「『菅家文草』詩篇の構成」を読む       2000/9/2同人誌「柑」



 月刊短歌雑誌「短歌往来」二〇〇〇年八月号に書かれた小池光のイタズラはとても面白い。

  藁半紙に筆ペンでさらさらと漢字を五つ書く。改行してまた五つ書く。また書く。四行に計二十個の 漢字を書く。字はわざと崩して草書風に書く。すると一見してそれは五言絶句であり、五言絶句にしか みえない。
  貴公の教養をテストしてやる、これが読めるか?といって隣席の同僚に差し出す。同僚は英語教師、 四十九歳、教師歴二十三年。真剣な表情で読み出 すところがおもしろい。うんうん唸って読んでいる。授業の空き時間すっかり潰して読んでいる。そのうち漢和辞典など持ってきて没入苦闘している。
 ただのアドリブ、無意味な漢字の羅列なのにね。

  樹 風 計 玉 投
  色 身 分 即 霞
  繍 恋 未 茫 々
  頂 薄 天 不 忘

  私のお筆先はひらひらすべってこんな二十文字を記した。樹の風はタマを投げんと計り、色気の身分 はすなわちアラレ。ぬいとりの恋は未だ茫々とするも、頂きのススキ、天を忘れず、というのが同僚の 到達した読解。
 (私)ぬいとりの恋とは何だ?
 (同僚)そりやあつまりまだ恋心がチヂに乱れてるってようなことだろう。
 (私)頂きのススキとは?
 (同僚)そりやあれさ、もう頭が薄くなっちまってススキみたいなのがそよいでるだけなのさ。それで も天を忘れない。決意だな。ジジイになっても頑張ろうということだ。
 (私)……‥……。
 (同僚)頂きのススキ、天を忘れず。う−ん、これはいい。杜甫だろう?
 (私)えっ、むにゃむにゃむにゃ…。
 (同僚)いや李白じゃない。だから杜甫だ。やはり杜甫がいちばんだ。当ったろう。
 いたずらもここまで見事に効奏すると手品の種が明かせない。言葉の意味は言葉それ自身の中になく、 あくまで意味を求めるココロの中に生まれるという言語の法則があったように思うが、いや、まったく そうだ。

 これは、私たち戦後世代がいかに漢文・漢詩から切れているかということをじつに見事に描いて見せた文章だ。

 たとえば、江戸時代には、

  李太白 一合づつに詩を作り
  四日めに あき樽を売る李太白

なんていう「川柳」があった。これは「李白一斗詩百篇」という、杜甫が李白のことを詠じた句のもじりで、一斗で百篇の詩を作るなら一首は一合だとか、李白が詩を書き始めると四斗樽が四日でからになるとか、茶化しているわけ。
 
 都々逸でさえ、

  床の番して 寝られぬ耳へ
    空山 人を見ず
    但(た)だ人語の響くを聞く
   隣座敷のささめごと

こんなふうに「漢詩」をアンコに挟んだ都々逸があった。

 とにかく、現代は「漢詩・漢文暗黒時代」と言っていい。
 このような時代に、なにを思ってか、花笠海月が『菅家文草』を読み返し、「柑」に六回にも亘って長文の評論を書いた。でもって、私もまたこの感想文を書くために、暑い夏の幾晩かを、まるで受験生のようにして漢詩に向き合うという仕儀に至ったのである。、花笠の試みは、漢詩を読もう、しかも菅家文章などという厄介なものを読もうとする試みだけでも、私の持ち点の九十点ほどはプレゼントしていい。

 菅公・菅原道真について、今、もっとも多くの人が読み知っている書物は、『陰陽師』(岡野玲子著 原作夢枕獏 白泉社刊)というコミックの七巻目、「菅公 女房歌合わせを賭けて囲碁に敵(あら)たむ」ではないかな。
 花笠の文章でも、そして、張籠二三枝『物語・菅家文草』(近代文芸社)でも、冒頭に「恩賜の御衣」のことが登場するが、はたして現代の少年たちが恩賜の御衣を知っていたりするだろうか。『陰陽師』ならば、読んでもいよう。

『陰陽師』七巻目のの冒頭ちかく、道真は、真葛という女(め)の子に、

 「おまえか!太宰府に送られて、めそめそ詩を書いていたオヤジは!」

と呼ばれるようなかたちで登場するのだった。

 怨霊・雷神としての道真が、天徳四年(九六〇)の内裏歌合の際に、雷を落とそうと試みるが、陰陽師・安部晴明に阻止される。この歌合わせで敗者となって絶望のあまりに急病死した壬生忠見を怨霊の仲間に引きずり込もうとする試みも阻止される、というのが『陰陽師』のあらすじ。

  しのぶれど色にいでにけりわが恋は物や思ふと人の問ふまで  平 兼盛
  恋すてふわが名はまだき立ちにけり人知れずこそ思ひそめしか 壬生忠見

 この「しのぶれど」が勝ちとなり、「恋すてふ」が負けになったために「不食の病」に取り憑かれて忠見が死んだというエピソードなら、私たちもよく知っている。これと菅公=怨霊・雷神とを結びつけた(夢枕獏の)手腕は見事だし、じつは、花笠の文章の背後にみられる「文人貴族」のヒエラルキーとも無関係ではない。平兼盛は光考天皇の子是貞親王の曾孫であり、三十六歌仙のひとりながら、まったくの微官に終わった壬生忠見とは出自におおきな違いがあった。道真の家も、もとは「土師連」、花笠の表現を借りれば「それなりに名のある氏族」であったが、道真が右大臣になったときのライバル、左大臣時平に比べれば、相当に無理をして上り詰めた地位であった。
 『大鏡』には、筑紫の国で死んだ道真が一夜のうちに北野天満宮に移り住んだり、

  つくるともまたも焼けなむすがはらやむねのいたまのあはぬかぎりは

という和歌が炎上した内裏の裏板に残っていたり、時平が三十九歳で死に、その一族もそれぞれ短命に終わったことを「手強い物の怪」と関連づけて書かれていたりしたことが、菅原道真伝説の残像として『陰陽師』にも引き継がれているのだが、花笠は、むしろ、こうしたエピソードを捨てて、徹底して『菅家文草』のテキストの構造に迫ろうとした。
 花笠の、いわば構造主義的な読み方を、私は一方では強く評価し、一方では軽い不満を感じる。

 たとえば、和歌・漢詩を時系列的に考えてみると、道真が死んでから二年後(九〇五)には『古今和歌集』が撰進されている。『菅家文草』を醍醐天皇に献上した日から数えて、五年後なのである。菅原道真→親友紀長谷雄→淑望(長谷雄の子、「古今集」の真名序を書く)→紀貫之とう系譜からは、(菅原ほどではないが)紀氏という、もうひとつの(出自のよくない)文人貴族の生き方や鬱屈も見えて来るし、漢→和、という文学表現の表舞台の転換も見えてくるはずだ。
 また、花笠の論考は『菅家文草』までで終わっているが、いつか機会があれば『菅家後集』にも触れてほしい。
 加藤周一『日本文学史序説』のなかには、『菅家文草』『菅家後集』について述べた、激烈かつ美しい文章がある。それを引用して、私の任を終える。

  殊に道真の詩が発見した新しい題材は、詩人の生涯そのものであった。たとえば「四十四年人 生涯 未老身」ではじまる「対鏡」(『菅家文草』巻四、二五四)の一編。鏡中に白髪をみて、胸中の火は消
 えず、意はなお少き日の如くであるが、青春は去って帰らずという。「正五位は貴しと難も 二千石は 珍しと雖も」、鏡を見て心がくじけたというのである。多くの恋の歌は、生涯の一時の激しい感情をう たうもので、生涯の全体についての見通しを語るものではなかった。四四歳の野心的な知識人が、「正 五位は貴しと雖も 二千石は珍しと雖も」といったとき、彼は正五位、二千石をあらかじめ相対化し、 距離を以て眺めていたはずである。しかし正五位・二千石を相対化するためには、生涯の全体の意味を あらかじめ意識していなければならない。その意識の明瞭な表現こそは、日本文学史上の画期的な事件 にほかならなかった。
 
  『菅家後集』の詩はすべて、失意の詩人がただひとりで作り、ただひとりで集め、死後親友の紀長谷 雄に託したといわれているものである。書いては焼き、焼いてはまた書き----書くことが無駄だと考え 、しかしそれでも書いたときに、日本の抒情詩の最高の傑作の一つは生れた。題材の拡がりにおいて、 描写の生彩において、殊に肺腑を貫く悲痛な叫びの迫力において、『菅家後集』、殊に「叙意一百韻」 に匹敵するものは、前後にほとんど類をみない。

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