苺の素描



苫焼く喚声あがるなかいらくさ・櫻いかなるが愛、戦艦大和

ちちおやの春の足裏は子に買へるおほいなる船の繊き模型を

踏み潰しつつ外に出でて仰ぎたり天変といふほどならなくに

うぐひすの鳴きちらしたる星の屑、あすは朝より撞球をせむ

とは念へど夜半よりしとど自動車の屋根をくたして春の沫雪

降りくたしつつ汚れゆく「平和」てふ観念、黒き机上の眼鏡

春の雪消なば消ぬべくクリスタル・グラスに麦酒注ぎて我は

つるぎたちもろはの時に遅れたる依田仁美てふともがら想ふ

はしけやし妻も児どもも春の風邪病みつつ夢に船を見るらむ

わが家族ねむりにしづみ君はまた鐙浸かすも征きゆくならむ

夜の楽のバセット・ホルンより唾液こぼれてひかりたる花苺

花ひらく喇叭のまへに箱のある奇妙な楽器 ちちのみの楽器

砂糖煮の苺を掬ひつつ想ふ米原駅・午前二時・「立山二号」

三両目・十二B席に残されしタスカン帽およびくれなゐの箱

銀色の楽器のうへににじみたる虹色の唾、唾、苺のかたちに

夜行する「立山二号」に残されしくれなゐの箱、さぬきの苺

そのくれなゐ夜の時計のうちがはを灯してけりな眠る夫婦に

内宇宙より噴き出づるつぶつぶの蕁麻「混沌」聴きつつ眠り

ひとひらの書簡のゆくへ知れずなる遠くの森ととほくの海と

そのほかに恐龍いまだ睡りたる神経ささらなすとほき街より

岳父Tより届きたる絵葉書はふちよりしづくせりくれなゐに

苺の絵はさまれてゐてその部分より錆びはじめたり郵便受は

風に揺れとりおとしたる文面の鳶色「貧しき蝶はやいかに」
貧しき蝶=プア・バタフライ ソニー・ロリンズに名演あり

逃げまどふ群衆うつすテレヴィのそのかたすみに白き岳父の

自動車が溶けつつ停りゐたりしは去年のはつなつ苺のみなと

「睡りたりたる水曜日街頭に血を献じてのちむさぼる鴨料理

献血を終へて眩む『水の日』のアントニアかの憑依ともしも

氷の店舗より出でてさて何処へと思ふにふとも豹を見たり」

などといふ街より帰り来し妻のながながしかる描写ののちに

老猿は笑へり山毛欅のこぬれにてその日常の音楽のごときを

桃色の「すきやんだらす・すぷりんぐ」歌ひをはりて妻の唇

ゆるゆると溶けはじめたり昼の水蜜おとがひを寂しく濡らし

そのために夢の筏を紙の上にゑがきてゐたる我は外に出でて

ジンジャーと呼ぶ牝犬の犬小屋をうす桃色に塗りあらためて

手を洗ふとはかにかくに哀しかる行為と思へり温き湯をもて

「おいしいスープをつくるには、鍋はただほほゑみさへして

ゐればよい」子らは歌ひて野兎の肉とろとろと香りつつ煮ゆ

さらにこのあまりに明るき食卓に燃ゆる木の実の一皿添へて

ダリの寵より色黒きモカ・マタリの挨くさきを啜つてゐたり

このやうな食後のものうき結句反復にれがむごとし谷の腮は

ぎざぎざに開かれてゐてこの夫婦子に購へるものいにしへの

ギロチン式裁断機より溢れつつしたたる苺・苺・苺・苺・苺

グラヴィアの苺の写真裁りをへてゆふあかねはその一枝盗む

盗まれし苺は月に、われわれは春日のなごりに戦後史の書を

六月は読みつつことば歪みたるゆゑシスュフォスの石の廻文

トリノの子らは憎む灰となる月(ルナ)といはむ国原、呪詞

叢雨ゆるす牡蠣、国原の鳥の呪詞呪らば肉帰化する夢さらむ

となむ、ウガリツトの文字穿たれし斧もて歌は砕かるるとも

ディティールの描写についてわれわれは春の欅に敗北せると

書きしるす手紙の藍をオレンジの砂糖煮こぼしつつ夜は読み

返信はおぼろにかすむあさぼらけむかうの岸の水のポストに

あをさぎの嘴すらいまだ眠りたるころほひすでに投函せしが

やはらかき柳の水泡巻くかなたいづちゆくらむ流れてゆけり

そののちに夫婦ホアキン・アスカソの売りし宝石めぐり諍ひ

葡萄酒の壜くだかれてさざなみにうかびてゐたる有翼の森は

谷の路透けつつ見ゆるわれわれははたして歌にマニュアルな

あかねさす手法を撰ぶべきやはた木を伐るために峠に向へば

いはかがみ嘆ききはまりて残雪のごとし言葉をいかほど白く

研ぎすましたりといへども水の上の鏡たらざりつひに言葉は

昨日切りし樹のきりくちに水溢れ堅香子の花濡らすにしかず

リアリズム論晩餐は桃色のベン・ションツァイトの蟹を喰ひ

円卓に虹映りたり いさかひてくつがへさるる桑の実の酒の

あまたるき雨の匂ひやメタファーに奇形の言葉凭れかかりて

六月はこころの隅にシロップの星ひとしきり降るゆゑもなく

雨の広場をよぎりゆくひとりは黒き馬も視ずてふ寒き幻視や

そまびとの妻の乳房にいだかれて熊の子プーの爪やはらかく

彼はまたそのうちがはの幻想にしたがひて這ひ登らむとすも

我はまたこのそとがはの日常にしたがひて這ふ車輪を替へて

あたらしき刃物買はむと峠道をほそき月の夜くだりてゆけば

走り去る樹間にかくれ星の声もて鳴きいづるこのはみみづく

耳はゆき夜の鳥にてみみづくはこはされてゆくものを暗喩す

むしろかく言ふべからずや少年は海王星まで征きたかりしと

されど酒房『天体』子を抱く夫婦酔眼の政治狂たればや青き

煙草噛みちぎりつつ読むサルトルの『カップル』妻の椒の唇

嶽父T特務機関員たりしこと洩れいづる口腔の魚のしぐれ煮

歌ふ歇む収容所よりそこはかと香はこぞり夜餉あらむや葡萄

星消ゆ、夏の罪見ゆありありと見ゆ----弓鳥蟻鮎耳角綱雪盟

子守歌の樹の胸に昨日の記録黒木・化香樹に合歓木・野茨ら



そまびとの妻に安息日あらざれば天の窓日を追ひゆかしめよ

里は雪、汝れさめざめと斧焚き 讃岐崎々『鷺荘』のみなみ

南の兎座・きさき座・絹座・北の乙女座召されな 消ゆ鳩座

ひたひた雪は指すさびしに響きはあはれ咲き 夢・笹・鳥兜

飛ぶ雁と細雪されば淡き日々西陽射す 比喩は消ゆたびたび

木樵り切る欅・からまつ・榎の枝 妻ら牡蠣焼けるキリコ忌



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