帝国モードからの脱出 塚本邦雄の破調 短歌人2007,4
「破調」というのは、すでにある「定型」の「調べ」を破ること、いわば、表現上のテロリズムなのだが、最近の私たちは「定型」そのものにルーズなので、「破調」というテロに対してもあまり怖がらないようになっている。そこのところをもう一度考えなおしてみようとする試みが、今月の特集であろう。
戦後、短歌の「定型」に対してもっとも果敢に戦いを挑み、しかも勝ち残った表現上のテロリストが塚本邦雄であった。塚本邦雄の「破調」は、おおまかに言って「句またがり」と「初句七音」。塚本邦雄の作品の「句またがり」のことを語るとき、どうしても第一歌集『水葬物語』から書き始めなければならない。これは、ベテランの読者には飽き飽きした話題であろうが、どうぞ、ご容赦を。
『水葬物語』冒頭の十首。
平和について
革命歌作詞家に凭りかかられてすこしづつ液化してゆくピアノ
地主らの凍死するころ壜詰の花キャベツが街にはこび去られき
輸出用蘭花の束を空港へ空港へ乞食夫妻がはこび
賠償のかたにもらひし雌・雄の鬪魚をフライパンにころがす
元平和論者のまるい寢台に敷く――純毛の元軍艦旗
國國の眼にかこまれて繪更紗や模造眞珠をつくる平和を
聖母像ばかりならべてある美術館の出口につづく火藥庫
萬國旗つくりのねむい饒舌がつなぐ戰(いくさ)と平和と危機と
ある夏の小麥の飢饉、そのやるせなさ唄ふアルト歌手のロマンス
墓碑に今、花環はすがれ戰ひをにくみゐしことばすべて微けく
一首目の作品は、短歌定型五七五七七に区切って読むと「革命歌/作詞家に凭り/かかられて/すこしづつ液化/してゆくピアノ」となる。文節の区切りと五七五七七の区切りとが、意図的にずらされている。これが「句またがり」。くどい書き方だが、「凭りかかられて」という一文節が「作詞家に凭り/かかられて」というふたつの句を跨っている。二首目からの作品についても同様に五七五七七に区切ってみて、手元の作品に「/」を入れてみてください。これらの塚本邦雄の作品を、ひとつの文章として読めば洒落た短文なのに、短歌定型五七五七七に区切って読むと、とてもギクシャクしたリズムになってしまう。この仕掛けが、テロリスト=塚本の地雷であった。地雷という喩えは大げさかな?でもこれらの短歌を五七五七七に区切って読むと、その区切れのたびに小さな地雷を踏むような感じがしませんか?
『水葬物語』は、高柳重信の句集『蕗子』とまったく同じ装幀=和装本で、限定百二十部のみ印刷された。高柳重信の娘である高柳蕗子さんが書いているところ(『詩歌句』2005・秋)によれば、句集『蕗子』は、高柳さんの家の玄関先に置かれた原始的な手刷り機で印刷され、『水葬物語』は、その直後に買った活版機で印刷されたようだ。印刷者は重信の弟、つまり、蕗子さんの叔父さん。双子の句集・歌集というより、異母兄弟の句集・歌集であった。『水葬物語』の作品の一部は、昭和二十七年の文芸誌『文學界』に、三島由紀夫の推薦によって掲載されたことはあっても、即座に、現代短歌へ強い影響を及ぼしたとは思えない。しかし、『水葬物語』の跋には、彼の試みの意図が、あらかじめ次のように書かれていた。
僕たちはかつて、素晴らしく明晰な窓と、爽快な線を有つ、ある殿堂の縮尺圖を設計した。それは??書き改められ、附加され、やうやく圖の上に、不可視の映像が著著と組みたてられつつあった。その室・室の鏡には、過剰抒情の曇りも汚點もなく、それぞれの階段は正しく三十一で、然も各階は、韻律の陶醉から正しくめざめ、壁間の飾燈は、批評としての風刺、感情なき叡智にきらめき、流れてくる音樂は叙事性の蘇りとロマンへの誘ひとを、美しく語りかける筈であった。
やや解りにくい翳りのある文章だが、繰り返し読むと、塚本邦雄の「句またがり」の秘密はほとんど解き明かされていた。ここで注目しておくべきことは、塚本邦雄が短歌一首を「殿堂の縮圖」、現在の言葉で言うならば、建築構造計算を画像に置き換えるCADのように捉えていたこと。そして、階段は「正しく三十一」でなければならないと考えていたこと。この二点である。
次に、第二歌集『装飾樂句』から冒頭の作品五首を引用する。
悪について
五月祭の汗の青年 病むわれは火のごとき孤獨もちてへだたる
愕然と干潟照りをり目つむりてまづしき惡をたくらみゐしが
愚かしき夏 われよりも馬車馬が先に麥藁帽子かむりて
長子偏愛されをり暑き庭園の地ふかく根の溶けゆくダリア
われに應ふるわれの内部の声昧し乾貝が水吸ひてにほへる
この四首目を五七五七七に区切って読もうとすると、なぜそうなるかという説明はここでは省いて、「長子偏愛/されをり暑き/庭園の/地ふかく根の/溶けゆくダリア」となってしまう。五首目も同様。これが「初句七音」の例。じつは『水葬物語』にも〈ここを過ぎれば/人間の街、/野あざみの/うるはしき棘/ひとみにしるす〉という作品などがあるが、「初句七音」は『装飾樂句』以後に頻繁になる。この時期の塚本邦雄の「初句七音」は、中村草田男の俳句からの影響という説(『現代詩手帖』特集「塚本邦雄の宇宙」・2005・岡井隆)がある。『装飾樂句』刊行の前年、昭和三十年の暮れに、塚本邦雄と岡井隆は、大阪天王寺美術館で一緒に「メキシコ美術展」を観たり、その頃、西東三鬼や中村草田男の俳句について、岡井隆が塚本邦雄からさまざまなレクチャーを受けた、と述べているので、とても信頼のおける発言であるが、じつは、塚本邦雄が当時読んでいたであろう中村草田男の三冊の句集には、初句七音の俳句は、それほど多くは登場しない。むしろ〈万緑の/中や吾子の歯/生え初むる〉という、句またがりの方が目立つ。しかし、たまたま〈長子偏愛されをり暑き庭園の地ふかく根の溶けゆくダリア〉という短歌を引用しつつ思い出すのだが、中村草田男の第一句集は、いみじくも『長子』であった。以下、三句、草田男の句を引用してみる。ルビの一部は西王の付加。
蟾蜍長子家去る由もなし(『長子』)
蟷螂は馬車に逃げられし馭者のさま(『来し方行方』)
空は太初の青さ妻より林檎受く(『来し方行方』)
「蟷螂は馬車に」の句と「愚かしき夏 われよりも馬車馬が先に」とはかなり似ている。〈空は太初の青さ妻より林檎受く〉は「空は太初の/青さ妻より/林檎受く」と区切ってみれば、「初句七音」+「句またがり」の典型。塚本邦雄作品の「破調」に対して、当時の俳句からの影響関係があったかもしれないことは、塚本邦雄作品を貶めることではない。そもそも若き日の中村草田男にもっとも大きな影響を与えたのは斎藤茂吉の短歌であったのだから。
この『装飾樂句』は、『水葬物語』に比べて発行部数も多く、塚本邦雄のメジャーデビューの歌集だといえる。歌集の奥付の余白には中城ふみ子『乳房喪失』の広告もあったようだ。この時期、詩人、大岡信との間で「前衛短歌論争」が行われる。この論争で語られている、「ガリバーへの献詞」という塚本邦雄のマニフェストは『水葬物語』の序よりも、とても解りやすく書かれていた。
短歌に於ける韻律の魔は単に七・五の音数だけでなく、上句、下句に区切ることによって決定的になる。極端な字余りや意識した初句及び第五句の一音不足も、又七・五に代って八・六調にしてもこの区切りで曖昧なレリーフを生みつつ連綿と前句と伝承して行く限り、オリーブ油の皮にマカロニを流しているような韻律からは脱出できない。歌人一般もそのメロディーに倦きつつある。僕は朗詠の対象になる短歌をつくりたくない。結果的には語割れ、句跨りの濫用になっても些も構うことは無い。
この文章の前には、「俳句は調べに抵抗して歌う徴候が顕著だ」という例として、中村草田男の〈蝶々の横行コールド・ウォアの中〉とともに、
船焼き棄てし
船長は
泳ぐかな
という高柳重信の俳句が引用されていたのでもあった。
紙数が足りないので、書き残したいくつかのことを書き留める。塚本邦雄の「句またがり」は、短歌作品への「効果」のためではなく、朗詠されるような短歌の「調べ」への嫌悪のためであったこと。短歌の調べを破壊するために、俳句の「切れ」を援用したこと。「連綿と前句と伝承して行く限り」という書き方は、連句(誹諧)を意識していたのではないか、ということ。『装飾樂句』以後、塚本邦雄の「句またがり」と「初句七音」はさまざまに変容してゆく。たとえば、
馬を洗はば馬のたましひ冱ゆるまで人戀はば人あやむるこころ
のような、第六歌集『感幻樂』から頻出する、古典歌謡のかぐわしい影響を受けた「初句七音」が、いったん壊して作り直した彼のひそかな殿堂であった。「初句七音」の破調は、塚本邦雄の喜びであり、「句またがり」の破調は、塚本邦雄の苦しみであったと、私は思う。
ある、徹底した怒りをもって短歌定型の土台を壊そうとした青年がいた。私たちの誰もが、たとえば、塚本邦雄の作品を読んだことのないあなたであろうとも、彼が、短歌定型、すなわち「帝国」への嫌悪とともに描いた設計図と、無関係ではいられないのである。