短歌1989







生き果てていかなる快楽あかあかと火は踊りつつ夜ぞふけにける

火のうへに霧ふるらむ親不知歌を離りて思ひ出づれぱ

春楡に月光射してゐたりけりうつせみはいざ檻なるべきや

しののめの人の體のゆるむころ櫟の氷とけつつあらむ

樹の下に失せにし去年の斧ありぬ水はここより流れはじめよ

雪の野は深く裂けゐつ人かつて怒らむとして忘れし水や

荒杉に垂氷しにけりしかすがに冴えてひとりはすがしかるべし

死者二人乗せたる橇をひくときの人に溢るる力、悲しも




朝の歌


家族ややあやふき朝や水撒きて父は悲しむ虹の少女を

大欅、記憶の瘤のごときもの垂れつつ繊き葉は萌ゆるかな

とほき日の恥にうろたへゐたるとき啄木鳥は木をたたきそめけり

食卓に南の風の砂まじり父は「われわれ…」と語りはじめき

おぼろなる記憶のなかの橋のこと傳へんとしてくちごもりたり

春の風邪こもりゐすれば隣室のテレヴィゆしづかに蝉のこゑいづ

みづからの聲にうなづきつつ話す少年のうしろに立ち待つ二分

公園のなかばをビルの影おおふ朝、二組の恋人寒し

警官の盾ゐならびしあの頃よ『危険なめぐり逢い』を借り来て

テレヴィの家族のごとくあらざれば少女は父をややさげすみぬ

革の服着て図書館に立ち寄りて『思想』の目次眺めてゐたり

B・Tと略称されし頃よりは『美術手帖』も読まずなりにき

陽はゆるく河のおもてに揺れゐたり春の芥のかぎろふあはれ

もみあげの太き男と擦れ違ふ十年前のオールド・スパイス…

屑鉄を寄せ集めたる彫刻も流行らずなりて久しかりけり

ひとところ人だかりする店頭を避けつつゆけば猿の聲すも

花の香のいりみだれかつ饐えたるが信号を待つ間に満ちたり

春橘は人の触られ鬼皮をなめされてをりわが触りみれば




ふたたび朝の歌


悲しみは秀つ枝ほつえにこみあぐる雨のあしたのとねりこの花

かはがらす礫のごとくわが胸のおぐらき滝を潜りてゆかな

人の骨埋めて森を肥やすとふ唐土の知恵を読みて悲しむ

水芭蕉、水漬く屍のうへに咲くああ群衆のごときさびしさ

空咳や春の蜻蛉を発たしめて露けき草に尿なしたり

尿するも飲食するも樹下なればほのかにわれのふぐり寂しき

朴の花、夜に放たれししらとりはかたちくづれて死ににけるかな

ほうほうと呆けたるごとく咲く花はうはみずざくらうはみずざくら




八月十五日


木の屑は浴槽に浮き香りたつ世を木樵りなるかなしみぞこれ

『ひまわり』の主演女優の巨いなる乳房恐れしもニ十年昔

楠の香を好むゆゑ木を樵ると子には言ひけり妻に言はずて

馬の汗すら遠のきてゆく世かも男の汗は「生」はたや「性」?

少年の日は愛されてゐたりしかけふの騎上位そぞろに涼し

さはさはとこころ騒ぎて生きかぬる日もありけるか鮎の夕立

酒飲むにもやうやうにして礼節を覚えたるかな夕顔の花

反核の集会に行きたはやすく……せしこと遠き恥の日

われは日々「おれ」と称して生きたるが「ぼく」と書くとき頬ほてるかな

ー人称「おれ」は「私」になりがたし階層といふほどならなくに

日さがりを飲みあぐねつつ見渡せば向日葵やはた黄金のライオン

寒蝉の交尾うるはし薄羽で掻きよせながら雌を抱きつ

目の砂をぬぐはむとして思ひ出づる「眼球譚」もおぼろおぼろに

白魚のベルセウス座流星群極大の夜を降りこめられき

ヒトに漲るはかなき力、水晶の浜より『もんじゆ』までの遠泳

夏の雨つぶてのごとき湾岸を旗立て過ぐる黒き車は

なりはひに筋ゆたかなる悲しみを包みかねつも鳥のTシャツ

音楽のはかなき午後を繭の日はうつろに照りて移りゆくかな



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