薫風に吹かれて  (窪田薫さんの思い出)             2000/1/9





以下の文章は歌誌「かばん」に寄稿したものです。


 ここに掲載された文章は窪田薫さんの亡くなるちょうど一ヶ月前
に書かれたもので、纏まった文章としては絶筆になる。この「かば
ん」に参加したことは、窪田薫さん最晩年の大きな喜びであったよ
うだ。二十数年前には赤尾兜子主宰の俳句誌「渦」に所属し、その
後は「短歌人」にも所属していらっしゃったが、窪田さんは、いわ
ゆる俳壇や歌壇で、その全仕事量にみあうような正当な評価や多く
の理解者を得ていたようには思えない。それはポスト・モダンとい
う思潮が、日本ではつかのまの繁栄とたちまちの衰退の中で正しく
理解されなかったことと似ている。
 窪田薫さんと私が知り合ったのは、一九八二年頃だと思う。当時
の朝日新聞に、「日独合作連句を出版」という記事があり、五十七
歳、札幌東海大学助教授の若々しい窪田さんの顔写真とともに、ド
イツ語と日本語の連句の本「風の唄」のことが紹介されている。こ
の試みなども、今ならばより多くのひとに理解されたかもしれない。
窪田さんは、すこし早すぎた。いろんなジャンルをクロスオーヴァ
ーして疾走することは、保守を喜ぶ俳壇や歌壇では、ケレンとされ
ていたから。
 窪田さんのひととなりについては、矢崎藍さんの『連句恋々』に
的確なスケッチがあるので、それに譲ろう。私は実際には一度もお
会いしたことがないが、いつの頃からか、青いポロシャツに白い半
ズボン、素足にサンダル履きというスタイルの窪田さんを思い浮か
べるようになっていた。髪は一九六〇年代風の肩に届いた長髪。遺
稿集となった「薫槐」第三号の扉には白金温泉ホテルの玄関先で九
七年に撮った夫婦の写真があり、ここでも半ズボンとサンダル履き
だ。いかにも囚われることのない自由人という風情。この年、坪内
稔展選「一億人のための辞世の句」に、
  夕凪に焼けや魔性の身をこがし
という句が採られている。「ヤグザなコトバアソビに一生を費やし
ました」というコメントとともに。魔性は藤原定家の「藻塩」のも
じり。辞世の句においてさえパロディ精神を失わなかった。ヤグザ
なコトバアソビと自らを笑うが、現代連句の極北の指導者として残
した業績は、何らかの形で「かばん」の諸君にも伝わり残されるこ
とと信じる。
 窪田さんの学者としての経歴もスキゾ的。最初、窪田さんはナウ
マン象の化石を発見した井尻正二さんと同じ学問をしていた。京都
帝国大学理学部地質学科を卒業した窪田さんは、貝の化石を十種以
上も発見命名したあとで、北海道大学文学部ドイツ語科に再入学し
てドイツ語・フランス語の教授になった。二枚貝の化石からドイツ
語へという、現在の私たちには考えにくいような転進は、いかにも
正真正銘のポストモダニストとして、軽やかに疾走した窪田さんら
しい経歴だと思う。
 



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