雨の連作、虹の群作
という橘曙覧の「独楽吟」のなかの一首を引用したことによる。日本側がそのようなお膳立てをしたなどという週刊誌的な思惑はべつにして、いかにも政治的な挨拶として悪臭紛々たるものだが、ブームは、「清貧の思想」というもうひとつのブームとドッキングすることによっていよいよ成熟した。ちなみに福井市では「独楽吟」を真似た短歌作品を公募している。これには、短歌人の足立くんなども一枚噛んでいるようなので、まあほどほどに成功すればいいとは思うが、「清貧」そのものがたちまちのうちに「中流意識」に擦り換わってしまうような時代の思潮はひどく危険なものだ、と私は思う。 そんなことはさておき、私達がここで問題にしようとすることは、曙覧の短歌が、いったい(歌論用語としての)「連作」にあたるものであるかどうかということだ。たとえば私の高校時代の教師であった上坂紀夫は『清貧の歌人 橘曙覧』という伝記小説のなかで、例の「たのしみは…」という群作について、
と書いている。また、久保田正文は『明治文学全集 正岡子規』の解題に、
と書いている。これらはいずれも橘曙覧の作品群を「連作」であると見なしている。一方斎藤茂吉は『歌道一家言』のなかで、
というように書いている。つまり、左千夫の「連作」論にあっては、橘曙覧の群作は「連作」ではないと、茂吉は言っているのだ。
*左千夫の「連作」論
じつは、この歌論用語の再検討というシリーズのなかで、その用語の出自のもっとも明白なのが「連作」という語であって、ほとんど、その用語の誕生した日付さえあきらかだといってもいい。
「連作」が歌論用語としてはじめて登場したのは、明治三十四年十一月から翌年の三月にかけて『心の花』に発表された伊藤左千夫の「続新歌論」であった。
というように書き出される「連作の趣味」という左千夫の文章は、繰り返し読んでみると、その時代の雰囲気や、自分より年若い庵主子規に対する崇拝のすがたがしみじみと感じられる、熱っぽい文章であるが、それゆえに、たちまち反論を誘うような、論旨のかたよりに満ちた文章でもあった。よく知られている部分だが、続けて引用してみる。
さらに左千夫は、明治三十三年五月廿日、雨の夜、徹夜して歌を語っていた翌朝、正岡子規が作った、いわゆる「雨中の松」十首が、「連作の始」と書いているのだった。つまり「連作」の創始者は正岡子規であり、作品としてのそれのはじまりは明治三十三年五月廿一日であるという、日付入りの「意匠登録」をしてしまったわけだ。 『心の花』に発表された左千夫の文章に対して二人の者から反論があった。ひとつは大伴靭負という匿名の論者(現在では坂井久良岐だとされている)の「和歌連作論」(明三五・二)。伊藤左千夫はこれに対して、
という激烈な口調で「再び歌之連作趣味を論ず」を書く。左千夫は大伴靭負に再反論するかたちで、仏足右の歌、万葉集中の歌、橘曙覧の歌、佐々木信綱の歌、いずれも連作になっていないと書き、(これもよく引用されるので、ここでは省略するが)「連作の条件」を六つ箇条書きにしてみせた。
*方法意識としての「連作」
ここまで見てきたように、伊藤左千夫が声高に「意匠登録」したために、歌論用語としての「連作」は、どうしても彼に帰属せざるをえないのだが、ほんとうは子規と左千夫の間で、実際の方法意識としての「連作」には微妙なズレがあったのではないかと、私は考えている。左千夫がかの論文を書く以前に、子規は「連作」という言葉を使ってはいないので、げんみつなところはわからないが、子規が連作短歌を書くようになった最大の動機は「歌よみに与ふる書」に述べられている、一種の短歌滅亡論であり、実作のてがかりになったのは、やはり、「万葉集巻十六」であり、橘曙覧の歌集であり、(このことはだれも指摘したりしないが)与謝野鉄幹たちの新作でさえあっただろう。 左千夫のはじめの連作論にたいして反論したもうひとりの男は、彼らの身内、根岸短歌会の香取秀真だった。香取は「連作」についての子規の言葉を要約して、左千夫の論との微妙なズレを指摘している。左千夫は、
と、答えている。左千夫の連作論以前における、子規の「連作」に対する方法意識は、たとえば、
というようなものだった。
ここで詳しく述べる余裕はないが、方法意識としての「連作」について、子規にあっては表現の可能性をひろげようとするものであった。しかし、左千夫にあっては、自ら「歌の体」と呼ぶように、それを限定するものとしてとらえられていた、と思われるのだ。
*左千夫以後の「連作」
さきほどの香取秀真の反論について、もうひとつだけ触れておくことがある。じつは香取は左千夫に対して、「連作と云はずに何か新熟語をあてた方が適当かとも存じ」と書いているのだ。それに対して左千夫は「予はそんな名目などは、どうでもよいと思ふ、実が主であるから実さへ分かって居れば名目などは世間で勝手にいふがよいと予は信じている」と答えているのだ。これは「歌論用語としての連作」にとっては重要な部分だ。ひとつには「連作」という語彙が、言葉としては左千夫以前に存在したという証拠であるからだ。歌論用語としての連作の以前に、どんな「連作」があったか、私は慌ただしくて調べる暇もなかった。たぶんほかのジャンルの言葉としての連作が始めにあることを香取が指摘しているのではないかと想像している。これについてはどなたかお教え願いたい。もうひとつ、語彙の斡旋には拘らないと左千夫があらかじめ言っているにも拘らず、「連作」という語が短歌にあっては、しだいに一種のブームになっていったということに関する謎だ。伊藤左千夫は明治四十五年の「アララギ」に、
というように書いているので、左千夫の思うような「連作」がすぐに実技されたようでないことはあきらかだ。しかし、一方、島木赤彦の『歌道小見』には、
と書かれているのだった。つまり、左千夫の「連作論」の二十年後には、すでに、連作の弊害を論じなければならないほど、「手法」としての「連作」は繁盛していたのだ。
じっさいの作品としての「連作」の繁盛に対して、もっとも力を与えたのは斎藤茂吉の作品群だった、と私は考えている。以来、連作といえば「アララギ」の専売特許のように思われているが、左千夫がはやくに指摘しているように、ほかの結社でも、ブームとしての連作は矢継ぎ早に起こっていた。しかもそれらの「連作」が左千夫の規定した「連作」を遠く離れて、言わば、現在の「連作」と見紛うようなあいまいな概念に立ち入った実例として、北原白秋の次のような文章(「鼠の口述」昭和十五年)を引用してもいい。この引用の末尾はぜったいに笑える、ということを通して、(私達の)じっさいの連作短歌のありさまを予言していると思われるので、心して読んでほしい。
*主題制作と連作
伊藤左千夫の「連作」という意匠登録は、彼の、いかにも明治気質の内実とは別のところで、登録されつづけてきた。そして、この「連作」という言葉に纏い付く悲喜劇は、現在の「連作」という言葉にも名残りをのこしているのだった。
現代短歌にあって、もっとも意識的に「連作」のことを考えたのは岡井隆だった。一九六九年に出版された『現代短歌入門』のなかで、岡井隆は、私がここで書いているようなことを全て書き尽くしている。書き尽くしたうえで、次のように結論づけているのだった。現在の岡井隆のありかたから考えて、この部分を読む読者のおおかたは、ここでも大笑いするであろうことを予測して、大文字で引用してみる。
私は、岡井隆の、このとんでもない物言いを、世代の者として笑えない。もちろん「平和と革命」が現在の短歌の大主題だなどということを、現在の歌人のだれも信じたりはしないだろう。しかし、かつて私たちのほとんどが、そのように信じていたことを、私は忘れない。
岡井隆の新しい歌集『神の仕事場』のあとがきに「連作」についての言及がある。その軟らかく穏やかな言い方は、二十年の間に、彼が「平和と革命」という主題を失い、「連作」が、ひたすら言葉のゲームとしてのみ存在していることを示している。
私は十年前に「主題」を失った「連作」の姿について『反連作論』を本誌に書いた。そして、今もなお、連作の主題など、私たちに見当たりはしない。たぶん、だれも「平和と革命…」を笑うことはできないのだ。