空の節奏、地の韻律
というように書く。
用語としての「韻律」は美妙ののち、微妙に揺れ始める。大正二年、北原白秋は、
と「破調私見」に書き、昭和十年、萩原朔太郎は、「芭蕉私見」につぎのように書く。
と書いているので、美妙のアクセントによって音数律を分析しようとする試みと、白秋や朔太郎たちの「韻律」の理解との間には、かなりの隔たりのあることがわかる。
山田美妙の時代に、「韻律」という言葉が「韻」と「律」という語の結びつきで造語され、それまでにあった「律呂」や「声(音)調」や「韻格」というような言葉をたちまちのうちに駆逐していった経緯のなかで、「韻」と「律」が担っていたそれぞれの意味も変容していったはずだ。
というふうに書いてある。呂と律はそれぞれ呂旋、律旋という、楽曲の旋法のことで、雅楽の六調子のうち、壱越調・双調・太食調は呂旋、黄鐘調・平調・盤渉調は律旋に属していたようだ。兼好法師は、呂の旋法は中国のもので、日本の音楽はもっぱら律の旋法が用いられていると述べているのだ。兼好よりずっと後の時代、義太夫について書かれた『竹豊故事』にも、
と書かれている。さらに後の時代、北原白秋は「進歌の律呂 譜と納め…」と唄っていたりもするが、これらの「律」は次に述べるような「律」とはかなり違っている。
というぐあいに書いていたのだった。もちろん、上野千鶴子の言葉には、なんとなく毒というか、短歌に対する揶揄の気分が感じられるし、塚本邦雄の「黄金律」にも、「奴隷の韻律」という、対極の批判を経た上での、短歌定型に対する、蹉跌というか、自虐というか、そんな気分と、それにもかかわらず定型を表現の手段として選びつづけた歌人の逆転した誇りがないまぜになっていると思われるのだが、じつはこの黄金律を保証しているのはたいへんあっけないものなのだ。
たとえば「道浦母都子」を回文読みすると「子供ら打撲症」になり、塚本邦雄は自分の名前を「鬼来とも勝つ」と回文読みした。一方、マルセル・デュシャンの名前の綴りを組み替えると、「塩の商人(マルシャン・ド・セル)」という言葉になり、デュシャンとマン・レイが共同製作した映画の題名は「アネミック・シネマ」(anemic cinema)であった。このふたつの言葉遊びの違いのもとになっている日本語の特徴、つまり、「みちうらもとこ」が「こともらうちみ」になるという特徴が、「黄金律」=五・七・五・七・七の音数律を保証しているのだ。
「みちうらもとこ」が「こともらうちみ」になるということは、「み」や「こ」がそれ以上分解できない最少の単位=「音節」であり、それが「ひらがな」ひとつにあたるということなのだ。「音節」という語を最初に用いたのは、「国語の音声上の特質」(昭和二年)という論文だった。神保格はその中で、日本語の単位は子音+母音、あるいは母音のみで成り立っていて、子音+子音+母音や、母音+子音という組み合わせはない、と述べ、さらに「日本語の各単位=音節が同じ長さの意識を伴う」ことが、五七調とか七五調というリズムを保証し、「五文字」とか「七文字」という呼び方をさせる、とも述べている。
神保の時代には、実際に発音された「音声」と、抽象的なイメージとしての「音韻」との区別が曖昧だったので、その後、音韻論的な単位としては、「モーラ」とか「拍」という呼び方が生まれ、短歌では多く、「拍」が、たとえば、「等時拍」などと使われているが、短歌の音数律は神保の指摘のとおりだ。
金田一春彦の計算によると日本語の「拍」は一一二だそうだ。英語の場合、dog という全体が一つの拍、monkey が二拍…というように数えていくと膨大な数になる。圧倒的に少ない拍の、三十一の組み合わせ、いったいそれを「黄金律」と呼ぶべきかどうか、私には自信がない。「リズム」という意味における音数律については、現在に至るまでさまざまな分析が行われていて、たとえば「日本語は二拍子なので、短歌は二+二+二+二の八音が五回反復される。五音句には三音ぶんの七音句には一音ぶんの休止がある」(坂野信彦)とか、「歌を朗詠する場合の日本語のリズムは六拍八拍なので、各句を一拍のばすことを前提に五・七音節で短歌が成立している」(小泉文夫)というようなぐあいだ。しかし、私は、とりわけて根拠がある訳でもないのだが、たぶん柿本人麿の時代あたりに、当時の中国の五言詩や七言詩の語の数を形の上からだけ模倣したことが、五・七・五・七・七のはじめではなかったかと、思い続けてきた。極端な考えのようだが、じつは大野晋も『日本語の成立』のなかでそのように述べている。はじめに形式としての五・七・五・七・七があり、リズムはその枠のなかから発生した、と、私は想像している。
から始まる「函 要 巌 凡 @ けん 帆」を「韻字」として第五句に読み込んだ作品がある。また定家より五百年ちかく前、七七二年の『歌経標式』を読むと、そこにある短歌の押韻の法則は、たわむれに真似てみようかなどと思う以前に、私たちにはほとんど理解できない複雑なものであったことがわかる。
「韻」は、はじめ漢字の「音」を借り入れるための辞書としてあり、そののち、とくに和歌にあっては、漢詩の「詩病」を模倣した「歌病」を指摘するためのルール・ブックとして存在した。万葉集から明治時代に至るまで、短歌の背景にはいつも巨大な父であるところの漢詩の影がそびえていて、その父に対するコンプレックスのひとつが「韻」であったと、私は考えている。
ところが明治以降の「韻」にかんする考え方は、たぶん西欧の詩のおびただしい「韻」に触れ、なおかつ「日本語は美しい」という国家的な誇りに押し上げられるようにして、別の方向に向かった。そのもっとも典型的なものは、短歌の言葉を音素にまで分解し、母音や子音の組み合わせ方に「韻」を求めようとしたことだ。これにはローマ字書きの普及も影響していると思うが、たとえば、
について、萩原朔太郎は「この歌はラリルレロとマミムメモを主調に用い、RとMの子音を重ねて、微妙な押韻律を構成している」(『恋愛名歌集』)と書き、ごく最近にいたっても、俵万智は『短歌を読む』(岩波新書)で、
について、「まずS音。さらす、さらさらからくるSの爽やかな響きが、上の句を貰いている。そして下の句はK音である…」というように書いているのだ。私はこのような「音素」についての印象把握を、欺瞞だとさえ考えている。彼らは古歌の「音」を現代の「音」の感覚で、しかも、「Sは爽やか」などという、時代によって洗脳された感覚でとらえようとしているのだ。このように、音韻と発声という異次元の世界を無理に飛び越えようとする「韻」のとらえかたは、じつは、あるものが失われたための、ないものねだりではないか、と、私は考えている。
*節奏
失われたもの、それは、短歌が実際に「歌われた」場合の「フシ」のイメージだ。これを仮に「節奏」と呼んでおこう。
「節奏」という語を音韻論のなかでまともにとりあげたのは金田一春彦の「言葉の旋律」(昭和二十六年)だった、歌謡のフシと言葉の節奏との間には紙一重の差がある、と金田一は書く。面白いことに、彼はその論文を再録するにあたって「『節奏』という呼び方はまずかった。『吾輩は猫である』の中の用法に従ったものだったが…」と書く。しかし、「節奏」は私のこの文章にもすでに繰返し見え隠れしているし、はじめに引用した『日本韻文論』の中で、山田美妙はすでに「節奏」という語を用いていたのだった。「節奏に拠る句で出来た文が韻文…」と。
「歌」は歌われたものであった。しかし、和歌のフシを私達はイメージすることが出来ない。冷泉家のフシマワシや歌会始のフシマワシは残っているが、近代短歌のおおかたはそうした殿上人と無縁な道を歩いてきた。
近代短歌は歌われなかったようにみえる。だから、「節奏」が死滅した時に「韻律」という語が生まれたというふうに、みかけの上では見える。しかし「韻律」という言葉が生まれた時、死んだのは短歌の「韻」と「律」だった。漢文を父としていた「韻」と「律」は西欧文明という怪物に出会った時から「韻律」という幻のカテゴリーになり、「節奏」は幽霊のような存在になったのだ。そして、もっとも問題になるのは、現代短歌にも「節奏」があるということなのだ。歌われた「声」はたちまち消えるが、「フシマワシ」はイメージとして残る。現代短歌は「歌わない」ことになっている。しかし、もし歌われたらこうであろうという抽象的なフシマワシのイメージ=節奏はある。現在の短歌の節奏は、アナウンサーが短歌を読み上げる場合のフシマワシと、映画『赤ちょうちん』のなかで長門裕之が短歌を読み上げていたフシマワシの中間くらいのものだ。
私達が「韻律」だと思っているものの大半は「節奏」の幽霊なのだ。寺山修司が「五七調より七五調が好き」と言った場合は、短歌のフシよりも歌謡曲が好きという意味であるし、
子に注意するより、親がまず手本!
という交通標語が「子に注意 するより親が まず手本」と読まれるのは、韻律などではなく、もちろん節奏の幽霊のためなのだ。
もっとはっきり言ってしまおう。現代短歌に「韻律」などというものはない。あるのは「失われた節奏」のなごりだ。それはたとえぼ、右腕を切断された男が、なおも右腕に感じ続ける、幻の痛みだ。