「縮尺一分の一の帝国の地図」   岡井隆論
岡井隆が歌会始の選者になったこと
「日本人ってのはマゾヒストなんですよ。生まれつきそうなんです、目が引きつっているのと同じでね。マゾヒズムっていう
のは、使い方次第ではエネルギーになるのですよ」 ----------- エルヴェ・ギベール  『召使と私』
「あなたはなぜ短歌を書くのですか」と尋ねられたならば、「それが天皇家の文芸で、それにあやかろうと思うからです」と私たち
は答えなければならない。そのように答えることに強いためらいを覚えるならば、短歌ではない他の様式を選べばいいのだ。
 岡井隆が「歌会始」の選者になった。このことはすでに新鮮な驚きではなくなっていることだろう。
なぜならば、それはただスキャンダラスな事件のひとつであって、この文章を読者が読むころに「矢ガモ事件」や「貴リエ騒動」
のことを多くの人はほとんど忘れ去っているだろうから。そして日本人の大半はうんざりしながら皇太子の結婚の話題を押し付
けられているだろうから。

  雨脚のしろき炎に包まれて暁のバス発てり 勝ちて還れ
  キシヲタオ・・・・しその後に来んもの思えば夏曙のerectiopenis

 岡井隆はこのような短歌の「解釈」の段階で、六十年代には若者たちから「右翼」と呼ばれ、七十年代にも若者たちから
「やはり右翼」と囁かれた。それらはいずれも妥当な表現ではなかったが、九十年代にあらためて、「天皇制の召使」と呼ば
れたとしても不思議なことはないわけだから。

 手法の斬新さと、それと裏腹な感じの「思想表現」の曖昧さとの不均衡こそが、岡井隆の短歌のもっともおおきな特徴で
あった。そしてある意味で皮肉なことに、作中の人物の「立場」が曖昧であり、作品が多義性に満ちていればいるほど、その
なかで揉まれためらうひとりの人物としての「岡井隆」がなまなましく感じられていたのだった。
 岡井隆は、スキャングラスな歌人であった。作者の署名と作品は密着してきた。ところがここで突然、岡井隆は「作者は
無名でなければならない」という提言を差し出した。岡井隆が「歌会始選者」になったことと、新しい歌集『宮殿』とは密接
に繋がっていて、むしろ、岡井隆はその関係の蜜月をたのしんでいるようにも見える。
 歌集『宮殿』はひとりの老人の述懐としてきわめて読みやすい歌集だ。初期の歌集のように、歌の主体がアンビバレンツに
揉まれていて、読み手の「解釈」をたじろがせるというようなことはない。
  たはやすく多義性の闇薄まるをこのあけぼののあやまちとする
  だれも居ぬ闇にむかいてうなづいて大川端へ消ゆる関取り
 まさに「多義性」の闇のなかでこそなまなましく感じられたひとりの人物の個性はすっかり薄らいでしまった。ロラン・バルトを引
用したり、佐々木幹郎と会ったり、グレン・グールドを聴いていたりすることによって、つまり歌の外側から人格が推し量られる
だけで、混沌とした歌の内部から強烈な個性が立ち上がってこないこと、そのことを読者の私たちは、「無名」というふうに解釈
してもいいかもしれない。
 選者になる動機のひとつとして岡井隆は、「(私は)つねに『場違いの場』を求めて動く」と述べるのであったが、むしろ、時代
の雰囲気が岡井隆を選者に推し、「歌会始」という「場」が時代の雰囲気のなかにしっくり溶け込みはじめた気配を岡井隆
が敏感に感じ取った結果のように、思われたのだった。
 岡井隆が天皇家の行事に招かれるのは異様ではないが、それについての弁明は異様だ
「わたしには歌会始が『国粋主義』とは映っていません。(中略)むしろこの点マスコミの理解が政治的に傾き過ぎている危
惧を感じます」 岡井隆
  また一歩ジャーナリズムは右へ寄る読み捨てて出づあつき靴履き  『土地よ痛みを負え』
 「歌会姶」はもちろん宮中の行事だ。そして、それに出席する天皇の親戚たちは、けっして「俳句」や「川柳」を提出するわ
けにはいかない。「歌会姶」に「詠進」する作者たちは、たとえば「朝日歌壇」に投稿する時と同じような気分でいるわけでは
ない。さらに、一般公募の発表に「東宮」とか「内親王」とかいう呼び名の作者たちの作品が巻頭に並べられるというような例
もない。
 (じつは「短歌」を他の文芸と峻別するもっともおおきな特徴はここにある)「作者は無名でなければならない」という立場と、
「歌会始」の選者という立場とはひどく矛盾する。「歌会始」の件は究極的には、「天皇制を歌人の内部の問題としてどのよ
うに捉とらえてゆくか」(山下雅人)ということに尽きる。
 「天皇制」という用語は日本共産党が三二年テーゼではじめて用いたものだったが、その集約的な言い表し方は私たちの
表現しようとする内容と、すでに遠くかけ離れている。「天皇制」という「システム」が私たちを覆っている肌触りも変わり、それ
を見つめる私たちのまなざしも変わった。
 岡井隆が「戦前の国粋主義」という用語を持ち出して、「そうはならないであろう歌会始」を擁護したり弁明したりするの
は、歪んだロジックだ。岡井隆は、戦後の時間の流れと、それに伴って天皇制に対する認識が変容したことを意図的に抜き
落としている。
 (一九四六年)七月十日 もしあの戦争時代に、いかなる立場にもあれ少しでも圧制の許すべからざるを感じた人なら
ば、塞に、ほんの爪の先ほどでも自由と正義とへの憧れに身悶へした人ならば、どうして今日再び天皇制の下に安閑として
ゐられよう。いかに本来は平和的であるにしても、また今後どのやうな文化国家がその下に営まれるとしても曽ては諸悪の象
後であり、まちがひもなくその上に君臨し、忘れもせぬその名に於て、幾百万の各国青年を虐殺した同じ天皇やその子孫
を、再び参拝して共にいただけるほど我々は人類全体の道穂に無神経であっていいものかどうか。
中井英夫『黒鳥館戦後日記』
  天皇の居ぬ日本を唾ためて想う、朝刊読みちらしつつ    『土地よ、痛みを負え』
 一九七○年、私たちの学校では、愚かな流行として、大半の教授が、天皇のことを「天ちゃん」と呼んでいた。もっとひど
い呼び方もあったが、いずれにせよ、一九九○年代、今はそのようなことはないし、天皇制のシステムを忌避しようとするごく
少数の人はすみやかに(しかも柔らかく)無視される。
 もちろん天皇制のシステムの本質は少しも変わっていない。そして「短歌は天皇制のフンコロガシである」という事情も変わ
ってはいない。 明治時代には 行幸、巡幸が百回以上行われ、その度に天皇の短歌(御製)が詠まれた。戦後も 同様に
天皇は頻繁に地方巡幸をし、短歌を書いた。(雑誌『改造』に短歌を発表したことをきっかけに爆発的に天皇の短歌へ
注文が殺到し、「これではヒロポンをうって書かなくてはならないようだ」と昭和天皇が語ったという有名なエピソードもあるほど
だ) 明治天皇の場合と昭和天皇の場合とは事情が違うと思われているが、本質的にはまったく同じなのだ。
 天皇が情緒的に日本を支配しようとする意思、つまり「国見」の意思の表現という意味においては、ことしの歌会姶の天
皇の短歌もまた、明治天皇や昭和天皇の場合と、驚くほどよく似ている。
     御製
  外国の旅より帰る日の本の空赤くして富士の峯立つ
     皇后宮御歌
  とつくにの旅いまし果て夕映ゆるふるさとの空に向ひてかへる
  よもの海みなはらからと思ふ世になど波風のたちさわぐらむ
 四一年九月六日の御前会議の場で対米戦の見通しに確信のもてない昭和天皇が読み上げたこの短歌(明治天皇の
歌)と、ことしの御製とは基本的に変わるところがない。一方が対外的な不安の表明であり、他方が対外的にも優越的な
態度で「美しい日本の空へ帰ってくる」という気分の違いはあるが。
 天皇制のシステムは、私たちをマゾヒズムに誘う。たとえば吉岡生夫はつぎのように述べた。「雑草という草はありません、と
はだれの言葉だったのだろうか。忘れてしまったけれども、その趣旨は、見ばえもしないし、役にも立たない雑草と呼ばれる草
にも、かならず、その草にしかない固有の名前がついている、という事実の指摘であった。その同じ意味において「私」には「吉
岡生夫」という名前がっいている。思えば父も雑草だった。(中略)すでにおわかりのとおり、雑草であることこそ、私のアイデン
ティティなのだ」
 これは私がその前々月の文章に「大衆」という用語を使ったことに対する吉岡の反論の一部で、吉岡はここで「雑草」を
「大衆」の比喩として使用していることを補足しておこう。実はこの「雑草という草はありません」というのは、昭和天皇の言葉
なのだ。天皇の言葉を「私は雑草であり、すなわち大衆である」という意味合いで引用するのは、かなり滑稽な事ではある
が、それよりもここで重要なことは、吉岡が天皇の「雑草という草はありません」という言葉を「ああ、そのとおりだ、私たちは雑
草としての大衆であり、つつましくけなげに生きているのだ」というような意味合いで解釈してしまったところにあると思える。そ
の時、天皇は「雑草すなわち民草(大衆)」という比喩を思い浮かべて発言したのではなく、純粋に植物としての「雑草」の
ことを述べたのだった。それなのに、何時の問にかその言葉は吉岡の記憶のなかで「大衆」というイメージと結び付いて残って
しまったのだ。こうした作用全体が私たちを取り巻いている「天皇制」の システムであり、それは多くの場合、私たちを「けなげ
な雑草」というマゾヒズムに誘う。
 短歌が天皇制のマゾヒズム的フンコロガシであるという、最近のもっともおおきな例は、「連合赤軍事件」で死刑判決を受け
た坂口弘の短歌だ。最高裁判決の前に朝日新聞に寄稿した文章の一部を引用してみる。
  総括のもとは唯銃主義という理論に気付き自死したる君
 山岳ベースでの大量同志殺害事件は、一連の連合赤軍事件のなかでも真相究明のもっとも困難な事件であった。事件
を主導した森恒夫が逮捕されて間なく故人になってしまったからだ。山岳ベースでリンチによって最初の犠牲者が出たちょう
ど一年目にに、彼は東京拘置所の独房で自殺して果てた。自らが創った唯銃主義が総括の元凶であった事実に気付いた
ためである。
 この短歌の句またがりを読む時の「元凶は森である」という自己弁明のしくみのことはここでそれほど重要なことではない。二
年間の拘置の問、彼等の「思想」については一切の審理がなされず、たった三十秒の最高裁判決という、この時代を象徴
する異様さもここでは問題ではない。
「坂口の歌の迫力の前に、現代短歌のかなりの部分は色あせて見えるのだ」 (小笠原賢二)などというくだらない読み方が
問題なのだ。ここで評論家小笠原賢二が読んでいるのは、坂口弘の「短歌」ではなく、あの坂口弘が短歌を書いている」と
というスキャンダラスな現象だけなのだ。
 坂口弘の短歌は「坂口弘という名前は現代の歌枕である」(小池光)という こと以上のなにものをも表現していない
 天皇の短歌が「天皇の短歌」であるということによって機能することと、坂口弘氏の短歌が「坂口弘の短歌である」
ということによって馬鹿な読み手に機能する働きとはまったく同じ働きなのである。
  あけぼのの空に生まるる白き色のかがやく朝の育となるまで    「選者」岡井隆
 これはすでに、岡井隆という名をもった透明人間の作品だというべきだ。ここには「空」だけが描かれていて、「人」がいない。
あれほど、個人としての「私」に拘り続けてきた岡井隆が、全作品中もっとも凡庸というべきこの作品において「私」を消し去っ
たことは、まさに、「天皇制」のもとにある私たちすべての象徴ではないか。
 J・L・ボルヘスが書き、ウンベルト・エーコがパロディにした発想に、縮尺一分の一の「帝国の地図」というのがある。全領土
をおおいつくすようにして設置された原寸大の、「帝国の地図」。
これが短歌なのだ。
----------------------------------------------------------------------------------------------
 この文章は、岡井隆氏が「歌会姶」の選者になった、という、当時のおおきな話題について、時評風に書いたので、今から
読み返すと、かなり奇妙な部分もあるが、あえてそのままにしておく。ただ、「天皇家の文芸」というくだりは 、強く誤解を招く
表現であり、ほとんど私の真意を理解してもらうことがなかった。
 たとえば小笠原賢二氏は評論集『終焉からの問い』で、つよく批判している 。

西王 燦