自然詠という名の逃亡
「地下鉄サリン事件」から「グリーンツー リズム」まで
そのように考えた村上春樹は、「地下鉄サリン事件」を、オウムの側からではなく、たまたま地下鉄に乗りあわせていた「被害者」の側から捉え直そうとした。村上は被害者を探し出し、一年がかりで六十二人のインタビューに成功し、それらを七百二十七ページの大部の本にまとめた。
私は、その本『アンダーグラウンド』を机上に置きながら、短歌の「自然詠」のことを考えようとしている。
今や、マス・メディアはほとんど「地下鉄サリン事件」を忘れたようだ。ときおり新聞には、裁判の模様が、「松本智津夫は大声を上げたり、英語で独り言を言ったりしながら証言を拒否している」という物悲しく滑稽なエピソードが語られはするが。
オウム側にあって、比較的に「人物」のキャラクターが描かれたのは、逃亡中の林泰男だけだった。同棲する信者の女性に養われながら、正月用の小さな松飾りを作る内職をしていたり、自分の撒いたサリンによって死んだ人たちのために手作り仏壇を持ち歩いていたりしたというエピソードは、林泰男だけが顔を持った登場人物として、ほんの一時期、私たちに濃密な印象を与えた。それ以外の登場人物は、ほんとうにあの事件はあったのか?たちの悪い冗談ではなかったか?と思われるほどのっぺらぼうの存在になってしまった。
オウムの信者たちが「悪」の側ののっぺらぼうであるとすると、じつはその対極に、もうひとつの、「顔」をもたない登場人物たちが、この事件には存在しつづけ、「顔」を持たない登場人物として忘れ去られようとしていたのだった。つまり、この事件の被害者たち。村上春樹は、面接に成功した「被害者」に、彼らの出身地や生い立ちから尋ねることでインタビューをはじめる。この方法は、事件の状況を述べる際にめざましい迫真性を与えるばかりか、語り手たちを、彼ら自身の物語と風景を持つ人物として描くことになった。『アンダーグラウンド』は、「被害者」という名前で括られてしまった人々に、それぞれ、かけがえのない人格と個性と履歴を与える作業であった、といってもいい。
これは、「土師淳君殺害事件」と呼ばれる、今年前半のもっとも衝撃的な事件の容疑者の少年が、徹夜で書いた千三百字に及ぶ「犯行声明」の書き出し部分だ。
どのような事件であったか、「神戸新聞」の号外も引用しておこう。
この事件は、私たちに、目を背けさせるような事件であった。むろん、小学生の切断遺体という残酷なイメージによることもあるが、容疑者が中学生であったということが判明した段階から、正義と悪、正気と狂気という対立関係が、私たちの内部でなりたたなくなるような事件であったからだ。ちょうど村上春樹が、オウム真理教が奇妙な選挙運動をしている時期に、それから目を背けたのは「オウムの存在を、論理的思考システムの中からがんばって意識的に排除しなくてはならなかったからだ」と述べるような意味において、私たちはこの事件から目を背けようとしている。
この原稿を書いている段階で、もっぱらの話題は新潮社の写真週刊誌「フォーカス」が容疑者の中学生の顔写真を掲載したことだ。なにしろ事件発生以来、マス・メディアは、白かったり黒かったりする車やスクーターに乗る、身長百七十センチの二十代後半から四十歳代の、理工系の、幻の男を容疑者として描いていたので、中学生が逮捕されると、それまでの後ろめたさを隠すように、いったんは「中学校」を攻撃してみようとした。しかし学校教育のありかたを攻撃しつづけることは、私たちがたてまえとしては「善」であるとするものを否定することになる。そこで、「フォーカス」は少年の顔写真を掲載することで二重にこの事件の本質から目をそらせようとした。ひとつは、「フォーカス」の編集長が「写真を掲載してなにになるのですか」という質問に「この少年の写真は、それを見る人に、ある印象を与えるからです」と答えているように、まず「この少年」だけが特異な存在であることを主張しようとする意図。もうひとつは結果的に、たとえば少年の人権の上から写真を掲載したことの「是非」のほうへ話題を逸らせようとする意図。
短歌人のこの号の出る頃に、事件に対するマス・メディアの扱いがどうなっているか、私たちの印象がどうなっているか、予想はできないが、原稿を書いている時点では、容疑者の少年が犯行声明を「この前ボクが出ていたとき」と書き出し、「これからも透明な存在であり続けるボク」と書くように、私たちはこの少年を、まさに「透明な存在」として意識の外に追いやり、マス・メディアは被害者の少年の「天使のように無垢な笑顔」だけを強く印象に残そうとしている。
そういう意味で、この事件は「地下鉄サリン事件の裏返しの鏡のようだ。
「ツーリズム」の時代の自然詠にもっとも特徴的な傾向は、分析的に捉えられた自然を追認しようとすることだ。旅(ヴォワイヤージュ)は発見の可能性をもっていたが、ツーリズムは、あらかじめ知ってしまっている事物を再認するための旅行だ。出発する前に目的地の案内書(カタログ)が私たちの目の前にあり、私たちは、そこに記載されているものしか見ようとはしない。
もう一度だけ、神戸の事件に戻ってみよう。 神戸新聞6月2日夕刊
ところが、緑が育ち、視界が悪くなるにつれて、次第に人の足が遠のき、子供達の間では「魔物が住んでいる」という噂が広がった。 つまり、こういうことなのだ。あらかじめカタログに掲載された自然しか私たちは見ようとしない。ニュータウンの中の公園のような小山でさえ、その自然がすこし繁茂し、無秩序にみえる状態になると、そこはたちまち魔物の領域になってしまうということなのだ。
と述べている。
これは鋭い指摘であり、そのとおりだと思われる。「アララギ」の歌人たちは、短歌によって、自然のカタログを作り続けた。「アララギ」の時代が終わったということは、自然を発見し、分析し、分類し、命名する時代が、終わってしまったということだ。
このような経緯を、おそらく作者がつよく認識した上で、量的にも質的にももっとも豊かな自然詠(旅行詠、すなわちツーリズムの短歌)を発表し続けている歌人の一人に、馬場あき子さんがいる。
こうした短歌が魅力的でありえるのは、柊の花や虎耳草や紗羅の枝にかかった蛇の抜け衣という実景のためではなく、あらかじめ作者に用意されている物語、言い換えれば「カタログ」の豊かさによる、というべきだろう。
言うまでもなくこれは挨拶の歌だが、ここでも、吉野の山中で実際に労働する男の姿を想起するというよりも、前登志夫という歌人が主要なモチーフとして描いた「斧」、前さんの物語としての「斧」が、馬場さんのカタログのなかに記載されているということであり、(次に書くように)前登志夫さんの不思議な立場を暗示しているようにも思われる。
前登志夫さんは『吉野日記』のなかで、残し木、小登り、肘折り、おっぱん木、などという、山びと特有の地理案内のしかたについて、次のように書いている。
山びと(村びと)たちのことばと、現代の街の人々の言葉は違う。山びとたちは、混沌とした自然の一地点に、「目印」としての言葉を与えるだけで、自然を分析的に、(吉川さんの言葉を借りれば博物学的に)とらえようとはしない。前さんは、あきらかに「山びと」の側に立って語ろうとする。しかし、比喩的にいえば前さんは「博物学としての文字」を携えて、街の人と山びととの中間に立っているようだ。中間的立場というのは、山びとの側に立とうとしながら、一方では「旅行者」である、という不思議な立場だ。
じつは、新しい歌集『青童子』には旅行詠の割合がもっとも多い。吉野に暮らす前さんが東北地方や韓国へ出かければ、旅行者である、というばかりでなく、重要な点は、前さんは「吉野」に対しても旅行者のまなざしを(若い時代から変わらず)持ち続けているということだ。
そういう意味で、前さんが『吉野日記』の引用部分のすぐあとでレヴィ・ストロースの『悲しき熱帯』に触れているいるのは、じつに興味深い。レヴィ・ストロースこそが、最後に「野蛮人」に出会った人であり、最後の旅(ヴォワイヤージュ)人であった。
レヴィ・ストロースは、サルトルの「地獄とは他人のことだ」という有名な言葉を批判し、「汚れたもの」はすべて外部から、つまり「他者」から来るという恐れを子供のときから教え込んでしまった近代文明の対極にある、「われわれの内にこそ汚れたものを産み出す危険性がある」と考える「野蛮な人々」の立場を擁護しようとした。
おびただしく書かれ続ける短歌の自然詠が「地獄とはわれわれ自身のことだ」という、「野蛮な人々」の側に踏み込んでいくことはこれから先もおそらくないだろうが。