短歌1992



私短歌・歯痛


歯が痛い…旧き知人がー志郡白山町より文寄せたれど

P・K・ディック三冊ながら枕辺に閉ぢ積みたりき歯痛の間

若狭鰈の陽に透くほどに薄きー枚ガスの炎のうへに置きたり

難渋し鰈をほぐしせせり食ふニ合の酒に流しこみつつ

家族で旅行すると、かならず歯が痛くなる。

さむざむと狸千匹信楽にわが初恋の少女ありけり

聖少女膝にいだきて愛撫せし記憶はかなや陰にも白毛

しろがねの歯痛に耐えて伊賀上野城山の五分咲きの桜よ

関西本線上野駅便所に立ち寄ればゆまりの匂ひしるけかりけり

青蓮寺ダム湖のうへの丸木小屋にチリ・ソースふりかけピザを食ひけり

茅屋根も葺き代へぬゆへその茅場曽爾高原と呼ばれてゐたり

熊はいるかい?と尋ねると
黙って、首を振った

花無き里や曽爾の木治屋の男手がやや塩辛くゐのししを煮る

太郎路の鎧岩こそすさまじけれ奈良の女官はいかに見つらむ

ツーリング・ワゴンと呼べる箱船にふとカンガルーの匂ひ漂ふ

『レガシィ』に妻子眠らせ駆りゆけば室生は蕾、長谷は満開

歯が痛い、痛い…初瀬のやまおろしよ激しかれとは祈らぬものを



私短歌・葬儀


黒衣の女五人は集ひ さわさわと人の名呼びて陽を浴びてけり

彼女には「哀」も「愛」も同じだ。

力レン・アレキサンドリアの漆黒の指は電子メールに愛を打ち込む

通夜

今日のために(ウン)望遠鏡(ト力)買って野鳥観察(トカ)なのに…

(エーッ)だって…あなたが彼のお父さんだったりするなんて…

ああ雲雀鳴きのぼる野を深草の夢に見たりき まざまざと寂し

一九六〇年代をー言で言へぱ「あおみどろなす自閉症」さ!

ウンベルト・エーコ読みなずむ夜の膝は血の補色なす畳の上に

あはれなんたる乱雑な遺品、アメラグの道具に『郭文章』

まあー種のフェティシズム…なんて言い方!オーイ出棺の時間は?

若い死者には、ソヴァージユの娘たちが

あまたるき悲しみの蜜も垂れよとてトルコ桔梗は棺を覆う

帰宅すると、家の雰囲気が奇妙だった。
抽き出しの中に蜻蛉の翅があった。

いくたびも悲しみの夏過ぎ越しついづれの年かこの銀やんま

夏葬儀うかうかと過ぎ水個れて緋鯉三匹死にて浮きたり



私短歌・自転車旅行


遠き日は篭付きラーレーにも乗りてけり篭の中には魔法の小瓶

冬、氷を求めて歩いた詩人。

田中冬吉つゆ忘れゐたれどいま過ぎ去りし硝子戸に****氷店

日本の悲しきアール・デコとして氷屋は「かき氷器」飾る

欲しい。
妻は少女のような声で、そう言口つた。

上中町末野バス駅にはその昔義足の男が切符売りけり

若狭の道は少女であるあなたの譬へによれば
百頭のジユゴンの背中を越えて幾重にも
つづら折れたち別れする峠と湖畔の
まどろむやうな起伏に満ちてゐた。
眠る少女であるあなたに陽は射し、陽はかげり
耳川には耳が流れてゐた。

朔太郎に横顔似たる硝子屋のせむしの弟もいたく老いけり

さらしなの科の木すでに老いたるかどの家も「英霊の家」とぞ

春日傘ややくたびれて歩めるを漕ぐほどもなく追い越しにけリ

「マオ!マオ!」と少女の呼ぶを聴きをれば「毛」なる犬は駆け戻りけり

犬の名の毛沢東とはほろにがき風のまにまに「毛」は吠えたり



私短歌・夢


ヒエロニムス・ボスの画集を盗みたる少年の日よ柘榴を食めば

十九歳の秋のおしゃれは海賊版『風流夢護』に菊花の栞

ジュークボックスのごとき青春、眠り浅き夢の水にも老いは兆しぬ

歌言葉はつかにひらく膝の上の九月十日の菊も末枯れて

秋の日は虫の名すずろ「ゴミムシ」と「ゴミムシ騙シ」の差異はいづこに

戯れに過去帳を繰り開き置く「夢想童子」と「幻想童女」

わが家の奥の仏間に老女眠りときをりは這ふ顔は白菊

死の床に獏の糞など想ひける澁澤龍彦はげにもおそろし

昨夜二時家の娘を襲ひける「獏のフンコロガシ」はさらに恐ろし

つれづれに木魚打ち打ち念仏す 家の仏壇まさに「黄金の国」

母と子は遠ざかりゆく睡り蓮眠らむとしてわが身冷ゆる

水と水打ち合ふ音は聞こえけり川岸の家すでに眠れば

裏山のいささ竹群吹く風に「稗搗き節」もはつか聞こえ来

ジル・ド・レーの顔あきらかに見えたれば夢の中にてわれは苦笑す

遠くより「倉敷の敷も書けぬか」と妻の叱るを聞きて目覚めき

野茨が足裂くここちしののめは乱暴狼籍の部屋にわが立つ

初霜のおきまどはせる白菊の塵芥置き場のジュークボックス

月浮くや「LP」の上に針を置く「遠き日の指のようだぜ」



私短歌・夏の歌会とその翌日



『銀河の壷直し』も読みなづみつつ乗換への米原駅で蕎麦を食ひげり

名古屋駅地下に迷ひて塩辛き秋刀魚食ふべく店を探しつ

あきらかに不倫と見ゆる六人に挟まれて『氷の微笑』を観たり

おほかたが西王燦を忘るると依田仁美氏は憤慨しけり

わが友の依田仁美こそかなしけれますらをぶりに狂歌詠むとは

はやばやと「脱構築」を実践し依田仁美氏は理論語らず

ただー首褒めよと妻が命じたる「李氏朝鮮」も酔ひて忘れき

だうして突然、このやうに私的な出来事を
短歌で書き表すやうになったのだらう。

「快速」が木曾川過ぐるころほひか網戸を引きてわれも眼らむ

父不在、むしろその間を生き生きと母と子供はキャンプ終へけり

台風に怯えて杭に縛りたる赤き自転車なども解放せむか

つとめては美しき日の朝、故しらず古典的にわれは虚脱す

「林道菅谷線」今の墾道わが行けばむらさきの蝶水の辺に満つ

森へ行かざる三日の間に生れたるか「目無しの虻」はわれを襲ひ来

林間に『営農サンバー』を繋ぎ駐め遅き昼飼を父は食ひけり

目の中に木屑が入りて痛むとも四五六時間父は働く



抽象的な悲しみ


榎の実たわわに黒き下ゆけばこころつつしむゆゑあらなくに

敗残兵ともなひ朝の森ゆけどきびたきのこゑ父には聞こえず

禁忌ゆるみし国の夕銅や人妻が日本かもしかふかぶかと煮る

鬼涙村はるかにとほきここちして首吊らむかと思ひいでたり

半夏生、家のおもての日盛りを芥子の実売りは通りすぎたり

夏つばきほのかに咲きてゐたりけり峡の四方に声みつみつし

雨もよふ昼ひそやかに芥子撒けば真赤き鳥はふるふると鳴く

ゆるゆると国家の貌の見ゆる年はかなき鮎を釣りて食べにき

雨の鳥のよたかはかなしひたつちに卵を産みて抱きて眠れる

稚くてつゆ知らざれど羊歯の森、けふまざまざとわが噴水墓

火をめぐる遠白き日の思ひ出はおいびとの手の中のうぐひす

夏の炉はなに焼きしかなむらさきの煙しののめの空に残りぬ

かなしみの夏の甍に降る雨はうぐひすの塚もうちこぽつらむ

「生きることは思想のために命をなげうつこと」
と、マスードは言ふ。そのとほり、
私たちも本当のところはそのように語りたいのだ。

夜半に読む万葉集に性欲の照り陰りする薄き歓び

「団欒の灯も原子力!」むらぎもの水母なすわが家族は泳ぎ

先帝の天覧相撲、井筒部屋の「寺尾」を好み拍手強かり

鎮痛剤は黒赤き紙に包まれて江戸川乱歩全集の栞にすべし

このことは絶対的な事実なのだが
よく理解されることの絶望的な
事実でもある。

あはれやな天皇制があらざれば短歌あらざりき、きりぎりす

罪深き韻律なれば初心者は三十一回指を折るべし

短歌はフエニィミズムという嘘

わが寒き村の老人雀蜂を婿蜂と呼び蜂の子食す

ある男のシタール弾くを眺むれぱあきらかにその指先、蚯蚓



独身者と花嫁


若からぬ同姓愛者秋篠の時雨亭にて細魚食ふ夢
このごろは雨隠りする詩歌さへ緑内障の蓬生の友
悲しみの菊人形の菊末枯れ遠き日の愛人のほつれ髪
海の子の愛人ひとりあかあかと大漁旗を身に纏ひ死ね
億!君の相にせむかしぐるるを大栃の洞あたたかければ
あらざらむこの世のほかの逆光の虹立ちにけり寒川の野に
裏山の紅葉も枯れてむざむざとけものの道のあらはれわたる
「アラバマに星墜つる」とぞ黒人の少女は歌ふ歌こそ煉獄
秋一日遊覧すれば廃虚めくホテル『港』を雨は打ち降る
越前町左右は寂しき乳母車錆びたるありてその先は磯
ははそはの母が隠せる桐麻の小箱のなかに弟がゐる
朝影の薄き杣道うらうらと撫子の花踏む楽しみに
鹿料理少女の愛のごとくして骨薄ければ風の夕銅に
あはれ父、独身の夜をむらさきの露草ふかく本に栞す
花に嫁す少女の嘆き さりさりと相合い傘は壁に薄れて
碓氷よりたどたどしくも書き送る半ばは愛を悔やむ手紙を
野晒しをこころといへどひさかたの雨の自動車洗ひて発たむ



私短歌・葬送


失ひし日の愛人の葬送にわれは遅れて落葉踏みたり

いまだ水重き春野に三日月のごとき少女を誘ひ遊びき

たはむれにドイツトウヒを植えてけり伐らざればけふいかばかりかは

驚きてかつほろ苦く認めけり十九歳の愛恋の虚辞

朧ながら火星は見ゆる古都に来てホテル『帝国』の窓べに寄れば

若からぬをんなの陰毛の翳り濃く死者の奢りを見せてさびしも

遠山の冠雪に陽は射しながら暮るる道かな家族は何処

独りしてチェスを指したり月光の海波揺る茨の庭に



短歌へ戻る