モダニズムの死   

今日の前衛をめぐって      1987/2 短歌人
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 モダニズムは、現在から未来の方へ、到着すべきユートピアを夢みながら、前進しようとする志向であった。塚本邦雄の文章は、一九五二年のものだが、当時の短歌のモダニズムがどのようなものだったか、それはひとまず措いて、塚本がモダニズムを、未来に向けて生きる手段と考えていたことが、熱い希求として読みとれる。言いかえれば、モダニズムは、ひとりひとりにとっての、「新しさの神話」であった。

 そして、このモダニズムは、いまたしかに安楽死を要求されている。これは、たとえば「詩と詩論」以来の、流派としてのモダニズムの終焉を意味しているわけではない。本来的に未来にむかう志向がモダニズムであったとするならば、いま私たちに強く参透したレトロの風潮のなかでは、あきらかにモダニズムの余地がない、という意味である。

 これは、レトロスペクティブを「流行」させた一人、坂本龍一のインタビュー記事の一部だが、ここでもあきらかなように、レトロは、未来が袋小路として感じられるから過去をふりかえろうとする風潮だ。しかも、私たちが懐旧する時代は、奇妙なほど一致している。坂本の例示する小津安二郎の映画は、たとえば小池光の作品にも登場する嗜好であるし、バタヤンやグレージーキャッツに代表される昭和三十年代は、仙波寵英の歌集『わたしは可愛い三月兎』の、大きなモチーフでもあった。


 これらは、私たちがあくまで“時代の子供”であることの例だ。このように認識することは、繰り返して言えば、時代の風土を超えようとするモダニズムが私たちには無い、ということでもある。

 ところが、私たちがふりかえろうとする時代は、実は、まさにモダムニズの時代なのであった。たとえば、昭和三十年代。これはこの文章で私たちが用いているモダニズムという用語の意味が、もっとも凝縮してあらわれた時代であった。短歌では、言うまでもなく「前衛短歌」の時代だ。『原牛』『未青年』『水銀伝説』『土地よ、痛みを負え』『意志表示』『魚愁』、これらは、いずれも昭和三十四年から三十七年の間に刊行された。

 前衛短歌を、時間のなかで風化された遣物として認識することはたやすい。しかし、私たちはそれらが、いかなる意味で「前衛」であったかを、どのようにして時代の風土を超えようとしたかを、つまり、言葉のげんみつな意味で、どのようにモダニズムであったかを、本当に理解してしまっているだろうか。


 前衛短歌が、前衛としてのアウラを失なった、という視点からみれば、それは結果として抽象表現主義が否定しょうとした、個人的な夢の領域へ、またたく問に収斂していったようにみえるが、前衛短歌には、一九五二年にローゼンバーグが語った言葉を“カンバス”を“短歌様式”と読みかえたような、こころざしとしてのアクションがあった。


 私たちが時代の風土から超越してはいられない、という意味において、短歌の三十年はアメリア美術のそれと、ほとんど併行する。

小池光はもっとも意図的に広告表現を採用したひとりであったし、仙波の歌集がマンガで装丁されたのはリキテンスタインばりだ。そもそも石田瑛子によって“モノ”ではなく“イメージ”を売るキャンペーンを行ったパルコは、それ自体ポップな存在であった。林昭博は、すでに早くから「モダニズムの終焉」を予告(『港』)し、戦前のモダニズム云々とい自らへの批評に対してポストモダン宣言を行いもした(「短歌人」)。

 しかし、私たちの誰もが、真のポストモダンではない。


 たしかにこれらはニューペインティング風だ。吉本隆明は、ニューペインティングと林真理子の文章を重ねあわせながら、「上半身がヌードだ」と述べたことがある。(「いまという無意識の方途」)

 ほとんどプリミティブな再現性によりかかりながら、しかも言葉の濃い部分が「私はこういうのよ。見てなんとでもして」(吉本)というぐあいに前面に出てきた魅力が、これらの作品にもある。そして、〃あまり〃がよりによって〃短歌を書く〃ということ自体が一種の衝撃、言いかえれば彼女たち自身がメディアになっている、という点でもニューペインティング風だ。

 しかし、俵が、ウォーホ−ルのキャンベルスープの中身に拘るように「言ってしまっていいの」にこだわる時、林が“自己へのウタガイのなさ”を疑う時(「かばん」両者の応酬)、小池や仙波がサランラップやパルコを“モノ”としてではなく風景として把えようとしたのと同様な、様式の粋が感じられる。

 たぶん、短歌はアンフォルメルを経験しなかった、と言うべきだろう。本当に前衛をおし進めていったならば、こころざしとしてのモダニズムを持続したならば、内なるものの外への“表出”と、様式としての“短歌”は絵画がタブローの枠をうち壊そうとしたようなかたちで刺しちがえていたはずだ。そしてそうならなかったこと、短歌が様式としての死を迎えようともせず、私たちが様式そのものを疑いさえしようとしなかったことは、とりもなおさず、真のモダニズムの不在を意味していた、と言いかえてよいだろう。