「執拗低音」としての短歌

               雑誌「きちょう」


 今回、私に与えられたのは「短歌のアーキ型を見直す」というテーマ。それにはさまざまなアプローチの仕方があることだろう。私の「印象」としての捉え方がはたして的を射ているかどうか。机の上に四五本の、色の違った絹糸を平行に並べてみる。その所々を別の絹糸で縛る。さらに、縛っていない部分は出来るだけ広げてみる。このようにして出来た、少し離れてみると美しい螺旋のように見える物、これが私のイメージする、短歌のアーキタイプだ。

 私たちは現在、短歌が、孤立した、閉じられた詩形だと考えがちだ。短歌は短歌、俳句は俳句、川柳は川柳の、それぞれ孤塁を守っているように見える。しかし、たとえば秒速千マイルの速さで、短歌の過去へ遡ってみるならば、短歌が他の詩形ともつれ合っている螺旋のような姿を見ることになるだろう。
 短歌と俳句と川柳が、私たちにもっとも近い時代にもつれ合ったのは、昭和十二、三年の、治安維持法が猛威を振るった時代から終戦にかけての頃だった。

 そもそも、私が、短歌を中心にした、絹糸のもつれ合ったような結束点のイメージを抱いたきっかけは、折口信夫の、連歌と俳諧についての講義ノートだった。 折口の全集に、「連俳論」として集められているそれらの講義は、現在の私たちからみるといくぶん奇妙に思われるほど、終戦直後に集中している。すなわち、昭和二十年度後期、昭和二十一年度後期、昭和二十三年度開講第一回、並びに後期という具合だ。この時期は、言うまでもなく短歌と俳句に対する否定論が噴出した時期であった。臼井吉見の「短歌への訣別」は昭和二十一年の「展望」五月号、桑原武夫の「短歌の運命」は、昭和二十二年の「八雲」一月号、そして桑原の「第二芸術 現代俳句について」は昭和二十一年の「世界」十一月号だった。さらに言えば折口は、斉藤茂吉ほどではなくとも、戦中に発表していた作品と、天皇の詔勅による終戦との間で、はげしい自己分裂にさいなまれていたはずだ。その折口が、戦後最初の仕事として、連俳を講義したことは、たいへん興味ぶかいことであるし、いかに、この戦争が短歌と俳句と川柳と、さらには連歌や俳諧までをも含めた、伝統的短詩型文芸の「絹糸」を、くびり切るほどにつよく縛ったかということを、暗示してもいる。

 もちろん俳句・川柳と短歌とでは、治安維持法によるくびられ方に微妙な差違があり、したがって、戦後の「否定論」からの影響にも、かなりの差があった。短歌の方は、第二芸術論に深刻な影響を受け、それが、後に前衛短歌運動を生み出していく要因にもなった。俳句は、第二芸術論の影響をほとんど受けなかった。なぜならば治安維持法のもとで、俳句や川柳の作者は投獄され、ひとり短歌だけが時局詠を歌い続けていたものだから。

  新興俳句に対する弾圧は私たちのよく知るところだが、それにさきがけて、新興川柳の作者たちも弾圧を受けていた。たとえば、

 万歳とあげて行った手を大陸へおいて来た。

手と足をもいだ丸太にしてかへし

というような川柳を発表した鶴彬は、昭和十三年に、二十九歳で獄死した。あるいは、この時代が、川柳と俳句がもっとも接近した時代だったかもしれない。


 短詩型文芸の絹糸が、もうすこし昔の時代に結び合わされたのは、明治二十年代から三十年代の時期だった。言うまでもなく、正岡子規を中心にして。

 子規は「芭蕉雑談」(明治28年)の中で、

  発句は文学なり、連俳は文学にあらず

と述べて、いわゆる「連句」を否定した。さらに「発句」と言う呼び名に変えて、「俳句」という用語をもちいることを提案した。したがって、近代俳句というより、「俳句」そのものが、子規の時代から始まった、と言える。もちろん「和歌」が近代短歌として生まれ変わったのがこの時期であったことは言うまでもない。「歌よみに与ふる書」は明治三十一年、子規三十二歳の年に「日本」に連載された。そして、私たちは看過しがちだが、川柳においても、この時代に革新運動がおこっていた。子規の「俳諧大要」や「歌よみに与ふる書」の連載された「日本」では、阪井久良岐や井上剣花坊たち川柳界の論客も、「狂句百年の負債を返せ」という合言葉で、新川柳運動を展開していたのだった。

 川柳についていえば、初代柄井川柳ののち、明治のこの時期に至るまでは、「狂句」の時代が続いた、と言わざるをえない。しかし、子規が切り捨てようとした、「連俳」というもうひとつの短詩型文芸の絹糸に注目するならば、川柳も発句もそのルーツは「連歌」に至る。「連歌」という共同作業のなかから派生した文芸だった。つまり、子規によって「連俳」として切り捨てられようとしたのは、個別のジャンルではなく、「共同作業として制作される文芸」ではなかったか、と私は思う。

 私たちの「短歌」に、ときには寄り添うように、ときには離反するようにして見え隠れしてきた短詩型文芸の絹糸、それが「連歌」だった。連歌は「俳諧の連歌」を生み、「連句」を生み、「発句」を生み、「川柳」を生んだ。もちろん「歌人」が「連歌」を巻いていた幸福な時代もあった。たとえば後鳥羽院の時代は連歌と短歌が結び合わされた黄金時代であったかもしれない。

 み渡せば山もとかすむ水瀬川夕べは秋と何思ひけむ

この短歌は、のちのち連歌師たちが好んで引用することになる。


 さて、「短歌のアーキタイプ」という用件だったので、折口信夫の講義ノートを読みながら、一気に古代まで遡ってみよう。折口信夫は、

   やまとのたかさじぬを ななゆくおとめども たれをしまかむ

と大久米命がうかがいをたて、神武天皇が

   かつがつも いやさきだてる えをしまかむ

と答えた問答歌や、日本武尊の酒折宮での唱和、

   にひはり つくばをすぎて いくよかねつる
   かかなべて 夜には九夜 日には十日を

を引用しながら、次のように述べているのだった。

  神事において、神と問答するときは、問うた詞章と同じ長さの詞章で答えるのである。
 雄略天皇のときに、一言主という神があった。よきことも一言、あしきことも一言とい われているように、人がうかがいをたてると、それと同じような長さで、すなわち、一 つの詞章だけで答えるのである。

折口信夫は、「連歌」のルーツを「神との対話」による共同作業だと考えていた。もちろん「短歌」においても共同作業がひんぱんにあったことを彼は指摘している。


 折口信夫の講義ノートを読みながら、私は思う。終戦直後、私たちの自我が大きく揺らいだ。そうした時代であったからこそ、折口は、ひとりひとりの自我を越えた、共同作業としての「連俳」を想起していたのではなかったか。そして、折口の気持ちは、私たちの短歌に引き継がれたとは言い切れない。やはり現代短歌は一人の作者のなかで孤立し、閉じられた文芸のようだ。、しかし、一方で、現代短歌が俳句や川柳とクロスオーヴァーし、共同作業としての連歌もいよいよ復興するのではないか、という予感もする。


ホームページへ戻る