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断章-治療的アセスメント NO.3 

 

援助的アセスメントとは何か

 

 援助的アセスメントとは、スティーヴン・フィンが提唱した治療的アセスメントのヴァリエーションである。いや、もはやヴァリエーションという表現は不適切であるのかもしれない。というのは、私の手法はフィンが定式化した治療的アセスメントの構造を逸脱するところが大きく、治療的アセスメントと名乗るのは看板に偽りありとの誹りを免れ得ないからである。

 フィンの治療的アセスメントは、心理アセスメントのプロセスをブリーフセラピーとして実施する介入法である。つまり、アセスメントではなく、セラピーそのものを目的として行われるわけである。その点は、私の援助的アセスメントも同様である。しかし、ブリーフセラピーとしての力を最大限に発揮させるために様々な工夫を施し、その結果としてフィンの治療的アセスメントからは懸け離れたものになってしまったような気がする。

 施された様々な工夫とは、(1) 1セッションあたりの時間をたっぷり取り、最大2時間まで可能としたこと。(2) 相談者が自分自身ないしセッションを振り返ってみる仕組みを、各所にちりばめたこと。(3) 相談者の問いに答えて対話するセッションに、心の声たち(インナースピーチ)との対話を促進する「ゲシュタルト療法のエンプティ・チェア」や「ヴォイス・セラピーのステップ」を用いた、声の劇化表現(二重性をドラマへと拓くこと)を取り入れたこと。(4) セルフトークに焦点化されたコーチングのセッションを設けたこと。(5) 相談者とカウンセラーの「間テクスト性」を浮き彫りにし、双方の対話を促進するような、手紙セッションを設けたこと、である。

 

援助的アセスメントおける時間

 

カウンセリンクに要する時間は、その多くが45分とか50分というものであろう。これは昔からの伝統であり、あくまでカウンセラー側の都合によって定められているものである。つまり、45分から50分のあいだカウンセリングをして、直後の15分から10分は面接記録を書いたり、次の相談者を迎え入れたりする準備をするのだ。このようにして、一人の相談者につき1時間のサイクルで回転させるのが、よくある従来的なカウンセリングの時間的な枠組みなのである。

 ところが、援助的アセスメントの場合には、一人の相談者につき2時間のサイクルで回転するようにスケジュールが設定される。正確に言えば、1回のセッションにつき最大2時間まで対話可能なのである。

どうしてこのような時間構造をとっているのであろうか。

最も大きな理由は、時計時間ではなく体験時間を重視するからである。私個人のこれまでの経験では、45分ないし50分の設定でカウンセリングを行う場合、相談者の体験が十分に展開しないまま終了時間を迎え、不完全燃焼のような事態が相談者側にもたらされてしまうことが少なくないと言える。カウンセラー側も、終了時間が迫ると時計を気にしてしまい、相談者のお話に十分な注意を払うことができないことがままある。

時計時間に拘束されるのが、現代社会に生きる人間の宿命なのかもしれない。しかし、援助的アセスメントは、時計時間によって拘束されてしまうことを極力回避して、切れのよいところで終了できるように、最大2時間の時間枠組みのなかで1回のセッションが設定されるのである。

キーワードは「切れのよいところで」である。

相談者とカウンセラーのやり取りには、始まりがあり、終わりがある。あるテーマにかかわる話が始まると、ある程度まで展開して終わりを迎え、また新たなテーマないし同一テーマの別の側面へと向かっていく。このようにして、始まりと終わりによってひとまとまりに区切られる時間を、ここでは体験時間と呼んでおこう。

始まりと終わりをもつひとつの全体を時計時間で計測すれば、それは50分であることも、1時間30分であることも、1時間50分であることもあろう。従来的な時間設定では、体験時間を二の次にして時計時間を優先しなければならないのだが、1セッションにつき最大2時間を見ておけば、相談者の体験時間を大切にすることができるのである。

 もうひとつのキーワードは、「じっくりと」である。

 援助的アセスメントは、一連のプロセスの中で行われることが、かなり構造化されている。分類から言えば、それは半構造化面接であると言えよう。さらに、長期的なカウンセリングではなくブリーフセラピーであるから、相談者にとっての時間は限られているのである。

 そのような半構造の中で、クライエントは気がかりなことを問いのかたちで提出し、それに対してカウンセラーが答えることで対話が進んで行くのだが、相談者にとって気がかりなことや、話したいことは、やはり毎回のセッションごとに変化していくのが常である。二人がそのつどのセッションで顔を合わせた瞬間に口にされる問題に、カウンセラーとしては耳を傾けたい。最初はあることが気がかりであったが、数回後のセッションでは別のことが気がかりだということは、あって当然のことなのである。

 そのような、そのつど変化していく相談者の関心に対応して、じっくりと耳を傾けるためにも、最大2時間という時間枠組みは必要なことである。援助的アセスメントでは、毎回のセッションで行うことが概ね決まっているのだが、まずセッションの冒頭で、そのつどのクライエントの訴えを傾聴する時間を設けている。そのため、ブリーフにありがちな「じっくりと話を聞いてもらえない」という相談者の不満感は、かなりの程度解消されるようである。

 

インテーク面接

 

相談者とはじめて顔を合わせる、いわゆるインテーク面接である。いま私たちの常識として、このインテーク面接は、心理学的な診断や今後のケアプランなどを策定するための情報収集を目的としているのかもしれない。はっきりと言えば、その目的はアセスメントにあるのだ。しかし、援助的アセスメントにおけるインテーク面接は、あくまでクライエントの援助を直接的な目的としており、援助的に相談者の話に耳を傾けることに主眼が置かれる。

 このインテーク面接は、すでに援助関係にある相談者とのカウンセリング・プロセスのなかに援助的アセスメントを挿入する場合には無用である。しかし、他の相談機関から援助的アセスメントのみを目的として紹介されてきた相談者の場合や、病院勤務のカウンセラーが援助関係を結んでいない入院・通院患者を対象とする場合には、必要があるように思われる。というのは、後述するようにインテーク面接でもっとも大切なのは、自分は話を聞いてもらっている、よく理解されていると感じるような体験が、まずここで相談者に生じることなのであるから。

 

[ラポールの形成]

 相談機関を訪れ、初対面のカウンセラーとはじめて顔を合わせるとき、相談者はとても緊張している。挨拶をして互いに自己紹介した後は、しばらくのあいだ天気のことや、迷わずにこの場に到着することができたかなど、歓談するとよいだろう。カウンセラーは、温かみのある、安心感を与える態度で相談者を迎えるのだが、そうすることで次第にラポールが形成されて行くことであろう。

 

[相談を開始するにあたっての説明と合意]

 相談関係に入る前に、それぞれの相談機関に固有のやり方で守秘義務などについて説明した後、書面ないし口頭で一般的な契約を結ぶことになる。その際に相談者は、氏名、年齢、住所、連絡先などの基本情報も書面に記載することになるであろう。

 

[緊張感を振り返ってみる1 ]

 相談者は、はじめて来談するインテークの際、とても緊張しているのが常である。一体どのようなカウンセラーが待っているのだろうか、カウンセリングを申し込んだもののやはり止めようかなど、その脳裏にはさまざまな声が去来しているはずである。

 リスニングに入る前に、相談者にいま現在の緊張感を言葉にしてもらう。カウンセラーは、「緊張していますか」と相談者に問いかける。それに対する答えは、「とても緊張しています」「あまり緊張していません」など様々であろう。少し傾聴してから、同じことを今回のセッションが終わった時点で尋ね、気分がどのように変化したのか振り返ってみることを提案する。また、内側で感じ取られた主観的な緊張感の変化(実感)と、客観的な数値の変化を照らし合わせてみることを追加し、いまと、終了時の2回、簡単な心理テストを提案する。相談者が了承すれば、さっそく1回目の心理テストを実施する。

このとき私が使用する心理テストは、STAIである。これは、状況に応じて変化する不安感を鋭敏に検知すると同時に、簡易的に短時間で実施可能なので、この目的のためには最適である。

 

[リスニング]

 カウンセラーは、相談者を今回の来談へと導いた、いまある困難とそのコンテクストについて耳を傾ける。時間をかけてじっくりと傾聴するわけであるが、それは「どうなさいましたか」というカウンセラーの問いによって始まる。その問いを受けて、相談者はあれこれと苦悩を言葉にもたらす。相談者は話しかけられ、耳を傾けられるのである。

通常のインテーク面接では、相談者の内的生活史、生育歴、主訴などを、できるかぎり年代記的に把握することが志向されるのかもしれない。それに、精神医学的な診断や、病態レベルの把握のために、カウンセラーは系統的に聴取していくはずである。ここにあるのは何だろうか。それは、診断と治療という医学モデルを踏襲した、見立てに基づくカウンセリングへの志向性である。

それに対して援助的アセスメントのインテークは、相談者の問題解決を志向しているのでも、心理アセスメントを志向しているのでもない。では、何を目的としているのか。それは、苦しみのさなかにある相談者と初めて会い、人として、その人の話にじっくりと耳を傾けるということである。

相談者の話に耳を傾け、流れにそって共感的に聞きとっていくわけであるから、情報収集型のインテークのようにスムーズな情報収集はできないであろう。相談者が何人兄弟であるのか、どんな仕事をしているのか、そのような基本情報すら聴取できない場合もあるかもしれない。

 そのようなわけで、援助的アセスメントのインテーク面接で大切なのは、相談者の心的体験を敬意をもって傾聴し、それを承認することである。これは、いわゆる受容と共感の姿勢である。しかし、もっと重要なのは、そのようなカウンセラーの姿勢が相談者にどのようにして体験されるのかということである。相談者の側が、自分は話を丁寧に聞きとられ、よく理解されていると感じるような体験をすることによって、それ自体が援助そのものになることはもちろんであるが、そのような体験がその後の協働的な援助プロセスの基礎となるのである。

 

インテークそのものが、相談者にとって援助的になる。

 

[カウンセリングか、援助的アセスメントか]

 従来的なよくある考え方をとれば、インテーク面接ないし診断面接によってある程度の見立てを立てて、どのような援助技法が目の前にいる相談者にとって適切なのか、臨床的判断をすることになるであろう。カウンセリングの適応を判断し、適切な援助を臨床家が見立てるわけである。しかし、この援助的アセスメントは、そのような情報収集モデルないし医学モデルには依拠していない。

この援助的アセスメントがどのような相談者に対して、どのような悩み苦しみに対して最も効力を発揮するのか、この点に関してはいずれ実証的なレベルで調査するつもりである。しかし、援助的アセスメントは全体のプロセスが各ステップとして形式化されているものの、各ステップの具体的な内容は、そのつどの相談者にフィットするように臨機応変に変形されるのが常である。相談者に即してそのつど形成されるわけであるから、どのような相談者に対して最も効果的なのかという問いは、そもそも意味をなさないのである。

このようなわけで、通常のカウンセリングが適切か、それとも援助的アセスメントが適切かという専門家的な判断をする必要は、カウンセラーにはない。大切なのは臨床家側の判断ではなくて、目の前にいる相談者にとっていま最も必要な援助はどんなことであるのか、二人で話し合うことである。

 たとえば、カウンセラー側に複数の習熟した援助技法があるとすれば、そのひとつひとつを相談者の抱えている困難に照らしながら、具体的にどんなことが行われるのかシミュレーションしてもよいだろう。その場合、カウンセラーは、この技法ではこんなことをして、こんなことができるなど話すかもしれない。そして、相談者は、そのやり方はあまり好まないとか、もっとこうしてほしいなど話すかもしれない。

このようにして話し合うことによって、協働的な雰囲気にとどまらない、確固とした協働的な関係性が構築されていくはずである。

 

援助プロセスを協同的に形成していく。

 

[援助的アセスメントの説明]

 援助的アセスメントへの導入が決まったら、相談者に対して今後のスケジュールや、個々のセッションで行われることを詳しく説明する。半構造化されていて、内容がある程度決められているわけであるから、カウンセラーはあらかじめスケジュール表などを書面にして作成しておくのがよいであろう。その書面を提示しながら説明すると、相談者はより理解しやすいはずである。

 また、詳細については後述するが、次回のセッションからICレコーダーを持参してもらうこと、帰宅後、その日のうちにカウンセラー宛ての手紙を書くことを伝え、話し合っておく必要がある。

 

[緊張感を振り返ってみる 2 ]

 セッションが終了した時点で、あらためて心理テストを実施する。そして、採点が終わってから、こちらから数値の変化を話す前に、相談者に気分の変化を振り返ってもらう。たとえば、このように尋ねるとよいだろう。「先ほどは大変緊張していたということですが、いまはどうでしょうか。少し緊張が解けましたか、変わりありませんか、それとも緊張がさらに強くなっていますか」のように、である。

それに対する返答は、「あまり変わらない」「少し楽になった」「先ほどよりも緊張が強くなりました」など、様々であろう。少し傾聴してから、1回目と2回目の心理テストの数値を伝えて、相談者の実感と数値の変化を照らし合わせる。両者は一致していることも一致していないこともあるだろうが、この場合、実感と数値の一致や不一致の照合を目的とするのではない。目指すのは、いまの気分とともにある自分が、過ぎ去った過去の自分を振り返り、その気分の変化(無変化)や、いまここにいる自分がホッとした感覚(あるいは張り詰めた感覚)のうちにあることを身体的に感じ取ることなのである。