志向は、それに合わせてあとからはじめて表わされる。それゆえ『見ている人』がいなくなると、情動はたちまちやんでしまう。したがって、見ている人の錯誤は、ここではつねにそれに先行する自己錯誤(self-deception)の結果であり、それによってこうした挙動は、すべてのたんなる狂言(comedy)や見せかけ(simulation)とは区別される」(訳書『価値の転倒(下)』p.102)

 通常われわれは悲しいから泣き、楽しいから笑う。しかし、自己欺瞞においては、何かが本末転倒している。彼らは、笑うから楽しく、嘆くから悲しいのである。自己欺瞞の不自然さは、ここに理由があるに違いない。クライエントの言葉は、自分のフィーリングや確信を表わすものではなく、支配的な内的声の顔色をうかがいながら、何らかのフィーリングや確信を作り出したり払いのけたりしようとする努力のうちに使用されているのである。
 クライエントの内面では、他者たちの声があふれんばかりに鳴り響いている。このような状況のなかで、「現実の他者の声はすべて不可避的に、主人公の耳のなかですでに響き渡っている他者の声と融合してしまう」(Bakhtin, 1963, 訳書p.531)ことになる。つまり、自分の声が聞き分けられない、あるいは自分の声と他者の声を区別することができないのである。二重性のうちにあるクライエントのナラティヴは、分裂していない自分自身の声ではない(注釈)。その声は、他者の声を代理してそれを生きているだけなのかもしれない。バフチン(Bakhtin, 1963)はこう述べている

「彼には、他者の声を自分の外部に完全に閉め出し、自分自身と融合してひとつのモノローグ的な声(その声はどんな声であれ、逃げ道を持っていない)になりきってしまうことができない。」(訳書、p.484)

 つまり、どんなにクライエントのナラティヴに耳を傾けても、そこに彼はいないということである。クライエントの言葉には「全身全霊がこもっていない」というカイザーの言葉の意味は、この視点からも読み解くことができるかもしれない。
 最後に、現代の代表的なナラティヴの臨床家の言葉をあげておこう。すなわち、「われわれはここで強く訴えたいと思う。セラピーは、患者のナラティヴの内容だけでなく、それによって形成されている対話の形式にも方向づけられるのである。解体した対話の場合、混沌に秩序をもたらすことこそが主たる目的とされるべきである」(Dimaggio, Salvatore, and Catania, 2004)である。奇しくも、シャピロ(Shapiro, 1989)はこう述べている。「言葉だけでなく話し手にも注意を払え」と。


Ⅶ.二重性に対する介入


 1.コミュニカティヴな態度
カイザーの晩年の立場について、非指示的なスタンスによるものであり特定の技法を欠いているというものもいる(Fierman, L.B., 1997)。また、ウェリング(Welling, H., 2000)は、カイザーには技法と呼べるものがあったと述べ、それを以下のような6項目に分類している。すなわち、1.内的体験の重要性、2.セラピーの焦点としての二重性、3.二重性の体験的発見、4.内容分析の回避、5.言葉の訂正的使用、6.ステップワイズ法である。しかしながら、重複の多い分類であるので、十分に把握するのは難しいかもしれない。
 技法に対するカイザーの姿勢は明確なもので、実際の臨床場面では意図した働きかけを戒めてさえいる。すなわち「患者に対する自分の関心を示そうという目的のために、何かをしたいと感じているときには、あるいは何かを控えるときにはいつでも、自分の関心が欠如していることを確信することができる」(Kaiser, 1965, p.170)である。おそらくこれは、前反省的な関与の流れ、たとえばヴィーコ(Vico, G., 1709)のいう「トピカ(topica)」を重視するがゆえの言葉なのであろう。
 私が思うに、やはりカイザーには系統的な技法はない。そのアプローチは、コミュニカティヴな態度をもってクライエントの二重性に働きかけること、としか表現の仕様がないのである。シャピロ-カイザー派アプローチにおいて重要なのは、技法ではなく、むしろセラピストの「コミュニカティヴな態度(communicative attitude)」(Kaiser, 1965, p.152, p.167)である。これは「コミュニカティヴな親密性(communicative intimacy)」や「コミュニカティヴな接触(communicative contact)」とも呼ばれているのだが、クライエント本人が認識していない側面や気づきたくないであろう側面に対しても、敬愛の念を持って触れていく態度のことである。シャピロ-カイザー派アプローチにおいては、このような態度をもってクライエントの二重性に着目しながら、クライエント本人が気づいていない声たちに呼びかけるのである。
 カイザーの考える従来的な心理療法が行うのは、「患者に助言し、励まし、教え導くこと。患者の自己理解や自己覚知を増大させること。患者の無意識を意識化すること。幼児期の体験を再構成すること。患者の抵抗を解消すること。患者の空想や夢を解釈すること。おそらく無条件に受容されていると患者が感じるようにすること」(Kaiser, 1965, p.157)であり、それがゴールないし目的とするのは「患者の精神状態を改善すること」(Kaiser, 1965, p.158)である。つまり彼によれば、通常の心理療法とは、何らかの技法を介して一定のゴールに向かう目的的な営みなのである。
 ところがカイザーは、心理療法がそこへと収束すべきゴールを否定する。カイザー(Kaiser, 1965)は、そのような収束すべきゴールを放棄した心理療法、つまりコミュニカティヴな態度によるアプローチに求められる要件について、次のように述べている。

「第一の要件は、セラピストの興味関心(あるいは方向性とか性向といえるかもしれない)と関係がある。つまり、人間への興味、もっと具体的に言えば、神経症のせいでその態度が非コミュニカティヴになっている人と、ストレートなコミュニケーション(straightforward communication)を打ち立てることへの興味である。セラピストのこの興味は、神経症からくる妨害に直面してこうしたコミュニケーションを確立することが、自分にとってそれ自体が目的であって、目的を実現するためのたんなる手段ではないという意味で、純粋なものであらねばならない」(p.159)

 カイザーにとっては、クライエントとのコミュニケーション自体が自己目的になっていて、心理療法の外部に症状の緩和などの目的を立てないことによって、心理療法を目的実現のための手段にしていないことが理解されるであろう。端的にいえば、収束すべき目的のない心理療法、あるいはゴールのない心理療法なのである。
 では、シャピロ-カイザー派アプローチによって、クライエントはどのように変化するのであろうか。二重性が解消されたクライエントの姿について、カイザーはあまり多くを語っていないのだが、以下は、出発点であった彼の抵抗分析が首尾よくいった場合のクライエントの姿である(Kaiser, 1934)。

「患者はイライラした声で、しばしば妙に震えたトーンの声で話す。彼はとても興奮している。不安や嫌悪や恥辱を表わす痙攣性収縮や、一瞬のあいだ姿勢が硬直することによって中断することもよくあるが、その筋肉組織は弛緩する。彼は、うちとけて話したり、ためらいがちに話したりする。声の発し方と音色と音程、表情とジェスチャー、言葉遣いと文法は、そこに居合わせるものに自然な印象を与える」(p.385)

 不自然で作られたかのような印象が自然なものになり、注意の焦点が内省に向けられ、情動体験が促進されるということであろうか。この説明は、セラピストから見たクライエントの外的な姿である。
 また、カイザー(Kaiser, 1955)は内的体験も重視しており、クライエントに「内的覚知(inner awareness)」(p.8)がもたらされることにも言及している。自分自身の行為や言葉に対する「内的態度(inner attitude)」(p.3)、「内的ポジション(inner position)」(p.8)、「内的状況(inner situation)」(p.10)、「こころの状態(state of mind)」(p.10)、などの非常に注目される言葉を使って説明しているのだが、クライエントに変化としてもたらされる自己覚知とは、それらが「統合(integration)」(p.8)されたり、「再編成(reformulation)」(p.8)されたり、「再秩序化(reordering)」(p.10)されることを意味している。カイザーの二重性への介入は、上記のような内的体験への介入でもあるのだが、シャピロ(Shapiro, 1989)はこのことを、「主観的体験のダイナミクス(dynamics of subjective experience)」へとクライエントを導くこととして述べている。
 このような変化は、基本的には長い時間をかけて徐々に実現されるのであろう。クライエントの自己欺瞞や自己覚知の歪曲は、セラピストのコミュニカティヴな態度による介入によって少しずつ本復し、「(コミュニケーションの)直接性や、体験された情動の表現や、純粋性」(Kaiser, 1955, p.11)が着実に増大するのだが、カイザーは次のように注意を促している(Kaiser, 1955)。

「クライエントは嘘を言っているのではないし、わざとそのようにしようと努力しているのでもない。場面ごとにできるかぎり自分の自覚していることを表現しているわけであるから、最初のうちは不誠実で、後になってから嘘をつくことをやめるということではないのである」(p.13)

 最終的にカイザーは、これまで説明してきたクライエントの二重性に介入するコミュニカティヴな態度さえ捨て去っている。重要なのは、セラピストの存在そのものだというのである。彼(Kaiser, 1965)は「われわれが合意するセラピーの目的には、患者は、二人で会っているあいだ、自分の注意をただひたすらに患者に対して払うよう動機づけられている一定のパーソナリティ特徴を備えた人と、十分な時間をともにするという、ただそれだけのことが必要なのだ」(p.158)と述べ、セラピストに必要なのは、「ただひたすらに患者とともにあること(just being with the patient)」(p.157)であると結論している。
 では、コミュニカティヴな態度は本当に捨て去られてしまったのであろうか。私は、ウェリングと同じく、そうではないと考えている。彼(Welling, 2000) はこの点について、「はっきりとしたことだが、この言葉を結論として理解すべきではない。それは、長年にわたって技法問題と取り組んだカイザーが見出した、最重要点を手短に述べたものなのである」と述べている。つまり、私が理解するカイザーの言葉の真意は、コミュニカティヴな態度を備えたセラピストが、ただひたすらにクライエントとともにあるということである。ただ、これは、コミュニカティヴな態度を伝えるチャンネルとして技法が大切であるそのように、共存在としてともにあることを具現するチャンネルとして、コミュニカティヴな態度が大切であるという意味を超えるものではない。カイザーの到達した最重要点は、やはり「ともにあること」なのである。

 2.介入の具体例
 カイザーが行う具体的な介入については、すでに提示した具体例1~6においても少しだけ触れている。基本は、二重性に着目しながら、コミュニカティヴな態度をもって、クライエントの振る舞いや内的体験の認識されていない側面に注意を払うよう働きかけることである。

具体例7: 事例は30歳の男性で、強迫的なところのある心理臨床家である(Kaiser, 1955, p.5)。自分の症状の緩和とセラピーを受ける体験をしてみたいという、二重の動機づけのもとに来談している。セラピーが開始されて3カ月が経過したある面接で、7分の沈黙後、彼はこう切り出した。

クライエント: お伺いしたいことがあります。正直に答えてくださるとよいのだけれど。
セラピスト: 私が質問から巧みに身をかわすのではないかと考えているのですね?
クライエント: [笑みを浮かべる]その通りです。私がひそかに考えていることを口にすれば役に立つと思いませんか?
セラピスト: 役に立つ?何の?誰の?
クライエント: うーん、そうですね、私の治療がスピードアップするとか。

 まずカイザーが「私が質問から巧みに身をかわすのではないかと考えているのですね?」と、問うことによって行っているのは、このようなことであると思われる。。つまり、クライエントの唇から発せられる目に見える声、耳で聞き取れる声(セラピストへの問い)を取り上げるのではなく、見えない、なかば隠された声(動機や意図と言い換えてもよいであろう)に焦点を合わせるということである。したがって、「質問から巧みに身をかわす」というセラピストが口にした言葉は、本来的にはクライエントの耳のなかで響いているにすぎない内的な声なわけで、結果として、クライエントは「その通りです」と肯定している。
 その直後に、クライエントは「私がひそかに考えていることを口にすれば役に立つと思いませんか?」と尋ねている。このナラティヴには、重要なことがあらわになっている。つまり、クライエントがそのとき誰に向けてポジショニングしているのか、誰に対して話しかけているのかが理解されるわけである。このときクライエントが呼びかけている「具体性を欠いた他者」あるいは「潜在的な第三者」は、包み隠さず話しなさいという内的な声、話さねばならないという“shoulds”である。
 カイザーは精神分析の基本規則、つまり思い浮かぶことは検閲なしに話さねばならないという規則を放棄する立場なのだが、それはともかくとして、そのクライエントのナラティヴに対するセラピストの返答は、「役に立つ、何の、誰の」というものである。非常にそっけない言葉だが、このわずかばかりの言葉によって、クライエントの耳の中で響いている声と目の前にいるセラピストの実際の声が融合していた状態から、それらが分節化するに至ったように思われる。つまり、「役に立つ?何の?誰の?」という問いは、クライエントの問い自体に孕まれている曖昧性を分節化するものなのである。

 具体例8: 事例は「具体例5」に示したものと同一事例で、自分の人生など無意味で、退屈で、虚しいものだと口にする男性である(Kaiser, 1965, pp.91-92)。クライエントは顔をしかめて入室する。セラピストに対して挨拶もせず、椅子のところまで歩いて着席する。見るからに物思いに耽っているようで、セラピストのことを無視している。ずっと同じ姿勢で、布張りの肘掛を右手の指で音を立てることなくトントンしている。セッションの冒頭からまったく沈黙し、20分が経過した。

セラピスト: 考え事に耽っていて、自分がどこにいるのかほとんど分かっていないようですね。[クライエントはブツブツ言う。この呟きが同意を意味するのか、ただイライラしていることを表わすのか、定かではない]」
セラピスト: 「何だって?」と私に聞いているのか、イライラして鼻息を立てているのか定かではないが、トントンやり続けていますね。
クライエント: それがどうかしましたか?
セラピスト: はっきりと分からないままにしておくことが、あなたにとって重要なことなんだと思います。
クライエント: だからどうしたっていうんですか?[3分経過して]だからどうしたっていうんですか?

 クライエントは目の前にいるセラピストをまったく無視して、おそらく声たちが演じる内的対話に没入していたのであろう。それに対するセラピストの「考え事に耽っていて、自分がどこにいるのかほとんど分かっていないようですね」という言葉は、自分の目に見えるクライエントの描写である。それでもクライエントはブツブツ言い、モノローグを続けるだけであるが、その意味不明の曖昧さにこちらから意味を与えるかたちで「『何だって?』と私に聞いているのか、イライラして鼻息を立てているのか定かではないが、トントンやり続けていますね」と、目に見えるクライエントを声に出してさらに描写する。
 クライエントはやっと「それがどうかしましたか?」とセラピストに向けて声を発し、セラピストは「はっきりと分からないままにしておくことが、あなたにとって重要なことなんだと思います」と意見を述べる。だが、クライエントの答えは「それがどうかしましたか?」という素っ気ないものである。その後セラピストは、「あなたは、私から何かを期待しているようにお見受けします。それが何であるのか、私には分かりません」、「あなたは、私にイニシアティヴをとってほしいと考えているのでは」などと口にし、クライエントはじっくりと考えて沈黙した後で、「ええ、あなたにイニシアティヴをとってほしいのだと思います」と述べている。
 ここで重要なのは、セラピストの介入が何に基づいているのかということである。おそらくセラピストは、沈黙のなかで見え隠れするクライエントの声を聞き取り、沈黙という振る舞いと、漏れ聞こえる声とのあいだに二重性を感受したのであろう。その二重性を漸進的に声に出して示すことが、ここで行われている介入である。セラピストの最後の言葉「イニシアティヴをとってほしい」は、クライエントが暗に言っている声を、つまりクライエントが自覚していない内的な声を、セラピストがみずからの唇から発したものである。

 具体例9: 事例は、行儀のよい知的な男性である(Kaiser, 1965, p.72)。不安発作のために来談した。

クライエント: 私には分かりません。[20秒沈黙して]カウンセリングに来たんだから、しなくちゃならないことがあるはずだって言いたかったんです。そうじゃありませんか?
セラピスト: ここでしなくちゃならないことがあるはずだと確信しているようですね。
クライエント: はい、そうじゃないんですか?
セラピスト: 私に関するかぎり、何もありません。
クライエント: うーん、私……私……私には分かりません。
セラピスト[微笑んで]: 私が言っていることは分かるけど、そんなこと全然信じられないということね。
クライエント: そうなんです。私は全然そんな風には思いません。

 ここでセラピストが行っているのは、「分からない」というクライエントの言葉を、「言っていることは分かるけど、そんなこと全然信じられない」と訂正することである。この場面では、心理療法の手続きに関して、侃々諤々とした話し合いが続いているのだが、「分からない」という言葉に埋め込まれて絡み合っている「理解できる」しかし「信じられない」という複数の声を見えるものとし、対立する葛藤のかたちで分節化(言い換え)しているわけである。

 具体例10: 事例は「具体例7」に示した30歳の男性で、強迫的なところのある心理臨床家である(Kaiser, 1955, pp.5-6)。

クライエント: いくつか思い浮かんだことがあります。でも、話すつもりはありません。話すべきだっていうことは分かっています。話したくないだけです。
セラピスト: 話すべきだと「感じている」けど、話したくはないと?
クライエント:[快活に]そうです。話すべきだっていうことは、分かっています。
セラピスト: その違いは何ですか?
クライエント: はい、思い浮かんだことはすべて包み隠さず話してほしいと、あなたが考えていることは分かっています。
セラピスト: そんなことは言いませんでしたよ。
クライエント: 分かっています。あなたはそんなこと一切口にしませんでした。あなたが言ったのは、話したいことは話してもよいということです。でも、あなたが言いたいのは、もちろん[彼の声はしだいに聞こえなくなる]
セラピスト: あとのことは、いまさら言うまでもないと考えている。
クライエント: そうじゃありませんか?うーん、あなたが本当に言いたかったことは、心に思い浮かぶことはすべて話すべきだっていうことです。そうじゃなかったのかもしれないけど。いずれにせよ、話すべきだっていうことは分かっています。でも、自分が話したくないっていうことも分かっています。

 内容解釈を放棄したカイザーにとって、クライエントが秘密を口にしようがしまいが、そのようなことは問題ではない。ここでのクライエントは「話すべき」と「話したくない」という二つの声を発しており、前者の「ねばならぬ」は内的なものではなく外部から課せられる規則として知覚されている。クライエントがつじつまの合わない声を同時に発しているので、セラピストは異なる二人の声を聞いているかのような事態に追い込まれているはずだが、クライエントにとって「ねばならぬ」はセラピストの声として聞かれているので、本人は何の矛盾も感じていない。クライエントの「話すべきだっていうことは分かっています」を「話すべきだと感じている」と言い換えたり、「あとのことは、いまさら言うまでもないと考えている」と暗に示されている意味を指摘したりするのだが、なかなかうまくいかない。以下は、日を改めた面接場面である。

クライエント: あなたのおっしゃることはその通りだと思います。でも、私にはまったくあてはまらないことです。私は、自分の秘密を話せないわけではありません。話したくないのです。話そうと思えば話せます。
セラピスト: でも、話したいとは思えないようですね。
クライエント: もちろん、私が望んでいるのは
セラピスト: 望んでいるのは?
クライエント: 話すことです。違う。自分は話したいのかな、話したくないのかな?

 前回の面接では、「話すべきだということは分かっている」と「話したくない」が、矛盾することなく同時的に並存していた。今回は少し変化して、「話そうと思えば話せる」と「話したくない」が並存している。それに対してセラピストが「でも、話したいとは思えないようですね」と暗に示されていることを声に出すと、クライエントは「自分は話したいのかな、話したくないのかな?」と自問自答している。その後の展開は、「話したい」と「話せない」の葛藤である。いずれの声も自分自身のものであることが覚知され、不自然な二重性から、悩むという自然な姿へ、すなわち葛藤が回復されたのである。
 自己欺瞞の状態にある二重性の強いクライエントは、このように通常の葛藤状態にはなく、他方の声に対してまったく無頓着であったり、あるいは自分とは無縁の他者の声として聞かれていることが多い。したがって、自己欺瞞によって、葛藤から来るはずの苦しみからある程度解放されているのである。
 

Ⅷ.コミュニカティヴな態度を見直す


 ディマジオとスタイルズ(Dimaggio, G., and Stiles, W.B., 2007)は、「セラピストは、ノンバーバルなシグナルに注意を払うことが大切である。つまり、姿勢、声のトーン、それに表情である。抑え込まれている諸部分は、クライエントのノンバーバルな行動やジェスチャーに姿を現わす可能性が高いであろう」と述べ、抑え込まれているクライエントの「自己パーツ(self-parts)」に接近するための方法を二つ挙げている。
 ひとつは、グリーンバーグ(Greenberg, L.S., 2002)の「役割演技(role-playing)」ないし「二つの椅子の対話(two-chair work)」を用いた「情動焦点化療法(emotion-focused therapy)」である。情動焦点化療法では、クライエントが抱えている困難について、「そこに自己の声たちのあいだで繰り広げられる内的対話が手に負えなくなっていることや、決裂していることが現われているものとみなす」(Smith, K.W., and Greenberg, L.S., 2007)。したがって、セラピストの介入は、自己の声たちのあいだで繰り広げられる対話プロセスを促進して、クライエントを適応的な情動体験へと導くことに焦点化されており、そのような新たな情動体験が、声たちの関係を力動的に変化させるものと考えられている。
 もうひとつの方法は、目下展開しているクライエントの話と対照をなすノンバーバルな行動に気づいたときに、セラピストがクライエントのそのような一面を「声に出す(give voice)」ことである。たとえば、「お子さんのことを話しているときに、一瞬あなたの瞳に、いままで見たことのないような喜びが浮かんでいました。こんなに生き生きとした姿はここしばらく拝見していなかったですし、おそらくあなたも、自分でさえこの可能性に気がついていないのかもしれません」のように、である。
 シャピロ-カイザー派アプローチは、抑え込まれている自己の声たちに接近するための二つの方法のうち、上記の後者に該当する。つまり、クライエントの二重性をセラピストが声に出して示し、押さえ込まれていた声との対話を進める手法なのである。そして、感情焦点化療法と共通しているのは、「当面の問題と関連のある声たちが唇から発せられ、敬愛に満ちた対話に参加し、声たちのさまざまな視点からマテリアルを探究する機会を与えることで、そうした声たちにクライエントが接近できるプロセスを促進する」(Smith, K.W., and Greenberg, L.S., 2007)ということであろう。このような援助をバフチン(Bakhtin, 1963)の言葉で言えば、次のようになるかもしれない。

「自分自身の声を見つけ出し、それを他者の声たちの間に正しく位置づけ、ある声とは結合させ、またある声とは対立させること、あるいは見分けのつかぬほどに融合している他者の声から自分の声を分離すること-これが小説を通じて主人公たちが解決しようとする課題である」(訳書、p.499)

 カイザーのコミュニカティヴな態度とは、クライエントの二重性のうちに見え隠れするなかば隠された声に呼びかけることである。この場合、セラピストは「呼びかけの主体(subject of an address)」(Bakhtin, 1963, 訳書、p.527)なのである。では、呼びかけられる主体であるクライエントのなかば隠された声とは、何なのであろうか。それは、二重性のうちにあるクライエントが三人称で語るナラティヴの中に見え隠れする、汝である。バフチンは、語りの中で提示される主体について、「そうした形象は、たとえその人物がみずから語る形式をとったとしても彼(三人称)として提示され、汝ではない。それは客体であり、標本なのだ。そこにはいまだ真の対話的関係はみられない」(Bakhtin, 1959-1961, 訳書、p.209)と述べている。つまり、二重性のうちにあるクライエントのモノローグのようなナラティヴの内容(これもクライエントの声である)に耳を傾けるというよりも、声を発する主体に呼びかけるということである(注釈)。このように、コミュニカティヴな態度によって創出されるストレートな関係とは、セラピストとクライエントの関係が、一方通行的なモノローグからダイアローグへと移行して、我と汝が出会うことに他ならない。これは、フェアベーン(Fairbairn, W.R.D., 1958)の閉鎖システムから開放システムへの移行を目指す精神分析技法に類似する、先駆的な視点であろう。

「したがって、精神分析療法は、ある意味では以下のようなかたちに変化してしまう。患者の側は、転移を介して、分析家との関係を内界という閉鎖システムに無理やり強制徴募(press-gang)しようとしてもがく。分析家の側は、この閉鎖システムに突破口をもたらし、治療関係という設定のなかで、外界という開放システムを患者が受け入れるように促すであろう諸条件を、提供しようと決意するのである」

 では、コミュニカティヴな態度から発せられるセラピストの言葉について論じる。自分の外部にいるクライエントの存在を承認し、呼びかけるために、われわれ臨床家は、「他者の内的対話の中に積極的に、自信を持って入り込み、その他者が自分本来の言葉を自覚するのを手伝ってやることのできる言葉の持ち主」(Bakhtin, 1963, 訳書、p.504)である必要がある。そして、ストレートなコミュニケーション、あるいは純粋な関係を志向するのであれば、セラピスト自身が二重性のない言葉でクライエントに呼びかけることが不可欠である。その言葉、つまり「心に染み透る言葉(penetrative word)」(Bakhtin, 1963, 訳書, p.505)」について、バフチン(Bakhtin, 1963)は次のように述べている。

「この言葉は確固としたモノローグ的な、分裂していない言葉であり、人目に対する気遣いや逃げ道、内的論争とは無縁な言葉であるべきはずのものである。だが、この言葉が可能なのは、ただ他者との実際の対話の場をおいて他にないのである。概して声たちの和解や融合は、ひとつの意識の枠内においてさえもモノローグ的行為であることはあり得ず、それどころかそれは、主人公の声がひとつの合唱に参加することを前提としているのだ。だが合唱に参加するためにはまず、人間の本当の声を遮り、物まねをしてからかう、その人自身の虚構の声たちを粉砕し、黙らせてしまわなければならないのである。」(訳書、p.521-522)

 二重性のない分裂していない言葉とは、ひとつの言葉のなかに複数の言葉が並存していないこと、あるいは「言語的矛盾の中に秘められた潜在的な内的対話(internally dialogic potential embedded in linguistic heteroglossia)」(Bakhtin, 1934-1935, 訳書、p.130)が認められないこと、つまり「直接的な単声的な言葉(direct single-voiced discourse)」(Bakhtin, 1963, 訳書、p.381)を意味している。言い換えると、「作者が他者の声(another’s voice)を聞くことのない言葉。そこにいるのは作者だけ(only)で、彼がすべて(all)であるような言葉」(Bakhtin, 1959-1961, 訳書、p.206)のことである。コミュニカティヴな態度から発せられるこのようなストレートな言葉によって、セラピストとクライエントの「等しく直接的に対象を指示する二つの言表」(Bakhtin, 1963, 訳書、p.381)が出会い、双方の「まとまった言表と言表のあいだ(between whole utterances)」(Bakhtin, 1963, 訳書、p.380)に、「純対話的関係(purely dialogic relationships)」(Bakhtin, 1963, 訳書、p.380)が構築されるのである。
 バフチンの「人目に対する気遣いや逃げ道」とは無縁な言葉とは、緊張した呼びかけを意味している。つまり、「人間の魂の深奥(depths of the human soul)は、こうした緊張した呼びかけ(intense act of address)において初めて明らかにされる」(Bakhtin, 1963, 訳書、p.527)のである。カイザーのコミュニカティヴな態度を示唆する例証には、リラックスした談笑のような場面が皆無である。そこには、一瞬ではあるが緊張感が走る。そもそもカイザーのコミュニカティヴな態度とは、クライエント本人が認識していない側面や気づきたくないであろう側面に対しても、敬愛の念を持って触れていく態度のことなのである。たしかに、「ただ接触交流(communion)においてのみ、人間と人間の相互作用(interaction)においてのみ、人間の内なる人間(man in man)は他者に対しても、その人自身に対しても、その正体をさらけ出す」(Bakhtin, 1963, 訳書、p.528)のであろう。しかし、このような緊張した呼びかけが続くとすれば、クライエントは疲弊してしまうはずである。それを補完する別の態度と組み合わせることが、セラピストには必要なのではあるまいか。これについては後述するつもりである。
 また、バフチン(Bakhtin, 1963)のいう「心に染み透る言葉」は「他者の声のひとつにそれを真理の声として呼びかける言葉」(訳書, p.506)のことでもあるのだが、シャピロ-カイザー派アプローチのコミュニカティヴな態度から発せられる呼びかけも、真と偽の二分法を前提としているようなニュアンスが感じ取られる。真と偽については後述するとして、通約不可能な二つの声が姿を現わすとき、われわれが行うのは声たちのあいだでその差異的関係を同定すること(シンクロ可能な間隙を導入すること)であり、クライエントにひとつの真の声を選択するように強いることではないであろう。つまり、以下のように理解すると、コミュニカティヴな態度の意味がよりいっそう明確になるはずである。ドゥルーズ(Deleuze, 1985) はこう述べている。

「ひとつのポテンシャルが与えられているとき、ある別のポテンシャルを選択しなければならないが、任意のものを選択するのではなく、二つのあいだにポテンシャルの差異が生じ、それが第三のポテンシャル、あるいは新しい何かを生み出すようでなければならない」(訳書, p.251)

 最後に、収束すべき目的のない心理療法、あるいはゴールのない心理療法についてである。カイザー(Kaiser, 1965)は次のように述べている。

「第一の要件は、セラピストの興味関心(あるいは方向性とか性向といえるかもしれない)と関係がある。つまり、人間への興味、もっと具体的に言えば、神経症のせいでその態度が非コミュニカティヴになっている人と、ストレートなコミュニケーション(straightforward communication)を打ち立てることへの興味である。セラピストのこの興味は、神経症からくる妨害に直面してこうしたコミュニケーションを確立することが、自分にとってそれ自体が目的であって、目的を実現するためのたんなる手段ではないという意味で、純粋なものであらねばならない」(p.159)

 ここでは、コミュニカティヴな態度によって、ストレートな関係を打ち立てること自体が目的であるとされている。この点は、ブーバー(Buber, M., 1923)が「<われ>と<なんじ>のあいだには、……間接的な手段、媒介はすべて障害である。ただすべての手段が破れるところにのみ、出会いが起こるのである」(訳書、p.20)とする、その対話哲学に極めて類似している。また、バフチン(Bakhtin, 1963)も、対話の「非完結性(unfinalizability)」(訳書、p.528)や「潜在的無限性(potential endlessness)」(訳書、p.529)について論じながら、対話の手段と目的について次のように述べており、カイザーとの類似性が着目されるであろう。

「存在するということ―それは対話的に接触交流するということなのだ。対話が終わるとき、すべてが終わるのである。だからこそ、対話は本質的に終わりようがないし、終わってはならないのである。……そこではすべてが手段であり、対話が目的なのである。ひとつの声は何も終わらせないし、何も解決しない。二つの声が生の最小単位であり、存在の最小単位なのである」(Bakhtin, 1963, 訳書、p.528)

 だが、現実的な問題として、さまざまな困難を抱えてクライエントは来談する。その困難の解決を目的として、心理療法はあくまで手段として行われるのが一般的な考え方である。一般論と対立するカイザーの独創性を、どのように理解すればよいのであろうか。あくまで、理想論にとどまるのであろうか。
 カイザーにとって、神経症者の普遍症状とは、コミュニケーションつまり対話関係における二重性を意味していた。その二重性は、コミュニカティヴな態度によって、クライエントがモノローグからダイアローグへと移行することによって解消される。このように考えると、対話的関係を構築することが、すなわち症状の緩和を意味していたといえるのではあるまいか。彼にとって、両者は密接不可分なのである。たしかに、カイザーにおける目的としての心理療法は、われわれが存在するためには他者との対話が必要であるという、存在論的な次元も意味しているのかもしれない。というのは、「ただひたすらに患者とともにあること」の重要性を説いているからである。結論として言えることは、二重性の解消がすなわち純粋なコミュニケーションを意味していることを踏まえたうえで、目的としての心理療法について考えるべきだということである。
 けれども、最終的にカイザーは二重性の解消というゴールすら捨て去って、ただひたすら患者と共にあることの重要性を認識するに至ったことを無視してもよいのか、という声も私のなかで響く。迷いである。
 現代の多元性の心理療法においては、心理療法のゴールは多様であり、一人のクライエントと、そのつどのゴールについて話し合うことが重要とされている。たとえば、クーパーとマックレオド(Cooper, M., and Mcleod, J., 2007) は、「認知的な機能不全を修正したり、自己体験を自己概念と一致させたりすることが、すべてであるとみなすことはできない。多元的な(pluralistic)視点からは、それぞれのクライエントにとってもっとも基本的なゴールといっても、それはひとつとはかぎらないのである」と述べている。そして、彼らの真意は以下の点にある。

「多元性の(pluralistic)観点から言えば、臨床家の役割は、多くのアプローチがそうしているように、クライエントにとって必要なことをアセスメントして単一のモデルに準拠した介入法を処方することではない。それよりもむしろ、一緒になって役立てることの可能な方法はないか話し合う、そのような会話を促進することなのである」

カイザーの目的のない心理療法は、このような、そのつどの多様な目的のある心理療法や、対話の非完結性の視点から、さらに熟考する必要があるのかもしれない(注釈)。


Ⅸ.多声性の視点から修正すべきこと


 1.一致への批判
カイザーにとっては、一致していないことがすなわち二重性を意味している。ひるがえると、二重性の解消は不一致から一致への移行である。だが、このような考えは、融合することのない異質な声たちのポリフォニーを、あるいは互いに異質な他者であることを、純粋性、あるがまま、あるいは一致という旗印のもとに、ひとつに収束させてしまう多声性の否定をよしとするものであり、この点については修正する必要がある。バフチン(Bakhtin, 1963)が言うように、「人間とはけっして自分自身と一致しない存在」であり、「人格としての個人が本当に生きる場所は、あたかも人間が自分自身と一致しないこの一点」(訳書、p.122)なのである。
 カイザーの言う二重性が、ロジャース(Rogers, 1951)の「一致(congruence)」や「不一致(incongruence)」といった概念と極めて類似していることは、すでに述べた。ロジャース(Rogers, 1957)は、クライエントとの関係のなかで、セラピストは「一致しており、純粋であり、統合している人間でなければならない」としているのだが、クライエントと同様にしてセラピストも、「自分のなかにあるこうした不一致をうすうすと知覚するときには、ある緊張の状態が起こる」と述べている。そして、「その感情が次に述べる二つの条件(「無条件の肯定的配慮」と「共感」のこと-筆者注)を妨げる場合には、自分自身の感情をある程度打ち明ける必要がある」としている。
 クライエントの二重性を目の当たりにして無条件の肯定的配慮や共感ができなくなったとき、つまりクライエントとセラピストの声が脱ハーモニーの状態に置かれたとき、ロジャーズの場合は自分の感情を声にして示す場合がある。一方でカイザーはクライエントの二重性を声にして示すという違いが認められるものの、そこでは不一致の声、あるいは脱ハーモニーの声が重要な役割を担っていることが共通している。
 たとえば、ネオフロイディアンであるホーナイ(Horney, K., 1950)の心理療法が目指すべき目的とするのは、「真の自己(real self)」と「偽りの自己(pseudo-self)」との葛藤が解消され、「理想化された自己(idealized self)」を現実化する地点である。ホーナイのいう自己を「声」として考えると、その特徴として挙げられるのは、われわれの内的な声には「真」と「偽」があること、それから偽りの自己が淘汰されて真の自己に接近し、さらには理想化された自己へと収束するはずであるという前提があること、である。シャピロ-カイザー派アプローチの用語である「自己欺瞞」にも、実はその名残を嗅ぎ取ることができる(注釈)。
 私は、自己欺瞞を、真の声を押し殺して偽りの声を生きることであるとは考えていない。自己欺瞞とは、あくまで(真と偽に区別されない)さまざまな声たちが、対等の発言権を与えられずに脱ハーモニーの状態に陥っていること、あるいは自分の声ではなく他者たちの声を生きることなのである。この意味でいえば、自己欺瞞の心理療法の目的は、少なくとも「真にあるがままの自分であること(authenticity)」へと収束することではない。あるいは、複数の意識が融合して単一の精神に統一されることではない。というのは、真と偽の二分法を前提として一方の真へと収束することを目指すのであれば、やはりそれは他方の偽を抑圧することになり(無言の暴力)、多声的なハーモニーではなくホモフォニー(単声楽)へと、あるいは(短調のない)長調のみのハーモニーへと収束することになるからである。ただし、真にあるがままの自分であることを、自分にとって否定的な声を含めて、さまざまな声たちのあいだで対話が可能であることと理解すれば、一致あるいは収束の問題はなかったことになるのかもしれない。

 2.共感的理解との補完関係
 すでに述べたことだが、セラピストのコミュニカティヴな態度から発せられる言葉は、緊張した呼びかけでもある。もしも心理療法がこのような呼びかけに終始するのであれば、クライエントは疲弊してしまうはずである。この意味で言えば、コミュニカティヴな態度は、それとは別の何らかの態度と補完される必要があろう。そして、セラピストの行為をバフチン的に芸術的創造行為である美的活動としてとらえた場合、セラピストがクライエントの二重性に声を与えるコミュニカティヴな態度は、ロジャースのような受容や共感の基本的態度によって補完されるのが最適である。バフチン(Bakhtin, 1920-1924)はこう述べている。

「美的活動の第一の要因は、対象に生を移入することである。わたしは、彼が体験しているものを体験―見て知ること―せねばならず、彼に重なり合うかのごとくに彼の位置に立たねばならない。……だが、内的融合のこうした完全さこそが、美的活動の究極の目的であって、外的表情は美的活動のたんなる手段にすぎず、たんに伝達の機能を担うだけなのだろうか?……美的活動が始まるのは、そもそも、わたしたちが自己に、苦しんでいる者の外の自分に位置に回帰して、生を移入した素材を造形し、完結させるときなのである。そしてこの造形と完結は、わたしたちが、生を移入した素材、つまりその人間の苦しみを、彼の苦しんでいる意識の対象的世界全体に対して外在的な諸々の要因で補填することによって行われる」(訳書、pp.148-150)

 美的活動には、このようにして密接に絡み合った二重の動きが必要である。つまり、相手の立場に身を置くことと、自己の立場に復帰することである。前者は、ロジャース的にクライエントと融合してその内的観点をモンタージュすること、あるいはその経験を自己の内部に正確に反映すること、つまり共感的理解の態度である。そして、後者がカイザーのコミュニカティヴな態度である(注釈)。
 この場合、コミュニカティヴな態度において重要なのは、クライエントに対する「外在性(outsideness)」(Bakhtin, 1920-1924, 訳書、p.364) と、他者を外部から包含する「視覚の余剰(excess of seeing)」(Bakhtin, 1920-1924, 訳書、p.317)である。クライエントは(臨床家もそうである)自分自身を外的な相において知覚することはできない。自分の筋肉の緊張や姿勢や苦痛の表情といった外的表情の知覚を実現するためには、自分の外部にいる異質な他者のまなざしが必要なのである。
 外在性と視覚の余剰によってセラピストに与えられるクライエントの外的表情は、クライエントの「内部に入り込み、内側から彼とほとんど融合するための通路」(Bakhtin, 1920-1924, 訳書、p.149)となる。そして、感情移入によって得られた素材は、セラピストの「外的な眼や耳のとらえる物質と統合されて、具体的な結構をもった一個の全体へと形成される」(Bakhtin, 1920-1924, 訳書、p.94)ことになる。このようにして、共感的理解の態度とコミュニカティヴな態度は、言い換えると、内的な視点と外的な視点は補完されるのである。
 また、ロジャースの共感的理解の態度とカイザーのコミュニカティヴな態度には、声の視点から見ると、非常に興味深い類似性があるのも事実である。ジェイコブら(Jacob Z. Goldsmith, James K. Mosher, William B. Stiles, and Leslie S. Greenberg, 2008) は、共感的に理解したことをクライエントにコミュニケートするための基本的な技法である「反射(reflection)」について、次のように述べている。

「クライエントの発話を反射する (reflects) とき、ひとつ、あるいは複数のクライエントの声が位置づけられるポジションから、セラピストは言葉を発している。セラピストは、クライエントの声をその唇から発しているのだといえる。だから、ある意味それに対するクライエントの反応は、自分自身のポジションに対する反応なのである。技法としての反射は、内的な対話を外的なものとする。また、セラピストが、クライエントの声たちの中からそのひとつに対して反射すると、オリジナルの声かそれとは異なる別の声が反応するかもしれない。どの声が反応するに関わらず、このようなやり取りによって、意味の架け橋の構築(内的な声たちによる対話のこと-筆者注)が促進されるのである」

 ロジャース(Rogers, 1951) の来談者中心療法においては、「カウンセラーの人格―自分自身の欲求から評価を下し、反応する人格としてのカウンセラー―が明らかに不在」となる「滅私 (impersonal)」が特徴であり、「関係全体がクライアントの自己により構成され」て、カウンセラーは「クライエントの別の自己(the client’s other self)」(訳書、p.208)になるといわれている。これに上記の声の視点を加味すると、次のように表現できるかもしれない。つまり、滅私によってクライエントのもう一人の自己と化したセラピストの唇から、クライエントは、自分自身の声が発せられるのを目の当たりにするのである。
 これは一体何を意味するのであろうか。たとえば「文体模写(stylization)」のことをいったものであるが、バフチンは「他者の言葉の客体性が限界まで低下していくと、ついには二つの声が完全に融合し、つまりは第一タイプの単声的な言葉になってしまう」(Bakhtin, 1963, 訳書、p.400)と述べている。かりにセラピストがクライエントの言葉をそのまま反射するのではなく、何らかのアクセントをつけて反射すると、それはクライエントの言葉にセラピストの声が浸透した「二つの声を持った言葉(double-voiced word)」(Bakhtin, 1959-1961, 訳書、p.225)、あるいは「二声性(double-voicedness)」(Bakhtin, 1959-1961, 訳書、p.207)を帯びた反射ということになるであろう。そこでは、クライエントの言葉がアクセントを変えて再現され、二つの声ないし主体が現われることになるのである。
 このように考えると、共感的理解の態度から発せられる反射は、クライエントとセラピストの声がひとつに融合した単声的な言葉によるものである。そして、すでに述べたように、カイザーのコミュニカティヴな態度から発せられる言葉も、二重性のない単声的なものである。加えて、共感的な反射によってクライエントの内的対話が外的対話に転換することも、カイザーとの類似性である。しかし、コミュニカティヴな態度においてセラピストが口にする言葉は、共感的態度におけるようなクライエントの唇から発せられた耳で聞き取ることのできる言葉ではない。それは、クライエントの視点にとっては、あくまでなかば隠れたまま見えないものにとどまっている声なのである。
 バフチン(Bakhtin, 1963) の言葉に言い換えると、コミュニカティヴな態度から発せられるセラピストの言葉とは、すでに述べたように「心に染み透る言葉(penetrative word)」(訳書, p.505)に他ならない。これは、クライエントの側から見ると、「他人の口から発せられた自分自身の心の奥深く秘めた言葉([Ivan’s] own secret words on someone else’s lips)」(訳書, p.536)であり、ここでは、「一方の声の開かれた応答が、他方の声の隠された応答に答えている」(p.538)ことになる。
 単一の意識への同化を志向する共感的態度においては、クライエントの唇から発せられる開かれた応答を反射する。他方、融合しない二つの意識を保持しようとするコミュニカティヴな態度は、第三の耳にしか聞こえないなかば隠された応答に声を与える。このような大きな違いがあり、双方は補完的な関係にあるといえるのだが、いずれの態度によっても、クライエントとセラピストの「[ムィシキンとロゴージンの]現実の声は、[ナスターシャ・フィリッポヴナの]内的対話の声と絡まりあい、交錯し合っている」(Bakhtin, 1963, 訳書, p.542)ことだけは確かなようである。ディマジオとスタイルズ(Dimaggio and Stiles, 2007)は、「われわれは、『誰が、誰と、会話しているのか?』というブロンバーグBrombergのモットー(1998)が、治療的な働きかけの指針として役に立つと考えている。会話がよどみなく進んでいるあいだ、クライエントのどの部分がセラピストのどの部分に呼びかけているのであろうかと、臨床家は問いを立てることができる」と述べている(注釈)。クライエントのどの声がセラピストに対して呼びかけているのか、反対に、セラピストのどの声がクライエントに呼びかけているのか、カイザーはこのような両者の内的声が結び合うところまでは理論化を進めていない。しかし、現代の多声性の心理療法へと通じる、数多くの有用な視点を残したことに疑いはないのである。


Ⅹ.おわりに


 以上、カイザーの思想を通じて、自己欺瞞の心理療法について論じた。自己欺瞞とは、声たちが織りなすハーモニーと脱ハーモニーのダイナミクスが停止して、その不均衡状態が固定化・慢性化することであるのかもしれない。彼の心理療法のスタイルを端的に表現すれば、抑え込まれているクライエントの声なき声に、声を与える心理療法であるといえるだろう。すでに忘却の淵に沈む臨床家ではあるが、今後さらに再評価すべき人物である。
 声たちはあらかじめ定められた地点に収束することがないが、声たちによって形成される私たちの自己は、そのつど何らかの秩序のうちにあるはずである。だがそれは、「機械の中の幽霊のドグマ(the dogma of the Ghost in the Machine)」(Ryle, G., 1949)に代表されるような、外部と隔絶された絶対的孤独のうちに、閉ざされた自己システムの内部で「統一(uniform)」されているのではない。特定の他者の声、あるいは他者たちの声に呼びかけられることによって、人と人のあいだで、そのつど「多重形成(multiform)」されているのである。
 私自身のセラピーのスタイルとして、これからは「声の心理療法(Voice Therapy)」を打ち出していくつもりである。具体的には、本論のなかで少しふれたように、基本はロジャース的な受容と共感の姿勢で傾聴し、クライエントに二重性が現われ出たときにシャピロ・カイザー派的にコミュニカティヴな態度でアプローチし、場合によってはパールズやグリーンバーグのようにエンプティ・チェアの技法を用いることになろう。
 多声性や対話的自己を視座に置くセラピーには、優れた分析手法ないし研究法もすでに存在している。たとえば、バフチンの対話理論を応用したリーマン(Leiman, M., 1997, 2004) の「対話系列分析DSA (Dialogical Sequence Analysis) の手法に依拠して、クライエントのそのつどの声のポジショニングを同定することも可能であるし、オサトゥケら(Osatuke, O. et al., 2004, 2006) の「声の聞き分け (hearing voices)」の手法に依拠して、クライエントの声のキャラクターを同定することも可能である。これらは臨床実践と研究法が一体となっており、この分野の発展に今後さらに寄与するはずである。


注 釈


1) バフチンのいう潜在的な第三者 (potential third)は、オグデン(Ogden, T.H., 1994) の「精神分析の第三主体(analytic third)」という概念に類似している。リーマン(Leiman, M., 2000) を参照せよ。

 2) スタイルズら(Stiles et al., 2006)の「問題のある体験の同化スケール( Assimilation of Problematic Experiences Scale[APES])」を示しておく。

0追い払われた状態(Warded off)/解離された状態(dissociated)
 クライエントは問題を自覚していない。問題のある声は沈黙を守っているか、解離されている。感情はごくわずかであろうが、その場合には回避が成功していることを示している。あるいは、問題が、身体症状や行動化や意識状態の豹変(state switches)として姿を現わすであろう。
1厄介な考え(Unwanted thoughts)/積極的な回避(active avoidance)
 クライエントは、体験について考えたがらない。問題のある声たちは、臨床家の介入か外的状況に反応することによって姿を現わし、押さえ込まれているか回避されている。感情は極めてネガティブなものであるが、突発的で焦点が定まっていない。感情と話の内容の結びつきは、はっきりとしたものではないであろう。
2漠然とした気づき(Vague awareness)/到来(emergence)
 クライエントは問題のある体験に気がついているが、それを明確なかたちにして説明することができない。問題のある声が、維持されている覚知のなかへ姿を現わす。感情には、強い心的な痛みかパニックが含まれているが、それらは問題のあるマテリアルと関連している。
3問題の陳述(Problem statement)/明確化(clarification)
 話の内容に、問題に関わる明確な陳述(取り組むことのできる何か)が含まれている。対立する声たちが分化して、互いに話し合うことができる。感情はネガティブなものだが、対処できる範囲にあり、パニック様のものではない。
4理解(Understanding)/洞察(insight)
 問題のある体験がどうにかして明確に話され、理解される。声たちは、相互的な理解に到達する(意味の架け橋[a meaning bridge])。感情は、不快な認知だけでなく心地よい驚きも、混合されているであろう。
5応用(Application)/徹底操作(working through)
 なるほどと理解されたことが、問題に取り組むために利用される。声たちは、生活上の諸問題を解決するために一丸となる。感情の基調は、ポジティブで楽観的なものである。
6処理能力の高さ(Resourcefulness)/問題解決(problem solution)
 かつては問題であった体験が資源となって、問題解決のために利用される。声たちを、柔軟に利用することができる。感情はポジティブで、満ち足りたものである。
7統合(Integration)/克服(mastery)
 クライエントには、解決策が自然にわきあがってくる。声たちが最大限に統合され、新たな状況に直面した際の資源として役目を果たす。感情はポジティブであるか、当たり障りのないもの(neutral)である(言い換えれば、もはや過度に感情が高ぶらないということ)。

 3) その他にも、ライス(Rice, L.N., 1967, 1973) の「声のスタイル (vocal style)」の分類もある。以下に示す。

a. 焦点化された声(Focused): エネルギーに溢れているが、音の高さ(pitch)の上下動は幅が狭い。音節の強勢アクセントに規則性はなく、強勢にはピッチの上昇はあまり伴わない。発話のテンポは、際立って不規則である。高いエネルギーは、放出されて氾濫するのではなく、探究のために使用される。手探りするようにして口ごもる発話は、思考の途絶からくる非流暢性というよりも、むしろ新たな領域を積極的に手探りで進む人のじっくりと考える質があるように思われる。

 b. 外在化する声(Externalizing): 比較的エネルギーが高く、ピッチの上下動は幅が広い。アクセントをつけるパターンはひどく規則的であり、かなり強勢される場合には顕著なピッチの上昇を伴う。規則的な強勢アクセントを伴いながら、思わぬところでもひどく上下動するような語末曲線(terminal contours)を描く外観は、リズミカルな調子あるいは前もって形成されたパターンの印象を与える。このパターンが示唆するのは、外部世界で何かを達成するために声を手段として使用しながら、注意とエネルギーが外部に向けられているということである。高いエネルギーとピッチの幅広さは、最初のうちは個性や表現力があるという印象をもたらすにもかかわらず、基調をなしている旋律には「一方的に喋る」ような質が備わっている。

 c. 収縮した声(Limited): エネルギーが低く、ピッチの上下動は幅は狭く、発話のテンポにも幅がない。強勢アクセントのパターンは日本語(原語はEnglishとなっている)に典型的なものであるが、アクセントそのものは比較的弱い。声は人並みはずれてか細く、よく響く声からは程遠いものである。口にしていることに関知しておらず、距離がとられているような印象を受ける。距離化あるいは受動性を示唆するような、壊れやすい、用心深く振舞う質がある。

 d. 感情的な声(Emotional): エネルギーのコントロールではなく、氾濫が認められる。声は急に変化し、震え、平静を失っている。印象としては、コントロールしようとするさまざまな程度の努力が伴われているのだが、通常の声のパターンが崩壊したものである。

 4) 本論では、カイザー(Kaiser, 1965)の重要な概念である「融合幻想(illusion of fusion)」については触れていない。しかし、多声性の視点からは、互いを照らしあうはずの声たちが融合してしまうこととして理解されるはずである。

 5) 呼びかけること、あるいは我と汝については、以下のローゼンシュトック・フュシー(Rosenstock-Huessy, E., 1988)の言葉も参考になるだろう。すなわち「われわれは、外部から命令され、外部から識別されることによって、自己意識を発展させる。こうした命令や識別に直面することによって、自分が独特の存在であることを知り、他とは異なる特別な存在であることが『我』の根本的体験であることに気がつく。……『私は私である(I am I)』は、外部から名指しで呼びかける他者への応答である」である。つまり、他者の存在は私を前提にしているのではなく、むしろ私の存在こそが他者を前提にしているということである。私は、他者から「汝(Thou)」と呼びかけられることによって、内的な自己である「我(I)」を発見する。そして私は、「汝」と呼びかける他者に応答することによって、「二者からなる、われわれ(a dual, a We)」となる。

 6) 目的のない心理療法の哲学的背景について述べておこう。かなり長大な注釈となる。まず、ローティ(Rorty, R., 1979)の言葉である。

「解釈学は、さまざまな言説相互間の関係を、ひとつの可能な会話を織り成す繊維の間の関係とみなす。こうした会話とは、話し手を統一するような専門母型を何ら前提しないが、それでも会話の続くかぎり、決して一致への希望を失わないような会話である。一致へのこの希望は、先行的に存在する共通の地盤が発見されることへの希望ではなく、たんなる一致への希望、あるいは少なくとも刺激的で実りある不一致への希望なのである」(訳書、p.370)

 野家(2007)によれば、ここでローティが「対話(dialogue)」ではなく、オークショットに由来する「会話(conversation)」という言葉を選んでいるのには、わけがある。つまり、対話は「それがプラトン哲学の方法であったことからもわかるように、語源的にも『二つのロゴス』が互いに主張を闘わせながら、それらが弁証法的に統一されて『唯一の真理』という目標へと到達するための手続きである」からである。
 では、オークショットのいう会話の世界について少し考えてみよう。これについては、井上(1986)の優れた解説がある。以下は、井上の要約である。
オークショットは、人間の結合様式を「統一体(universitas)」および「社交体(societas)」という、二つのモデルとして提示している。統一体とは、その成員すべてが特定の共通目的の実現のために結ばれた実体的連合であり、そこでは所与の共通目的の実現のために人々の行動が統制される。他方、社交体とは、実体的目的から独立した抽象的・形式的準則としての「品行の規範」によって結ばれた形式的連合であり、そこでは諸個人が自己の目的を自由に選択して追求することが可能である。
 統一体において営まれるコミュニケーションは、達成されるべき一定の目的(情報伝達、意思決定、合意、コンセンサス、相互理解、了解、和解、宥和、融和、交感、交霊、合一など)があり、それに先行する共通の地盤を欠いては成立しないとみなされている。そこで人々を結合させているのは、公認された善き生の構想(期待される人間像)や、全体的行動計画(国家の大計)である。したがって、成員の高度の同質性を前提にしていて、身内と余所者を分かつ論理によって貫徹されているので、異質なものを排除する閉鎖性を免れることができない。また、統一体は、自己疎外や不安などから人々の魂を救済する治療的形態をとることもあり、既存のセラピーは、自己疎外なるものを癒すという目的のために異質性を圧殺する共同体、つまり「治療的統一体(a therapeutic corporation)」に属する行動として分類されている。
 社交体において営まれる会話には、到達すべき目的がない。つまり、会話の外部には目的がなく、会話を継続させること自体が自己目的となる。そこで人々を結合させているのは、会話の相互性を維持したり相手の独立性を承認したりといった形式的ルールの共有であり、自己と他者が異なる目的を追求しながら、互いに他者をたんなる手段として扱うことなく社会的に結合することが可能となる。したがって、「変わり者であることの自由(freedom to eccentricity)」や、異質なもの同士の多声性が保障され、開放的である。異質な他者との出会いと共生を可能にするのは、人間行動をひとつの目的に収斂させたり、会話を一致させたりするような、暴力性を免れているからである。社交体における会話は、互いに相手を観察されるべき客体としてではなく、話しかけられ、聞かれ、答え返されるべき人格として相互承認する。そして、相手に何かを分からせたり、承諾させたり、共有したりということを目的としていないので、会話には不一致つまり期待を裏切るような言動がついてまわるであろう。だが、それを契機として意外な方向に発展していくところにこそ、人間の営みとしての会話には深みがあるのである。
 クライエントの声に焦点を合わせた自己欺瞞の心理療法で営まれるのは、上記の意味での会話である。声たちの一致やクライエントとセラピストの一致を求めた対話ではない。そこにあるのは、共通の地盤に力点が置かれる類の共感的態度ではなく、相手の異質性をそのようなものとして受容する相互承認の姿勢である。だが、相手の異質性を認めるところで会話は終わるのではない。心理療法の醍醐味はそこにはない。野家(2007)は、次のように述べている。

「『異質なものとの出会い』やそこから生じる『刺激的で実りある一致』は、相互の通約不可能性を認め合って終わるのではない。むしろ、そこからお互いの信念体系の再編成が始まるのである。会話のダイナミズムは、まさにその点にこそ存するのであり、会話の継続とはそうした信念体系の絶えざる改訂作業のことにほかならない」

 会話の継続を自己目的とするのが心理療法であり、心理療法の外部に立てられる目的などないというのがこの立場である。つまり、心理療法を何かの目的を実現するための手段にしないということである。したがって、多声的な世界の実現を心理療法の目的にすることもない。というのは、それとて多声性という真理への収束を前提にしていることになるからである。声たちは増殖を続けるだけであり、心理療法はあらかじめ想定されるような到達地点を欠いている。つまり、クライエントと臨床家は、どこに行き着くのか分からないのである。それは、われわれの人生が予測できないことと同じことである。ただ、何らかの理由(病の治癒もそのひとつである)で特定のクライエントとこの私の関係が途絶え、会話を継続することができなくなったとき、心理療法は終結するであろう。
 最後に、「目的のない、相互に対する存在」については、レーヴィット(Lowith, K., 1928)も参考になるはずである。

 7) バフチン(Bakhtin, 1920-1924)の次の言葉によっても理解し得るであろう。すなわち「その素朴で現実主義的な解釈では、『理解』という語はつねに道を誤らせる。問題なのは、他者の経験を自己の内部に受動的に正確に反映することでも、自己の内部で倍加することでもまったくない(そもそも、このような倍加は不可能である)。そうではなく、この経験を全面的に異なった価値論的パースペクティブにもとづいて、新しい評価と知識のカテゴリーに翻訳することである」である。

 8) 絶対的な真、それに絶対的な偽は考えられない。バフチン(Bakhtin, 1963) がいうように、「真理とは、一人ひとりの人間の頭の中に生まれ、存在するものではなく、ともに真理を目指す人間同士が対話的に交流する過程において、人々の間に生まれてくるものなのだ」(訳書、p.226)。真と偽がないといっているのではない。それらはあくまで、そのつどというありようのなかで生まれてくるのであり、「互いを照らしあう意識たち(consciousnesses mutually illuminating one other)」(Bakhtin, 1963, 訳書, p.199)のあいだで、あるいは声たちが照らしあうことで、そのつど分節化するのである。

 9) 彼ら(Dimaggio and Stiles, 2007)の次の言葉も参考になるだろう。すなわち「治療関係とは、さまざまなパートナーたちが出会い、つかの間ダンスしては互いにパートナーを変えるような、複合的なひとつのダンスである。うまくいくパートナーたちの組み合わせもあれば、うまくいかない、一致協力することが意に沿わないものたちもいる」である。


文 献


Alexander, F. (1935) The problem of psychoanalytic technique. Psychoanalytic Quarterly, 4, 588-611.
Aristotle (1894) ニコマコス倫理学
Bakhtin, M.M. (1920-1924) 美的活動における作者と主人公. (伊藤一郎、佐々木寛訳(1999) ミハイル・バフチン全著作・第一巻. 水声者. pp.87-368.)
Bakhtin, M.M. (1926) 生活のなかの言葉と詩のなかの言葉. (桑野隆、小林潔編訳(2002)バフチン言語論入門. せりか書房. pp.7-54.)
Bakhtin, M.M. (1930) 芸術のことばの文体論. (桑野隆、小林潔編訳(2002)バフチン言語論入門. せりか書房. pp.99-219.)
Bakhtin, M.M. (1934-1935) 小説の言葉.(伊藤一郎訳(1996)小説の言葉. 平凡社. pp.7-295.)
Bakhtin, M.M. (1952-1953) 言葉のジャンル.(新谷敬三郎、伊藤一郎、佐々木寛訳 (1988) ことば・対話・テキスト. 新時代社. pp.113-189.)
Bakhtin, M.M. (1959-1961) テキストの問題. (新谷敬三郎、伊藤一郎、佐々木寛訳 (1988) ことば・対話・テキスト. 新時代社. pp.191-239.)
Bakhtin, M.M. (1963) ドストエフスキーの詩学. (望月哲男、鈴木淳一訳(1995)ドストエフスキーの詩学. ちくま学芸文庫)
Bateson, G.D.D. et al. (1956) Toward a theory of schizophrenia. Behavioral Science, 1, 251-264.
Bromberg, P.M. (1998) Standing in the Spaces. Analytic Press.
Buber, M. (1923) Ich und Du. (植田重雄訳(1979)我と汝・対話. 岩波文庫)
Bugental, J.F.T. (1992) The Art of the Psychotherapist. Norton.
Cooper, M. (1996) Modes of existence: Towards a phenomenological polypsychism. Journal of Society for Existential Analysis, 7(2), 50-56.
Cooper, M., and Mcleod, J. (2007) A pluralistic framework for counseling and psychotherapy: implications for research. Counselling and Psychotherapy Research, 7(3), 135-143.
Della Selva P.C. (1996) Intensive Short-Term Dynamic Psychotherapy. Karnac.
Dimaggio, G, and Semerari, A. (2001) Psychopathological narrative forms. Journal of Constructivist Psychology, 14, 1-23.
Dimaggio, G., and Semerari, A. (2004) Disorganized narratives: the psychological condition and its treatment. In Angus, L.E., and Mcleod, J. eds. (2004) The Handbook of Narrative and Psychotherapy: Practice, Theory, and Research. Sage, pp.263-282.
Dimaggio, G., Salvatore, G., and Catania, D. (2004) Strategies for the treatment of dialogical dysfunctions. In Hermans, H.J.M., and Dimaggio, G. (2004) The Dialogical Self in Psychotherapy. Brunner-Routledge, pp.190-204.
Dimaggio and Stiles(2007) Psychotherapy in light of internal multiplicity. J. Clinical Psychology, 63(2), 119-127.
Deleuze, G. (1985) Cinema 2: L’Image-temps. Minuit, Paris. (宇野邦一訳(2006)シネマ2: 時間イメージ. 法政大学出版局)
Ellenberger, H.F. (1970) The discover of the Unconscious. Basic Books.
Emerson, C., and Holquist, M. (1981) Glossary. In Bakhtin, M.M. (1981) The Dialogical Imagination. University of Texas Press. pp.423-434.
Enelow, A.J., and Adler, L.M. (1965) Foreword. In Fierman, L.B. eds. (1965) Effective Psychotherapy:The Contribution of Hellmuth Kaiser. Free Press. pp.ⅶ-ⅹⅹⅵ.
Fairbairn, W.R.D. (1958) On the nature and aims of psychoanalytical treatment. International Journal of Psycho-Analysis, 39(5), 374-385. In From Instinct to Self: Volume 1. (1994)
Fenichel, O. (1935) Zur Theorie der psychoanalytischen Technik, Internationale Zeitschrift fur Psychoanalyse, 21, 78-95.
Fierman, L.B. eds. (1965) Effective Psychotherapy:The Contribution of Hellmuth Kaiser. Free Press.
Fierman, L.B. (1997) The Therapist Is the Therapy: Effective PsychotherapyⅡ. Aronson.
Firestone, R.W. (1988) Voice Therapy: A Psychotherapeutic Approach to Self-Destructive Behavior. Human Sciences Press.
Georgaca, E. (2003) Exploring signs and voices in the therapeutic space, Theory and Psychology, 13(4), 541-560.
Greenberg, L.S. et al. (1993) Facilitating Emotional Change. Guilford Press.
Greenberg, L.S. (2002) Emotion-Focused Therapy: Coaching Clients to Work Thorough Their Feelings. APA Press.
Hermans and Kempen (1993) The Dialogical Self. Academic Press.
Hermans and Dimaggio eds. (2004) The Dialogical Self in Psychotherapy. Routledge.
Hermans, H.J.M. (2004) The dialogical self: Between exchange and power. In Hermans and Dimaggio eds. (2004) The Dialogical Self in Psychotherapy. Routledge, pp.13-28.
Hermans, H.J.M. (2006) The self as a theater of voices: disorganization and reorganization of a position repertoire. Journal of Constructivist Psychology, 19, 147-169.
Horney, K. (1950) Neurosis and Human Growth, Norton.
Horowitz, M.J. (1987) States of Mind. Plenum.
井上達夫 (1986) 共生の作法-会話としての正義. 創文社.
Jacob Z. Goldsmith, James K. Mosher, William B. Stiles, and Leslie S. Greenberg (2008) Speaking with the client’s voice: how a person-centered therapist used reflections to facilitate assimilation, Person-Centered and Experiential Psychotherapies, 7(3), 155-172.
Kaiser, H. (1930) Kleist’s Prinz von Homburg. Imago, 16, 119-137.
Kaiser, H. (1931) Franz Kafka’s Inferno. Eine Psychologische Deutung seiner Strafphantasie, Imago, 17, 14-103.
Kaiser, H. (1934) Probleme der Technik. Internationale Zeitschrift Für Psychoanalyse 20, 490-522. English translation by Margaret Nunberg in (M.S.Bergmann and F.R.Hartman eds.) The Evolution of Psychoanalytic Technique. pp.383-413, 1976, Basic Books.
Kaiser, H. (1955) The problem of responsibility in psychotherapy. Psychiatry, 18, 205-211. (Fierman, L.B. eds. (1965) Effective Psychotherapy:The Contribution of Hellmuth Kaiser. Free Press. pp.1-13.)
Kaiser, H. (1962) Emergency. Psychiatry, 25, 97-118. (Fierman, L.B. eds. (1965) Effective Psychotherapy:The Contribution of Hellmuth Kaiser. Free Press. Pp.172-202.)
Kaiser, H. (1965) The universal symptom of the psychoneuroses: A search for the conditions of effective psychotherapy. In Fierman, L.B. eds. (1965) Effective Psychotherapy:The Contribution of Hellmuth Kaiser. Free Press.pp.14-171.
Leiman, M. (1997) Procedures as dialogical sequences: A revised version of the fundamental concept in Cognitive Analytic Therapy. British Journal of Medical Psychology, 70 (1997), 193-207.
Leiman, M. (2000) Ogden’s matrix of transference and the concept of sign. British Journal of Medical Psychology, 73, 385-397.
Leiman, M. (2004) Dialogical sequence analysis. Chapter 16 of Hermans, Hubert J. M.and Dimaggio, Giancarlo ed. (2004) The Dialogical Self in Psychotherapy. Routledge.
Lowen, A. (1975) Bioenergetics. Coward.
Lowith, K. (1928) Das Individuum in der Rolle des Mitmenschen. (熊野純彦訳 (2008) 共同存在の現象学. 岩波文庫)
McAdams, D.P. (1996) Personality, modernity, and storied self: A contemporary framework for studying persons. Psychological Inquiry, 7, 295-321.
May, R., and Yalom, I.D. (2005) Existential Psychotherapy. In Corsini, R.J., and Wedding, D. (eds.) Current Psychotherapies. Thomas Brooks, pp.269-298.
野家啓一 (2007) 増補・科学の解釈学. ちくま学芸文庫.
Ogden, T.H. (1994) Subject of Analysis. Jason Aronson. (野田秀樹訳(1996)あいだの空間: 精神分析の第三主体. 新評論.)
Osatuke, K. et al. (2004) Hearing voices: methodological issues in measuring internal multiplicity. Chapter 15 of Hermans, Hubert J. M.and Dimaggio, Giancarlo ed. (2004) The Dialogical Self in Psychotherapy. Routledge.
Osatuke, K, and Stiles, W.B. (2006) Problematic internal voices in clients with borderline features: An elaboration of the assimilation model. Journal of Constructivist Psychology, 19, 287-319.
Paltin, D. M. (1993) Hellmuth Kaiser, J.F. Masterson, and the borderline struggle: How does an existential therapist survive in the object world? Psychotherapy, 30, 427-433.
Perls, F.S. (1969) Gestalt Therapy Verbatim. Real People Press.
Reik, T. (1948) Listening With The Third Ear. Farrar Straus.
Reich, W. (1949) Character Analysis. Orgone Institute.
Rice, L.N. (1967) Client voice quality and expressive style as indexes of productive psychotherapy. J. Consult. Psychol. Dec; 31(6): 557-63.
Rice, Laura N. (1973) Personality processes reflected in client vocal style and Rorschach performance. Journal of Consulting and Clinical Psychology, Vol 40(1), 133-138.
Rogers, C.R. (1951) Client-Centered Therapy.
Rogers, C.R. (1957) The necessary and sufficient conditions of personality change. Journal of Consulting Psychology, 21(2), 95-103.
Rorty, R. (1979) Philosophy and the Mirror of Nature. Princeton. (野家啓一監訳 (1993) 哲学と自然の鏡. 産業図書)
Rosenstock-Huessy, E. (1988) Practical Knowledge of the Soul. Argo.
Rowan, J. (1990) Subpersonalities. Routledge.
Ryle, G. (1949) The Concept of Mind. Hutchinson. (坂本百大ほか訳(1987)心の概念. みすず書房)
Shapiro, D. (1989) Psychotherapy of Neurotic Character, Basic Books.
Shapiro, D. (1996) On psychology of self-deception, Social Research, 63(3), 785-800.
Scheler, M. (1915) The Idol of Self-Knowledge. In David R. Lachterman eds. (1973) Max Scheler: Selected Philosophical Essays. Northwestern University Press. (飯島宗享ほか訳 (2002) 自己認識の偶像. シェーラー著作集: 価値の転倒(下)所収. 白水社)
Smith and Greenberg (2007) Internal Multiplicity in Emotion-Focused Psychotherapy. J. Clinical Psychology, 63(2), 175-186.
Stiles, W.B. (1999) Sign and Voices in Psychotherapy. Psychotherapy Research, 9(1), 1-21.
Stiles, W.B., Leiman, M., Shapiro, D.A., Hardy, G.E., Barkham, M., Detert, N, B., and Llewelyn, S.P. (2006) What does the first exchange tell? Dialogical sequence analysis and assimilation in very brief therapy. Psychotherapy Research, 16(4), 408-421.
Vico, G. (1709)上村忠男、佐々木力訳(1987)学問の方法. 岩波書店.
Welling, H. (2000) On the therapeutic potency of Kaiser’s techniques: some misunderstandings? Psychotherapy, 37(1), 57-63.
Yalom, I.D. (1980) Existential Psychotherapy. Basic Books.
Yalom, I.D. (2002) The Gift of Therapy: An Open Letter to a New Generation of Therapists and Their Patients. Harpercollins.