一瞬の他者


           昭和六十二年度短歌人評論エッセイ賞


1

 「アンナ・カレニナ」が、大小説である所以は、そこに描かれたカレニナ夫人の心理が心理学者の端倪を許さぬがたにめではない。そこに彼女が肉体をもって行動する一性格として見事に描かれているがためである。こんな事を今更語ると、人々はわかり切った事を言うというであろうが、人間の性格は心理にあると信ずる迷妄から人々は決して脱してはいないのである。 (アシルと亀の子W)

 ここでジャック・コーンというイディッシュ語劇場の"もと俳優"が、ほんとに存在したかどうか、そしてかれがほんとにカフカの友人であったかどうか、ということはどうでもいいとおもえてくる。いいかえれば俳優ジャック・コーンの振舞やお喋りについて語る「わたし」は、作者の「わたし」という位置からまったく抜け出て、作品のなかを自由に歩きまわり、ワルシャワのイディッシュ語作家クラブでコーンに出遇う物語のなかの「わたし」になりきっている。そうであるかぎりコーンが実在したか、カフカの友人であったかなどと問うことは、作品にとってどうでもいいことなのだ。 (「私」および「彼」の位置)

 ここに引用したのは、一方が一九三〇年に小林秀雄によって書かれたもの、一方が一九八一年に吉本隆明によって書かれたものである。いずれも、日本の小説に登場する人物たちが、作者の単一なまなざしに操作される傀儡であり、いきいきとした肉体をもって行動する人物として描かれていないことを批判するために記述された部分である。この間、五〇年。私たちは、このようにわかり切った事が繰り返し批判されなければならない日本の小説の不毛を、彼らとともにつらく嘆くこともできよう。あるいは一九三〇年と現在との世相的な類似や、吉本隆明の評論の回顧的な色調を指摘したりするかもしれない。
 しかし、私がふたつの文章を引用した意図は別のところにある。それは、これから述べようとする「語り手」という概念を、すこし明確にしておきたかったからだ。アンナ・カレニナが肉体をもって行動する、と書かれる場合、アンナ・カレニナが作者とは別の存在として区別されている、と考えてよい。しかし、吉本の文章で作者から分離されようとしているのは、ジャック・コーンという老俳優ではなく、ジャック・コーンと出遇った「私」であった。この「私」を、いま「語り手」(短歌の場合「詠み手」じゃないか、と思われなくもないが)と考えておこう。ついでに吉本の同じ文章の後半部分を引用しておく。

 はじめに作品の「わたし」という位置が、確定的に語り手の次元に存在しているために、この「わたし」は、すくなくとも三重には累層された「わたし」の陰影の世界を出現しえている。わたしたちはアイザック・B・シンガーの短篇小説を読んで、たとえさして感銘をうけないばあいでも、つらい思いを味わうことはまったくない。それはシンガーの作品が「わたし」というときには、たしかに作品のなかでだけ生き、作品のなかで語っている「わたし」であり、ほとんど独立した語り手「わたし」という人格さえもっていると見倣していいほど、作者である<わたし>の情念とはべつになっているからだ。

2

 私たちの、いわゆる「私性」論議に、常に見え隠れするようでいながら、決して明瞭に意識されなかったもの、それがこの「語り手」の存在であった。短歌作品から「語り手」の存在を消去して「私性」論議をおしすすめてゆくと、結局は、事実か虚構かという二元論におちつく。たとえば、

 兄と共に戦わざりしわれの手といもうとの脛冬まつ傷ら
                         平井弘
この作品に登場する「兄」が、実在した、とか実在しなかった、とかいうように。

 アカハタ売るわれを夏蝶越えゆけり母は故郷の田を打ちていむ
                         寺山修司
この作品の「われ」や「母」が事実に反するか、否かというように。「作者」と「作品」との間に、「語り手」をさしはさむようにして考えてみるならば、こうした、作品中の兄や母が、あるいはもろもろの人物が事象が、事実であるか虚構であるかということは、どうでもいいように思われはしないか。吉本隆明がシンガーの小説から作者である<わたし>とはべつの、独立した語り手「わたし」を感じとったように、私たちもまた、短歌作品から、作者とはべつの語り手を感じとることができれば、それでよいのではないか。

 このように書いてくると、作者とはべつの語り手の想定については、すでに岡井隆の、「私文学としての短歌」にも登場していたではないか、と考えられるかもしれない。たしかに岡井隆は一九六〇年代のはじめころ、作品のなかの「われ」と作者との関係を、

@「われ」(あるいは、そういう代名詞の出てこない歌なら、かくされた「われ」すなわち一首に盛られた感情表白をしている人物・一首に表現された観察を行なった人物)イクォール作者という場合

A作品における「われ」と作者との問に第三の人物が介在して、「われ」と作者を媒介する場合。たとえば、「思想兵」とか「ナショナリスト」と呼ばれる人物の表白であり自叔であるという意味では、従来の歌の常識とする「われ」の第一の方式を作品面で保持しつつ、その歌の作り手、あるいは歌い手を仮構することにより、作品世界に一種の客観性、普遍性を付与しようとする。

B一首の歌に三人称の主人公を仮構し、そこに作者の分身を定着させようという方式。この場合には、歌の作り手(歌い手)があくまで作者であるという意味で、作者側において第一方式が生きているわけで、第二方式と対蹠的。

というような、三層の関係の可能性で把えようとしていた。この二番目の、作品における「われ」と作者との問に介在する第三の人物こそ、意図的に作者と区別された「語り手」である、と考えられるだろう。そして、たしかにそのとおりなのだ。かたちのうえで、作者と語り手が区別されている作品について、私たちは、はるかに時間を遡って検証することもできる。たとえば、

  熱田津に舟乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな

 額田王のこの短歌は、左注に「天皇の御製なり」という異伝をもつ。この異伝を、岡井隆の「第三方式」に強引に結びつけ、天皇の歌に三人称の主人公「額田王」が仮託された、と考える愉快な空想も、まったく閉じられるともかぎらないが、ふつうに読むならば、この作品は、額田王が天皇になりかわって詠んだ歌と考えられる。つまり歌の作者は額田王であり、歌の語り手は天皇である、と。
 万葉集にはさらに、防人を歌の語り手とする大伴家持の長歌と短歌も残されている。長歌もたいへん美しい作品だが、ここでは短歌のみ引用する。

  海原に霞たなびき鶴がねの悲しき宵は国辺し思ほゆ
  家思ふと眠を寝ず居れば鶴が鳴く葦辺も見えず春の霞に

 これらは、額田王の例よりさらに明瞭に、かたちのうえで作者家持と語り手防人が区別されている。そして、題詞の「防人が情の為に思ひを陳べて作る歌」という表現は、「防人が情になりて」と読むべきだと思われるほど歌の表面から大伴家持は消え去り、語り手防人の姿が生き生きと感じられる。

 さて、私はここまで、かたちのうえで作者と語り手が区別されている作品、という表現を用いてきた。それは、短歌作品の前後に、「この歌の語り手は作者ではない」という指標をもっているということだ。たとえば家持の歌の題詞のように。また岡井隆の「思想兵の手記」という小題のように。それでは、そうした指標をもたない場合(いうまでもなく私たちの短歌のほとんどはそうなのだが)、すべて「この歌の語り手は作者そのものである」と了解すべきだろうか。むしろ、事情はまったく逆ではなかろうか。ある作品が短歌として書かれ、短歌として読まれるとき、それらの作品は常に「この歌の語り手は作者そのものではない」と叫びつづけてきたのではなかったか。つまり、短歌という定型詩は、その様式そのものが一種の擬制であり、擬制としての様式にそって言葉を置き並べてゆこうとするとき、あらゆる作者はそのつど、語り手を創作しつづけているのではなかったか。万葉集の前期にしてすでに「代作者」額田王の存在が可能であったのは、その作品には、その作品一回かぎりの語り手が可能であった、ということであり、そうした背景には、あらゆる歌にその回かぎりの(作者そのものではない)語り手が可能である、という認識があったのだ。さらに、なによりも私たちがこの小さな定型詩を弄びながら、自分の本当に表出したい感情と様式との問に、さしたる分裂を感じないでいられることそのものが、このことの端的な証左ではないか。

 岡井隆の三つの分析を、私は次のように読みかえてみたい。
@「われ」(あるいはかくれた「われ」)は作品の語り手であり、作者そのものではない。
A作品の前後に、たとえば「思想兵の手記」というような注記や題詞がある場合には「思想兵」といったようなもの、つまり、明記されている人物が作品の語り手である。
B一首の歌に三人称の主人公が登場するならば、その三人称の人物が作品の語り手である。


3

  たはむれにかぶせくれたる面頬の汗くさき闇もあたたかかりき
                          永井 陽子

 私はこの作品を、一九八七年一月三日の「朝日新聞」から引用する。佐佐木辛綱が『いま相聞歌が新しい』という大見出しのもと、″あなたも作ってみては″という、短歌への誘いを行なっている文章からの再引用である。引用した背景を知るために、佐佐木の地の文も引用しておく。

 「面頬」は、剣道の防具、いわゆる面のことである。汗くさい面をかぶせられた。かぶせた相手への好意をうたっている。三首とも恋愛ムードの歌で、どれも相手に対する好意を表現した歌である。現代は電話の時代だが、電話ではちょっと言えない、つまりふだん着の言葉では言えない内容がうたわれている。照れてしまうだろうし、あえて日常の言葉で言えば汚らしく、でなければ調子のいい口先だけの言葉になってしまうだろう。
 (中略)
 自由に、思いのまま、五七五七七で書いてみればいい。型が、言葉の音楽性が、そして短歌形式の千三百年の歴史と伝統とが、そっと後押ししてくれているのである。

 佐佐木の文章は、短歌への勧誘や啓発という目論見のために書かれたという事情を割り引いて読んでさえ、驚くほど楽天的な印象を与える。しかし、「ふだん着の言葉では言えない内容」と言い、「型」や「音楽性」や「歴史と伝統」が「後押ししてくれる」と書かれるとき、むしろ佐々木の文脈とは反対の意味において、短歌が擬制としての様式であり、私たちがその様式を選んで作品を書く場合には、そのつど、その作品のための語り手を用意する、という、「短歌」そのものの構造が読みとれるはずだ。「電話ではちょっと言えない」ような内容を伝えるために、私と恋人との問にひとつの様式がさしはさまれた時、すでに私と様式と語り手とは分離しはじめている。
 むろん佐佐木幸綱が、歌の語り手と作者が分離している、と述べているわけではない。短歌作品が電話のかわりに、あるいは電話を補って、恋人である相手にじっさいに語られることの可能性を信じている点で、作者と語り手の、強い同一性を信じる姿勢がうかがわれる。

 今、かりに佐佐木の文脈にしたがって永井陽子の作品を解釈してみようか。

 たとえば六月の午後。(あるいは二月の朝でもいい)少年がひとり剣道の練習に励んでいる。恋人である少女が訪れ、少年は面頬を脱ぎ、威儀を正して一礼したのち休憩する。少年の傍に来た少女は面頬を見、(あるいはそれに触れ)額に汗をかがやかせている少年に、「面をかぶるとどんな感じ?」とか「どんなふうに見えるの?」とか「暑い?」とか尋ねる。「ほらかぶってごらん」と言い(あるいは何も言わないかもしれないが)、少年は面頬を少女にかぶせる‥‥たとえばこれが県大会の予戦、(あるいは決勝戦)に勝ったり(あるいは敗けたり)した後に、応援に来た少女との間の光景と考えてもよい。剣道少年は年配の師範でもよい。ただし、少女はういういしい感じの少女でなければならない。夜、電話をかけた(あるいはかかってきた)時、面類をかぶせられた時の感想を、「なんだか汗くさくって、暗くって…」とまでは伝えたが、「あたたかかった」という言葉は少女の胸に秘められたまま言葉にならなかった。(あなたに抱かれているような感じであたたかかった)とか、(あなたが好きだからあたたかかった)という気持ちは、ついに、少女にとって電話では伝えることのできないものだった。(佐佐木の解釈の仕方では)そのように、ういういしい少女でなければならないことになる。
 そこで、その言葉が、いま短歌によって伝えられようとしているのか?。まさか。

 実のところ、むろん私たちはそのようには考えない。なぜならば、「あたたかかりき」という言葉は、作者(永井陽子)自身の口からは決して語られない、いわば発語される機会の失なわれた言葉だから。仮にこれらの言葉が日常の現場で伝えられるならば、「汗くさき闇」と「あたたかかりき」にはさまれた「も」の字に表現されている心理的な屈折や、「たはむれにかぶせくれたる面頬」という当事者以外にもたやすく再現される情景の分節的な表現はとられないはずだ。恋の現場では「あたたかかりき」一語ですむ。たとえその表現が口に出しにくくとも、「たはむれに‥‥」と語り始めることはない。
 永井陽子のこの短歌は、佐佐木の書くように「電話ではてれくさいので短歌にして」恋人に書き送られたものでないことはあきらかだ。むしろ、私たちがこの作品の表層の、言葉の肌ざわりだけをたよりにして作者自身(正確に言えば作品が作られた動機)に近づこうとする時、「あたたかかりき」という言葉が贈られるべき相手は、すでに不在であるという印象を強く感じる。剣道少年(青年)はすでに死亡しているか、あるいは少くとも恋愛は終わっている。

 むしろ、次のような解釈のほうが、佐佐木の読み方よりは面白いかもしれない。
@ 戦争未亡人の回顧。召集令状の届いた翌朝、時世がら粗末ではあるがよく手入れされている武具、防具一式身につけ、ひと汗流したあとで、若い妻にたわむれに面頬をかぶせた。夫は戦死し、「汗くさき闇もあたたかかりき」という妻の言葉は、語るべき相手を失なったまま、妻の胸中に残り、四〇年後に短歌作品となった。
A 事故死(あるいは突然の病死)した少年へ哀悼。高校の級友たちの前で、その少年の恋人と目されていた少女によって語られる少年の生きの日の回顧。
B 恋愛が失なわれたあとで、女性が男性に書き送った手紙。ながかった至福の時間をよびもどすようにして、あの時はこうだった。あなたはあんなにも優しかったと、相手がほとんど忘れてしまっている具体的な場面が、波状攻撃のように繰り返し述べられる。

 このほかにも、さまざまな発語のきっかけを想像することができるだろう。これらは、いずれも(生きものとしての)作者の口から、この作品の意味内容が、実際に語られる可能性を想定して解釈してみた、ある意味では悪い戯れである。悪い戯れではあるが、これらのことから、すくなくともふたつのことが私たちに明瞭になる。
 一つは、この作品の言葉は、恋愛の当事者以外の第三者を聴き手として要請している、ということ。@の回顧談は、戦死した夫のことを知っている老婦人に向かって語られることがもっとも効果的であろうし、Aの追悼文は言うまでもなく級友の前で。Bは、むろん、現在のあなたと、あの時のあなたは別人のようである、という意味で、第三者(元恋人)に語られるのだ。
 そしてもうひとつ、こうした悪い読み方の背後から、突然現れるようにして、明瞭になったこと。私たちが作品から作者(永井陽子)に近づこうとして、結局は「語り手」に出会っていたのだ、ということである。


4

 たはむれにかぶせくれたる面頬の汗くさき闇もあたたかかりき

 作品を作品として、言葉を言葉として読むとき、「あたたかかりき」と語る語り手、永井陽子という名をもちながら、生きものとしての永井陽子とは別の語り手「永井陽子」の存在を、私たちは感じることができる。語り手「永井陽子」は作者永井陽子からほとんど独立した、生き生きとした存在として感じられる。永井陽子の短歌を読む時には、生身の永井陽子が「電話の代わりに」短歌で喋る、というように考えるのではなく、語り手「永井陽子」を感じ取ることが、とくに重要だと思われる。このふたりの人物=語り手「永井陽子」と生身の永井陽子が似ているのは、なにか壊れてゆきそうなものを、必死に耐えている表情、だけである、と言ってもよい。語り手が、恋愛の擬似表現に耐え、「あたたかかりき」と語りつつ、さらに言いもどかしい激情に耐えている表情と、作者永井陽子が様式=疑似体制の語り手と自分自身の混濁を防ごうとして歯をくいしばっている表情とが似ているのである。
 ときおり、永井陽子の短歌作品に対して、作者の肉声が聞こえない、とか(せめて上半身)裸の作者の姿が見たいとかいう批判がかわされる。しかし、永井陽子の作品から作者の姿は見えなくとも、語り手の姿はありありと見えつづけている。

    事実。
  さにつらふビデオを観れば乙女子の永井陽子と名のれるあはれ
                         高橋 慎哉

    リンスをする番長、といふ漫画があった。ますます寂しい
  リンスしつつ頬がゆるむにベーターの「永井陽子・行かせて!」を思ひ
                         仙波 龍英

 『短歌人』一九八五年十二月号と翌年の二月号に、相次いでこのような作品が掲載された。アダルトビデオに登場する少女が短歌人編集委員のひとりと同姓同名であることを、無邪気に楽しんだものかもしれない。しかし、これらが詞書きさえつけられて『短歌人』に発表されるとき、「短歌人」の永井陽子のイメージと、アダルトビデオの永井陽子のそれとの問の大きな(あるいは小さな?)差異を楽しむ動機があったはずだ。『短歌人』という結社誌全体を一種の詞書きとして作品を読む読者の側からみれば、そのことはさらに強く読みとられると言ってよい。しかし、ここで、「着衣の陽子」と「裸の陽子」として対比されるのは作者永井陽子とアダルトビデオの少女ではない。作品の語り手「永井陽子」とアダルトビデオの永井陽子、このふたりの「永井陽子」なのである。
 私たちは、永井陽子の作品(のつらなり)から、語り手永井陽子についてのイメージを抱く。長い間の読者にとっては、それはきわめて統一されたイメージで、ほとんどひとつの人格と呼んでよい。すこし露骨な言い方をすれば、生きものとしての作者永井陽子は、すぐにでもビデオの少女永井陽子といれかわって生きることができる。しかし、作品を通して私たちにかたちづくられた語り手永井陽子は、ビデオの少女のように生きることはできない。高橋慎哉と仙波龍英の短歌は、このことをたしかに事実として楽しみ、そして寂しがっている。
              かっこ 
  曇天にかつこかつこと鳴る羯鼓たれにか逢はむたれかに逢はむ
                         永井 陽子

 作中の諸人物がめいめいの鏡をもって相手を映しているように描くとは、諸人物を作者一人の鏡に映るようには描くまいという事だ。では全小説横構を統制する作者の思想の鏡はどうなのか、その鏡は確定した単一な切り口を見せざるを得ないではないか。
                  (小林秀雄「私小説論」)

 たれにか逢はむ・たれにか逢はむ・・・・これはほとんど反語である。この反語を語る時、作者永井陽子は、作品の中の他者のまなざしによって語り手「永井陽子」の後ろ姿を描きたいたい、と考えている。しかし、剣道小年(青年)が他者として一瞬のあいだ登場しただけで、私たちはあれほどの戯れのような解釈をしたりする。あの解釈は恣意的だから悪ふざけなのではない。むしろ、通俗的にありふれすぎている解釈だからこそ悪ふざけなのだ。佐佐木のように、「面頬は、剣道の防具、いわゆる面のことである----」と、このように解釈をはじめた瞬間、私たちはそれぞれに自分が強いられている(あるいはほとんど強迫されている)既存のイメージでその少年(青年)を想起し、既存のイメージのなかに、作者そのものをでっちあげる。作者永井陽子が歯をくいしばって耐えていたのは、こうしたフレームアップに対してだったかもしれない。私たち読み手は、それぞれが、あらかじめ強いられたイメージによって、汚れすぎている。

 ほじめのころ、ひんばんに登場していた作品のなかの他者が、いつのころからか永井陽子の短歌から消えた。それにしたがって、作者と語り手永井陽子の問にみられた、いくぶん痛々しい印象を与える分裂も見られなくなった。作者と語り手は、和解した友人のように手をとりあっているように見える。語り手「永井陽子」が、作者永井陽子と、しつくりいく存在へ、成長したように見える。
 小林秀雄は、引用文に続いて、ジイドの「贋金造り」の方法を分析したうえで、横光利一の純粋小説論に関して、次のように書く。

 作家たちは、何を描こうと選り好みはしなかったにせよ、描き方というものを表現の対象とすることは想像してもみなかったが、そういう想像してもみなかった事が実際に起って来た。描き方というものを材料として、作品を創らねばならないような妙な作業を作家たちは事実強いられるようになったのである。

 小林の書くところは「小説を書くことを、小説に書く」、ということ、つまり「小説の小説」である。永井陽子も、しばしば「短歌の短歌」を書くことがある。

  ただ一挺の天与の楽器短歌といふ人体に似てやはらかな楽器
  歌よその天与のうつは差しのべて盛らなむ秋の碧のかぎりを

たとえばこうした作品では、短歌を、客体化した「楽器」や「うつは」としてとらえることによって、むしろ「楽器」の演奏者、あろいは「うつは」で汲みとる人、つ、まり、作品の語り手を、自分自身の方へひきよせようとする仕草がみられる。私が「疑似体制としての様式」と呼ぶ短歌形式を、永井陽子は、やさしい呼び方で「楽器」と表現する。いずれにせよ、短歌についての短歌は、短歌の語り手(楽器の演奏者)の後ろ姿を描くことによって、語り手を描いている作者そのものが映しだされる二重の鏡の部屋である。永井陽子は鏡の迷路のなかで、歌の語り手が、なお彼女に親しい存在であるかどうかを確かめ続けている。様式=楽器は手に優しいか?と。
                     フォルテ
 春雷が今し過ぎたる路上より起ちしなやかには歩む
                        永井陽子

この「」は、作者永井陽子と語り手「永井陽子」の親和感の絆として用いられている。比喩表現は、本来的に、作者と語り手との間の通路である。語り手が「は歩む」と語るとき、すなわち人体をのように感じたのは、作者自身であったから。そこで、私たちはできるかぎりの既存のイメージに汚れてはいない、語り手固有の比喩表現を語らせることで、その語り手が、作者固有の語り手であることを確かめようとする。

 起ちあがるときにはたしかにf だったのだが、いまはすこしよそよそしい感じの「人」にすぎない。------いや、あれはたしかにf だ!と繰り返し自問するようにして、、永井陽子は「」の比喩を続ける。

  譜を抜けて春のひかりを浴びながら歩むよ人体のごと
  春秋人を待たずといへど歩み来る長身はいまたをやかなf
  丈たかき斥候(ものみ)のやうな貌(かほ)をしてが杉に凭れてゐるぞ

 永井陽子は、歌の語り手が彼女に親しい存在てあるかどうかを、たしかめつづけている。

 作品の中の「私」は、私である、と言い放つこと、すなわち作品の語り手と作者である私とはまったく同一のものだ、と、たかをくくっている問に、作品の語り手が、作者である私たちにとって、ひどくよそよそしい、のっペらぼうのような表情にかわってしまうことを、私たちはしばしば経験している。
 
すくとくとも「」という一瞬の比喩に照らし出された語り手「永井陽子」は、剣道少年(青年)という一瞬の他者に出会っていた語り手「永井陽子」にもまして、たしかな、生き生きとした存在として感じられる。そのかぎりで私はこの文章に作品を引用した歌集『ふしぎな楽器』に絶大な賛同を送るつもりだ。しかし、私たちは、なおも怖れつづけている。あの「」が、よく近づいてみると、たちまちのうちにのっぺらぼうに変ってしまっていた、というような事態を。そのことによって語り手もまた、たちまちのうちにのっぺらぼうなってしまうことを。作者にとって、語り手が、よそよそしいのっペらぼうのように感じられるということは、様式の語り手が、ただ様式のために語りつづける存在として感じられるということだ。いいかえれば、「短歌形式の歴史と伝統」という死霊が、たわごとを呟きつづけているように感じられるということだ。そして、そのように感じられるとき、短歌、このちいさな定型詩の様式そのものが、「秋の碧のかぎりを盛るうつは」のようにではなく、なにかしらしらじらしい、現実へのてがかりを失なったもののように感じられるだろう。

 いうまでもなく、語り手がのっペらぼうであること、つまり語り手が、私たちにそしらぬ風情の、いつものんびりした安定した顔を見せているのは、むろん、「作品の語り手」がそのように望んでいるわけではない。


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