不条理を不条理として描くこと    高瀬一誌小論

          
1999『歌壇』6月号 平成の名歌集『スミレ幼稚園』



 わたしたちの日常をつくづく見れば、ほとんど滑稽としか言いようのない不条理に満ちている。わたしたちは無理矢理つじつまを合わせ、脈絡をつけ、「ヘン」なところは見ない(見えない)ようにして生きている。もし不条理を不条理として描いた短歌があるとしたら、どうだろう。そのような歌集を紹介したい。
 さて、表題のことを書き始めるまえに、すこし前置きをしなければならない。私は「短歌人」という結社誌に所属していて、この結社は、ほかのどの結社に比べても「師弟」というような関係がきわめて薄いのである。たまたまこの四月に「短歌人」は六十周年記念号を出し、社外のかたの寄稿をいただいたのであったが、多くのひとが、この点を指摘している。
 たとえば、佐佐木幸綱さんは、

 独断制とかカリスマ性のある指導者とか、現実語られる結社のイメージは、じつは「結社」が否定した「門人組織」のイメージなのである。(中略)「短歌人」は、暗黙のうち に、結社の仮面をかぶった門人組織を否定してきたのだ。

と、お書きになった。さらに永田和宏さんは「短歌人」について「中心がない。渦巻き星雲ではなく散開星雲といった感じ」とお書さになり、阿木津英さんは、もっと直裁的に「師のいない幸と不幸」という題で寄稿していらっしゃる。
 ここは短歌の「結社論」を書く場面ではないが、もうひとつだけ島田修三さんの寄稿を引用しておこう。

 「短歌人」には、崇拝すべさ創刊主宰歌人や規範とすべき師論という鬱陶しいものはないらしいが、この雑誌の八十年代以降における何やら異様に華々しい人材産出の陰には高瀬一誌の奇妙な味わいの歌があるような気がする。

「短歌人」六十周年記念号の年譜をみると、高瀬一誌は昭和二十八年に、すでに「短歌人」の編集委員になっていて、上述したような、ある意味で奇妙な、よく言えば「開かれた、明るい」結社のスタイルを築きあげた張本人なのである。島田修三さんのお書きのとおり、あるいはそれ以上に(八十年代以前から)、この「短歌人」という結社のスタイルと、高瀬一誌の「奇妙な味わいの歌」は、短歌人たちに、ことさら「師」という意識を与えないまま浸透し、影響を与えつづけているのかもしれない。
 さて『スミレ幼稚園』は高瀬一誌の三冊目の歌集である。「弟子」たちには歌集を作ることを強く勧め、自分は五十年近くの間に、たった三冊の歌集。まず、これは奇妙なことだ。あとがきを引用してみる。

 平成元年後半から平成八年前半までの作品を第三歌集としてまとめた。
 柚木圭也氏にワープロを打ってもらい、緒形光生氏には校正のご苦労をかけた。
 小宮良太郎先生、そして諸先輩、「短歌人」の編集委員を始めなかまのはげましと支えがあって僕の今日がある。
 あらためてお札申し上げたい。
 わがままをきいて下さった石黒清介氏、協同印刷の皆さん、装帳の加藤智也氏にも感謝したい。
  ありがとうございました。
    平成八年八月

 柚木圭也と緒形光生は「短歌人」の若手、小宮良太郎は「短歌人」の創刊メンバーで、昭和二十二年の編集・発行人。石黒清介さんは、恐らく高瀬一誌の畏友と呼ぶべきひと。これらの人名の按配がなんともいい。

     「ふくろ」
  足音が遠くなりたりこの世のことは右へ置いても暮らせる
  ひらひらと飛んでくる紙一枚も最近は見せ場つくりぬ
  力づくで義歯をはめたりその力一日残ることをよろこぶ
  さんざんあそんだあとでこの水さいごは水に喰われてしまう
  ころんでもただでは起きぬくるう気持ちがぬけてしまいぬ
  鐘をつく人がいるから鐘がきこえるこの単純も単純ならず
  にくみあう等圧線がそのままの構図で明日やってくるらしい
  鉄の匂いをこのむとみたり挨はみずから羊歯に集まる
  むずかしき貌をしてからこの蟻は腕をのぼってしまいぬ
  男の子女の子むきあうあそび何回もなすスミレ幼稚園
  ふくろをひっぱり出してふくろが入っているのをおかしいという
  浅草蔵前橋からの富士山はともかく上手に燃えているかな
  いまどきぜんまい仕掛けが体にのこっているとはこいうことか
  風景と一体になるにははげしく老いねばはげしく老いぬ
  ざくろを椀ぐのにはやはり左手をのばした方がいいと言われる
  歯車でも螺子でもいいがオスメスのちがいはかんたんならず
  十冊で百五十円也赤川次郎の本が雨につよいことがわかりぬ
  処方箋はドイツ語らしいOの字くずれるあたりがデザイン
  牛酪つきしわが指をなめればこれは意外に太くてあまし
  高熱を抱きしめてくれた毛布快楽にああくずれたり


 はじめて高瀬一誌の作品を読む人のために、歌集巻頭の一章をそっくり引用してみた。
 ふつうの短歌を読み慣れている人には、やはり奇妙な印象を与えるだろう。なぜ、この世のことは「右」へ置くのか?なぜ、ざくろを椀ぐのは「左手」がいいのか? なぜ、等圧線は「にくみあう」のか、なぜ、蟻は「むずかしき貌」をしているのか、処方箋のドイツ語は、なぜ「Oの字」がくずれるのか、古本屋の店先から路上へはみ出した赤川次郎の本は「雨につよい」からなのか?なぜ、この男(われ)は、牛酪のついた指を、突然なめてみたりするのだ?しかも「あまい」ということばかりでなく「意外に太い」ということに感心したりするのだ?
 ずいぶん「恣意的」だな、という向きもあるかもしれない。しかし、わたしたちは、わたしたちの日常が、けっして予定通りに執り行われることのないことも、よく知っている。それはほとんど、偶然と、無意味で恣意的な行為の積み重ねだということを。
 まさに不条理。不条理は、滑稽で、やがて悲しい。すこしばかりは高瀬一誌作品の印象批評をせねばならぬかと、芭蕉の「面白うてやがて悲しき鵜舟かな」などという句を思い出したりしていると、

  「やがてかなしき」と下につければ風景みんな歌になるではないか

という作品があり、印象批評を拒否する。
 せっかくの機会だから、作者本人の実像を交えた作家論を書こうとすると、
  仁丹の髭のモデルになりし祖父の名は円覚寺の奥にある
  仁丹塔なくなりしこと嘆くがこのおとこ食うことでひたすら

という作品もある。高瀬一誌のおじいさんはあの「仁丹」の軍服姿のモデルらしい、と、そのくらいで済ませておけとばかりに。

  粉ハミガキから人生を感じると檀一雄はここで書きしことあり
  専門家でないと海猫はわからないからからすのことはくわしいと語る
  青菜すくなき朝がゆを喰うとき電話番号うかぶ
  塩がひとつまみあればうまくなる青菜のふしぎに朝をつぶしぬ
  もうもうのやきめしのむこうに子供八人あらわれてくる
  自転車のおんなまたがるまでのしばらくの時間は口をぬぐうため
  五日間僧衣をみず僧衣は雨のなかからかけてくるもの
  塔はすべて傾くものと十四人に例をあげればうなずく
  顔面にぶつかって来たものは石とも虫ともわからぬが払う
  釣られてからが勝負のごとし草魚の貌のいくつもいくつも
  十人でこわしはじめし大甕の音を聞かんと十人がいる
  みえるところまでゆき なくなることこれ雲のごとしか
  雨傘がどんどん海へつづくのが鬱のごとしいや祭りのごとし
  這いつくばって生きるのもよし虫ならばしばらくあそんでみるか
  わからないかたちにしてから朱欒は砂糖をつけるがうまし
  じたばたする自転車をかつぎあげたりこれを行く末という
  ころがせばころげゆくから桃は切なげになる獰猛になる
  頓死その字のごとし大馬鹿その字のごとし蟷螂その字のごとし

 歌集巻末になる「中国にて」と「玉子」の章から、まさに恣意的に引用してみた。
 高瀬一誌の短歌はアフォリズム(箴言)だろうか。「みえるところまでゆき」や「這いつくばって生きる」などは、たしかにそういう傾向が強い。しかし、高瀬一誌の箴言は閉じられていない。箴言は結論までを述べることによって、発話者のなかで「閉じられる」短文である。高瀬一誌は結論を述べない。おおくの場合、彼は日常のなかの、わたしたちがありふれて経験する「場面」を提示するだけだ。「忘れていた電謡番号を思い出したりするのは、朝粥をくっていたりする、何でもない時なんだよな」とか「自転車に跨るまえに、ちょっと口を拭うとか、そういう女の人っているよな」とか「草魚ってさ、あの面構え、釣られてからでも、けっこうスゴイ貌だよな」とか「朱欒の食い方はさ」とか、高瀬一誌は書くばかり。そのあとに読者=わたしたちに生まれる不思議な共通感覚は、すべて読者に委ねられているのだ。読者は「ある、ある、そういう場面」と言いながら、ふと、自分たちの日常を覆いつくしている「不条理」に気づかされる。
 高瀬一誌のアフォリズムは「開かれたアフォリズム」だと言えようか。
 すでに高瀬一誌の作品を読んだ本誌の読者は、彼の短歌の極端な破詞と「字足らず」に気付いているだろう。この韻律上の「空白」は、読み手がそれぞれの日常の不条理に気づくためのスペースであり、読み手がそれを埋めて読むための「字足らず」なのだ。