1プラス1=1あまり1? 短歌と「性」について

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ここで与えられたテーマは、「生殖と快楽」というものであるが、今のわたしたちにとって、「生植」と「快楽」は結びつくのだろうか。
「生殖」というきわめて限定的なコトバと「快楽」という無際限に拡がりのあるコトバが強引にくっついてしまうと、なんだか毒々しさが感じられさえするのだが。
 
ここで例えばマルキ・ド・サドを引用し、その時代の社会的規範がどうのこうのと述べたてた方がいいかもしれないが、ぜんぶ省略して乱暴に言ってしまうと、ヒトにとって性的「快楽」は多かれ少なかれヒトとしての規範というか、美徳というか、そうしたものを逸れたところにある。「逸れていく快楽」が、ヒトの種としての美徳である「生殖」となんとか折り合いをつけているのはなにか。それは♂と♀との間にある越すに越せない暗い河ではないか、堅いことばでいえば性的差異ではないかと思われるのだ。エロティシズムに対する趣味がどれほど洗練されようと、男と女の間の微妙かつ強固な差異は美しく悲しい謎として残り続けるにちがいない。
 
小池光の「街角の事物たち」はまことに読む「快楽」を与えてくれるエッセイだが、この稿に関連して思い出すのは、やはり、

と書く「少女のヒゲ」のところだ。
 
この部分を読んだとき、龍胆寺雄によく似た表現があったような気がした。昭和三年から九年ごろまで華やかな脚光をあびながら、突然筆を折って、サボテンの研究に熱中したモダニズムの作家だ。実際にしらべてみると、それは、「男は自分の中に核をもっているが、女は感情を反射する皮膚と、その内部に空洞を抱えたニヒリストである」という彼の考えに抗議できるのは、「彼女たちのうちから女を失った幾人かだけです。なぜなら、彼女たちにだけ奇型な核の存在が許され、中性の骨格と、しばしば薄らな口髭まで許されているのですから」という部分だった。しかし、少女に対する偏愛はこの作家に特徴的で、「放浪時代」におさめられた、十三歳の少女と駆け落ちをして、運河の砂浜に捨てられた機関車のなかで四年の間性的遊戯に耽るという短編などは男の願望のひとつの典型といえる。おかっば頑の少女とともに、生活上の鬱屈もなく、非日常的な場所で日々を送る、というのは。

 しかし、小池の少女を見る視線が男性中心主義的な視線であるのは(エッセイの文脈の上で)当然ながら、龍胆寺の視線も、少女の側にたって少女の変貌を描くことはできなかった。ここでも、説明を省いて乱暴に言ってしまうが、小池が見、龍胆寺が描いたのは、少女の「ヒゲ」やおかっば頭ではなく、少女の「謎」であり、それ以上に、男の中で「失われていく時間」なのだ。

         林あまり「ナナコの匂い」

         荻原裕幸「甘藍派宣言」

荻原裕幸「甘藍派宣言」

         林あまり「ナナコの匂い」 

         今野寿美「世紀末の桃」 

         今野寿美「〃」



 男の性愛はつきつめて言えば、勃起と萎縮の繰り返し、 一回・一回・一回・・・という、時間軸の上にある。それに対して女の性愛は時間の切れ目を超えた空間の中にある。今野が白桃の薄紅をとく手つきのなかに、かつての性愛のしぐさを感じ、一方では、相手の男を自分の空間の中に奪ったと表現するのは女の性愛のひとつの典型だと思われる

 荻原の歌集に描かれる青年は、職業や婚姻に猶予を与え続けている青年で、彼のセックスはなによりも退屈しのぎとしてある。退屈を退屈としてみごとに措いたこの歌集の中で、セックスのはざまの退屈を、彼は「翼龍を探さう」などと言って紛らわそうとするが、彼との空間に馴染み始めた恋人は、アイルトン・セナに見とれたりしている。そんな時、男は「キュビズムの舌鮃かこれは」とひそかに呟く。Flカーがそのように見え、皿の上の舌鮃がそのようであるというラグタイムな感じで、男のほろ苦さが表現されている。

 林あまりの歌集に描かれている少女は、制度としての「生殖」を拒否している。そしてその少女が「商品にお手を触れないでください」というのではなく、クーリング・オフ可能、として表現されている点はじつに好感がもてる。しかし「ナナコの匂い」のようにセックス=愛そのものを描こうとした短歌にあって、行為のあとでわたしたちに残るのは、唇のなかのおちんぽではなく、「カーテンの向こうの雨」の音であったり、「窓の外で小学生の吹くリコーダー」であったりするのだ。つまり、少女は恋人との空間が壊れることを恐れるからこそ、おちんぽをシンボル化するのだ。林あまりの描く少女はいっも不安げで、その不安の起因するところを「MARS*ANGEL」の「お七」は暗示していた。「八百屋お七」の物語においてもっとも重要な点は、火事になればあの寺=非日常の別の空間にゆけ、そこでは抑圧された性が解放されるという願望だった。作者に即してそれを演劇的空間と呼んでもいいが、現代は演劇的な偽空間と真の空間が捻れてしまっているのだ。

          荻原裕幸「甘藍派宣言」 

         辰巳泰子 短歌人八月号 

林あまりとは別の角度から、女が少女として浮遊しようとする不安を辰巳泰子は描きつづけてきた。彼女は女=自分を「桃」のようには描かなかった。乳房はひらべったいクレープであり、陰唇は豆の鞘のようなものであった。そして通念と虚飾を排して女性の身体が措かれたことが、方法としてのリアリズムではなく、感情としてのロマンティシズムであったことに多くの読者は気付いていない。よく引用される「吸い合へる陰」の歌は、自分の唇で自分の唇を包み込むことが困難なように、女性が自分自身を愛することの困難と、その不安を表現していたのだ。

 ここに引用した最近作はちょうどジョナサン・キャロルの「月の骨」に似た仕組みで、女性の期待と不安を描いている。そしてそんな時、荻原が絶妙なしかたで描くように、男には、女はまるで火星の雪のように、遠い謎としか見えないのだ。



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