繋がる、萌える、現代連歌                 短歌人2005 2月号


                     

  連歌は日本人に対し、自分自身から脱出する可能性、孤立した個人の無名性から、交換と承認が形づくる円環へと転じる可能性を提供したのではないかと思われる。これは階級制度の重圧から自己を解き放つ一つの方法だった。連歌は礼儀作法に匹敵するような厳格な規則にしばられてはいるものの、その目的は個人の自発性を抑えつけることではなく、反対に、各人の才能が、他人にも自分自身にも害を及ぼすことなく発揮されるような自由な空間を開くことにあった。         
                        オクタビオ・パス『RENGA』序文



 二〇〇四年十二月、大阪・中之島に新しくできた国立国際美術館で、「マルセル・デュシャンと二十世紀美術」という展覧会があり、デュシャンの「レディメイド」は連歌の発想に似通うところがあると常々思っている私は、たとえば、昭和二十八年に書かれた小西甚一さんの『日本文学史』の中の、「連歌は『すでに存在する表現』との調和において成立する芸術だ」というような鋭い指摘を念頭に置いてのことなのだが、そういえばオクタビオ・パスはマルセル・デュシャン論も書いていたのだったと思い出す。

 冒頭の引用箇所はおもに大岡信さんや山口昌男さんの著書によって知られることになったのであるが、アンドレ・ブルトンと出会った後、日本に滞在したパスは『奥の細道』を林家永吉さん(元メキシコ大使)の協力を得てスペイン語に翻訳し、さらにジャック・ルーボー、エドゥアルド・サンギネティ、チャールズ・トムリンスンという母国語の異なる詩人たちと『RENGA』を作った。彼らの連歌は、連歌というよりも、共同制作のソネットであったが、そこに添えられた序文は、シュールレアリストの視点から日本の連歌を語るという面白さのみならず、日本文学の底流に常に潜んでいる連歌的発想の本質をただしく捉えているように思える。

 オクタビオ・パスの当初の関心は、むろん現代の連句にではなく、古典としての、いわば「レディメイド」の連歌であったろうから当然のことなのだが、彼らの詩集が『RENGU』ではなく、『RENGA』であったことを、私はひそかに喜ぶ。以下、ここに書くところは私の「現代連歌宣言」と呼ぶべきものである。
 このごろ、すこしずつではあるが、「連句」という呼び方を廃して「連歌」という呼び方をする人が増えて来た。たとえば芥川賞作家である高城修三さんのウェブサイトは「高城修三の連歌会」であり、また、「桃李歌壇」というウェブサイトを主催する田中裕さんは次のように書いている。

 桃李歌壇では「連句」という言葉を使いません。あくまでも我々が巻くのは新しいスタイルの「連歌」であって、「連句」ではありません。「連句」というのは明治時代に高浜虚子が発明した用語であって、「俳句と連句」というように対で使ったのが始まりでした。桃李歌壇は、子規の俳句論や虚子の連句論は、連歌と俳諧の本義を忘却したものであるという立場から、連歌と俳諧の伝統を復活することを目指しています。それはまた、芭蕉の俳諧の見直しという意味もあります。芭蕉の「俳句」とか「連句」とかいうものは本当は存在せず、芭蕉の「発句」と「俳諧」というのが正しい用法であったのですから。

 「桃李歌壇」は、インターネット上で連歌投句のできるサイトの中でも老舗のような存在であり、あくまでウェブ上のことではあるが私も遠く交誼にあずかっている。「連句」を廃して「連歌」を製作しようとする田中裕さんの発言は、じつにすっきりしていて、俳句・連句についての文学史ふうなあらましも正鵠を射ている。子規の俳句論や虚子の連句論についてはいくぶんかの補注が必要になるのであるが、少なくとも実作者の側から「発句」や「連歌」という呼び方を廃して、「俳句」や「連句」という呼び方を定着させた原点に子規と虚子がいることは否めない。ふと思えば、「俳句」と称して出版されている夥しい雑誌や句集、「連句」と称して出版されている入門書の源流に、たった二人の明治人を限定できるということは、ほんとうはオクタビオ・パスの連歌礼賛を裏切る。子規の時代は、対象を命名分析することで、その中心にある「私」を確認する急務に迫られていた。

 「発句」という言葉を廃して「俳句」という呼び方を発明したのが正岡子規であるというのはすでに定説だが、子規その人が「俳句」宣言をした文章は見当たらない。子規は最後まで、「発句」という語と「俳句」という語の両方を使っていたようだが、「俳諧」という語を廃して「連句」という語を用いるようになったのは、あきらかに高浜虚子の「連句」宣言であった。


 余が今爰に連句といふのは所謂俳諧連歌の事である。昔の歌の上の句に下の句をつけ、下の句に上の句を附ける、即ち連歌の起原ともいふべきものを聯句といふて居る本もあるやうであるが、其も一般に通用する用語では無いやうぢゃ。俳諧といへば俳諧連歌の事である事はいふ迄も無いが、此明治の俳運復興以来文学者仲間には俳諧連歌は殆ど棄てゝ顧みられ無いで、同時に発句が俳句と呼ばるゝやうになつて、俳諧といふ二字が殆ど俳句といふ事と紛らはしくなつてしまつた。其処で所謂俳諧の発句といふべきを略して俳句といふが如く、俳諧の連句といふべきを略して連句といふ方が俳句に対して裁然と区画が立つやうに覚えられる。
                       (「連句論」『ホトトギス』明治三七年九月)


 繰り返すようだが、このように不分明なものを分析し命名することが子規や虚子の時代のおおきな風潮であった。分析し命名することで、物事の中心にある「私」を確認する時代なのであった。いわゆる近代的自我意識ということ。この虚子の文中に「俳諧連歌は殆ど棄てゝ顧みられ無い」と書かれているが、その原因になったといわれているのが、子規の「連俳は文学にあらず」という宣言文であった。

ある人曰く、俳諧の正味は俳諧連歌に在り、発句は則ち其の一小部分のみ。故に芭蕉を論ずるは発句に於てせずして連俳に於てせざるべからず。芭蕉も亦自ら発句を以て誇らず、連俳を以て誇りしに非ずやと。

答へて曰く、発句は文学なり、連俳は文学に非ず、故に論ぜざるのみ。連俳固より文学の分子を有せざるに非ずといへども、文学以外の分子をも併有するなり。而して其の文学の分子のみを論ぜんには発句を以て足れりとなす。

 ある人又曰く、文学以外の分子とは何ぞ。

 答へて曰く、連俳に貴ぶ所は変化なり。変化は則ち文学以外の分子なり。蓋し此変化なる者は終始一貫せる秩序と統一との間に変化する者に非ずして、全く前後相串聯せざる急遽倏忽の変化なればなり。例へば歌仙行は三十六首の俳諧歌を並べたると異ならずして、唯々両首の間に同一の上半若しくは下半句を有するのみ。
                      (『芭蕉雑談』―新聞『日本』明治二十六年十二月二十二日)


「文学以外の分子とは何ぞ」という問いに、「変化」するところが文学以外の分子だという答えは、変化することこそが本意の俳諧にとって致命的な物言いであり、田中裕さんが「子規の俳句論や虚子の連句論は、連歌と俳諧の本義を忘却したものである」と述べるとおりであろう。

ここで時代を一気に巻き戻して、二〇〇四年六月六日に大阪で行われた連句シンポジウムに触れておきたい。これは川柳作者であり連句作者でもある小池正博さんの呼びかけで行われたのだが、大変面白い会であった。詩、短歌、俳句、川柳などを書きながら連句にも関心の強い人たちが集まっているさまは、一方ではクロスオーバーしてゆく現代の短詩系文芸の様相を示し、一方では、短歌、俳句、川柳それぞれがその母体として連歌(俳諧)を抱えもっていることを再認識させるものでもあった。そのなかで、詩人でありすぐれた連句作者でもある鈴木漠さんは、子規の『芭蕉雑談』について、「子規の連俳非文学論が連句衰退の元凶とみなされていますが、それはなにも子規ひとりのせいではなくて、二十世紀という時代が連句を抹殺してゆく方向にあったということです」と述べる。

まさにそのとおりだろう。正岡子規その人が連歌俳諧そのものを嫌っていたのではないことを、鈴木獏さんは、連俳非文学論から五年後に子規と虚子とによって作られた両吟歌仙や、幸田露伴と子規の連句付合いを引用しながら述べてもいる。(「国文学」二〇〇四年三月号)

子規の連句観については、晩年の高浜虚子も「子規は連句を、必ずしも軽蔑していなかったです。ただ連句は一人の作でないから純粋の文学とはいえないと考えていた。また連句の研究は力及ばないともいっていた。俳句に対して連句を疎かにしたとはいえますね。私はやっぱり、連句は面白いと思います。だが、やっぱり十分に手が廻りません。」と述べている(昭和二十九年『玉藻』)ように、軽蔑するどころか力及ばぬと考えていたようである。

しかし、一人の作でなく、変化するものが「文学」でないとするならば連歌は成り立ち得ない。というか、むしろ「文学」という命名と分析の方をここでは問うべきかもしれないが、いずれにせよ、「連句」という呼び方には、ここまで述べてきたような不思議なアンビヴァレンツがあると思う。そこで、田中裕さんや私は、「連句」という呼び方を思い切って廃し、「連歌」と呼びたいわけである。

 「現代連歌」という呼び方をするのは私が初めてではなく、すでに、一九九三年刊の『現代連歌集』(野間亜太子編)という、山中智恵子さんや馬場あき子さん、大和克子さんや小中英之さんという錚々たる歌人たちによって製作された作品集がある。現在の、いわゆる連句集には、読んで面白い作品は多くはないが、さすがに優れた歌人たちの『現代連歌集』はその詩的センスや発想の飛躍に満ちた、とても面白い本である。この本の後記、「『現代連歌』と連歌の話」という文章の中で、古典連歌の研究者である島津忠夫さんは、『現代連歌集』の中に「連歌」というより「連句」という方がふさわしい作品の含まれていることを指摘した上で、「歌人の集まりではどうしても連句ではなく連歌と言いたいという思いがあるのであろう」と、述べている。

 たしかに、俳人たちはけっして「連歌」などとは言わない。歌人たちはしばしば「連句」と「連歌」の境界を曖昧にしておきたいようなところがある。これは、歌人たちが文学史としての「連歌」と「誹諧の連歌」の違いを知らないためではなく、すでに述べてきた虚子の連句宣言にかすかな疑義を感じているからであろう。もっと穿った言い方をすれば、俳句なんてたかだか一世紀、和歌も連歌もさらには誹諧でさえ、その歴史は深い、という一種のプライドが影をおとしているのかもしれない(笑)。←は軽い冗談であるが、まじめに、私は、連句のルールに厳しい人たち、その多くが芭蕉時代の誹諧を規範とする人たちが、なぜ「連句」という呼び方に疑問を感じないのかということの方を、不思議に思う。

 現代の歌人たちがこぞって「連歌」宣言をしてみるならば、子規の連俳非文学論や、とくに虚子の連句という命名をもう一度乗り越えた、あたらしい連歌が生まれるかもしれない、と思う。


最後に、歳若い人たちの「連歌」を引用してみる。かなりの方が八〇年代生まれのようだ。私も飛び入りで参加させていただいた。古典連歌にあった煩雑な約束ごとや、連句にあるルールさえあまり守っていない作品だが、私たちは独りじゃない、だって、気分は「繋がる、萌える」という感じだもんね、というところか。そしてその気分はオクタビオ・パスの言う「自分自身から脱出する可能性、孤立した個人の無名性から、交換と承認が形づくる円環へと転じる可能性」を示しているのかもしれない。たぶん、これが、未来の「連歌」のモデルであろうと思う。

君の髪に触れぬままに冬が来る     しんくわ
 透明なものが壊れやすい意味       静加
手のひらで雪の結晶溶けゆけば       伊織
 凍みるバス停あと二十分       みにごん
りゅりゅりゅりゅりゅ鼓膜ふるえて困る朝 まひる
 いちご大福まで歩こうよ         知昭
誰にでも秘密があるのね唐辛子        燦
1キロ分の罪だったのね         羽美
シの音がおかしくなったエレクトーン     朔
 魔女が通ったくさ道をゆく        壽仁
セロ弾きのセロの呼び合う月の道     みつる
 伝言板の、しらぬ名の森       ヒロヒコ
絵葉書にオランウータン丸い目で      芝草
 何を書くかと思えば(賀正)     しんくわ
揺れ波長プラグにとまるアゲハチョウ    静加
 校長の後頭部には冬空          伊織
貧血を起こすためにある朝礼      みにごん
 よりかかれないものに光あれ      まひる
天国に行けるかどうか気になって      知昭
 スギヒラタケをマルセル・デュシャン    燦

首二〇〇四年十一月二十四日(水)〜未完
    (ウェブサイト「れんれん連歌部」掲示板から引用。)