近代短歌の貧弱な肉体




日本の近代化の出発点は「黒船」の時代であり、それは、日本人の「肉体の近代化」の出発点でもあった。

正岡子規の『仰臥漫録』の明治三十四年( 一九〇一年)、九月二十六日の項に、


という、まさに「狂句」の書き込みがある。
翌年の九月十九日の未明には絶命することになる子規が、このころの日録のスタイルとして、詳細な食事の内容や包帯取り替えや便通の記録の後に、

という前置きをした上で、


とともに書き残しておいた狂句だ。


という狂句の「ペルリ」、すなわち、合衆国海軍司令長官M・Cペリーが四隻の黒船を率いて浦賀の沖に現れたのは一八五三年七月八日(嘉永六年六月三日)。じつは、その後いったん那覇を通り、香港へ戻り、翌年の二月一三日に七隻に軍船を増やして、ふたたび浦賀に乗り込むことになるのだが、いずれにしろ「太平の眠りをさます上喜撰(蒸気船)たった四はいで夜も眠れず」と詠まれたように、ペリーの来航は、合衆国がわからすれば日本を威圧し脅迫するデモンストレーションであり、日本人はまさに「おどかされ」たのであった。

このときのペリーの風貌は、日本側の記録によれば、


ということになっている。六尺五寸といえばおよそ一九五cm。間近にそれを眺めた日本人にしてみれば、驚くべき大男であったことだろう。

『筆まかせ』には、子規が自分の身体計測の結果を詳細に記録した書き込みが二個所ある。子規が二十歳のとき(明治二十一年)の部分は次のように書かれている。


もちろん私たちは子規とペリーの体格を比べようとしているのではない。子規の体重は「貫」、身長はここでは「センチメートル」他の部分では「尺」の記録もあるが、いずれにしても、当時の徴兵検査「五尺一寸」をはるかにクリアしている。
問題にされるべきことは、子規の体格がこのように精密に測定され、子規がその数値をいとおしむように繰り返し記録しているということの方なのだ。

ひとりの人間の肉体が精密に測定され、したがって他の肉体と比較されるようになる時、その比較の遠い対象として、ペリーの肉体に代表される西欧人のボディがあった。

明治三十年頃までには、男たちの身体が数値として計測されるばかりか、男たちの運動能力も数値として計測され始めていた。

明治四十一年(一九〇八年)に発表された『三四郎』には「大学の陸上運動会」の様子が詳しく描かれている。二百メートル競争、砲丸抛、長飛(走り幅跳び)、槌抛(ハンマー投げ)高飛など。

あまり運動好きでない三四郎がこの日でかけたのは、上京以来はじめての機会であるということの他に、「野々宮さんの妹」や「美禰子」に会うというひそかな目的があった。


背が高く、速く走り、遠く跳ぶ男が「良い」ものとして「婦人達」の喝采を得る時代になっていたのだ。
『三四郎』のこの部分にもうすこし注目するならば、この運動会の描写は「紫の猿股を穿いて婦人席の方を向いて立ってゐる」青年の話題の中に挟み込まれているのだった。運動会の前の日、学生集会場で、「新らしい黒の制服を着て、鼻の下にはもう髭を生やしてゐる。脊が頗る高い。立つには恰好の好い男である」この青年は、


という演説をする学生であった。
さらにこの学生は、運動会のあと美禰子たちと別れた三四郎の前に再び現れ、「昨夜は。何うですか。囚はれちや不可ませんよ」と挨拶をする。

こうした構成には、漱石の、ある意図が感じられるし、その意図のなかには、漱石の、「身体」についての見方がこめられている。

三四郎は運動会の前の晩、三越の看板の女と美禰子が似て居ることをいろいろ考えていたので、身体の方はあまり洗はずに出た。その後に書かれている一行は、「明治」の身体のありようとして、暗示的に思われはしないか。





『三四郎』の発表された翌年(一九〇九年)、啄木は「ローマ字日記」を書き、その最初の日付(四月七日)の項に、キョウト大学のテニスの選手たちが登場する。


と書き、


と書き、さらに


とも書く。
このキョウト大学の選手のひとり「サカウシ君」は八年ぶりに会った、啄木の高等小学校時代の同級生で、キンダイチ君と「サカウシ君」と啄木の三人は、その夜、啄木の部屋で「子供らしい話をして、キャ、キャと騒ぐ」のだった。しかし、そうした騒ぎの後で、啄木は次のように書き残している。



この深い孤独と疲労の原因を一言で忖度することはできないが、テニス選手という運動会系の青年たちの振る舞いが、啄木に強い影響を与えているということは言えそうだ。運動会系、すなわち新しい時代の肉体に対するコンプレックスは、キョウト大学生になっている高等小学校時代の同級生に会うというコンプレックスとあいまって、夜更けにひとり目覚めている啄木を苛んだことだろう。

その時、啄木は「なにともしれぬ疲れに ただひとり眠っている姿は どんなであろう」というように、自分の「身体」をみじめなかたちで意識するのであった。

『ローマ字日記』の二日目(四月八日)には、啄木の風貌、ことに「衣装」についてのコンプレックスが滲み出ている記述がある。


啄木は、その工学士の「ヒノサワ君」がまだ見たことのない活動写真の話題によって「かすかな勝利」を感じることになるのだが、その夜は、着物のさけたのを縫うために針と糸を買いに出かけるように書かれている。



『ローマ字日記』の一年前、すなわち『三四郎』の年、森鴎外は「臨時仮名遣調査委員会委員」になり、六月の会合で「仮名遣意見」について演説をした。この演説は次のようにして始まる。



「仮名遣い」の演説に軍服を着て登場する鴎外を、颯爽とした戦略家、演出家として、私たちはひそかに喝采を送るかもしれないし、イヤな感じだと思うかもしれない。しかし、このエピソードが私たちに語りかけるのは、「衣装」はとりもなおさず「制度」の現われであったというに尽きるのだ。

「坊っちゃん」の第二章は、


というように書き出される。この「赤ふんどし」から、啄木の「そで口の切れた綿入れ」、「ヒノサワ君」の「仕立て下ろしの洋服」、そして、鴎外の軍服に至るまで、この時代の男たちの衣装は階層的な記号として彼らを能弁に物語っていた。

女性はといえばどうか。いま、私の手元に、明治四十一年(1908年)、つまり森鴎外が軍服を着て演説をした年の『滑稽新聞』に掲載された「女子の職業」という「裸体画」がある。日本髪を結い、片膝を立て、膝の上で頬づえをついた、たしかに裸体ではあるが、裸体のスペースには、当時の女性の職業が絵柄で書き込まれている。その職種は、頭の方から、「花売り、電話交換手、煙草屋店番、絵葉書屋店番、縫栽、子守、義太夫、ゴロツキ(刺青)、乳母、按摩、妾、娼妓、洗濯女、芸妓、足芸」などである。このように限られた職業選択のなかにあっては、当然、女性の衣装も限られていた。

子規の、これも死の前年の随筆であるが、『墨汁一滴』の六月八日の項には、『心の花』に書かれた「婦人服」についての演説筆記に反論した書き込みがある。「始終動いている優美の挙動やまた動くにつれて現はれて来る変化無限の姿を見せるといふ点で日本服はドウしても西洋服に勝って居ります」というのに対して、歩行とか舞踏とかいう西洋人の「運動」によって「日本服」と西洋服を比較するのは、そもそも無理がある、と述べ、

と述べる。
子規のこの考え方は、私たちが明治の「身体」と「衣装」について考える際に、大変参考になる。つまり「衣装」を論ずる時は、時代のなかで身体がおかれた状況を考え合わせなければならないということだ。また逆に、「身体」を論ずるときには、時代の「衣装」を無視できないということにもなる。


この時代は、現在の私たちが考える以上に「身体」は「衣装」と密接につながっていた。むしろ「衣装」が「身体」を作った、と言っていってもいい。そして、この時代の衣装は、なによりも「軍服」を目指していた。

もう一度、子規の「活力統計表」を思い出してみよう。あの測定は何の目的のためであったか。いうまでもなく「軍服」のためであり、「軍隊の身体」のためであった。

啄木も子規もそれぞれ「軍隊の身体」を若くして失った。むろん、彼らの身体はやがて時代に特徴的な結核菌に冒され、病臥のうちに不遇の人生を終えることになるのだが、その病気が潜伏している時期から、既に彼らは、時代の要請する「身体」を失い、その欠落感は、彼らの書き残したものに、色濃く反映しているのだった。

私がここで言おうとしたことは、じつは、私たちは、いかにも自然で自由に見える現代の「身体観」の視点から近代短歌を読もうとする傾向があるのではないか、ということだ。したがって、近代の身体観に溯って、子規や啄木の短歌を読み直してみると、今まで私たちに気づかなかったことが見えてくるかもしれない、ということだ。この作業は、あなたたちに委ねておくことにする。



一九〇九年、四月十日、啄木は書いた。



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