『梁塵秘抄』と今様 短歌人2002 1月号
「梁塵秘抄と今様」と書いてみると、それだけで、独特の印象が生まれる。これはなぜだろう。後白河院という、日本の天皇の中でもっともエピソードの多い人物の選集であること、その時代が保元・平治の乱から源平の合戦へ亘る激動の時代であったこと、さらには後に書くように、その存在だけは知られながら、「歌謡」部分は永らく散逸し、明治の後半に突然のごとくその一部が発見されたという経緯、などが、さまざまに組み合わされて、「梁塵秘抄」と「今様」についての、独特の印象をもたらしていると思われる。
「千載和歌集」の編集を藤原俊成に下命した後白河院は、和歌よりもむしろ、「今様」に熱心であったと言われる。「千載和歌集」に残された院の御製は次のような和歌だ。
位の御時、皇太后宮はじめてまゐり給へりける後朝(きぬぎぬ)につかはしける
よろづよ万世を契(ちぎ)りそめつるしるしにはかつがつけふの暮ぞ久しき
【口訳】もう永遠に離れないという感じで、昨夜は、あなたと初めて契りを交わしましたね。そのせいで、早くも今日の夕暮が待ち遠しくてならず、一日が永遠のように長く感じられます。
というような作品が数首残されているが、格別に達者な作品とも思われない。一方、「梁塵秘抄口伝集」には、
そのかみ十余歳の時より今に至るまで、今様を好みて怠る事なし。遅々たる春の日は、枝にひらけ庭にちる花を見、鶯の鳴き郭公(ほととぎす)の語らふ聲にも其の心を得、蕭々たる秋夜、月をもてあそび、虫の声々に哀をそへ、夏は暑く冬は寒きを顧みず、四季につけて折を嫌はず、昼はひねもす歌ひくらし夜はよもすがら歌ひ明さぬ夜はなかりき。夜は明れど戸蔀をあげずして、日出るを忘れ日高くなるをしらず、其声をやまず。おほかた夜昼を分かず、日を過ごし月を送りき。その間、人あまた集めて、舞ひ遊びて歌ふ時もありき。四五人、七八人、男女ありて、今様ばかりなる時もあり、常にありしものを番におりて、我は夜昼あひ具して歌ひし時もあり。又我ひとり雑芸集をひろげて、四季の今様、法文、はやうた早歌に至るまで書きたる次第を歌ひ尽くすをりもありき。声を割る事三箇度なり。二度は法の如く歌ひかはして、声の出づるまで歌ひ出したりき。あまり責めしかば、喉腫れて、湯水通ひしもずち術なかりしかど、かまへてうたひ出しき。あるいは七、八、五十日、もしは百日の歌など始めて後、千日の歌も歌ひ通してき。昼は歌はぬ時もありしかど、よるは歌を歌ひ明さぬ夜はなかりき。
と書かれている。この「梁塵秘抄口伝集」巻第十の冒頭に近い部分は、つとに知られているところだが、今風に言えば、「カラオケ・ポリープ」ができるほどにも、後白河院は「今様」を謡っていたというわけだ。
源平動乱の時代に、権謀に長けた帝王として「院」の地位に在り続けた人物が、これほどに愛した歌謡は、どのようなものであったのだろう、という幻影が、「今様」の印象には、つきまとって来た。
しかも、「口伝集巻第十」だけが『群書類従』に収められて近世以前にも存在を知られながら、「歌謡集」の部分はすべて散逸して誰も見ることがなかった。この渇望と、明治四十四年の「歌謡集」の発見とは、私たちの「梁塵秘抄」・「今様」についてのイメージを決定したのではないかと思う。
今、私の手元に、昭和二十三年三月三十日発行の『原本複製・梁塵秘抄』という、終戦しばらく後の本としては、とても良質の作りの書籍がある。頒価参百円。本文用紙は再生紙のような肌触りだが、表紙は波形絞りのある和風の紙で、象牙色のその表紙を強く触ると、振り掛けられている銀色の細かい装飾の粒が、鱗粉のように指に残る。
著者は佐佐木信綱(以下、敬称略)。佐佐木信綱が梁塵秘抄の書籍を刊行したのは、この『原本複製・梁塵秘抄』で、六回目になるが、なぜ複製本を印行しようとしたか、という所以は、梁塵秘抄を語る際に大切な点だろう。つまり、校訂するための異本が存在しないため、書写の(字体の)読み方が、この時点でも確定できなかったからだ。
現在、私たちが読むことのできる『梁塵秘抄』は、歌謡集巻第一(抄出)、歌謡集巻第二、口伝集巻第一(断簡)、口伝集巻第十、だけである。『梁塵秘抄』は、本来は二十巻であったらしいが、そのなかの、ごく一部だけが私たちに残されていることになる。
一九九九年五月、六月に『梁塵秘抄』の断簡が発見された。数行の発見だったが、宝相華に蝶鳥が描かれた豪華な装飾料紙に、罫を引いて書き付けられた美麗な本であることから、後白河院自身の手によるものであるらしいとされた。これが後白河院によって選ばれた『梁塵秘抄』の清書本の一部であるならば
古典の原本それ自体が発見される、驚くべき例と言えるだろう。
この「原本発見」の新聞記事と、佐佐木信綱による「歌謡集」巻第二の発見とは、相俟って『梁塵秘抄』、ひいては「今様」に対する私たちの特異な先入観を補完するようだ。
佐佐木信綱による「歌謡集」巻第二の発見について、もう少し詳しく書いておこう。
明治四十四年、佐佐木信綱の友人、和田英松が、「歌謡集」巻第二らしいものを発見した。上述の『原本複製・梁塵秘抄』の複製部分には、「越後國頸城郡高田室直助平千寿所蔵」という印がある。和田英松からこれを紹介された佐佐木信綱は、巻第二を活字印刷にしようと目論んだ。その校正中に、梁塵秘抄巻一(抄出)、口伝集巻十(断簡)の存在を知った(発見ではない)ので、これらを合わせて、大正元年八月に「梁塵秘抄」(明治書院)を印行した。
この「梁塵秘抄」の「歌謡」部分の発見とその刊行は、「天下の孤本」というキャッチフレーズでブームになった。とにかく、さまざまな古典文献、たとえば『八雲御抄』『徒然草』などに紹介されながら、「口伝集」の断片的な自己紹介以外には、まったく実体の知られなかった、後白河院の「今様」が発見されたのだから。
さて、このようにして「発見」された歌謡集を、あらためて読んでみよう。
遊びをせんとやう生まれけむ
戯(たはぶ)れせんとやむ生まれけむ
遊ぶ子どもの声聞けば
わが身さへこそゆ揺るがるれ
たぶん、「梁塵秘抄の今様」といえば、この作品を思い起こす人は多いはずだ。
【口訳1】私たちは遊びをしようとしてこの世に生まれてきたのだろうか?それとも戯れをしようとしてこの世に生まれてきたのだろうか?無心に遊んでいる子供たちの声を聞いていると、自分の体も自然と動き出すように思われる。
【口訳2】私は、このように「遊女」として遊び戯れるために生まれてきたのだろうか?今、部屋外の路地あたりから聞こえてくる無心な子供たちの声を聞いていると、私の境遇や過ぎ来し方が、悔恨を伴って身を震わせることだ。
また、あるいは
仏は常にいませども
現(うつつ)ならぬぞあはれなる
人の音せぬ暁(あかつき)に
ほのかに夢に見えたまふ
という歌謡も梁塵秘抄の中では、よく知られた作品だろう。
【口訳1】仏、つまり阿弥陀如来は、不滅なものとしていつも存在するのだが、目に見えないことが、尊いのだ。人の物音のしないような静かな暁には、かすかに夢の中に姿をみせてくださいます。
【口訳2】阿弥陀如来さまは、いつも私たちの身近にいらっしゃってくださるのですが、私には迷いが多いので、お姿を見ることができません。たまたま一人で眠った夜の暁などには、夢のなかで、かすかにお会いすることができますが。
このような解釈の多義性は、「梁塵秘抄」の大きな特徴であるとも言えるし、すでに書いたように「読み方」=解読の不確定性さえ現在も残っている。
このごろみやこ京にはや流行るもの
肩当、腰当、烏帽子止め
襟の堅(た)つ型、錆烏帽子
布打ちの下の袴、四幅(よの)の指貫(さしぬき)
【口訳】このごろ街で流行しているファッションは、上衣には肩当てと腰当て。ピンで止めた烏帽子。襟は糊を付けて堅くする。下着は厚めに布を重ねた袴や、短めのさしぬき指貫。
これは『今鏡』にも登場する、いわゆる「強装束」の流行で、解りやすい。しかし、これと並んで収められた作品には、謎が残っている。
このごろ京に流行するもの
柳黛髪々似非(ゑせ)鬘
しほゆき近江女(め)、女(おんな)冠者
なぎなた長刀持たぬ尼ぞなき
【口訳1】このごろ街で流行している女性のことについて言うならば、眉は眉墨で書き、髪はしばしばウイッグで飾る。海水浴に行くような格好をした近江の遊女がうろうろするし、男装をした女もいる。尼さんたちは、みんな長刀を振り回している。
【口訳2】髪々→神々、えせ似非鬘→似非神楽、しほゆき→製塩、あるいは、しほゆき→しな(姿態)よき、などと読めて、解釈不能。
このように、いかにも面白い【口訳1】はあるいは私たちの深読みの産物であって、まったく別のことがらを書いているのかもしれない、という懼れが、「梁塵秘抄」を読むときには、いつも付き纏っている。
この、未だに、読み方を校訂できない孤独な資料であるということによる独特のイメージの他に、「梁塵秘抄」には、あとふたつの特殊な事情が隠されている。
おほかた詩を作り、和歌を詠み、手を書くともがらは、書きとめつれば、末の世迄も朽つる事なし。こゑわざの悲しき事は、我身隠れぬる後、とどまることのなきなり。その故に、亡からむ跡に人見よとて、未だ世になき今様の口伝をつくりおく所なり。
これは、「口伝集」巻十の結びの部分に記されているところ。漢詩を作り和歌を詠み、書を書く人々の作品は後世まで残るが、声でする技は、自分自身が死んでしまえば残ることがない。そこでこのような「口伝集」を作り残しておくのだ、という。
じつは、この行為には、とても微妙なパラドックスが含まれている。「今様」は、本来的に「モダン」という意味で、それ以前の歌謡に比べて、たいへん新しい感じがするということであったはずだ。つまり、曲調や内容がどんどん変わっていくからこそ「今様」なのであって、ある時点で書き留められたならば、それは、もはや「今様」ではない、というパラドックスがある。声=肉体を通して伝授され、肉体の死によって失われていく、そのような儚い流行歌を、文字として書き残そうとする心の傾きは、私たちに、ある強い印象を与える。
もうひとつ、「口伝集」の独特の印象は、遊芸人と院との、濃密なまでに近い距離での交流によってもたらされている。
保元二年(一一五七年)の正月、乙前という青墓出身の今様の歌い手を招いて、謡わせた。乙前はこのとき、すでに七十歳の老女だった。
乙前八十四と云ひし春、病をしてありしかど、いまだつよつよしかりしに併せて、べち別の事もなかりしかば、さりとも思ひしほどに、程なく大事になりにたる由告げたりしに、近く家を造りておきたりしかば、ちかぢかに忍びていきて見れば、娘にかき起されて向ひてゐたり。よわげにみえしかば、結縁(けちえん)の為に法華経一巻読みて聞かせて後、「歌やきかむと思ふ」といひしかば、喜びていそぎうなづく。
ざうぼう像法転じては
薬師の誓ひぞたのもしき
一たびみな御名をきく人は
よろずの病なしとぞいふ
二三べん反ばかり歌ひて聞かせしを、経よりもめ愛でいりて、これを承り候ひて、命も生き候ひぬらんと、手をすりて泣く泣く喜びしありさま、あはれに覚えて帰りにき。
院が、病床の乙前を見舞い、歌を聞かせる場面だが、まるで自分の母親に対するような濃密な雰囲気が伝わる。後白河院の「乙前」に対する執着のしかたは、「梁塵秘抄」を読む者に、ある独特の色合いを感じさせる。
これは、後白河院固有の嗜好に負うところが多いのではあるが、時代が流動化する中で、遊芸をして諸国をめぐる自由人に対するあこがれや、限られたグループのなかで停滞していた和歌に対するかすかな絶望は、後白河院以外にもあったであろう。たとえば、西行が出家(一一三五年)したのは、後白河院が乙前に出会う二十三年ほど前のことだし、後に『新古今和歌集』を作る後鳥羽院は、行脚する西行への憧れを隠さない。
以上、「今様」とは何だったのだろう、ということを急いで考えてみた。「今様」=流行歌のなかの細かなジャンル分けに触れる余裕もなく、「歌謡」を「文芸」として読み過ぎている嫌いもあろう。
今様はしずかなブームになりつつある。
「梁塵秘抄」ゆかりの京都法住寺では、十月十四日に「今様歌合わせ」が催され、十月十日には春山晴衣という今様の歌い手が、青墓でコンサートを開く。(十月九日記す)