短歌人月評欄 会員2 十一月号
酔い冷ます茗荷の浅漬けしゃくしゃくと噛む忘れたき事を忘れよ 稲垣 浬
小池光の古い短歌に「忘れむことを強く忘れよ」という句あり。あちらは青春の翳、こちらは酒席の恥か。「噛む」まで一気に読ませる切れ方や、茗荷の物忘れが古来の通説であることは措き、作品の歯ざわり、良し。
窓拭きは硝子の奥にもうひとつ青空つくるために働く 村田 馨
視点は建物の外側にあり。なるほど高層ビルの窓拭きは、室内の人のためよりも、窓を見上げる通行人のために働く感あり。発見。
ものごとは単純なるがよろしいと森の奥から梟の声 宮前亨一郎
「単純なるがよろしい」というのは作者の経験知。それをあたかも梟の発言として描く。良し悪しは別にして、作者に特徴的なスタイル。「猫柳流れる枝から我の声」も同じく。
思わせ振りに君はその眼で頷きぬ強化ガラスのその向こう側 平林文枝
この「君」は読み手にどのように伝わるか。「思わせ振り」は作者側の感じたところ。キイワードは「強化ガラス」。君と作中の私=作者との距離を表わす。「その」の重なりは意図したものとしても、作品としては瑕。
わが翳り僅かばかりに引きずりて君の背が離れてゆきぬ 清水 繭
この「君」は読み手にどのように伝わるか。「引きずりて」は作者側の感じたところ。キイワードは「背」。「そびら」とは日常的には使わない言葉。背中と比べれば意味の負荷が強い。いわば「濃い」のだ。いかがか。
☆以前にも私(西王)は書いたが、現代短歌の中の「君」は、面白くもあり厄介な存在でもある。「君」が魅力的に読めれば良し。
死骸みたいもう君のところまで届かないグラスに残った唇の跡 大熊佐弥
この「君」は読者に伝える「君」ではない。「みたい」で切れ、「届かない」で切れ、都合三回切れる、短歌としての疵は別として、作者の痛みは、確かに伝わる。しかし、この「君」はひどく曖昧な存在に見える。
テレビでは“神々の歌”が始まりぬ 静かにゆっくり君に抱かれき 高橋和子
この「君」は読者に伝える「君」ではない。テレビ番組は現在のこと、君に抱かれたのは少し以前のこと。この時制的空白は構成として良し。ただ、読み手は置き去りにされる。
君の手で暖められて花開く教えられたり愛欲の機微 釜谷泰彦
この「君」は読み手にどのように伝わるか。じつはこの短歌に描かれているのは、君ではなくて僕(作者)自身。教えられている愛欲の機微は、作者の存在の証明。青春的。
夏はもう終ったのだと言いきかせプラネタリウムの前を過ぎゆく 猪 幸絵
ここに「君」はいない。「私」に言いきかせているのだが、むしろ、不在の、あるいは失われた「君」を感じさせるところが面白い。キイワードは「プラネタリウム」。青春的。
指先がうなじにふれる瞬間に香水のごと飢えは満ちくる 如月 佳
ここに「君」という文字はない。しかし読み手は「君」を感じる。文脈的に語法的に、じつにセンスのいい作品。「飢え」であるところがいい。うっかりすると「愉悦」と表現したりする場面。
とある午後手術台に我と君あってほしいがありえないこと 中原万里
手術台というと私の世代はロートレアモンの詩句を思い出す。シュールレアリズムの時代のこと。この君もじつはシュールな存在。恋に恋する雰囲気。「とある午後」という物語ふうな書き出し、面白し。青春的。
いくつもの顔を持ってる君だものもう一つ位見せてほしいな 小野寺英輝
この「君」は読み手にどのように伝わるか。君を描写するのではなく、「君」に対してダイアローグとして語りかけているスタイル。読み手にとって、この君は軽くて、良い。
ババロアにスプーン落す感覚で君のこころをふんはり掬ふ 鈴木野花
比較的によく伝わる「君」だ。ババロアにスプーン〜というのがキイワード。「を」が二つ重なるようになるが、「スプーンを」と書きたい。「こころ」→「言葉」とするならばきわめて秀歌。
来客に二人で作ったババロアのバニラの香りあどけない君 西垣弘美
来客のために二人でババロアを作る関係だから、作者と「君」とはかなり親密。しかし、すこし伝わりにくい「君」。「あどけない」というのは、作者の回想のなかの「君」の印象。「あどけない」に、おそらく疵がある。
無機質の羅列に還るメールさへ君のからだと絡みつきをり 瀬ノ田直美
「メール」は、電子メール。Eメールの、無機質なくせにHな感じは描けている。羅列に還るという表現は、推敲の余地あり。「からだ」?。むしろここは「こころ」が可か。
あの人の言葉のやうに柔らかく白き曲線の器かさなる 上杉諒子
「君」とは書いていない。しかし、他の多くの作者が書く「君」は、この「あの人」だ。「君」を描くときのヒントの短歌。この「あの人=君」は比較的によく伝わる「君」だ。白き曲線の器は、印象としては皿。怒らないでほしいのだが、はたしてここは「言葉」だろうか。「からだ」とまでは言わないが「からだ」+「言葉」ではなかっただろうか。
遠き日は「ヤッチクサッサー」下駄鳴らし君の影踏み輪の中にいし 棚橋よしえ
「ヤッチクサッサー」が、どのような踊りの掛け声かは、西王には不明。作者と君の関係も不明。文脈として推敲の余地あるも、短歌の素材としては面白い。「下駄」が効果的。
カリブにて潮吹くクジラに出会った君ジェットラグより輝く笑顔 田中あゆみ
この「君」はおそらく夫。歌柄明るくて読みやすい。ジェットラグは「時差ぼけ」。「時差ぼけよりも」と書くべき。きびしく言えばクジラは常に潮を吹くもの。余計な描写を排して、「君」を魅力的に伝えること。
稟議書の印鑑三本吾に託し君はゆくのかハワイ航路を 田中なおみ
この「君」はおそらく夫。歌柄批評的にて読みやすい。しかし、何の稟議書かは読者に不明。なぜに印鑑三本を吾=作者に託すのかも読者には不明。「ハワイ航路」というキイワードは、古い時代を感じさせる。いかがか。 定年後
アルバム整理する父にモーレツの影微塵もなくて 金指環蒲
「君」のかわりに「父」を描いた短歌を引用してみると、作品に描かれる「君」の危うさと「父」の危うさが両方見える。この作品は定年後の父の姿を、その子供の視線で捉えたもの。作品としては「微塵も」などという紋切り型を含めて添削の余地あり。「モーレツ」はかなり古い時代の共通用語。まさに紋切り型。父を描くには、これが有効。悲し。
つまらなきギャグしかいつも言えやしない父の凄さはそうゆう真面目さ 南 幸男
この「父」、読み手に伝わる。短歌の文脈としては添削の余地あり。「つまらなき」は、文体を統一すれば「つまらない」。「そうゆう」は「そういう」。しかし父は生き生き。
父はまだ幼くありて大正の井戸に小暗き水汲みにけり 大野 奎
この「父」は読み手によく伝わる。「井戸」「小暗き」ともによし。回想の父の場面としては上々。「水汲みにけり」という、アララギ風な言い回しは、この場合は可か。
故郷を染める花火よ老いた父に生きる勇気を与えてほしい 戸川純子
老いた「父」に対する作者の気持ちは、ほどほどに伝わる。「染める」「勇気」という言葉、推敲の余地あり。作品の作りとして「花火」に語りかけているように読めるのが難。老父と故郷で花火を見ている。父はめっきり老け込んだ、という場面のはず。
亡き父を偲びて庭の山茶花を祥月命日に一枝供う 辻岡正文
秀歌。嘘やはったり、ではない。作品にデリカシーがある。父を描くのではなく、父を偲ぶ私(作者)を描いているのだが、その向こう側に、山茶花を愛した父が見える。「を」の重複は推敲の余地あり。
亡き父の朝の行事を受け継ぎて色づくトマトを籠に採りゆく。 柿沼良訓
この「父」は、読み手によく伝わる。トマトのみずみずしさのように、「亡き父」が感じられる。「を」の重複、「行事」という表現の生硬さなど、かなり推敲の余地あるも。
母と呼び帰りくるものなき盆に昼さがりなほ朝顔の咲く 吉田弘子
この「母」は読み手にどのように伝わるか。技法的に達者な作品なので、比較的鮮明に、亡くなった母への追慕が伝わる。「昼さがりの朝顔」がキイワード。
病める時亡母に助けを求めいつうら盆の夕霊を信じて 佐野良子
かつて自分が病気の時には、すでに亡きなっている母にすがるような気持ちだった、というところ。この部分は良し。今現在の「うら盆」の描写には、やや工夫の余地あり。「霊を信じて」は、すでに上句で描かれている。
白髪を光らせとぼとぼ歩み来る八月の道 亡母の幻 渡辺富美子
この「亡母」は、重い。作者の、母に対する気持ちが重いせいだが、「白髪を光らせ」や「とぼとぼ」は、読み手にとっては、かなりしんどい描写として読める。いかがか。下の句、体言留めを二つ繰り返し、ブランクをつける。この手法も要注意。
好物の葛湯ふくみて寝ねしままことりと母は逝きてしまひぬ 助川とし子
何処にも母は在さずこれの世の冷たき雪はわが肩に降る 〃
参考のために二首引用。比べれば、一首目の作品が、よい。「葛湯」がいい。二首目の作品は作者の身振りが強すぎる。「これの世」というのは、言葉としての指標(ニュアンスといってもいい)が強すぎる。一考。
鏡面にうつるほほえみ在りし日の母もどりきてわれとかさなる 竹市さだこ
この「母」は、良い。母と娘(作者)との一体感が、読み手に好印象をもたらす。「ああ母親の顔に似てきたなあ」ということを、手際よい構造として描く。「ほほえみ」が効いている。秀歌。
還暦の子をチャンづけで呼びし母を十三回忌の香煙に偲ぶ 照井淑夫
上句「チャンづけ」は、リアル。「を」の重複が気になる。はじめの「を」は「も」か。下句、情報を書き込みすぎたきらいあり。
情報を書き込みすぎると、読み手の立ち入る余地が少なくなり、読む楽しみが減る。
迦葉山に天狗のお守り鈴買えり音のひびきは老い母のため 秋本純子
「音のひびき」よろし。歌柄あたたかくて良し。したがって老い母も、読み手に親和感を感じさせる。上句の句割れ工夫の余地あり。
母を乗せ生まるる前の我が漕ぐ白き自転車大きカーブを 清水寿子
シュールレアリスムとして描かれた母。このあり得ない場面は、フロイト風に解釈すれば作者の深層心理。読み手にとってのキイワードは「白き自転車」と「大きカーブ」。たとえば「黒き自転車」と「細き路地」ならばどうか。つまり、読み手の側にある共通感覚におおきく左右される。いかがか。
十分でもどるというが母いつも遅れてきては「おまちどうさま」 森崎雄太
じつにリアルな「母」。「母いつも」のところ文体的には推敲の余地あるかも知れない。しかし、まさに生き生きとした母が伝わる。普通のことを普通のこととして描くと、巧まざるユーモアが生まれる。秀歌。