あなたが狼だった頃 寺山修司の短歌
寺山修司について知りたい方は、 がお薦めです。



 寺山修司には誕生日が三つもある。 最初のふたつは、彼が繰り返し書いているので、よく知られているところ。

という、ふたつの誕生日だ。

寺山修司は「汽車のなかで生まれた」という嘘を、「一所不在の思想」、今風に 翻訳すれば「風に吹かれて、生きるのさ」というのかな、そんな気分の象徴として語っていた。それは、私た ち、寺山修司についてマジメに考えることを、なんとなく恥ずかしいことのように感じさせる原因にもなって いた。
 彼の死後、寺山はつ、つまり寺山修司の母親が、『母の螢』という、息子の回想録を書いていて、もちろん 彼に対する哀惜をたたえながらではあるが、結果としては、息子が生きている時に書いた嘘を、ひとつひとつ 潰してゆくような書き方になっている。ふたつの誕生日については、

もうひとつの誕生日は「一九五三年生まれ説」である。手もとの文庫本の、カバー裏の「著者紹介」を見て みると、寺山修司の誕生日は角川文庫と文春文庫が一九三六年(昭和十一年)、河出文庫が一九三五年になっ ている。ところが、ちくま文庫の『戦後詩』では、

となっているのだ。なんと、一歳の時に短歌研究新人賞を受賞したことになる。この誤植はいかにも寺山修司 風で、すばらしい。

 寺山修司の父は警察官で、彼の言うところでは、アルコール中毒の、対面恐怖症の、どうしょうもない男だ った。寺山修司は

と書いている。

本当であろうが、嘘であろうが、これは面白い。貝柱の比喩もい いが、なにより、自分のヘソの緒と二・二六事件を結び付け、しかも、誰でせう?」という自分自身のソンザ イヘの擬問を匂わせているのだ。

 やがて父は出征し、窓べりに父の陰膳がそなえてあり、母はすずらんの行商をしていた。母は、学校の帰り に映画館へ立ち寄ったり、ズボンを破いたりして帰るたびにセッカンした。裁縫用のものさしがいつも母のか たわらにあって、それが「ムチ」だった。母の撲ち方があまりにもはげしかったので、近所の子供たちは塀の すきまからそれを覗きみることをたのしみにするようになった、という。
 『母の螢』によれば(戦後のこと、つまり小学校高学年のこととして)ある夜、寝巻きに着替えさせようと 裸にしたところ、膝が血だらけで二センチくらい切れていた。「これはどうしたの?なぜかくしていたの?」 ときつく問いただしたところ「昼、学校でイジメッコが母ちゃんの悪口を言った。どうしても許せなかったか ら、椅子を持ちあげてかかっていって大喧嘩をした」と言ったことになっている。「私はうれしいのと悲しい のとでジイーンとしてしまいました」と母は書く。




 一九四五年七月二十八日に青森市は空襲に遇い、三万人の死者がでた。

『母の螢』では、母親は修ちゃんの手をひいて歩いていたが、アスファルトが焼けているので、修ちゃんのゴム長靴がくっついて歩けない。そこで、ゴム長靴を捨てて、母親の下駄を履かせ、母親ははだしで歩き続けた、という。
 
『母の螢』は結果として寺山修司の嘘をひとつひとつ暴くような書き方になっている、と私は書いたが、このあたりまで読んでくると、むしろ彼女は意図的にそのような書き方をしようとしていたのではないか、という気がしてくる。つまり、寺山修司が誕生日のことを書けば、ああ、それはこうだったのだよと、誕生日のことを書き、空襲のことを書けば、母親も空襲のことを書く、というぐあいに。まるで二枚の鏡というか、キャッチボールというか、ジャムセッションというか。
 
寺山修司は玉音放送をききながら、汗ばんだ手に、つかまえたばかりの唖蝉をにぎりしめていた。苦しそうにあえぐ蝉の息づかいが、心臓にまでずきずきと、ひびいてきた。あとになってから、「あのとき、蝉をにぎりしめていたのは、右手だったろうか、それとも左手だったろうか?」と、考えたという。
あの妙な高音の、ふしぎなイントネーションの『玉音』にたいする、唖蝉の対比は見事だ。見事すぎる。たぶんこのあたりに寺山修司の「作歌」の秘密がある。
 
父親は戦病死した。寺山修司は「いろいろ調べてもらったら、アル中で、蛇で作った酒にあたって死んだ」(岸田秀との対談など)と語る。
『推か故郷を想はざる』によると、
 
父の遺骨は「一本の指の原型をとどめた灰」であり、それがとどいた夜、母親は洋裁ばさみで手首を切った。さらに血のついた鋏をかざして「修ちゃんは?どこにいる」と彼をさがした。つまり、無理心中をはかろうとしたのだ。母は嘔吐し、

という。一方、『母の螢』によれば、遺骨の中味は「パパが死んだ場所の石ころと枯葉」であった。八戸で合同葬儀が行われた。長い行列をつくって町じゅうをすすんでいたのだが、突然行列が止まってしまい、後ろの人たちがガヤガヤ騒ぎだした。遺骨を抱いた修ちゃんが列を離れて本屋に入っていったのだ。

 



寺山修司が中学生になった年の秋、母親は彼を「歌舞伎座の叔父さん」にあずけ、九州鹿屋のベース・キャンプに出稼ぎにいった。
『母の螢』では、「私の仕事の上司が九州へ転勤になり、私について釆てほしいとい
う話がもちあがった」ためで、「淋しそうな顔を見るのがつらかったので、三沢から一人でこっそり発った」ということだ。
 
一方、寺山修司によれば、母親は「身を売って生活を支え、ベースキャンプに勤め、粉雪のちらちらと降る日に、私の知らぬ男と連絡船に乗って故郷を捨てた」(『花嫁化鳥』)ということになる。

  ふと思いついて畳をめくると、一冊の春本があった。汽車の中で、その春本の意味不明のところに(母の戸籍上の本名である)ハツという名をはめて読んだ。
  

この部分をもっと引用すると、人の親たちのひんしゅくをかうのだが、母親に捨てられた子供の気分を誇張すれば、たぶんこんなふうになるし、絶妙なのは、母の名前が「タマ」などでなく「ハツ」だということだ。

 『書を捨てよ、町へ出よう』によると「欲しいものがあったら、何でも書いてよこしなさい」という母の手紙を、寺山修司は封も切らずに机の抽出しに入れていた。しかし、ある時、ハーモニカが欲しくなり、新しい鞄も必要だったので、葉書を出した。

間も無く、母から鞄とハーモニカが、送られてきた。母の手紙には、
 「さきに鞄を買って、それからハーモニカを買いました。何も入っていない鞄の中にハーモニカを入れて振るとカタカタと音がしました。そのカタカタという音をきいていると、何だか胸の中がジンとなってきました」
と書いてあった。

寺山はつによると、高校入学が近づき、靴を買うために、サイズを知らせるよう手紙を出したところ、修ちゃんは、「紙に足をのせて型をとった絵」を送って来た。「ゆびも五本書いてあった」という。

と母親は書く。



 このように引用してみると、ふたりの回想は、私たちが「事実とはいったい何だろう」ということを考える際の、稀有な、すばらしいテキストだ、と思われてくる。寺山修司がすべて嘘を語り、寺山はつがすべて事実を語っているというわけではない。

むしろ、ふたりの記憶のなかの「曖昧な事実」が、ふたりの、それぞれの「夢」を通して、「真実」になっていった、ということなのだ。「ランドセルの中でカタカタと鳴るハーモニカ」は、母と子のどちらの手紙に書いてあったか、ということよりも、母の夢の中では「息子の言葉」であり、
子の夢の中では「母親の言葉」であった、ということなのだ。
 
私は「事実調べ」という意味での作家論にはほとんど興味がない。このようにながく引用したのは、記憶のなかの曖昧な「事実」が寺山修司の内部で、どのようなかたちで「真実」になっていったか、ということに興味があるからだ。

たとえば、父も母も、繰り返し「嘔吐する人」として描かれていて、その嘔吐物は、汽車の車輪にへばりついたり、割れた電球の浮かぶ暗い川を流れたりして、かならず遠くへ運ばれていく。寺山修司の短歌には、たとえば花粉(無駄になった精液)や瓶詰めの蝶(抑圧された性欲)や、日常的現実への怒り(吐瀉物)が、川をながれ、鉄路を運ばれ、地平を越えて行くというイメージがひんぱんに描かれている。

こうしたイメージ(寺山修司はイメージという語を嫌い、記号的体験と呼んだ)が、完結したものとして、「そこにある」のではなく、「そのようになる」こと、つまり作者の内的場実そのものが変革されることを、寺山修司は願っていたのだ。

 記号的体験について、寺山修司は「夢の中で隣の奥さんの尻を撫でまわし、目が醒めてからわざわざ出かけていって、『昨夜はどうも、夢の中で失礼しました』とあやまるのは二重の非礼というものである」という愉快な例えをもちだしながら、

と述べている。別のところでは、浅草の稲村劇場にサリドマイドの犠牲者が「犬娘」として見世物になっているのを、インチキだとは思わない、と書いている。(『花嫁化鳥』)

と書き、また別のところでは、童話「狼と七匹の子やぎ」の狼は、はじめから「おそろしい狼」であったのではなく、子やぎたちに閉め出された「ごくふつうの狼」が、しだいに「おそろしい狼」に「なっていった」と読むこともできる(『ぼくが狼だった頃』)と、書く。


 
これらの言い方を、寺山修司の「短歌」に重ね合わせて、要約すると、  

ということになろう。
寺山修司の短歌が「・・・でありたい」を書こうとしていたと考えると、

という、高校一年生の時の作品から、「アカハタ」の歌を経て、

という歌にいたる、「事実と虚構」の問題などは、突然、すっきりする。
書かれた言葉は書かれたことによって、作者の内的体験になる、というように考えれば、寺山修司について(しばしば剽窃というニュアンスで)取り沙汰されてきた「引用」の問題も、もっとすっきり理解できるような気がする。



 しかし、寺山修司の、この願い(=方法意識)は、彼が活躍していた時代にも多くの歌人たちには理解されなかったし、もちろん現在もほとんど理解されていないようだ。

 いま、寺山修司は、(歌人たちに)どのように読まれているか。
 
佐佐木幸綱氏は一九九四年の「国文学」二月号に、「寺山修司はR・マグリットやM・C・エッシャーの影響を強く受けている」と書いている。

氏はそこで、マグリットの「ユークリッドの散歩道」の「窓の内側に置かれたイーゼルに道が描かれているのだが、その道はそのまま窓から見える現実の道につづき、現実の地平に消えていく」という絵を例に出している。

この絵は、氏の小論文の終わりの部分で、

などという「地平線」という言葉が用いられた作品を引用し、

と締め括る部分に対応している。
 
しかし、このように、あまりにも都合の良い読み方は、寺山修司の描こうとした世界とは遠い。だいたい、最初にマグリットの「地平線」の絵を例に出し、最後に「地平線」の短歌を引用して円環的に結ばれるような論旨の形そのものを、寺山修司はもっとも毛嫌いしていたのではなかったか。
 
佐佐木氏はマグリツトとエッシヤーを同列に並べて論じているのだが、寺山修司はこの二人の画家を対比的にとらえようとしていた。
つまり、マグリットの世界はあくまでも表面的なイリュージョンとしての「鏡面の世界」であり、エッシャーの世界は歯車や仕掛けのある、機械としての「時計の世界」だと。

という短歌は(「瞼を針で縫う」という表現とともに)ロートレアモンの『マルドロールの歌』からの引用だ。

寺山修司は ダリの画集の解説のなかで、

と書いている。直接的な影響関係において、寺山修司の世界にもっとも近かったのはマグリットではなく、ダリの世界だった。
 
ダリも、(エッシャーとの対比において)「鏡面の世界」の画家であったが、マグリットのように、地平線が曖昧である、という表面的なだまし絵ではなく、地平線をひっペがして、その内実を見ようとする動機として、寺山修司に影響を与えていたのだ。
 
もし、佐佐木幸綱氏が、マグリットの「ユークリッドの散歩道」と、寺山修司の短歌との類似性を本気で認めているのだとすると、佐佐木幸綱氏の、寺山修司の短歌に対する理解を、私は疑う。
 
「マグリット・寺山修司」類似説に比べれば、小池光の「丹波哲郎・寺山修司」類似説のほうが、よほど気がきいている。

というような、一見とんでもない文章の方が、寺山修司の、「・・であろうとする世界」をただしく理解しているように、 私には思われる。

 小池光は、丹波哲郎の「私が死ぬ時になってジタバタしたんでは、(自分の作り出した大霊界の夢の)すべてが壊れてしまう。(従容として死んでゆくことが)私の最後の芝居だ」という言葉を引用し、それは、
 

という寺山修司の最後の詩に、まっすぐに接続している。
と書く。たしかに「ほんとうの詩人というのは夢を見る人」ではなくて、「夢を作る人」であるという意味において、丹波哲郎と 寺山修司は似ている。



 一九九四年の「国文学」二月号には、高野公彦氏も「凶器について」という文章を書いている。

このような短歌を引用しながら、高野公彦氏は、

と述べている。高野氏の文章は、「凶器」に対する嗜好を、寺山修司固有の問題として、精神分析的に捕えようとしているのだが、私はここでも、寺山修司が『マルドロールの歌』について語っている言葉を思い出す。
 
寺山修司は(ル・クレジオがそのように書いた、ということに同調する形で)、

と述べている。                                (豊崎光一との対談)
 
寺山修司は、このような「凶器」を、もっと「無人格なもの」として描こうとしたのではなかったか。ある
一つの時代から、むごく見捨てられた者たちに、共通のものとして。
 
猟銃について言えば、実際に拳銃でつぎつぎと殺人を犯した永山則夫や、銃砲器店にたてこもってライフルを乱射した片桐操の影響があり、母殺しについては、「母を殺そうと思い立ってから牛の夢ばかりみていた」北朝鮮の少年の影響が認められる。影響というより、むしろ、かれらがそのようにならざるをえなかった状況に対する共感というべきか。
 
「凶器」の短歌は、それを、寺山修司個人のこととして精神分析的に解釈するよりも、そこに描かれている「私」は、「永山則夫+片桐操+李康順+寺山修司+その他」であるというように考えるべきではないだろうか。

この短歌をはじめて読んだとき、高校一年生の私は、「マッチ売りの少女に身をやつした、ある社会主義国の小柄なスパイが、ほんとうに残り少なくなってきたマッチを擦りながら、あの好色そうな政府高官に自分の肉体を与えるべきかどうか迷っている」と解釈した。担任の国語教師は「馬鹿、煙草をすっているんだろうが!」と叱った。

そこで私は、(図書館で寺山修司のことを調べたうえで)ここに登場する男は石原裕次郎だと確信
した。今でもその確信は間違っていなかったと思う。ただ後になってもう少し寺山修司のことを知るようになると、

この煙草を喫っている男は、石原裕次郎+寺山修司+(その時作者とともにいたとされる賭博用カード卸業者、四十二歳の中国人李さん+(その頃小松川高校の女学生を姦して絞殺した)韓国人の少年、李珍宇+その他」であるように思われた。
 
寺山修司の描いた「私」は、つねに「+その他」を含んでいた。
 
しかし、いつの間にか、私たちは、この「+その他」から降りてしまっていたようだ。
 寺山修司の、「私の拡散と回収」というこころみは、当時より、いっそう理解されにくくなってきている。
 
寺山修司は短歌から離れたあと、柄谷行人との対談のなかで、柄谷行人が「昔はそうでもなかったのに、短歌はどうしても好きになれないですね。いま、俳句はいいなと思うんですよ」と語りかけるのに対して、「すべて同感だね(笑)」と答えている。

この対談ではさらに、「短歌ってのは回帰的な自己肯定性が鼻についてくる」と述べ、短歌は「内面自体に対する疑いを抱かず、それがあるものだとの楽天的な前提に従って表層部分だけをなぞるようなところがある」と述べている。
 
ある歌人は「寺山修司は結局、短歌という厳粛な様式に敗退したのだ」と言った。
 しかし、はたしてそうだろうか。
 
鶴見済の(それを読んで何人もの少年が死んだという)『完全自殺マニュアル』と、寺山修司の『青少年のための自殺学入門』を机上にならべ置き、眺めながら、私は思う。
 
マニュアルに従って生きる(もしくは、死ぬ)というのではなく、自分で幻を作り出して生きてゆこうとした寺山修司の世界は、これからの少年たちに、いっそう理解されにくいものになるかもしれない。また、競馬に関するエッセイに対して寺山修司が与えた影響ほどには、寺山修司の短歌は、「短歌」に対して影響を及ぼし続けることが出来ないかもしれない。

もちろん、そんなことの責任は寺山修司には無い。
 
 私たちはあいもかわらず、自己慰籍に満ちた「私は・・・である」という短歌を書き続けているのだから。



 テンポイントが骨折した日、私は、たまたま京都競馬場に居た。
 あまりに鮮明な記憶はかえって夢のように思われる。はかなげな風花が舞っていて、テンポイントは、骨折したあとも、『四角』をヨタヨタと走り、やがて力尽きた。

さらばテンポイント!


 お読みいただき、ありがとう。


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