狂歌のすすめ

1988/4「短歌人」掲載


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 さて、ここに狂歌集『蜀山百首』がある。出版されたのは文化戌寅孟春、四月に改元されているから文改元年(一八一八)。蜀山人(四方赤良=太田南畝)はすでに七十歳。自筆本の自家出版で、限定千部のうち五百邪ほどは売ったようだ。この頃、蜀山人は、酒に酔って神田橋のたもとで躓いて転び、さらには吐血もし、老衰がひどくなっていたので、贋筆者亀屋文宝の手になったのではないかと考えられたり、息子が精神病で廃人になって家計が若しかったために、その不足を補うために出版された、と考えられたりしている。彼がはじめて狂歌会に出席した時、それは彼とともに内山賀邸に和歌を習っていた唐衣橘洲の家でひらかれたのだったが、その時、萄山人=赤良は二十一蔵、橘州は二十七歳だった。それから半世紀。はじめに一緒に参加した大根太木、平秩東作、元木網はもちろん、いわゆる天明狂歌をになった朱楽菅江、頭の光、馬場金埒、花道つらね(五代目団十郎)、酒上不埒(恋川春町)、手柄岡持(朋誠堂喜三二)、さらにはその文才をしたって大阪で交を結んだ上田秋成も、すべてこの世の人ではなかった。橘州の家での小さな狂歌会が天明狂歌のはじまりであり、『蜀山百首』がそれの終りであった。もっと広い範囲で狂歌そのものの歴史として考えてみても、暁月坊(藤原為守。為家、阿仏尼の子)の『酒百首』でほじまったものが、『蜀山百首』によって終焉をむかえた、と言ってもよい。狂歌が、ことに天明狂歌が『狂歌若菜集』『万載狂歌集』『徳和歌後万載集』などの撰集によってこそ爆発的流行を示すことができたことを考えるならば、個人の家集がまとめられることは、すなわち、運動の終焉を意味している。むろん、文政元年、宿屋飯盛と鹿津部真顔の両巨頭は職業狂歌師として活躍中だが、作品の質は門下の数に反比例して、急速に失なわれていた。いいかえれば『蜀山百首』は江戸=消費社会の「消費的様式」である狂歌と、そこから生じた蜀山人=赤良という虚名を、彼自身がふたたび回収するようにして消費しつくした狂歌集であった。しかし、これはけっして回顧的ではなく、「時間」に対して、ひどくあっさりした印象に満ちてもいる。
  
 末尾から三首目に、


という狂歌がある。こうした「時間」の区切り方は、ほとんどポスト・モダン的であり、したがって、短歌の現在を考えるうえで強い示唆を与えてくれる。このことが、この文章で『蜀山百首』に触れる最大の理由なのだが、それはひとまず後にまわして……
 
 短歌の現在は、きわめて狂歌的だ、と、言ってしまってもいい。表層的な現象はもとより、それぞれの作品の内実に至るまで、ぼくらの短歌は狂歌的だ。もちろん、類似を指摘することは差異の目を転がしてゆくギャンブルだから、どのようにでも転がるのだが----。『万載集』の爆発的な流行と『サラダ記念日』のそれ。『サラダ記念日』をきっかけに、短歌のようなものを作ってみた夥しいアマチュア達と、『万載集』の続編に自分の狂歌を掲載せしめるために馳せ参じた、あたらしい狂歌人たち。板元蔦産重三郎と、浮世絵師と狂歌との組合せによる商売を連想させる『とれたての短歌』。

『万載集』の板元須原屋伊八は


と、その喜びをよんだ。つまり、『万載集』は板元にとっての「太夫」であって、たいへん稼いでくれるので笑いがとまらないという訳だ。
『徳和歌後万載集』の序には


と書かれている。がんぜない子や木こり(芻堯)や猟師(雉兎)までもが狂歌をよみはじめた、というわけだ。さらに、鳥の鳴かぬ日はあっても狂歌の噂が絶える日はない、とも書かれ、『万載集』が、ほんの一年半ほどの問に、いかに大衆の支持をうけていたかがうかがえる。「コノゴロ狂歌ハ花見虱ノ如ク」(李木盡通詩選の序)という辛口の評も、当時の狂歌の熱狂ぶりを物語るものだろう。ただ、一方が個人の一家集で全開し、他方が多数者の撰集で開花した点、また一方が、続編にあつめられた作品が前編にもましてすばらしいエスプリに満ちていたのに反し、他方のアマチェアたちは、それらしきものとさえよべぬ作品しか提出できなかったこと。これは、ひとつの様式をある程度以上の質に保つためのカが、その時代の人々にあまねく存在しているかどうか、ということでもあろう。
 
 類似、というならば、冒頭に引用しておいた筒井康隆のパロディは、その、舌を巻かせるばかりの手腕によって、ぼくらの時代の狂歌性を、明確に証明してみせたものだ。「本歌取り」による原作のパロディは、天明狂歌のもっとも中心的な方法で、『蜀山百首』に

などという作品が収められている。ふたつめの妨主合羽は、手の出ない合羽で、したがって「袖うちはらふ世話もなし」ということ。筒井のパロディは、ほとんど、この三番日の桜→女、春→をとこに似た簡単な語句の入れ替えによってできあがっているのだが、それにもかかわらず、ここに引用した三首なども、一方では『サラダ記念日』にひそかにひそんでいた半可通ぶりを暴きたてもし、他方では、現代短歌にひさしく難題として投げかけられていた、「作者とはべつの、生き生きとした性格をもつ主人公」という課題をもたやすく乗りこえてしまっている。
 
 とにかく、現代の黄表紙作家によって、このようなパロディが作られることは、現在の時代が狂歌を待望していることの証左だ。いや、正確に言うならば、短歌の現在が、ほとんど、狂歌と呼ばれるべきだ、ということを指摘している。

 これらは、もっとも手近かなところ、「短歌人」二月号の作品である。「苺」から「くさかんむり」を除くと「母」、これが一首日の契機だ。三首目までは、漢字を、あらためて「かたち」として眺めようとする姿勢が狂歌的なのだ。四方赤良にも「松は十八ことは十三」「さんずいにひよみの酉の市ながら」などという、漢字を解して遊んだ狂歌がある。「ギララア」は一瞬の錯覚のおかしさをとらえているのだが、窪田の場合には、一歩それを進めて、意図的な錯覚(この歌では誇大解釈)を生み出そうとする姿勢がうかがえる。

 さて、ぼくらはなぜ狂歌的な作品をつくりだそうとするのか。それは、非狂歌的な作品を想定してみることであきらかになろう。非狂歌的な作品とは、他人にはどうでもいいような自分ひとりの感慨や、どうでもいいような出来事が、ほとんど方法と呼べぬような方法で置きならべられてゆく、ようするに、例の「短歌的なもの」そのものである。そしてこのような、うんざりするほどの「短歌的なもの」に、かすかな嫌悪を感じたとき、ぼくらは非短歌的なもの=狂歌にむかう。

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 ぼくは、ひそかに天明三年の狂歌宝合を思いあわせながらこの文章を引用する。それは宝物に擬した品物に狂歌を添えて持ち寄り、優劣をきそう遊びだが、蓬来山人の出品「貘の餌袋」はガラス壜の中に小さな括り枕が入ったものだった。これなど、デュシャの「泉」にかようものがありはしないか、と。塚本は「芸術品らしさに対する嫌悪」を「短歌らしさに対する嫌悪」と言いかえて、繰り返し述べてきたのであったが、いま、ぼくらひとりひとりのなかで、その嫌悪が熟成されているのを感じる。そしてその嫌悪は、じつは、本誌二月号に神矢たかしが指摘したところの「近代の遠近法」に対する嫌悪でもあった。神矢は「画家の眼を消失点に置く、ということが意味しているのは、画家の眼をある超越的な位置におくことによって対象から完全に分離してしまうということである」と書く。まさにそのとおりであって、ぼくらの前に、累々とつみかさねられている近代→現代短歌の退屈きわまりない作品群は、ひとえに、かけがえのない「私」を原点にすることによってのみ支えられているのだ。近代的自我、私は私、という傲慢なけなげさが「短歌らしさ」のすべてであった。そうでなければ、どうして、これらの面白くもくそもない夥しい作品を書き続けることにたえられるだろう。

 神矢たかしは岡井隆の後期の作品について「遠近法がノスタルジーの旋律として底流してはいまいか」と書くのであったが、ここに「時間」の把え方をさしはさんで考えるならば、神矢の批判はいっそう明確になるであろう。過去・現在・未来の時間の遠近法が、


という作品に代表されるようなかたちで、「私」を絶対的出発点として捉えられてはいないか。この作品に描かれた時間のかたちを、円環として感じとっても、また振子の描く扇形として感じとっても、いずれにしろその焦点にある「今の私」の不動性を印象づけられるばかりだ。

 ハインラインのSFに、時間をピンクの芋虫と把える短編がある。芋虫は、ひとつながりの連続性をもったもの(それどころか人類全体が芋虫のからみあった草草のようなものだというの)だが、けっして遠近法的な把え方ではない。任意のところで芋虫を切れば、それまでなのである。ここでさきほどの、「つる九百九十九ねんめ----」とい
う蜀山人の狂歌を読みなおしてほしい。つるの千年、亀の万年はいわば彼らの時間のエントロビーで神のみぞ知るところだが、とにかく次の年にはつると亀の芋虫はたち切られることになる。それなのに尚歯会(高齢を祝う会)をすることはなんとも笑止のかぎりだ、という訳。

 このように、ストーリーが突然カット・オフされるような時間感覚は、「近代」を飛びこえて、現在的だ。時間が「芋虫の輪切り」のようにして在る、という認識のありかたはぼくらの短歌をあらためて変容させつつある。それほたとえば『サラダ記念日』にもすでにみとめられるところで、俵万智が「生き生きとした現在」として選びとった
「今」はほとん匿名性の、誰の「今」でもない任意の「今」なのである。ことに、その文体の感覚は、近代短歌の、ちょうど樹木の先端から根っこの方を眺めるような時間感覚からふっ切れたところから生じている。

 岡井隆と師弟関係にある加藤治郎の『サニー・サイド・アップ』もまた、あたらしい時間感覚に満ちている。


 この作品について岡井はその遠近法的な構成の才能を指摘している(あとがき)のであるが、この、利根川・きみ・われという三層の構造は、じつは「私」の視点から把えられてはいない。近代的遠近法はまえに利根川、うしろにあなた」という把え方はしても、絶対者=私を画面の中に入れこんで映しとることはしなかった。加藤の作品の背後には、「利根川」と「きみ」と「われ」を一緒に写すヴィデオ・カメラが据えられているのだ。前・近代に、「私」の位置に据えられていた「神」のかわりに、後・近代=現在には、ヴィデオ・カメラが据えられている。(むろん天明狂歌にあっては、つるや亀の寿命をきめたあるものがその位置にあった----)。だから短歌を統一的に支配
するのではなく、一登場人物として描かれる「私」は、なにほどもかけがえのない存在などではない。また、

  
という作品の、ちょうど、ワイエスの「海からの風」を彷彿とさせるようなすばらしい魅力は、時間が、突燃にたち切られたときに、天上から舞い降りてくる雲母の薄片のような魅力だ。そこに、あの「私」はいない。



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