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ナルニアと吉野
━━━━ 前登志夫論    『歌壇』1989,1


 C・S・ルイス 『ナルニア国ものがたり』を読む。森と草原と海が舞台。樹

木たちは歌ったり踊ったり、戦いの場面で大活躍したりする。そして、なによ

りも森や木々が「ありありと像を結ぶ」ように鮮明に描かれていることに驚か

される。「ライオンと魔女」の、冬の魔法がとけはじめ、橇がぬかるみにはま

りこんでゆく場面の描写、雪消のしずくや木の芽吹きや咲きそめる草花の描写

は感動的でさえある。ここのところを読むたぴに、私は前登志夫の詩「影の葬

列」を思い出す。


眠つてゐるうちに雪がふりつみ

わたしから無数の橇が旅立つた

そのたびに気温の襞へ罪悪がこぼれ

いなかの仏事にみる花のやうであつた

わたしの髪はひそかにくしけづられ

乾いた咳のやうな背後のやみに

やさしいしわざのあとが伏せる

そしてしののめの蕩児のやうに破産したわたしに向つてくる

みすぼらしい橇があるのです

月光を果実の皮のやうにはぎながら

乳房のやうな風景に消えることのないきずあとを彫つて

わたしのうちらにはひつてくるのです

凍えたわたしの未明をめがけて─

   ── おまへはなにものの影であるか

                     
(宇宙駅・初期詩集)

 アイルランド生れの初老の教授が『ナルニア国ものがたり』を書いたのは一

九五〇年からおよそ七年の間。吉野生れの青年が詩を書いた時代とぴったりか

さなりあう。時代はかさなりあうが、私たちがそこに認めるのはふたつの間の

類似ではなく、はなはだしい相違である。『ナルニア』は黄金のライオンがい

っさいを統べる世界であり、子供たちの冒険は父=ライオンのもとでの通過儀

礼と考えられる。『ナルニア』を支配しているのは強い男性原理であり、その

ことがこのファンタジーに鮮明な印象を与えている。対象はあくまで「私」の

外側にあるものとして描かれる。「私」と「他者」が峻別されることによって

子供が成人する物語とさえ言ってよい。

 それに対して『宇宙駅』の世界はあきらかに女性原理に包まれている。月・

乳房・鳥・港・果実・貝・胎盤、その他、詩のなかで大切な役割を担っている

言葉を拾いあげてゆくと、まるで女性性象徴の語句の一覧表を眺めるようだ。

青春の性的な感性は、たしかにしばしばこのような語句を選びとるものだとし

ても、彼の詩における頻度がいささかたかいことはあきらかだ。こうしたイメ

ージへの偏愛は、俗に子宮願望とか胎内回帰願望のあらわれと考えられている

もので、「橇」もまた子宮・船/橇・棺とつながってゆく、生死すべてを包み

こむものとしての女性性のジンポルとみなすことはたやすい。しかしこの詩、

「影の葬列」では、橇は「わたし」から旅立ち、「わたし」の「うちらにはひ

つてくる」ように描かれているのである。いくぶん生活上の流産のイメージを

伴いながら、ともかく「橇」は「わたし」を包みこむと同時に「わたし」の内

側に出入りするものなのである。このことはそれ以後の彼の短歌を読む場合に

重要なきっかけになりそうな気がする。

 私はけっしてイメージの性差について述べょうとしているのではない。たと

えば、樹木はもとより両性具有者。大地の男根であると同時に実のなる母体と

いう二重象徴性をもっている。ここでたいせつなことは、それらを「私」と峻

別された対象として眺めるか、それとも「私」と樹木が溶けあった一体のもの

として感じるか、ということである。

『子午線の繭』には次のような詞書がある。


  ぼくが限りなく存在に近づいてゆくと、あるときぼくと樹の区別が曖昧に
  なる       (オルフォイスの地方・叫ぷ)


 自分と樹の区別が曖昧になるということは、


さはさはと樹になりつらむしかすがに恥ふかき朝腕歃け落つる


というように表現される。樹と自分との境界が取払われるばかりか、このよう

な変身譚として表現されるのだから、いきおい、樹木が対象として「描写」さ

れるものでなくなることはあきらかだ。樹木のみならずあらゆるものは、『子

午線の繭』の中で「描写」されることがなかった、と言ってしまってもよい。

そこにあるのは描写ではなく、象徴である。『子午線の繭』の作品がしばしば

読者にとって「像を結びにくい」ように感じられるのはおそらくこのためであ

ろう。ものとものとの境界が不分明な状態のなかから手探りで象徴の言葉をさ

ぐりだしていた表現者の心象を私たちはひそかに思いやることができる。


夕闇にまぎれて村に近づけば盗賊のごとくわれは華やぐ

                   
(子午線の繭・交霊)

 この短歌の引用とともにしばしば指摘されているが、前登志夫はまず帰郷者
 
として村に入ってきた。帰郷者の心象は都市と村の落差や生活の蹉跌に揉まれ

ている。そのような者にとって眼前の吉野の風景は自分をあたたかく包んでく

れるようには感じられなかっただろう。そこで彼は現実の吉野とはべつの、自

分に親しい森を幻想し、幻想の森の中にくらそうとした。それは、


胎児以前 その欲望の樹にちかくひかりを吸ひて石斧息づく


と歌われるように、彼が未生の時代、いやもっともっと古い時代の森であり、

人と樹が性愛を感じさせるくらいぴったり寄添っていることのできる架空の場

所であった。

 前登志夫は現実の吉野を描こうとしたのではなかった。現実によって痛めら
 
れた自分をやさしく包んでくれる、いわばグレート・マザーを思い描いていた

のであった。このように考えれば、しだいに弱まりながらも次の二歌集に引続

いてゆく「変身」と「再生」のテーマも私たちに見え易くなる。

 『子午線の繭』の「繭」が、まずは子宮のシンボルであり、蛾がそれを破り

羽化するところから変身・メクモルフォーシスの象徴であることは見やすい。

繭ごもるしずかな時間を死の時間とみなせば復活と再生のイメージも浮かぶ。

卵・毛虫・繭・蛾という過程は輪廻を思わせ、それはさらに円環の渦なす鼻陀

羅や地球・宇宙そのもののイメージへ広がってもゆく。これらはじっさい作品

のなかで繰返し描かれている語句でもあるが、私はこうしたシンボルの背後に

空想と現実とのくいちがいに苛まれている作者の痛みを感じる。


口ひびく山の木の実にいきほひて日常の国原撃ちにけるかも

自らの復活を恋ひ、雪ふれる錬金の爐炎ゆたたらひそけく

                      
(縄文紀・鬼市)

 『霊異記』『縄文紀』を通して、日常の軋みが強くなるたびに変身・再生の

テーマが炎えあがり、日常と和解するときにそれがひそまってゆく起伏を読み

とることができる。

 そのように考えると、前登志夫の短歌を、その用語の内実はいざ知らず、土

俗の歌人、などと区分けしたことはどうであったのだろう。それはまるで現実

の吉野を歌うべく彼を誘う言葉であったように思われる。


俗物の苦しみなればつつしみてふぐりも濡れよ春の霙に
  
                    
(樹下集・猿田彦)

 かつて幻想の原初の森のなかで右斧という隠喩として息づいていた青年の性

は、いま無喩のふぐりとして現実の森で霙に濡れている。『樹下集』に描かれ

ているのは日常の風景と現実の人である。森や村をいま在るように描くために

歌人は村と村人を許し、自らをひとりの俗人として許した。表現から象徴は影

をひそめ、調べは平明になった。平穏な明るさのなかにしずかな悲しみをたた

えてたたずむ翁さぴた姿を眺めるのもけっして悪くはない。しかし、前登志夫

があくまで幻想の森に固執していたならば、


繭のなかみどりの鬼が棲むならむ透きとほる緑かぎりもあらぬ

                      (子午線の繭・交霊)


 この糸はまたべつのつづれ織りを織っていたかもしれない、と、ふと思う。