短歌における色彩のシンボル性
という山上憶良の反歌を思い出す。もう一首
という大伴家持の作品がある。この「黄金の花が咲く」というのは、あきらかに金属としての金が産出されるという意味だろう。この短歌には「天平感宝元年五月十二日に、越中国守の館にして大伴宿禰家持作る」という注が付いている。家持が越中守に任じられたのは七四六年。天平感宝(勝宝)元年、七四九年は東大寺大仏の完成した年であり、陸奥国から黄金が献上された年でもある。
さて、「金」には、これらの他に、もう一つ別の読み方をされる例がある。
という巻一、七の額田王の歌の「秋の野」という部分は原文では「金野」というように書かれている。先人たちが「金」を「秋」と読み下したものは、この他に「金風→秋風」が三例、「金山→秋山」が一例、「金待→秋待つ」が二例ある。金を秋と読む、逆に言えば「秋」を「金」という字で書きとどめた、それは何故か。じつはこのことが、最初に「金色」から書き始めようと思った理由だ。金が秋を表すということを、この文を読む多くの方は既にご存知かもしれない。いわゆる陰陽五行説。五行説の5つの色は、次のように分類されていたのだった。
色 | 物質 | 方位 | 季節 | シンボルの動物 |
青 | 木 | 東 | 春 | 青龍 |
赤 | 火 | 南 | 夏 | 朱雀 |
黄 | 土 | 中央 | 黄龍 | |
白 | 金 | 西 | 秋 | 白虎 |
黒 | 水 | 北 | 冬 | 玄武 |
「 金」は「秋」であり、「西」でもあった。巻十三、三三二七には「西の厩」が「金厩」と表記されている。五行説について、私はこれ以上に書く用意はないが、万葉集における「色の象徴性」という場合には、なによりもこの中国の古い哲理が(時代の知識人たちを)支配していたと考えることはできそうだ。
ちなみに「銀」が登場するのは五巻八〇三の初句「銀母」のみ、「銅」が登場するのは十二巻三一八五「白銅鏡」(まそかがみ)だけのようだ。「まそかがみ」とは、普通には「手に取り持ちて見る」の枕詞とされているが、
の場合、白銅鏡そのものを読み手が印象するほうがインパクトがありそうだ。本題からそれるので、ここまで。
青
「金厨」の登場する三三二七の作品には、また「大分青馬之」という表記がある。普通には「葦毛の馬」と読み下されている。ここでも、仮に、五句目まで(したがって長歌については検索が充分でない。以下の色も同じ)に登場する「青」という字を数えてみると、だいたい四十二個所ほどになろうか。青丹吉(安乎尓与之を除外してみる)、青駒、青旗、青山、青角髪、青柳、青根我峯、青垣山、大分青馬、佐青有公之(さ青なる君が)、青雲、青草、青生、青幡、青淵、青羽乃山、戀渡青頭鶏(恋ひ渡るかも)青盖(青ききぬがさ)などである。戀渡青頭鶏の「青頭鶏」の部分を「かも」と読むのは、頭の青い鶏は「鴨」である、という文字謎めいていて楽しい。巻八、一四五一には、
という笠女郎が家持に贈った美しい作品があり、私も大好きな一首だが、この短歌と合わせて「青頭鶏」のことを考えてみると、この「青」は、緑色のようだ。一方、「大分青馬」は葦毛だった。「青」の文字に三色の色が表現されているようだ。「大分青馬」、つまり葦毛の馬の色の次には、巻十三、三三二九の
という長歌がある。「青雲」とはいったい何だ、という私たちの疑問に答えるべく、この作品はある。「向伏す」というのは、遠く横にたなびくという感じだろう。そうすれば、青雲は、近景の白雲よりさらに遠くの、遠景としての、ぼんやりとした灰色の雲のイメージではないだろうか。青は緑色と灰色のような色を表すものがその大部分を占めているが、佐青有公之(さ青なる君が)や、青淵などははたしてどうだろう。 青淵は
という不思議な作品に登場し、のちに『枕草子』に「名おそろしきもの、青淵」として引用されることになった。この青は、現代の青に近い。佐青有公之(さ青なる君が)のほうは
という、巻十六の「恐ろしき物」三首のひとつ。「さ青」は「青白い」というか、paleというか、そんな感じだ。「a whiter shade of pale」といったところ。
この他に巻十の「黄葉に寄する」歌や巻十九の「無常を悲しぶる歌」などを読み合わせてみると、黄葉は多くの場合、過ぎ去っていく時間、失われゆく恋人、あるいはそれらにともなう無常感、といった場面に象徴的に登場するようだ。「黄」はさらに黄楊(つげ)という言葉として、黄楊の櫛、黄楊の枕など四首に登場する。それぞれにフェティシズムを感じさせるような面白い作品だが、色の黄とは関係がなかろう。もうひとつ「黄土」というのがある。五句目までに六個所出てくる黄土のうち巻十一、一八八一の弥年之黄土は「いやとしのはに(毎年ずっと)」というように読み下されているので除外しておこう。
たとえば巻六、九三二のこの歌は「住吉の、あの岸の黄土に思いっきり染まっていこう」というような意味だろう。
巻十一、二七二五のこの歌は「黄土のように色にだしては言わないだけだ」というような意味だろう。こうしてみると「黄土」は「染まる」とか「色に出す」という心情表現とかなり密接に繋がっていると思われる。
さて「黄土」は、もちろん黄色ではない。短歌に出てくる住吉名産の(色美しく匂う)黄土は、現在の呼び名でいえば「茶色」がかった「赤」ではないかと考えられている。
「黄」という色は、万葉集時代には、色名として十分には定着していなかったようだ。さきに書いた「五行説」は六〇三年の、いわゆる「冠位十二階」のなかに「紫」を加えて引用されているし、皇太子の禁色とされた色は「黄丹」でもあった。黄丹が朱華(はねず)だとすれば、次の作品が、色としての黄色に、より近いかもしれない。
はねず色(原文では翼酢色)はこの歌では、「山吹の花」のような色とされている。
のように、しばしばひづ(濡れる)ことによって男たちの官能をくすぐった「赤裳」は、おそらく「赤」というより、「はねず色」、つまり、くちなし色というか、橙色というか、黄赤色ではなかったか。
赤という字が指し示す色は万葉集の場合、かなり広い範囲の色を表している。巻十の二二〇五の「下葉赤」、二二三二の「木葉文未赤者」はそれぞれ「下葉もみちぬ」「木の葉もいまだもみたねば」と読み下されており、先に書いた「黄葉」と類似のものだが、巻四、五三〇など四個所に出てくる「赤駒」という場合には「栗毛の馬」のことであろうし、赤土少屋(埴生の小屋と読み下す)のように、懐かしい中等唱歌「埴生の宿」(イギリスの名曲Home,Sweet Home を里見義の訳した歌)を思い出させるものもある。
「赤土の小屋に小雨が降って、床まで濡れてしまった。こちらへ寄っておいで、おまえ」といったような感じかな。「赤土」は「宇陀乃真赤土(まはに)」ともあるから、「黄土」の「はに」と同種のものだろう。さらに赤石(明石?)という地名や、「赤のそほ船」(二七〇)「赤ら小船」(三八六八)といった、船の塗料としての「赤」もある。たぶん「べんがら」の原型のようなものだろう。
赤については、もうひとつ「あかねさす」という言葉を取り上げないわけにはいかない。「赤根指」「赤根刺」「赤根佐須」などと表記されている。もちろん「茜」という表記もある。「茜草指」「茜刺」。
という額田王の歌は「茜草指」。
という、二〇九一の恋の歌は「赤根指」だ。
「紫」を中心にして、当時の衣服の染料を整理してみよう。赤色の染料としては「茜草」の根から取り出したものが最初に有り、後に「紅花」系のものが移入された、と考えられている。「紅」は「呉」の藍、いかにも渡来品の名前だが、万葉集では「あかねさす(し)」が十例であるに対して、「くれなゐ」は二十七例ある。すでに染料としては、「紅」が「茜」を凌駕していたようだ。「あかねさす」がほとんど枕詞風に用いられているのに対して、「紅」の方は、現物としての色(染料)であることが多い。
この「くれなゐ」は「呉藍」と書かれた例だが、「紅に何度も繰り返し染めた衣のように逢うたびに」という表現には、たしかに染料としての「紅」がいきいきと感じられる。
一方で、「紅」についてのこういう短歌もある。「紅はやがては色褪せるものさ。橡染めの、着慣れた衣がやっぱりいいんだよ」という家持の歌。「橡(つるはみ)」は、どんぐりの実を煮出して染めた黒っぽい色。庶民の色というべきか。
紫が五行説の五色の正色に加えられたかたちで、古くからある、ということは既に書いた。しかも冠位十二階のころからその首位の坐をキープしてきたし、いわゆる「禁色」であった時期も長い。万葉時代の紫は、あきらかに「紫草」によるものだろう。十七首ある。
巻十二、三一〇一のこの歌は、「紫」の染め方の資料としても重要な作品だ。この時代の紫色は、紫草の根を砕き、湯で揉み出し、それで染めたものを、「椿の灰」で媒染して固定していたようだ。近年発掘された藤ノ木古墳や吉野ケ里古墳に残された繊維片の紫も、分析の結果、紫草の根で染められたものだった、という。
「月草」(ツキクサ)はつゆくさ。「韓藍の花」(原文では鶏冠草花)は「けいとう」だと考えられている。桃花染め(つきそめ、桃花褐)は朱鷺の翼の桃色、とされているが、私には詳らかではない。
これらの歌や、その他にも巻十一、十二の「物に寄せて思ひを陳ぶる」歌の最初に並んでいる「衣服」の歌を読む時に、色+衣服→心情表現という、物神崇拝ふうの傾向を強く認めながら、しかも、ある特定の色がある特定の心情を象徴するのではないということに気づく。むしろ、これらのさまざまな「色」が衣装を染めて行くように、衣装の色は人々の「心」を染めて行く、そうした過程(移ろいというべきか)のなかにこそ万葉人の象徴行為はあったのではなかったか。
罪負って流された王の伝説ふうの作品だが、この「海人(あま)」は原文では「白水郎」と書かれる。私にはこの経緯も詳らかでない。どなたかご教示願えれば、幸い。