「君」のいる場所




                      1985/4/7*「逆立ちする小池光」を詠む


 まず最初に、私自身の意味不明な作品の引用から書き始める。悪しからず。この作品を短歌人に載せたのは一九八五年。そのころ小池光は髭を伸ばしていた、ということを書くためでは、もちろんない。当時の新聞紙上では、この国のプルサーマル計画は、その危険性のため、見直し、もしくは撤退という論調が多かった。ところがそれから十五年、いよいよ来年には福井県高浜市の関西電力三、四号機で、プルトニウムを通常の核燃料と混ぜて燃やしてしまおうというプルサーマル計画が始まろうとしている。これに先だって、MOX燃料輸送容器の安全審査のデータを改竄したとして、日本原子力の子会社の幹部が陳謝し、子会社そのものが営業を廃止した。一方、一九九五年にナトリウム漏れ事故を起して運転を中止していた福井県敦賀市の高速増殖炉「もんじゅ」が来年には運転を再開しようとしている。高速増殖炉は技術的に手におえないので、小さな事故を起して、一気に廃炉に持ち込もうとしていたのではないか、と穿った予想をしていた私は驚いている。私はこれらの政策に反対したり賛成したりする気分でこのことを書いているのではない。たまたまこれらのものの、ごく近くに暮らしていて、これらに敏感になるというより、むしろ
不思議に明るいデカダンスな気分を感じているばかりだ。なにか、この時代はおかしい。

 まず「やらせ」があり、そのあとで仕組まれた不意打ちが襲ってくるような感覚、そんな時代だ。

 もうひとつ、前置き。今この原稿を清書している十二月十三日、福井県武生市で「恋歌」についてのちいさなシンポジウムがあり、荻原裕幸や水原紫苑や、短歌人の足立尚計たちが参加している。武生市の山間部のほうに、中臣朝臣宅守が流罪になり、そのとき狭野弟上娘子との間に交わされた贈答歌が『万葉集』に六十三首残されている、ということを記念して催されるイベントだという。
 たしかに、この二人の間の贈答歌は『万葉集』のなかでも優れた作品だろう。しかし、このような契機で地方都市が「恋歌」の応募を行い、それに1万2千首の短歌が寄せられたということは、何を意味しているか。それはすなわち、私たちの短歌は「恋歌」の時代である、ということだ。
 
 さて本題に入ろう。


 壊れた模型飛行機を、あたかも鳥を埋葬するように、砂浜に二人で埋めたことがある。折れた翼は、青春の挫折や失意を暗示している。それを <わすれないでね> と語りかけるところから、二人が共有していた過ぎ去った日々への愛惜をも感じさせる。

 別のところに書くための原稿で、私は上のように書き、書きためらって、頭を抱えていた。背後から覗きこんでいた、高校生になる娘が、「それ、違うと思うなあ」と言った。「わすれないでね、というのは、もっと秘密っぽいことなんじゃないの。たとえば、誰かの模型飛行機をイジメみたく、砂浜に隠してさ、そのときに翼が折れたのぢゃないかなあ。あの秘密は忘れちゃダメよ」と。まさか、とは思いながら、さらに頭を抱えてしまう。妄想が生れる。「二人が共有していた過ぎ去った日々」を「わすれないでね」と語りかけているのだとしたら、どうだろう。遠い昔に別れた女から、突然このような手紙が来たとしたら、これはほとんど脅迫ではないか。

 つまり、俵万智の作品は、誰に向かって「忘れないでね」と呼びかけているのか、ということで、解釈がさまざまになる。あとで書くように、これは俵万智の作品の構造的な最大の美点であり、私たちが今でも乗り越えられない壁を、このようにして彼女は越えていたのだということをあらためて確認しているところなのだが、とりあえず、私はこの作品をきっかけにして「短歌はどこから誰に向かって書かれているのか」ということを考え始める。

 さらに、このようなことを考えるようになったのは、半年の間、会員2の作品評を担当していたときに、強く感じたことがあったせいでもある。その月評の部分を再録する。



 さて、今回、会員2のみなさんの作品を読んでいるうちに、とくに、歳若い作者の作品を読んでいるうちに、現代の短歌の、大きな傾向と思えるものに僕は気づきました。このことを、是非とも書かせてください。
 つまり、多くの作品のなかに、二人称「きみ」が登場するということです。 順序不同で、いろいろ引用してみます。
 

 さて、これらの「君」というのは二人称ですから、見かけのうえでは、あたかも「君」に向かって短歌が書かれているように見えます。しかし、つぶさに見て行くと、これらのどの短歌も、直接的に相手である「君」に贈られる作品ではありません。君に向かって語られるように見えて、じつは、きわめて独語的な作品。これは現代短歌のおおきな特徴のひとつだと思います。



 歳若い作者に「きみ」という二人称が多く使われると書いたので、ためしに九八年の二十代会員作品特集を読み直してみる。総歌数三六二首のうち「きみ」「君」が登場するのは三十三首。「あなた」が四首。比較対象する資料はないが、私の印象としては、やはり多い。ただ、今に始まった傾向ではなく、九六年の二十代特集では総歌数二五二首のうち「きみ」「君」は二十首。あなたが一首ある。
 
 ただ「君」という語の数を数えているだけでは問題が見えて来ない。君という語が用いられるのは、現代短歌の固有の問題ではなく、もっともっと古くから、むしろ短歌特有の文体の特徴としてあったものだ。


以来、古歌には頻繁に登場するし、近代短歌にも、『みだれ髪』はいうまでもなく、


など、いくらでもある。しかし、それでもなお現代短歌のなかに、この頃増えつづけているようにみえる「君」というニ人称に、私は不思議な躊躇いと違和感を覚える。なぜだろう。手元にある女性作者の歌集を片っ端から読んでみる。

 『もし君と結ばれなければ』(岡しのぶ)。
帯文には「少女歌人の大胆表現」と書かれている。一七歳から一九歳までの作品だという。


など、歌集の前半に集中的に君(きみ)が登場し、総歌数一七九首のうち、四十四首にのぼる。約24%。「あなた」が八首。「あの人」が四首。そのほかに「汝」「彼」「あの人」「人」などもある。「君」はイニシャル「K」でも登場する。「君」と「私」は「ふたり」と書かれたり、「私たち」と書かれたりする。

 『サラダ記念日』俵万智歌集。

 総歌数四百三十数首のうち「君」が九十首。「あなた」が八首、そのほかに「君」を表すと思われる「男」が五首。「人」、「青年」など。「おまえ」が二首あるが、これはコンタクトレンズと鳥を、それぞれ、こう呼んでいる。「男」と書いて「ヤツ」と読むものもあるが、これも二人称ではない。「汝」と、さらに恋人を指して「サラリーマン」と書いているものが一首ある。


 この三首は並んで登場するので、「君」「汝」は、同じ人物を指すと考えていいだろう。『サラダ記念日』も、その影響をつよく感じさせる『もし君と結ばれなければ』も、とりわけ「君」の語の登場する度合いの強い歌集であり、しかも、「君」以外にさまざまな呼びかけの言葉が、「君」と区別のない使われ方で用いられていることに注目しておこう。

 『ギャザー』田中槐

この歌集にも、比較的に「君」が多く登場する。しかし、『サラダ記念日』より、もうすこし用心深い用いられ方がされている。


この「セミの羽化」の作品について、歌集の栞に書いた解説文で、加藤治郎は「都市の恋歌。おんなのこは、愛されたあと眠れないで、ひとり目をあけている。たぶん君は始発電車で帰るんだろうな、と思っている。セミの羽化とは、愛されてあたらしくなった自分自身の喩だろう。それを見てくれないで、君は帰るんだろうと、嘆いている。ちょっと幸福感に浸りながら」と書く。解釈としては、ほぼ完璧だ。しかし、加藤治郎のこの解釈はインターネットの歌会でのコメントだそうで、もし、私がそのとき歌会に参加していたら、「加藤さんは甘いなあ」と半畳を入れたかもしれない。「その読みには君の願望が混じっていないかい?」と。冗談めかして書くのではないが、「セミの羽化」というのは、朝早く公園でホンモノのセミの羽化を見ようという約束を反古にして、という意味でもいいではないか、と思う。もっと辛辣にいえば「セミの羽化」は愛されてあたらしくなった自分などではなく、単に性愛から醒めた、ということではないか、とも思う。「愛されてあたらしくなった」というのが、どうも男性の読み手の願望のようで、いごこちが悪い。田中槐の「君」は岡しのぶの「君」より、ずっと辛口なような気がする。

 『春原さんのリコーダー』東直子歌集。

「君」が六首、「あなた」が九首。そのほかに「ひと」「人」「その人」「わたしたち」「おまえ」「春原さん」「木村さん」「加藤さん」など。
東直子の歌集では、これらが、いろんな場面、対象によって丁寧に使い分けられている。恋愛対象としての「君」や「あなた」はほとんど登場しないといってもいい。


というような作品は、これがへるめす歌会の「題詠」の作品だからで、他は


というように、呼びかけるというより、突放して描写する二人称が多い。ただ一首、


という作品だけは、一連のなかにある


という作品と読み合わせると、丁寧に使い分けられていた二人称の理知的な処理のあいだから零れ落ちた傷口のような印象を受ける。逆にいえば、東直子の「君」も、岡しのぶの「君」とはそうとう雰囲気が違うということ。

『仙川心中』辰巳泰子歌集。

「君」が八首、「あなた」が二十首、「男」が七首。そのほかに「おまへ」が四首、あとは「あんさん」「男友だち」「男たち」「高瀬さん」など。辰巳泰子の「君」「あなた」も一筋縄ではいかない。


「あとがき」のなかで辰巳は「相聞歌を中心にテーマごとにまとめた」と書く。相聞歌?いや違うな、と私は思う。辰巳のこんどの歌集は、前の歌集より場面の雰囲気の描写が巧みになり、私小説としていっそう濃厚なものになっているが、そのぶん「相聞」としての機能は減少している。ここにいる「君」や「あなた」は語りかける対象ではない。

 さて、このあたりで、私にもすこし見えて来たものがある。
 辰巳は、あとがきで「相聞」という言葉を使った。しかも、私には彼女の作品が「相聞歌」にはみえない、というあたり。

 この文章は、古典和歌について書く場所ではないので、詳しい論証は省いて述べる。そもそも古典和歌のなかの「君」は歌集に纏められる以前に、じっさいに「相聞」としての機能をもっていたのだ。
 この場合の相聞とは通信(コレスポンデンス)そのものとしての機能である。現代の通信手段風にいえば、Eメールのようにして和歌は相手に送られたのだった。
 ところが、近代短歌における「君」はEメール・ラヴではなくなっていた。ここで、先に引用した白蓮たちの短歌を読みなおしてみてほしい。どう考えても、これらは実際に相手に贈られた作品ではない。むしろ「君」が登場することによって、自分自身を描こうとしているようにみえる。「君」は自分自身を映す鏡であったと言ってもいい。

 じつは近代短歌だけではなく、現代短歌の多くも、「君」が登場しながら、「君」に語りかけてはいなかった。いや、もっと厳密な書き方をしなければならないか。近代短歌が現代短歌に変わって行く間に、つまり、この国の戦争の期間を中心にして、「君」が短歌の表面に現れない時代が永く続いた。このことをゆっくりと跡付けてみる時間的余裕も、スペースも私にはない。かりに、『現代の短歌』高野公彦編のようなアンソロジーを、早捲りしてみるといい。さきほどは白蓮あたりまで引用してみたが、『現代の短歌』では、与謝野晶子から中城ふみ子まで、女性の側から男性を「君」と呼ぶ作品はほとんど見あたらないはずだ。


 山中智恵子の「きみ」も馬場あき子の「きみ」も、じつはこの文脈で引用するには保留がいる。が、まあ、いいとしよう。とにかく、現在の歳若い、とくに女性の作者たちに氾濫している「君」は、河野裕子の使う「君」に、きわめて隣接している、ということが解ればいい。


 もっとも現在的にみえるこれらの「君」も、しかし短歌人二十代特集に氾濫する「君」に直接繋がってゆくものではない。かぎりなく近いが、ある一点で決定的に違う。河野裕子の「君」も相手に向かって呼びかけるかたちで用いられてはいない。恋人や夫を「君」と書きながら、そこで確認されているのは作者本人なのである。

 では、どこから、現在の「君」は始まったか。もちろん「俵万智」から。冒頭でこのことに触れながら、ずいぶん回り道をしてきた、と笑われるかもしれないが。見かけのうえで、コレスポンデンスとしての、相手に語りかけるようなかたちの「君」が復活したのは、彼女の『サラダ記念日』からだった。そして今、短歌人二十代特集に氾濫する「君」は直接的にこの影響をうけていないものは、ない。


 じつは、もっと始めに断るべきだったが、私のこの文章は、女性の作品に現れる「君」について述べている。男性の恋愛の現在については、書くためにいま少し準備がいる。また、自分の論旨に都合のいい作品を抽出したような印象を与えないために、一九九八年の短歌人八月号二十代特集から、機械的に「君」「あなた」の使われている作品を引用してみた。その度合いはさまざまだが、ここに「君」と呼ばれているのはボーイフレンドや恋人である。

 いくつか気づくことがある。回想的な「君」もあるが、より多くは現在の「君」、前述したように、語りかけるようで、独語的。

『チョコレート革命』俵万智歌集。

「君」は四六首。あなたが五首。
 

 
この二首は並んで登場する。「折れたタバコの吸殻であなたの嘘がわかるのよ」という古い歌謡曲を思い出させる短歌。揶揄するわけではない。じつは、『チョコレート革命』には、「君」に向かって語りかける作品が激減する。こういう作品以外には。


 こういう具合に、語りかける部分がかぎ括弧で括られるということは、どういうことか。
『サラダ記念日』で顕著だった対詠(コレスポンデンス)型の詠み方が、しだいに、物語の描写に置きかえられていくということである。

『ベッドサイド』林あまり歌集 新潮社

「小説新潮」に一九九三年十一月号から、半年に一度ずつ、一九九七年五月号まで掲載されたもの。帯文には

 愛しいからだ、愛しい指、愛しい月日、、、、
 重ねた夜の一瞬一瞬から紡ぎ出されるエロティックな恋歌!
 こんなことを考えている女ってキライですか?

と書かれている。「こんなことを考えている女ってキライですか?」という表現は、この歌集を読む際にも、これから以後の女性たちの「恋歌」を考える際にも、キー・ワードになりそうな気がする。


総歌数一五一首中、「あなた」が一八首。「男」が十四首。そのほかに「そのひと」「このひと」「ひと」などが、相手の男性の呼び名として用いられている。『チョコレート革命』でも、すでに「君」という呼称は、その(いわゆる不倫という)物語のなかでは、私たちの
日常的な語感として窮屈になっていた。オトナの女としては『ベッドサイド』の「あなた」「男」のほうが自然かもしれない。

 この歌集は、私たちが愛読した『MARS☆ANGEL』や、『ナナコの匂い』より、そうとう低調だ、と思う。それは、短歌によって「性」を「描写」しょうという企画に囚われて、いちいちセックスの場面を説明してしまうという罠におちてしまったためだろうと思う。その描写も、むしろ、以前の作品に比べて、スクエアで、上品で、カマトトっぽく見える。しかしまた、ついに、はじめて短歌でポルノグラフィーが書かれたことは画期的なことだとも思う。
  


という作品が歌集の冒頭にある。ポルノグラフィーであることを宣言するように。ここには一切の「場面」がない。時間さえないと言ってよい。ポルノグラフィーというのは、そもそもこのように物語性を排除するものなのだ。
 


 これらの作品について、私は以前、本誌で次のように書いた。

  しかし「ナナコの匂い」のようにセックス=愛そのものを描こうとした短歌にあって、 行為のあとでわたしたちに残るのは、唇のなかのおちんぽではなく、「カーテンの向こ うの雨」の音であったり、「窓の外で小学生の吹くリコーダー」であったりするのだ。
  つまり、少女は恋人との空間が壊れることを恐れるからこそ、おちんぽをシンボル化す るのだ。林あまりの描く少女はいっも不安げで、その不安の起因するところを「MARS*ANGEL」の「お七」は暗示していた。「八百屋お七」の物語においてもっとも重要な点は、火事になればあの寺=非日常の別の空間にゆけ、そこでは抑圧された性が解放されるという願望だった。作者に即してそれを演劇的空間と呼んでもいいが、現代は演劇的な偽空間と真の空間が捻れてしまっているのだ。
 
 ある意味で、私の林あまりへのオマージュ(あるいは予測)は間違っていたかもしれない。
『ベッドサイド』は、『ナナコの匂い』のなかから、「カーテンの向こうの雨」の音や、「窓の外で小学生の吹くリコーダー」を取り払った歌集だといったほうが解りやすい。

 もう一度書く。ポルノグラフィーとは、物語性を排除するものなのだ。だから、短歌の背後に物語を想定して読むような、私たちの旧来の読み方では、『ベッドサイド』はひたすら空虚なものとしてしか読めない。

 俵万智が、短歌で「ドラマ」を書き、林あまりがポルノグラフィーを書いた。この両極端の間に、歳若い女性作者たちの「君」と「あなた」が点在する。図式的にいえば、こういうことになろう。

 しかし、これではまだ、私が私に設問していたもんだいは、解決しない。なぜ今「君」「あなた」という二人称が氾濫するのか、なぜ短歌はいま、「恋歌」の時代なのか。



終りに

『チョコレート革命』も『ベッドサイド』も短歌が一首で簡潔する一行の詩だなんて、考えてもみない。もちろん私たちも。一行の詩という幻想のスタイルの背後には、それを統べる「思想」があったのじゃないかな。この文章の最初に、プルサーマル計画のことを引用しておいた。あれは、ひとつの例に過ぎないけれど、あんな風にして「思想」=男性的価値がすっかり腐ってしまった時代なのだ、今という時代は。ながい間、「女」は、「男性的価値」が自分の中で達成されることを求められて来た。それによって相対的に自己が実現することを要求されて来た。ところが社会的情況によって男の価値観が否定されたとき、女たちも、当然、心のよりどころを失うことになるはずじゃないか。
  
 思想の時代が去って、恋歌。短歌としては、本卦帰り。しかし、歳若い女性作者に氾濫する「君」「あなた」は、相手に向かって呼びかけられたまま、虚空に漂っている。歳若い男性作者は、まだ恋歌に踏み込む勇気がないからね。というより、男たちが壊れてしまっているとき、相手に呼びかけることで女たちを確認するための鏡=「君」も壊れているのかもしれない。
 
 呼びかけているように見えて、相手に届かず、独語でありながら自分自身にも帰って行かない「君」と「あなた」。

■短歌人60周年記念号評論■ 1999/12/15