後ろの正面  岡井隆からインターネットまで 「短歌人」1998/一月号






    
 He said, "We haven't that spirit
 here since nineteen sixtynine"



 もう一度、『ホテル・カリフォルニア』の一説を引用して書き始めよう。驚くべきことに、この原稿を書いている時点で、イーグルスのこの曲は、日本の洋楽ヒットチャートの三位にランクされている。『ホテル・カリフォルニア』をめぐっては、去年の暮れから今年の春にかけて、泉慶章と私との間にちょつとした応酬があり、その発端は、こんな古い曲の中味について、醜い中年が青年を揶揄するという印象を拭い切れなかったし、たしかに私には泉の文脈のなかで、この「曲名」そのものをゆったり考えようとする配慮にかけてもいた。また一方では、それではなぜ、『ホテル・カリフォルニア』という「曲名」が歌の中身とは無関係に、ある共通のイメージを多くの人に与えたのか、という問題について、いずれ機会があれば、泉と一緒に考えてみたいとも思っている。

 ここでは、それらのこととは別の動機で引用してみる。歌詞のこの部分は、ホテルに着いた彼がワインを注文したところ、こんなふうな返事が返ってきた、という部分。「一九六九年以来というもの私どもの店には、スピリットは一切置いておりません」という感じかな。ここでいう「スピリット」には「酒精」という意味のほかに、「精神」という意味が言外に匂わせてある。そこで、ロック通の聴き手は「一九六九年以来というもの、ロック魂なんてどこにもみあたらないぜ」というように解釈した。さらに、この曲が時代の風潮を批判しているメッセージソングだと感じた人たちは「一九六九年以来というもの、反体制的精神なんていっさいがっさい消えちまったぜ」というように聴きとった。

 『ホテル・カリフォルニア』が発売されたのは一九七六年。ちなみに日本ではロッキード事件で田中角栄が逮捕された年だが、この頃までに世の中の雰囲気がすっかり変わってしまったことを私たちの多くが感じていた。そして、その転回点は一九六九年であったようにも感じていたのだった。一九六九年といえば「ウッドストック」の年。東大安田講堂の封鎖を機動隊が排除した年。翌七〇年には「ウッドストック」に参加していたジミ・ヘンドリックスとジャニス・ジョブリンがドラックやへイロンで急死し、三島由紀夫が目本刀で自殺した。辰巳泰子の第二歌集の題名になったピンク・フロイドの『アトム・ハート・マザー』が発売された年でもあり、よど号乗っ取り事件の年でもあった。

 ピンク・フロイドの『アトム・ハート・マザー』は変わりつつある時代の空気を反映するかのように『原子心母』という不思議な日本語タイトルで発売され、さらに言えば、辰巳泰子の歌集の雰囲気は、(ここで詳しく書く余裕がないが)むしろ、その翌年に発売された、キセロル・キングの『つづれおり』の雰囲気に近いように思う。『つづれおり』の翌年、一九七二年には連合亦軍事件があった。

 一九七二年、岡井隆は次のように書いた。        (『もう一つの意思表示』解説)


 岡井隆がこの文章にすぐ続けて断っているように、「愛の時代が終って、性の時代が創まった」というのは比喩だ。さて、いったいどんな時代の幕が降り、どんな新しい時代が始まろうとしていたのだろう。

 岸上大作の死んだ年、一九六〇年、岡井隆は次のように書いていた。


 ここに言う「一行事」とは「新年御歌会始」のことであり、「あれらの歌の形をしたものども」とは、天皇をはじめとする皇室関係者の歌・選者の歌・召歌・入選歌のことである。さらに続けて、岡井隆は次のように書いた。


 一九六〇年にこのように書いた岡井隆が、それから三十年経つと宮中歌会選者になっていた。このことについては、数年前に、「スキャンダラスな歌人」などというとんでもない用語を使って、私は本誌に文章を書き、いろんな人からさんざんな不評を戴きもした。
 今年、岡井隆は紫綬褒華を与えられ、次のような短歌を発表している。
                       (短歌研究七月号)


 岡井隆をめぐるこのような経緯を「変節」だ、などとあげつらう意図は、もはや私にはない。ひとりの歌人の短歌作品や文章の総体の中に、一九六〇年から現在に至るまでの時代思潮の変化が、すっぽりと包まれるように描きとられていることを、驚さながら眺めているだけだ。

 去年、短歌人夏の集会の際、岡井隆に会った時、私には、二つのことがらについて彼に直接尋ねてみたいことがあった。
 「スキャンダラスな----というのは、たとえばミッシュル・フーコーがそうであったというような意味だったのですが----」という具合に、私は挨拶とも言えない不躾な挨拶をした。彼は憮然とした感じの曖昧な微笑を浮かべていた。続いて私は、「ところで、岡井さんは、ご自身が転向したのだ、というふうに意識していますか」と尋ねた。彼の表情は、
「またその話題かい」というごとく、ちょつとした不快を感じているように、曇った。私は慌てて、「いや、歌会始とか、そんな具体的なことじゃなくて、たとえば、吉本隆明はあきらかに転向したのであり、しかも吉本の転向は多くの人の免罪符になっているというような見方(橋爪大三郎)があるのですが、それと同じ意味で、岡井さんが転向したのだと考えてみると、岡井さんの転向は多くの歌人たちにとっての免罪符であるような気がするのですが----」と、言い足した。

それまで黙って聞いていた岡井隆は、「そういう意味では……」と答えたが、「……」の
部分は、私には聞き取れなかった。話題はごく自然に、かつて彼と吉本隆明との問で交わされた「二十日鼠論争」の方へ流れていった。

 ここで言う「転向」とは、一九四〇年代に、知識人たちが強要された「転向」ではない。一九六〇年から一九八〇年に至る問に、現実世界を認識する仕方が激しく変わってしまった、ということを、一人一人にとってはまさに「転向」だ、という意味で使ってみるのだ。

 「現実世界を認識する仕方」とは、言い換えれば、「現実社会の反対側にどのような社会を想定するか」ということでもある。もっと露骨に言えば、たとえば革命(!)が起きたとして、その後に実現する新しい社会をどのようにイメージするかということである。

 そのように考えてみたとき、一九六〇年の『土地よ、痛みを負え』のなかの次の一首はあらためて予言的な色彩を帯びて見えてくる。


「erectio penis」はすなわち「愛の時代が終わって性の時代が創まる」という比喩を思い浮かべさせる。比喩はそれを性急に読みほぐしてしまっては味気無いが、愛の時代・性の時代というものは、じつは、「現実社会の反対側に想定する社会」のイメージであったと言ってよいのではないか。

 大澤真幸は、見田宗介の論文(『現代日本の感覚と思想』)に拠りながら、一九六〇年から一九八〇年にいたる「反現実」の様相を「理想→虚構」としてとらえた。        (『虚構の時代の果て』)

 私自身は世代的な感傷もあって、見田の言う「夢」の時代を、一九六九年にこそ当てはめてみたいと思うのだが、その「夢」は、たしかに、「理想」と「虚構」の問で無残に切り裂かれてもいた。

 もう一度岡井隆の作品に戻ってみよう。


 「キシヲタオしその後に来んもの」という「反現実」はこの歌にあって、ポジティブという意味の「理想」を表してはいない。しかし、大澤の言う「理想は、未来において現実に着地することが予期(期待)されているような可能世界である。だから、理想は、現実の因果的な延長上になくてはならない」という意味においては、あきらかに一九六〇年の
「理想」を表していた。

 一九七〇年代後半以降の「虚構」の時代とは、「情報化され記号化された擬似現実(虚構)を構成し、差異化し、豊穣化し、さらに維持することへと、人々の行為が方向づけられているような時代(大澤)」ということになる。さきはどの露骨な言い方を繰り返してみれば、いま現在、たとえば革命(!)が起きたとして、その後に実現する新しい社会を想
定してみると、そのイメージは『オウム真理教』を持ち出すまでもなく、「現実に着地すること」の、絶対的に不可能なイメージになることだろう。つまり、虚構の時代とは、「絶対にありえない世界」という意味における「反現実」が「仮想現実」として氾濫し、(現実を変革した後にくるものとして)現実を照射する「理想」という意味の「反現実」が失われた時代だ。

 このような虚構の時代にあって、短歌もまた、理想の時代の短歌とは、その様相を著しく変化させてきている。たとえば、


という岡井隆の短歌を、もう一度読んでみよう。たしかに紫綬褒章の通知を受け取ったのは、この短歌を書いた岡井本人だ。しかし、五月蠅なす、いかにも五月蝿(うるさ)い民衆を、「なんと醜いものよ」と嘆いている老人は、あまりにも「歌の外側」から描かれ、戯画化されているので、ほとんど虚構の「岡井隆」として感じられてしまう。

 岡井隆に会った時、直接聞いてみたかったもう一つのこととは、短歌を書いている作者が、短歌の中の登場人物(ほとんどの場合は「私」)に対して極端な距離をもつという傾向についてであった。私は、「このごろ岡井さんの作品には、たとえばモス・バーガーを食っている岡井さん自身が、戯画化されるというか、客観的に措かれるというか、そんな
傾向が目立つのですが、それは意識的な手法と考えていいのでしょうか」と尋ねた。彼は苦笑しながら、「あまり意識的になると、短歌は面白くないので----」と答えた。
 
 「あなたの、この方法は意識的か?」という質問は「あなたは転向したと意識しているか」という質問以上に、失礼な愚問だ。(しかし、困ったことに私は大真面目なんだ。)

 一九八〇年にまとめられた『前術短歌の問題』のなかで、岡井隆は、自動車について短歌を書く場合「運転している自分を<視る>複眼のごときものが必要なように思う(『彼岸のリアリズム』)」と書いている。

 また、吉本隆明は(彼自身は肩凝りが激しくてワープロは使わないと断ったうえで)、パソコン的な環境は「(小説の)登場人物も書いている自分も両方に対して客観的で、外側から書かれる」傾向を産んだ、と述べている。(『世紀末ニュースを解読する』)

 歩行者→自動車、万年筆→パソコンという「道具」のもたらす距離が、「私」を外側から眺めさせる。これは紋切り型すぎるかもしれないが、私たちを取り巻いている生活様式のすべてが、現実世界から自分を隔たったものとして感じさせている、とは言えるだろう。

 「虚構の時代」の短歌の、もっとも激しい傾向は、作品の中に登場する「私」が虚構化されるばかりではなく、短歌を書いている人物そのものが、現実社会の自分から、虚構化されてゆくということではないだろうか。

 「ホテル・カリフォルニア」の地方が「インターネット」発祥の地であったことはよく知られている。一九六九年、初めてインターネットの原理でメッセージをユタ大学へ送ったのはUCLAだった。そして一九七三年、初めて「電子掲示板」を作り上げて、市民に開放したフェルゼンシュタインたちは、「コンピューターとネットワークを自在に操れるとい
う自らの能力を、反体制運動、反戦運動の中に生かしていく道を見つけた人々」(古瀬・廣瀬『インターネットが変える世界』)だという。

そうならば「ホテル・カリフォルニア」で、一九六九年以来失われたと嘆かれていた「スピリット」はインターネットの基本的な理念の中に、形を変えて受け継がれたのではなかったか。たしかに「インターネット」の繋がり方は、私たちに懐かしい「自主管理」という言葉を思い出させる。

 インターネットが短歌を変えるか、と言えば、たぶん急激に、大きく変えるだろう、と私は思う。そして、それが、あの「理想」を蘇らせるか、といえば、そのようなことはけっしてないだろうとも思う。

 インターネットの草創期に、それまでヨガの瞑想教師をしていたミッチー・ケイポアが創立したソフトウェア会社の社名が「ロータス(蓮の花)」であり、『オウム真理教』の草創期の理想郷が「ロータス・ヴィレツジ」という名前であったことを思い合わせながら、インターネット時代の短歌は、ふと振り向いてみると、その真後ろに暗黒星雲のような
「虚構」が貼り付いていることに、必死に耐えるようにして書かれるのではないか、と私は想像している。



             
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