歌仙『蛍田』の巻
小中英之論   1999/1/15




●謎に満ちた歌人
 現在の短歌の世界に対して、すこし厳しい見方をするならば、多くの歌人たちがせわしなく発表し続けている大量の短歌作品のなかで、作者名を伏せて読んでみた場合に、純粋な読者の鑑賞に耐えうる作品は、じつに稀だと言わざるをえない。署名があり、駄作がある。署名のなかに含まれている馴れ合いのコンセプトに引き摺られながら、無理に面白がって読んでいるというのが、現在の短歌の世界の、奇妙な、躁状態のにぎやかさだ。
 こういう時に、小中英之の短歌を特集することは、私には大変喜ばしく思われる。まさに小中英之の作品こそは、署名なしで鑑賞に耐えうる稀な短歌だから。
 本誌では『わがからんどりえ』以前の初期作品も纏められ、最近の作品についても、他の方が評論のなかで触れることになっているようだ。私は、小中英之の二冊しかない歌集を中心に、総論めいたものを書いてみる。

 はじめに、すこし個人的な書き方を二つ。ひとつは、私が試みた小中短歌の模倣作のこと。
 去る日、インターネット上で歌会があった。その際の題は「外国の地名を詠み込む」というもの。私は、

  ポルタバの駅に降りたち完璧な半円形の虹と逢ひたり
         ( 1998/9/8 某メーリングリスト宛)

 という作品を提出してみた。比較的若い世代が参加する、そういう場所でこの短歌が小中英之の「蛍田」の模倣作であることを、どれくらい多くのひとが見破るであろう、ひいては小中英之が、いまどのように読まれているであろう、ということをひそかに知りたかったからであった。
 その結果は、むろん正確に調査したわけではないが、参加者のほぼ半数のひとが「蛍田」の作品を覚えていたと言ってよい。しかも多くの参加者はこの作品に愛着を抱いているため、私の試みを悪しき模倣として非難する者さえいた。
 このように小中英之の短歌は、多くの読み手に、完全なかたちで覚えられている。これは夥しい作品が量産される現在の短歌の世界では稀有なこと、謎でもある。

 もうひとつ、個人的な書き方。
 私は小中英之その人に、一度だけ逢い、ゆっくり話を聴いたことがある。小中英之も私も同じく「短歌人」という短歌結社の者なので、「一度しか逢わない」と書くべきか。すでに十年以上前のことになる。
 歌会が果て、ちいさなパーティーの途中で廊下にでると、小中英之は窓辺に立って、暗い夜景を見ていた。あきらかに、周囲の雰囲気から孤絶している。キモノを着た、たたずまいの良さのせいもあるが、あまりにも周囲から孤絶して立っている様子は、凄さまじく、ものがなしかった。私がどのようなことを尋ねたか、今ではほとんど忘れたが、少年時代の北海道の「夜」の様子、あるいは安東次男のことなどを、しずかに丁寧に答えてくれたのだった。

 小中英之は、他の多くの歌人に比べて、日常的な作者本人の露出が極端に少ない。作者像が先にあり、そのあとに短歌があるという現況のなかで、作品以外には作者像の見えてこない、稀有の例、謎の歌人なのである。
 私がここに書こうとするところは、作者像の謎ではなく、作品のなかの謎の一端に触れようとするものだが、たぶん書き終えたあとも、謎は謎のまま残る。

●言葉への愛惜
 
『翼鏡』が出版されたのは昭和五十六年十月だから、ここに引用する岡井隆の批評文は、その直後のものだろう。岡井隆は「淡さが不安誘う」(一九八二年四月三十日『読売新聞』)という書評で次のように書いた。

  光ふるげんげ田のうへ花の上ひとときうれひなく座りをり
  


  鶏ねむる村の東西南北にぼあーんぼあーんと桃の花見ゆ
 

 これは、小中英之の作品の傾向を、鋭く指摘した文章だ。たしかに蛍田の短歌では、虹はいち早く消え、蛍ばかりが光る。そして、岡井隆に倣って、言葉はそんなに信じられるか、と尋ねてみるならば、他になにが信じられようか、と小中英之は応えるだろう。
 そもそも、『わがからんどりえ』の解説のなかで、安東次男は、「蛍田」などの四首を引用しながら、次のように書いていたのであった。


 「鎮魂のため、季節のため、それから面白い言葉や地名の一つにもせめて出会いたいため」というのは、じつは小中英之の作歌のこころえであると同時に、私たちが小中の短歌を読む際のすぐれた指標でもある。小中は短歌を通して、面白い言葉や地名に出会う。読者である私たちは小中の短歌を通して面白い言葉や地名に出会う。この、読者と作者の、「言葉」に対する黙契が許されないとならば、小中英之の短歌は、とうてい読みきれない。

 「言葉」以外になにがあるのだろう、と考えてみる。おそらく「言葉」以外にあるものは「人」と人の行為。永く宿阿におかされて病弱であり、嫌人癖もある、という作者論としては書きたくないが、小中の作品には、極端に人物の登場が少ない。短歌は人物が往来するほどのスペースを持った文芸形態ではない、と考えているごとく。私もそう思う。人物の往来を激しく描くためには、この文章の冒頭に書いたような、作品以前のコンセプトを必要にする。それは文芸としては邪道なのだ。

●季節への愛惜

 小中英之は安東次男の「なぜ短歌を書くか」という質問に「鎮魂のため、四季のため」と答えた。

 このことは、昭和五十六年、「短歌人」誌上で、当時気鋭の短歌評論書きであった藤森益弘が指摘しているところであるが、『わがからんどりえ』には、木の実・果実が多く登場する。藤森が数えたところ、柘榴、枇杷、桑の
実が三回、木瓜の実、柚子、山椒の実が二回、ほかに、胡桃、茱萸、桃、栃の実、桜桃、金柑などがあるという。さらには、アフリカの木の実、空の果実、朱の果実、秋果などをとりだして、なぜこのような木の実や果実が繰り
返し登場するのか、ということに触れながら、藤森は「小中の歌にあるのは循環するものとしての時間、つまり、四季をそれぞれにいとおしみながら生きているという時間感覚である」と述べた。
 
 『翼鏡』でも、また繰り返し、木の実・果実は登場する。枇杷の実が三回、がまずみの実、柘榴が二回、柚子の実、胡桃、梅の実、桜桃、桃、白桃、ばらの実、ずず玉など。

 藤森の文章は、今読んでも鋭い指摘と、小中の作品に対する愛情に満ちた好文章だ。たしかに小中の短歌には季節が循環するもの、巡ってゆくものとして描かれることが多い。
 この繰り返しと反芻が表すものは何か。一言で言えば、小中英之は動かない、ということだ。小中の周りを四季がめぐるだけなのだ。したがって、小中英之の二冊の歌集を、どこを読んでも変わらない、と批判することはたや
すい。枇杷の実も柘榴も梅の実も、繰り返し実るだけだ。なにも目新しいことは起きない。

 短歌の中に、主人公の、日常的な劇的な変化を読もうとする読者には小中英之の短歌は読みきれないだろう。しかし、私は思う。短歌は、いつから主人公の日常生活を暴露し、読み手はそれを覗き見するというタイプの文芸に
成り下がったのだろうか、と。このように散文化してゆく短歌の現在の様相のなかで、やはり小中英之の作品は孤絶している。

●鎮魂

 安東次男の質問に対して、もうひとつ小中英之が答えた「鎮魂」ということ。これについても、先に引用した藤森益弘は「鎮魂とは死者のためではなく、生き残ったもののためだ」と、鋭く指摘している。
 私もまた、鎮魂は死者のためではなく、生き残り、やがて死ぬ小中英之自身のためであり、読者である私たちのためのものである、と書いておこう。

 とくに『翼鏡』には「他人」の登場することがきわめて少ない。

  噴水をへだて夕映果つるまで眼球ふかく人にやふれず
  


  友人のいくたりすでに余剰なれ水辺青葦わけてやすらふ

  花咲けば清浄ならず一国に反響のして人はあふれつ

 これらの例のほかには、他人がほとんど登場しない。しかも、もっとも賑やかに登場する「花咲けば」の短歌の登場人物をはじめ、ほとんどの場合、主人公と無関係な人物として描かれているのである。

  あけぼのへ動く電車のさむくしてつりかはの輪の白くただよふ

  冬木立へだて子供らみえざれど遊動円木ゆるるにかあらし

 『翼鏡』では、このように、他人は「不在のもの」として描かれる。

 『わがからんどりえ』と『翼鏡』の作品の、おおきな変化のひとつに、「鎮魂」が表面上は描かれなくなったという点がある。
『わがからんどりえ』には

  友の死をわが歌となす朝すでに遠きプールは満たされ青し

  死者たちへえらぶ花にて統べらるる真夏をわれに降る雪のあれ

  北の扉を開けよ記憶の八重葎ふみわけて夜をくる人のため

  絵合せのごとき日常くるしみて死にしひとりのくちびる湿す

  かなしくて肉一片をかみきれず見知らぬ町で告別終へて

 というように、直接的に鎮魂・挽歌を歌った作品が頻出する。これが『翼鏡』には見当たらない。

 『翼鏡』以後の作品をも視野に入れて述べなければならないことであるが『翼鏡』の段階では、あれほど親しかった死者さえもが、影をひそめたように見える。それほどまでに孤独は深くなった、と。

●孤独な「座」

 小中英之を語るとき、あまり触れられていないものに「連句」のことがある。小中が唯一師事した詩人・俳人安東次男の系譜からして、当然もっと注目されてしかるべきであろう。『翼鏡』の出た六年後、昭和六十二年には
『短歌研究』(二月号)で、小中を宗匠に、安永蕗子・岡井隆・佐佐木幸綱・三枝昂之を連衆にして歌仙が巻かれ、その記録が掲載されている。この記録は、今、私の手許にはないが、これに先立って、昭和六十年、田村雅之宅
で、山中智恵子、馬場あき子、谷川健一を連衆として巻かれた歌仙を小中が捌いた記録は、野間亜太子の『現代連歌集』で読むことができる。

  紅葉のたとう越えてふりむかず      英之
                 (初裏・折立)
   鯖買う村に宿やあるらむ        健一
                (初裏・二句目)
  ゆきゆきて売るは古代の首かざり     英之
                (初裏・七句目)
   猪待つ小屋に月の射しくる       健一
                (初裏・八句目)
  ちまき結ふ手もと涼しくながめしか   あき子
                (名表・五句目)
   あづまみちのく湖の水くむ       英之
                (名表・六句目)

 小中の付け句の部分を一部、引用させていただく。
 詩壇・俳壇において、現在にいたる連句のブームは、そもそも安東次男が大岡信と丸谷才一を誘って一九六〇年の終りころに始めたのがきっかけであったようで、歌壇以外では、昭和六十年にはさまざまなところで連句が話題
になってもいた。しかし、永い期間、連句に冷淡であった短歌界にあっては小中がもっとも連句に精通した人物であったようだ。

  友人のいくたりすでに余剰なれ水辺青葦わけてやすらふ

 こうした作品の心情には、連句の「連衆心」ともいうべきこころに通い合うところがありはしないか。

 ある日、蛍田という町で、連句興行がある。歌仙『蛍田』の巻。連衆は小中英之の馴染みの歌人たち。宗匠には安東次男。

 歌仙は、和気藹々、丁丁発止と巻進む。やがて挙句。どれほど親密に巻結んだ歌仙も、済んでしまえばすなわち反古。なんとはかないものであったか。
 むろん、これは仮想のことだ。

  蛍田てふ駅に降りたち一分の間にみたざる虹とあひたり

 この短歌を読み返すたびに、私はこのような場面を思い起こす。済んでしまった歌仙が虹のようなものであるというばかりではない。あらゆるものがふかく愛するいとまもなく、小中英之の前から、うつろい、消えて行くのだ。
 あるいは、現在の小中英之は、独りで「座」をつくり孤独な歌仙を巻くようにして短歌を書いているのではないか。連衆は親しい死者たち。したがって、敢えて鎮魂のための短歌を書くまでもない。

●挙句の果て

 最後に、ふたたび個人的な書き方をしておこう。私は最近、藤原龍一郎たちと、頻繁に歌仙を巻いている。今ふうに電子メールを使った架空の連句会であるが。こんどは、小中英之の作品世界を主題にして興行してみようか、
などとひそかに考えている。現実の場面で、小中英之と相親しく歌仙を巻く機会は望むべくもないから。
 連句のことが、すこしづつ解ってくると、小中英之の作品世界がよく見えてくる。

 『わがからんどりえ』の解説で安東次男は「小中英之はたった一人の内弟子である。良いにつけ悪いにつけ影響の何がしかはあり、ともすれば句の余剰のような歌を作るのも、たぶんそのせいがある」と書いた。

 句の余剰といえば、批判になろう。しかし、

  からたちの実るころほひさびしけれ回想ひとつに起伏のありて

  茅蜩のこゑ夭ければ香のありてひときは朱し雨後の夕映

 こうした『翼鏡』末尾の短歌をみても、「句」の影響はまだ強く残っている。

  からたちの実るころほひさびしけれ
  回想ひとつに起伏のありて

  茅蜩のこゑ夭ければ香のありて
  ひときは朱し雨後の夕映

 このように上下の句を裁って引用してみると、「切れる」という点では句の世界を想起させ、付けて転ずるという意味では連句の世界を思わせる。
 黄泉にいる安東次男は、こうした私の読み方を苦笑するかもしれない。しかし、句から来た独特の韻律と、連句から来た、短歌のなかの孤独な応答の世界を、すくなくとも現在の私は強く愛する。

 現在の小中作品については、ここに私が書くところではない。しかし、一首だけ、私の述べた論点が継続されている証左として引用しておこう。

  幻聴に水の落ちくる夜なりき大伽藍にはわれのみが立つ
           (角川「短歌」平成十年十二月号)

 なんと綺麗で、壮絶な孤独だろうか。

------------『路上』掲載予定



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