超越した歌境  (角川『短歌』2002年6月号)

   ながい話をつづめていへば
   光源氏が生きて死ぬ
           小池純代『梅園』

 私に与えられた課題は「超越した歌境」。つまり、何ものかを超越した境地に至った歌人の作品が、ふと垣間見せる、心温まる人間味を探し出そうというものである。
 なにを超越するか?という自問はいったん控えておいて、たとえば次のような作品をとりあげてみよう。

  白い靴ひとつ仕上げて人なみに方代も春を待っているなり
             山崎方代『方代』
  庖丁の錆を落としてねてしまうただそれだけの方代と風

  わたくしのごとき阿呆を頼みとしすり寄る猫も阿呆であるか
            寒川猫持
  ごきぶりの通過をふたり息殺しただ見てるだけ 猫持と猫

 まず、これらの作品が、すぐに思い浮かぶ。世俗を超越し、世間的な栄達を超越したモデル作者が、外側から描かれることによって、「私」そのものが超越されているように見える。いきおい、書き手の目線も読み手の目線も、ほどほどの低さにとどまり、ちっぽけな人間のちっぽけな日々が、やわらかい諧謔をともなって読み手に伝わる。モデル作者のちっぽけさが読者のなか「弱気の虫」をくすぐってホロリとさせる、と言っていい。
 これらの作品の構造をもうすこし詳しく書くならば、ともに(本名・筆名の別はありながら)「方代」「猫持」という呼び名が、そのまま作品のなかに登場するという共通点がある。つまり、作者と読者が一緒になって「方代」「猫持」と呼ばれる男を外側から覗き込むような仕組みになっているのである。
 これは、極端にわかりやすい例を挙げているのであるが、じつは「超越した境地」というのは、モデル作者=代弁者が、経験的作者の向こう側にクローズアップされるということかもしれない。
 今、ここに「代弁者」という呼び方をしてみた。短歌は、もとより、発言をする機会・場の与えられた代表者が、時代の「アーカイブ」を、しかもその典型的な一部分を代弁する、という傾向がある。
この、代弁者、厳密に言えば「時代の代弁者」というスタイルは、ごく最新刊の藤原龍一郎歌集『花束で殴る』を読むならば、また別のかたちで立ち現れて来る。ただ、『花束で殴る』には、ちょっと見には、短歌が徹底的に「超越しない」側面こそが目につく。『花束で殴る』のなかに「歯車と桜桃」と題された次のような作品がある。

  使い捨てカメラに写す現実に酸性雨降りちょっとピンボケ
         藤原龍一郎『花束で殴る』
  昭和二年七月二四日芥川龍之介死す バリケードに驟雨・・・・
  昭和二十三年六月十三日太宰治死す 嗚呼!夕照のPARCO

ここで芥川龍之介と脈絡なく並べられているのは「バリケード」という語彙によって想起される福島泰樹であり、太宰治と置き並べられているのは「PARCO」という語彙によって抽出される仙波龍英である。引用によって成り立つ世界は引用もとを超えることはできない、ということの他に、引用によって成り立つ短歌は引用者すなわち作者の「私性」をクローズアップするという意味においても、藤原龍一郎は意識的に「超越」することを拒んでいるようにみえる。しかし、ベタ私=モデル作者としての藤原龍一郎の目線は、私たちのこころに通い合う程度には、じゅうぶん低い。

  『磯野家の謎』にかかわる一刻もせつなき世紀末のエスプリ
          藤原龍一郎『花束で殴る』

  汚れたるヴィヨンの詩集をふところに夜の浮浪の群に入りゆく
                山崎方代『方代』

 この二首を比べてみるならば、藤原龍一郎の目線は山崎方代の目線と同じくらいに、いや、それ以上に低い。
 そうしてみると、私たちの「弱気の虫」を刺激して、ああ、この短歌に、ちっぽけな私を投影するようにして読んでもいいのだ、と思わせるヒミツは、経験的作者とモデル作者との距離のいかんに関わるものではないのかもしれない。むしろ、すでに引用した、藤原龍一郎の作品「使い捨てカメラに写す現実に酸性雨降りちょっとピンボケ」というところにあるのかもしれない。
 繰り返し書けば、短歌は、発言をする機会・場の与えられた代表者の代弁である。この代弁者は、まさに「使い捨てカメラ」で写しまくるようにして短歌を詠む。この「使い捨て」というのは、私が短歌を貶めて使っているのではない。短詩型であることは、当然に大袈裟な機材やスタジオを用意するような撮影ではない、という意味の他に、経験的読者との目線の近さを忖度して言っているつもりだ。

  ずぶぬれにぬれたる犬が袋小路をあてなく通り又通りゆく
               山崎方代『方代』
  まっくらな電柱のかげにどくだみの花が真白くふくらんでいる

これらの山崎方代の作品は、あからさまに「使い捨てカメラ」の様相を呈し、なおかつ私たちの琴線をくすぐる。つまり、モデル作者が、読み手の代弁者としての機能を発揮するとき、短歌=「使い捨てカメラ」で写し撮られた風景は私たちの「心」にひびく。
ならば、この代弁者=歌人は、どのあたりのスタンスに立つことで読者=私たちの目線に揃うことができるのだろうか。

  ウタビトと名のる逆説それゆえに世紀の終り詠わねばこそ
          藤原龍一郎『花束で殴る』
  東京というドラッグに溺れたる或る精神を歌人と呼べば

  歌作るを意気地なきことと吾も思ふ論じ高ぶる阿房どもの前に
               土屋文明『山下水』

 これらの類似は、モデル作者=歌人の目線の位置として、参考までに注目したい。
 さて、いささか唐突であるが、ここまでに述べてきた「超越」の仕方とはまた別の「超越」の仕方で、読み手=私たちにユーモアの感覚を生じさせる作品を挙げてみようと思う。

  雌鴨を料理しようと小躍りのナイフとフォークダンスする鴨
           窪田 薫『テクストの疾走』
  鯉がゐて鯉あり鮎ゐて愛があり倉敷にしてかくて暮らしき

  てにをはをいらふかな愛しささらさらにどんなたまごも切りよで詩歌句
           小池純代『梅園』

 これらの作品は、言うまでもなく、日本語に特徴的な同音異義語、もしくは「同音のズレ」による連想を楽しんでいる作品である。このようにして徹底してコトバそのものを嗜むならば、短歌の中の「私」が軽やかに超越されることになる。なお、窪田薫その人は、そもそもは連句の作者であり、矢崎藍『連句恋々』に「北の怪人」として登場する故人。連句の達人が、超越した「短歌」を書き残した例として書きとどめておく。
また、

  棺桶の蓋を閉めずともわかるぬばたまの薔薇色でしたわ彼の人生
             中村幸一『出日本記』

 というような作品を提示しても面白かろう。この短歌は「わ」という一文字のはたらきによって、作中の話者が、男→女(おそらくは生前の妻・恋人)に変換し、作品の主人公=モデル作者の全生涯(厳密に言えば、その夢のかたまりとしての全生涯)が、あたかも就死儀式のように、あたかも天井に据えられた「使い捨てカメラ」に写されるような仕組みによって、いつもの「私」を超越している。