現代短歌の記号とあそび



 僕の村にひとりの狂人がいて、彼は自分の森の木に、ブナだとかカエデだとかいう名前がついていることに我慢がならなかった。彼は一本づつの木たちに、それぞれ固有の名前を付けて歩いた。彼が死んだあと、それらの名前を書いた分厚いノートが残されたが、それは日本語で書かれていなかった。ローマ字でもなかった。いわば彼独自の言語で書かれていた。もちろん僕らにそれは読めなかったから、その不思議なノートは棺にいれた。

 加藤治郎君、荻原裕幸君などの音声化できない記号だらけの「短歌」が話題になっていますが、それらを「言語遊技」の視点から批評していただきたく・・・・・・・・・・。

 これが小池光から僕に届いた手紙で、したがって僕は『マイ・ロマンサー』と『あるまじろん』を読みながら、そのあたりのことを考えようと思うのだ。

しかし、理屈っぽく言えば、何をさして「記号」と呼ぶ?なんていう検証からはじめなくっちゃならないかもしれないので、とりあえず、ここでいうところの「記号短歌」を引用しておこう。




 小池が「音声化できない記号だらけの短歌」というとき、ここにはすでに微妙な批評の方向性があるんだ。つまり、「音声化して三十一音」、これが「短歌」というものだとすると、「音声化」できないそれはいったい何だ?というきわめて簡潔な問いがふくまれている訳さ。そしてこの問いには、こうした「記号短歌」を読み手はどのように読むかという問いと、こうした「記号短歌」を彼らはなぜ書こうとするのかという問いが含まれている。じつは僕自身もときどきは「記号短歌」を書いているので、読み手の読み方も、書き手の動機もかなり正確に想像することができる。
 
「記号短歌」を「短歌」として読む読者は「音声化」できないはずの「記号」の部分も無理やり「定型」におしこめようとして読むんだな。たとえば「世界の縁に・・・」の場合、


というぐあいに読み、BOMBを二音に読めば▼が五つで、ちょうど七音、初句七音は塚本邦雄風だが、定型短歌だよ、と。
さらに、「言葉ではない!!!!・・・」の場合だって
 


というぐあいに!の数を定型に割り振って読むのだし、


だっておんなじだ。▼や!を「音声化」できなければ「空白の音」として、いそいで「定型化」して読む読み手を、僕自身はあまり歓迎しない。もちろん作り手の側でも、「言葉ではない!!・・」という「短歌」に引き続いて、
 


という作品を置いて「定型」を安心させようとしていたりもするのだが。
 



僕が記号短歌を書く動機というか、書きたくなる気分のなかには、そんなふうになんでもかんでも「定型」に閉じ込めて乙に済ましている「短歌帝国」に対する嫌悪感と、わずかながら「短歌帝国」を壊そうとする契機がある。加藤治郎君と荻原裕幸君に「帝国」に対する「嫌悪感」があるかどうか、僕は知らない。しかし、壊そうとする契機、もっと正しく言えば、「壊れる」ことによってしか言い表せない気分があることを、僕はよく理解できる。
その「壊れる」気分のことは最後に言いたいのだが、「壊す」気分について、すこし言っておこうか。つまり、「詩」なんかじゃ半世紀前に繁盛した「記号」が、「短歌」じゃなぜ今こんな具合かってことを。


 たとえば「詩」にあって「記号詩」には、

1 「記号」の「形」でなにかを表したい。
2 「記号」でしか書けない「伏せ字」。
3 「記号」で「詩」を壊したい。

という動機が、歴史的にあった。

1の例としては『春と修羅』に、ユスリカの幼虫を「∂γe打α」というように表していたことを思い出す。
「記号短歌」が☆を選ぶか▼を選ぶかという場合にもいくぶんか視覚的な選択がされるけれど、僕らの場合ほとんどワープロの絵記号を使うわけで、賢治の栄光より、電話のRRRRR・・・にちかい。
 
2の例としては『飛ぶ橇』の「若しそのことを・・・・・・。・・・なんていう・・・・・・、樺太の事情を知らない」などという一節を思い出す。

『あるまじろん』の、


などはこの傾向だ。もちろん僕らの時代に、検閲による伏せ字はきわめてすくないので、たぶん現代の「伏せ字」は恋人との自閉症的な内緒話であったり、もっとはっきり言えば一種の「失語症」であったりするのだろう。
 
3の例としては『ダダイスト新吉の詩』の「々々々々郊外電車々々」や『死刑宣告』の「寒流である−−●●●」などを思い出す。
荻原裕幸君は、いみじくも、


と書く。そして僕はここのところをもっとも強くいいたいのだが、たぶん彼らは「ダダ」ではなく、「披ダダ」なんだ。ダダは破壊しょうとした。そしていま、彼ら「披ダダ」は「破壊されている」とちいさく叫んでいるのじゃないかな。
 
さきの歌集でチャツプマンを生きてみせた加藤治郎君はこんどの歌集では「ハルオ君」を生き、そしてなによりも、『ニューロマンサー』のコンピュータ・カウボーイ、ケイスを生きようとした。まえの歌集でレイモンド・チャンドラーの世界を生きてみせようとした荻原裕幸君は、やはりこんどもフィリップ・マーロウを生きてみせようとする。彼らはコンピュータ時代の「壊れた探偵」で、ざっくばらんに言ってしまえば、ふたつの歌集は、短歌のバーチャル・リアリティなんだな。
 



ただ『ニューロマンサー』の世界は近未来の予言として加藤治郎君に強い影を落しているけれど、ふたりの歌集の世界は、あんなにまで、人体が「部分のつぎはぎ」に陥ってしまっているわけじやない。むしろたとえば、『私の夜はあなたの昼より美しい』の主人公に近いように思われる。コンピュータ言語の発明者でありながら、自分の言葉がどんどん失われていく失語症に耐えるために、「韻」を踏む単語を呟き続ける男。


 ふたつの歌集を読む際にたいせつなことはたんに「記号」が用いられているということではなくて、それらが壊れている僕らの「饒舌な失語症」を表現しようとしているということなのだ。「記号」は壊れていく僕らの、「言葉のノイズ」だから。

 さて「あそび」について書くのを忘れちまったが、これは簡単なことだ。かりに純正の「記号短歌」があるとする。それは


ということになるに違いない。いやこれでもまだ不十分だ。もっと正確に言えば、
 


ということになるはずだ。
そこまで壊れてしまわないこと、それが「あそび」なのさ。



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